その三
どういう薬を効かせたらこうなるのかは判らないが、エッチな話だけれど、入院中朝立ちは一度もなかった。射精もない。患者同士のトラブル(要するに男女の間の)を回避するためかどうかは判らないが、男じゃなくなってしまったようで悲しかった。薬と言えば、当時処方されていた薬は副作用が強くて、僕の場合は、その症状をうまく説明できる自信が今もないが、例えばその一つとして、足の指が曲がったままになる。それから一つところにじっとしていられない。歩かずにはいられない。首根っこを誰かに掴まれたような不快な気分になる。まだ最初の一ヶ月は外泊が許されなかった所為もあるけれど、僕は読書が好きであったので、家から本を持って来てもらい、読んでいたのだが、読んでいる事をちゃんと理解できない。それに十行も読むと飽きてしまう。ひどい時には三行も読まないうちにじっとしていられなくなり、歩かずにいられなくなる。何故歩かねばならないのか自分でも判らない。それと、うまく喋れない。呂律が廻らず、何かを主張しようとしても、具体的に言葉が出て来ない。失語症になってしまったのだ。時としてひどい侮辱を受けた時も、こっちはひどい仕打ちをされて、怒り狂っているのに、それに反論する為の言葉がいつまで経っても出て来ない。自分でも悔しくてどうにもならず、その人にティッシュの箱を投げつけるのが精一杯だった。こんな事がいつまで続くのだろうと、絶望的な気持ちで毎日を過ごしていた。
読書の外にはTVぐらいしか娯楽はなかったが、TVを見ていても、やっている事の内容がよく飲み込めない。何をやっているのかよく理解できない。だから見ていてもちっとも楽しくない。後の楽しみは食べる事だけ。でも病院の食事というのは、作られてから時間が経っている所為か、どの料理もほとんど冷めている。美味しくない料理が多かったが、丼一杯の御飯は少しでも多いのをもらおうとみんなで競い合って丼とおかずの載ったお盆を取り合った。
洗濯も当時は自分でやった。洗濯板が洗面所にあって、それを使ってごしごしやった。コツが全然判らなかったので、手の指の甲がやっているうちにだんだん擦りむけてきた。ひりひりと痛くてたまらなかった。朝、顔を洗う時のタオルは洗い替えがあまりなかったし、洗うのが面倒臭かったので、ずっと洗わずにいたら、顔を拭く箇所だけ薄黒く汚れてしまった。こうなってしまうともうどうにもならない。洗ったって落ちない。
外泊が出来るようになったのは、入院して一ヶ月半くらい経った頃だった。面会は毎週あった。入院していると、無性に親の顔が恋しくなる。逢わないでいると死んでしまうんじゃないかと思うくらい思いつめてしまう。あんなに嫌っていた両親だったのに。他の誰と逢うより親の方がいい。あれは何故だろう。だが、実際に逢ってみると、具体的に何を話すという事もないし、向こうもあまり聞きたがらない。だから面会時間中二人してずっと黙っているような事になる。あんなに逢いたかったのに、実際に逢ってみるとちっとも嬉しくない。だけれど他の患者の中には十年以上誰も面会に来ないなんて人もいるんだからやはり面会はありがたい。
言葉が上手く喋れなかったから、看護師さんに尋ねる事もなかったけれど、外泊はいつ出来るのだろうと、いつも思っていた。家に帰りたい。帰ってあんな事をしたい、こんな事もしたいと、ノートにそんな事ばかり書いていた。今でもその時のノートは残っているけれど、ノート一冊「やりたい事」だけで埋まっているのである。まるで砂漠の旅人がオアシスを捜し求めるように、外泊の日を待ち望んでいた。
その許可がやっと下りた。七月の初めだったか六月の終りだったか、昔の事で憶えていないが、最初は一泊だった。それが無事に済んだら、二泊になり三泊になり、それで退院に支障がなければ、自宅で暮らす事も社会生活を営む事も叶うのだが、最初の外泊の前はもう一生病院から出られないんじゃないかと正直な話、思っていた。それが今日はどうだ。家に帰れる。出迎えは九時と決まっているので、千秋の思いで九時になるのを待った。なかなか九時にならない。一分一秒をこれほど長いと思ったのは、生まれて初めての経験だった。