「今はそれで良いさ」
「……お嬢ちゃん?」
結局起こしてしまったのか。起きたとき一人で驚いただろう。ここまで探しに来させてしまった。
全身全霊で走ってきたらしい明日香の姿を見て、灯次は驚きと共にそんなことを考えていた。綺麗な黒髪には木の葉がまとわりつき、手や足にはいくつか赤い線が見て取れる。
そんな惨状とは対照的にその顔は歓喜で満ち溢れており、ある種の異様な雰囲気を醸し出していた。
「灯次!! どこ、灯次!?」
「いや、だからここにいるって──」
「あんた誰だ!? この男に襲われそうだったのか!?」
叫びと困惑と、そもそも状況を理解できていない声。
隣に混乱している者がいると逆に落ち着けるというがそれは本当のようだった。灯次は様子のおかしい明日香に声をかけつつ、青年からも意識を外さずにいた。この様子では灯次に再度向かってくるかもしれない。元々の半分ほどの長さしかないといっても、あの刀は充分に凶器になりうる。
「なに言ってるの、おじさん。
私が探してるのは灯次だよ! おじさんじゃない!」
「おいおい、何でこっちのあんちゃんみたいなことを言ってるんだ?
おじさんは正真正銘、柄松灯次っていう……あれ?」
できるだけ平静を装って、明日香を刺激しないように話しかけていた灯次は、突然その笑顔を凍りつかせた。
「お嬢ちゃん……どうして俺の名前を知っている?
俺はお嬢ちゃんの名前と事情を聞いた。けど、俺のことは何も話していないはずだ」
「だから、おじさんのことは知らない。私は柄松灯次を探しているけど、それはおじさんじゃない」
明日香は川沿いの石の上をゆっくりと灯次の方へ進む。白い素足が月の光のせいで尚更に白く見え、灯次はぼんやりと病人みたいだなと思った。
灯次の足元で青年は未だにおろおろと二人を見上げている。
「おじさん、灯次はどこ?
ここに居たはずなの。おじさんなら知っているはず。教えて」
「……そう簡単に同姓同名がいるもんかね。
とりあえず、ここにはおじさんとこのあんちゃんしか来ていないぞ。
あんちゃんは柄松灯次って名前か?」
「違う! 俺の名前は──」
「あなたは名乗らなくていい。黙って」
釈然としない様子だったが、灯次は素直に明日香の疑問に答える。
因みに、この辺りの地域では「灯次」という名前は珍しくもないが、「柄松」という名字はほとんど見かけない。
「じゃああれだ。お嬢ちゃん、その『灯次』ってやつの特徴を教えてくれないか?」
明日香の様子からただ事ではないことを察したというのが半分、灯次個人の興味というのが半分で、灯次はそんな質問を口にした。
「おじさんより若い」
「そりゃそうだろうな」
「おじさんより格好いい」
「ほう」
「おじさんより扱いが繊細」
「はあ」
「おじさんより扱いが雑」
「矛盾してるぞ!
……それに、扱いってなんだ。扱いって」
「扱いは扱い。
私ををしっかりと握って離さない。優しいようでいて残酷。私はそれに翻弄されるけれど、それが心地良くもある」
「……あー、そのだな」
「お前っ、この子に何をした!?」
「いやいや、何もしていないから。あんちゃん、いい加減なこと言わないように」
明日香の説明に一つ一つ几帳面に相槌を打っていた灯次は、ついに耐えきれなくなってつっこみを入れた。しかし、その返答はさらに状況を混乱させる。
正義感から声を荒げる青年を片手間に抑えつつ、どうしたものかと考えを巡らせていた。たった一つの大切な名前と共に。
(明日香のいう『柄松灯次』が、もし……もしも俺だとしたら。俺は期待してもいいのか?
こいつの時間があのときから動いていないとしたら、朝草は……)
「お嬢ちゃん、最後に一つだけ聞いてもいいか?
その灯次ってやつと会って、お嬢ちゃんはどうしたいんだ? その様子じゃ訳ありなんだろう」
「……灯次と会って、私は」
明日香は灯次に初めて躊躇する様子を見せたあと、数度口をぱくぱくと動かしてどうにか言葉をひねり出した。それは、そんな反応をする自分に戸惑っているようでもあった。
「私は行かなくちゃだから。刃物ヶ峰に。
だから、会えるのなら謝りたいの。最後まで一緒に戦えなかったことを。それで、今まで待たせてしまったことを」
「なるほどな。……よしわかった、おじさんが協力しよう!
たぶんきっと、お嬢ちゃんが探してる奴も刃物ヶ峰の方にいるさ。道中で探すくらいはいいだろ。人手は多い方が良いはずだ。なっ?」
明日香の話を難しい顔をしながら聞いていた灯次は、それが嘘だったかのように晴れやかな笑顔を浮かべて大きく頷いた。それは疑問が消えたというわけではなく、ただ問題を先送りにしたような雰囲気だったが、見る者に安心感を与えるものだった。
「……おじさんが?」
「ああ。おじさんは便利だぞ。路銀はたっぷりある。人に言えないような伝手も少々。護衛としても超一流だ」
「いいの?」
「だからそう言ってる」
「ありがとう。……ありがとう」
「それは、『柄松灯次』が見つかったときに言ってもらおうか。
……それであんちゃん、逃げようとしても無駄だぞ」
さてこちらの問題は片付いた。そんな言葉が聞こえてきそうなほど、灯次はあっさりとした様子だった。
もしかしたら、少しずつ青年が灯次から離れようとしていたことに気付いていたのかもしれない。
「さっきの当て身で、なかなかいい音してたからなあ。後少しは立ち上がれないだろうよ。
……とはいっても、あんちゃんに聞きたいことは後一つだけだ。ここらに青年団ってのがあるらしいな。ありゃなんだ?」
「それを言ったら、俺は帰れるのか……?」
「ああ、勿論」
「……青年団ってのは、簡単に言うと自警団の規模が大きいヤツだ。最近は六貴様のお侍さんもアテにならねえからな。あちこちの自警団が集まって、連絡を細かくして……ってそういう集団だ」
「六貴和也か……それで? そういうものだといっても、頭はいるんだろう?」
灯次はここから刃物ヶ峰までとういう広大な土地を支配する男の名を口の中で転がした。
六貴和也が灯次のことを認識しているかは定かではないが、彼らの間には多少の因縁があった。戦乱の後、各地を放浪していた灯次が、意識的に彼の支配する土地──特に居城のある六花城下──を避けるくらいには。今回も本来なら刃物ヶ峰の方に行くつもりはなかったのだ。
「頭……? 西織さんのことか?」
「西織!? まさか、西織圍か!?」
「違う。西織帷さんだ。
西織さんはやばく強いんだぜ! お前でもかなわねえよ!」
「……帷? そうだよなあ、圍だってずっとこっちに留まってるはずがない……」
忘れたいのか、忘れたくないのか。そのどちらなのか灯次には判断が付かなかったが、二十年ほどの時間がたっても忘れられないということが一つの真実なのだろう。
戦乱の中で生まれ、しかしその終わりに立ち会うことはなかった。人はそれを裏切りと呼ぶかもしれない。それでも、あの頃の記憶は灯次の中で鮮やかな色を放っている。
(朝草のことといい、どうにも過去に引きずられてるって気もするけどな)
「おじさん?」
「ん? ああ、何でもない。
あんちゃん、もう充分だ。怖がらせて悪かったな。さっさと自分の家に帰るといい」
「……そうさせて貰うぜ」
青年はのろのろと立ち上がると、未だに灯次たちの方に警戒の目を向けながら走り去っていった。
「いいの?」
「最初からそう言ってただろう。おじさんは無用な殺しとかはしないんだよ」
「……やっぱり、おじさんは灯次と違う。灯次はそんなに甘くない」
「『灯次』ね。……ま、今はそれで良いさ」