その四
最初の外泊で何をしたか、ほとんどもう何も覚えていない。恐らく買い物とか、音楽を聴いたりしていたんだろう。何せ一泊二日なのだから、あれこれ色んな事が出来るわけもない。一つ覚えている事がある。それは我が家の炊き立ての御飯の熱かったこと。病院の冷めかけた御飯ばかり食べていた僕の舌には、炊き立ての御飯は熱すぎた。熱さのあまり口の中の薄皮が一枚、ペろりと剥けてしまった事を覚えている。
外泊から病院へ帰る時入院患者に総じて起こる感情がある。考えてみれば不思議かも知れないのだが、あの虚脱感に近い空虚な気持ちになるのは何故なのだろう。たぶん、恐らくはまた病院での辛く退屈な日々が始まるかと思うと鬱々とした気分にならざるを得ないのだろうと思う。
六月の終わり頃からそろそろ盆踊り大会の準備が始まった。毎日のように踊りの練習である。櫓も、提灯などの照明も派手に飾って、大々的にやるという事だったが、それは踊りの練習一つ見てもよく理解できた。練習の段階から一日に少なくとも十数曲から多ければ二十数曲の踊りを踊るのである。吃驚するのだが、ベテランの看護婦さんたちの幾人かはこれらを間違いなく踊る。それは判るのだけれど、すべて覚えているはずのない入院患者の幾人かもそれを見て昨年の踊りを思い出すのか、看護婦さんの踊りに見事に付いてゆくのである。つまり振りを間違えずに踊るのだ。定番と言える曲が十曲くらいあって、これらはもちろん完璧にこなす。天才ではなかろうか。僕も二三週間毎日踊った所為で、十曲くらいはところどころとちりながら、付いて行けるようになったが、二十数曲はとても無理。しかし、薬の所為で思考もままならず、記憶もぼやけ、何をするのも思うに任せぬところであるのが僕たち入院患者なのに、一体どうすればこんなに踊れるのだろう。
そして、ついにその夕べがやってきた。大会当日は暑かったような記憶がある。食券を三枚貰って、かき氷とおでんと西瓜を食べる事が出来た。どれも病院ではご馳走の類と言っていいだろう。院長先生は、ここのおでんは日本一ですと言った。僕はあの時のおでんの味を未だに覚えている。ほんとうに美味かった。よく煮込まれた竹輪やこんにゃく、恐らく生涯忘れないだろう。そう、そして踊り。来賓の議員さんなどもいらしていたらしいので、少し緊張した。けれども提灯の照明の加減か、踊っていてスポットライトを浴びているような不思議な気持ちであった。晴れがましい気持ち。患者たちが他の事そっちのけで踊りの練習に没頭していたのはこの為だったのかな、と思った。
七月の月末あたりからだろうか、先生の診察が頻繁にあった。ずらっと一列に並んで診察を待った。診察では、何故家族を追い出したか、そして何故ここにいるのか判っているかと訊かれた。僕は面食らってしまった。判らないのである。何故家族を追い出したか。確か外で僕は灯油を入れたポリ容器に出刃包丁を突き立てていたのだと思う。それは覚えているのだが、何故そんな事をしていたのか、思い出せない。そしてその場面に出くわした父が、「そう暴れるな」と言ったのだと思う。僕はカチンと来たのだろう、父へ出刃包丁を投げつけた。何故そんな事をしなければならなかったのか。そして家に這入り、冷蔵庫や洗濯機を倒し家中に錠をかけて誰も這入って来られないようにした。何故そうまでしなければならなかったのか。僕には判らなかった。その時はそうするしかないと思ってそうしたのだろうが、なんでそんな事をしなければならなかったのか、その必要性がどこにあったのか、問われても、僕には答えることが出来なかった。いや、未だに答えることが出来ない。あれがいわゆる、「心神喪失」という状態だろうか。今は薬の所為か、深く考えないが、退院後、こういう昔の過ちを思い出しては戦慄していた時代が確かに僕にはあった。と言っても、何が出来たかと問われても、何も出来はしなかったのだけれど、だからというわけではないが、今が深く考えない事にしている。考えたって判らないのだからしようがない。