その八
健君という患者と、その他の統合失調症患者について触れてみたい。
その頃健君は恐らく二十代だったと思う。もうちょっと上かも知れないが、この病院に古くからいるということは間違いないようだ。隣の部屋にいた患者である。
統合失調症の一つの特徴として、幻聴が聞こえるというのがある。最近では幻聴のない患者(かく言う僕もその一人だが)の例も報告されているらしいが、かつての統合失調症はほぼ例外なく幻聴があるとされていた。顕著な例もいろいろあって、僕自身いろんな症例の患者を見てきている。例えば、部屋のどこかにスピーカーが取り付けられていて自分の悪口を言っているとか、広報無線で自分の噂話をしているとか、頭の中にラジオがついていて勝手にしゃべって音楽がかかっているとか主張している患者もいる。それが強迫的になると、「声」が命令口調になってくる。そうなると危ないので、入院加療が必要になる事がある。
健君はどんな幻聴がするか具体的な事を言わないので正直なところ、判らない。ただ声が聞こえる時の気持ちは独特なのだそうで、それは告白を受けた事がある。曰く、「背後霊がいて、話しかけてくる」というのである。そういえば、この患者の行動は始終何かに怯えているようにも見える。
少し前にも彼に逢ったけれど、最近の新薬は効き目が素晴らしいらしく、見違えるように明るい顔になって、外泊なども頻繁にしていたから、今では退院して、通院による治療を続けているかも知れない。この病気で心強いのは何と言っても薬の効果であって、自分に合った薬に出会えた患者は、普通の健常者とほとんど変わらぬ生活が出来るようになれる者もいる。
幻聴に苦しむ例にはこんなものもある。例えば福祉の作業所に通っていて、ある演歌歌手の訃報を幾度聞いたかわからない。今でも元気に歌番組に出ておられるベテランの大物歌手である。その歌手を勝手に死んだ事にしてしまうのだから、幻聴や幻覚がいかにリアルに聞こえたり見えたりするか、読者の方にもお分かりになれると思う。
一つ断っておかなければならないのは、幻聴や幻覚こそあれ、この患者たちは悪意などかけらも持ち合わせていない事である。皆さん、ほんとうに性格のいい人ばかり。よく言えばナイーブで純粋。またある面を見れば、ものすごく傷つきやすい人たちでもある。涙が出るほどやさしい人もいる。だから羊のように臆病で、幻聴や幻覚に怯えて暮らしたりしているのである。また生真面目な人が多いのも特徴の一つで、こうでなければいけないという気持ちが強いから、自分がそこから外れてきてしまったことに意識過剰になるあまりに、バランスを取ろうとしておかしくなってしまうこともある。