その九
その夏、僕は働いていた某大型スーパーの鮨売り場の仕事を首になった。通常一三時間労働、早出の日は午前三時出勤、午後八時退勤という一七時間立ちっぱなしなんて言うハードな職場だったが、仕事そのものはやり甲斐があって楽しかった。ただセクハラをする女子店員がいて、職場内でいじめに遭い、無断欠勤をやったのがいけなかった。記録的な冷夏で売り場の業績不振もあった。専務さんに、君は料理人としてやって行かなければ駄目だと言われた。けれど首になった日は家に帰って泣いた。
翌々日病院に行った。服薬をやめていたのも病状悪化を加速させていた。僕に何が起こったのかというと、首になったショックで、虚脱状態になってしまったのである。夜寝ていると、自分が小人になってしまった。これを幻覚というのであろうか。僕は蟻ほどの大きさしかない生きものになってしまっていた。
当時の担当医は院長先生ではなく、息子さんの信之先生になっていたが、彼に訴えた。そしたら、「少し休んでゆくか」ということで入院が決まった。通算三度目の入院だった。
ちょうどワープロに熱中していた時期で、入院に際しても、僕は病室にワープロを持ち込むと言って聞かなかった。しかし、冷静に考えれば納得がゆくが、信之先生に反対された。治療の妨げになるものは持ち込めません。そうきっぱり言われた。
看護師詰め所でまたお尻に注射された。その時は前回の時に思い知らされていたので、お尻じゃなくて腕がいいと反撥したけれど、お尻の方が薬の効きがいいんだよと言われて、仕方なく従った。当時のことを思い返してみると僕はかなり我が儘になっていて、自分本位の考え方しか出来なくなっていたようであった。
僕は毎日手紙を書いていた。外来で特に仲のよかった山村さんという看護婦さんに毎日手紙を出していた。理由? 理由は山村さんが美人で気さくな人でもあったからだ。ミセスだけれど。このことが第二病棟の看護師詰め所で問題になった。第二病棟の看護婦にではなく、外来の看護婦に手紙を書くというのは、冷静に考えて、物事の道理から外れている。それで僕は看護長に呼ばれ、手紙を出すのはやめにすることになった。僕自身病院での生活に慣れがあるので、あんなことは出来ないか、こんなことは出来ないかと、看護長を始めとする看護スタッフに揺さぶりをかけてばかりいた。これも病気の症状の一つと言っていいと思う。要は社会性に欠けた行動であって、短く言えば自分勝手で常識外れ。こういう生活の癖を是正するのは時間がかかる。よって僕はこれまでで最も長い入院生活を余儀なくされることになった。
この入院生活で、僕はウォークマンを病院に持ち込んだ。ばれなければいいと思ったのだ。それでも時に理性が効かなくなることもある。例えば友達と庭に出た時、女友達に僕の演奏と歌を聴かせるために、ウォークマンを持ち出した。こんなあからさまな行動は目立つからすぐに看護長に見つかった。けれど看護長は僕の事を昔からよく見ていて知ってくれているから、大袈裟な罰を僕に与えなかった。
「聴くのはいいけれど、人前で聴かれると、困った事になるのはわかるだろう。我も我もってことになって、病棟内が無法地帯になってしまうんだよ。だから聴くならこっそり目立たないように聴いてほしいんだけれど。約束してくれるか」
僕は看護長の考えている事が素直に理解できた。ここは病院なのだ。病気を治すために、みんな苦しい治療を頑張って受けているのである。それで僕は自室で聴く以外にウォークマンを使う事はやめた。
洗濯が昔大変だった事は先に書いたけれど、この入院の時はまったく悩まずに済んだ。何十人分もまとめて洗える洗濯機と乾燥機を病院が購入してくれたからである。洗濯の担当班が決まっていて、その担当の患者たちが、責任を持って洗うのである。その結果余暇が増えて、レクリエーションの時間が頻繁にあり、入院生活がより刺激に満ちた楽しいものになった。絵画教室、俳句短歌教室、書道教室などが毎週のようにあったし、人数が揃うと、バレーボールで遊んだ。看護師にも患者にも本格的にスポーツをやっていた人がいて、スポーツは最高に気持ちよかった。
外泊も多かった。少なくとも月に一度は、三泊四日くらいの外泊が許可された。これも僕の社会性を取り戻すための訓練の一環と考えてくれているようであって、考え方が以前より閉鎖的でなく、社会に向かって開かれている病院の在り方というのが整ってきている手応えが感じられて、患者の一人として喜ばしい事だと思えるようになってきていた。
今まで書き忘れていたけれど、月曜と木曜の入浴の日は髭剃りの日でもあった。看護師さんに自分の安全剃刀をもらって、石鹸を泡立てて顔に塗り、剃るのだけれど、電気のシェーバーに慣れているので、この剃刀は苦手である。もちろん四枚刃なんてものではなく、一枚刃である。であるから、余程気をつけて剃らないと、顔のどこかを切ってしまう。そうなってしまった時はどうするか、読者の皆さんは経験があるだろうか。そういう時はトイレットペーパーを小さくちぎって、傷に当てるのだ。そうすると不思議なことに、出血はピタリと止まる。嘘だと思うならやってみたらいい。それはいいのだが、ゴミ臭い爺さんになってしまったようで悲しかったけれど、ここではこういう場面に出くわしても誰ひとり笑わない。誓ってもいいが、僕は入院中、人に嘲笑われた経験がただの一度もない。つまりここの人たちは、今まで世間の人たちに散々嘲笑を浴びせられ続けて来た人たちなのだ。自分がされたくない事は人にもしたくない。それがここの入院患者の不文律、ルールなのである。
友だちが沢山できた。洗濯班の構成員の一人である吉彦君とは当初、何の面識もなかったが、ある日洗濯物か何かの事で、吉彦君と口論になった。険悪な雰囲気になりかかったのだけれど、冷静に考えてみると、自分が悪い事がわかって来たので、非を認めて謝ったら、彼はにっこり笑って、「わかってくれればいいのさ。あんた素直だな」。よくよく話してみると、何とも気のいいあんちゃんなのである。駄洒落が大好きで、曲がったことが大嫌い。僕が退院する時、紙片をくれた。住所が書いてある。
「正月には実家で外泊するから、年賀状くれよ」。年賀状が大好きなのだ。にもかかわらず彼自身は極度の筆不精であって、返信を貰った事は一度もない。
僕が入院して二週間くらい経ったある雨の日、病院の講堂で盆踊りの練習をするので参加したら、そこで晴美さんという人を誰かから紹介された。眼鏡をかけた笑顔の印象的な女の子だった。当時二十代半ば。素直な性格で、押しがちょっと強かった。
けれど、同じ病棟の人に話を聞いてみると、彼女は大変な病状の人であったらしい。毎日中庭に出る事を許される時以外は、脚を紐でベッドに縛りつけられているという。前にも言ったけれどこの年は記録的な冷夏だったから、日向に出ても暑さを感じなかったので、おもてのベンチで休んでいると、第三病棟の人たちが出てきたけれど、晴美さんがいないから、女子病棟の看護婦さんに聞いてみると、「縛られている」という答えが返ってくることがたびたびあった。
晴美さんはこの地区一の進学校である天子ヶ原高校を卒業して、甘木学園大学音楽科に進学したけれど、そこで統合失調症を発病し退学後、入院。この時代、幻聴のない症例が報告され始めた頃らしく、彼女も幻聴の経験がなかった。ショパンやバッハが弾けるというのだが、注意して聴いてみると、細部の音がおかしいのに構わず演奏している。はっきり言わせてもらうと、せっかくのショパンだが、まるで前衛ジャズのようにしか聞こえない。それほど細部がでたらめ。村下孝蔵が好きでよく歌うけれど、何だか変だった。何処が変と言われても上手く言えないけれど、「とりつかれている」感じがするのだ。 その後、千代さんという人が新たに入院してきて、晴美さんの仲間に加わった。葉子さんという人とも仲良くなったらしく、晴美さんと一緒によくおもてへ出て来た。
朝の薬の時間が終わって、雑巾掛けの部屋の掃除が済むと、僕は読書の時間にしていたのだが、読みはじめると、必ず誰かが僕を呼びに来た。晴美さんたち三人が僕に逢いに来たらしい。まあいいけれど、看護師の少ないため外出の許されない土日祝日以外、つまり平日の朝は、用らしい用もないと思われるのに呼びに来る。だから僕は読みかけの本を携えて、出口まで逢いに行った。庭へ出ようと晴美さんは言う。
千代さんは拒食症だった。食べられないというのは辛いなあ。千代さんは音楽が大好きというので、僕の演奏を録音したテープがあると言ったら、欲しいと言われた。それで彼女に一本進呈した。何にしろファンになってくれる人がいるというのは嬉しい。日陰は寒いので日向へテーブルと椅子を出して、勝手な事をしゃべっては盛り上がっていた。
病棟に困った人がいた。僕が詩を書く時に必要な広辞苑を見て調べものをしていると、面白そうに寄ってくる輩がいるのである。飯垣寛という男なのだが、ものすごい量の言葉が収録されているのに驚いて、これを見せろというのである。僕は詩をつづるのにどうしても必要だから、人に貸すわけにはいかないと突っぱねても、一日中僕の後をついて廻って、見せてちょー、見せてちょーというのである。お前なんかに見せるために持って来たんじゃない!と、きっぱり言ったらやっと帰ったが、僕がロビーで読書をしていると、土屋さんという隣部屋の人が来て、飯垣が僕の広辞苑を紙袋に隠して持ち去ろうとしたというのである。僕はすぐに看護師を呼んで、飯垣に厳重に抗議した。それで一旦は収まったが、それは僕がロッキング・オンというロック雑誌を読んでいても同様で、要は人の大切にしている物が欲しいのだ。泥坊に共通する心理と言っていいと思う。
異常に早寝するようになった。今度の部屋にはテレビがない。だから夜になるとかなり静かであった。よってそれをいいことに、夕方の六時には寝てしまう。そして八時に起こされて、眠剤を貰う。眠剤。精神病患者にとって眠りというのは非常に重要なので、眠りを誘引する性質を持った薬が非常に多い。ほぼすべての薬がそうだといっても過言ではない。睡眠時の精神状態を整えることによって治療の効果を上げる。悪夢を見るか見ないかによっても、患者の病状や精神状態は左右されるので、睡眠時の薬というのは治療において最も大切だと言ってもいい。という事は、読書の皆さんにもご理解いただきたい。患者にとっては眠りも大切な治療の一環なのである。
僕は早寝の結果、午前四時か四時半頃目を醒ます。その頃はまだ明かりが暗いので何も出来ないのだが、もう着替えてしまい、ロビーの薄暗い照明の下でノートに向かう。詩をつづっているのである。この時間帯にも夜勤の看護師は詰め所で起きているが、夜半を過ぎるともう見廻りには来なくなるから、安心して詩をつづる事が出来る。みんなが起き出して来るのは5時過ぎ。そのうち六時になり、明かりが点く。その頃には揃ってお茶と新聞が上がって来るのを待っている。
退院が決まった。一二月一〇日であった。退院と同時に僕は来期の調理師専門学校入学の手続きの準備として、手始めに院長先生の精神鑑定を受けた。当時の僕の病名は神経衰弱であって、統合失調症ではなかったから、大丈夫であった。統合失調症患者は調理師になることが出来ない。これは法令化されていることらしい。僕は院長先生の入学許可をいただいて、晴れ晴れとした気分で退院することが出来た。