「会わないと……灯次に」
──金属質で懐かしい、澄み渡るような音が脳裏に響いた。
「灯次っ! 灯次だ……灯次が近くにいる!!」
灯次が立ち去ってしばらくした後の森の中。押さえきれない歓喜を乗せた叫びが木々の間を駆け回る。
明日香だ。
明日香はそれまでぐっすり眠っていたことが嘘だったかのように、いきなり目を見開くとがばっと身を起こした。相変わらず表情にはあまり変化が見られないものの、声からは彼女が確かな感情を持った人間だということが伝わってくる。
この少女の様子がいきなり変わったのは、ちょうど灯次が小川のそばで達人級の技量を披露したまさにその瞬間だった。まさかその剣戟の音を聞き分けることができるはずがないが、そうとしか思えないほどのタイミングの良さだ。
「行かないと……会わないと……灯次に、もう一回」
暗い森の中で、明日香は何かを探すように辺りを見渡した。もちろん、灯次たちはここから目視できるような場所にはいない。例え昼間であっても不可能だろう。
しかし、明日香はすぐに何かに気づいたようにある一方を見据えた。それは灯次とあの青年が対峙する小川がある方向だった。
待ちきれないという表情で明日香は駆け出す。その手にしっかりと竹刀を掴んで。
──そういえば、おじさんはどこに行ったんだろう?
明日香の胸の内で一瞬そんな疑問が浮かぶが、あっさりとそれはかき消され二度と浮上することはなかった。
からんと乾いた音を立てて、刀身の半ばほどで断ち切られた鉄の塊が地面を転がった。灯次の刀が青年のそれを斬りとばしたのだ。
生半可な技量ではない。鉄で鉄を斬ることは想像以上に難しく、更に灯次の刀は刃こぼれの目立つ酷い状態だ。刀の鋭さに頼ることができないぶん、逆に灯次の技術の非凡さが伺える。
「……か、刀が!?」
「おいおい、気を抜くなよあんちゃん。戦場じゃ、それが命取りだぞ」
呆然とする青年の体に、駄目押しとばかりに当て身を喰らわせた灯次は不敵な笑みを浮かべた。青年は抵抗らしい抵抗もできずに、尻から地面に倒れ込む。
別に手足に傷があるわけではないのだが、青年に起きあがろうとする気力はないようだった。手元と未だにしっかり握られた刀の柄、そして灯次の顔とをぼんやりと見回している。
「お前は、本当に……?」
「あんちゃんが剣豪と呼ぶ奴かどうかは知らないが、俺の名前はずっと昔から『柄松灯次』だけだ。
さてあんちゃん、俺はどうすればいい? 襲ってきたのはそっちだが、あんちゃんに死ぬ覚悟はあるか?」
「──ッひ!?」
「まさか、ないとはいわないな?
あんちゃんは刀を握ったんだ。俺らはこいつを握った瞬間から武士──殺すか殺されるかって場に立ってんだ」
灯次の表情はまるで水面のように穏やかだ。その口から紡がれる言葉も、親が子に言い聞かせるように優しい調子である。
ただ、その内容だけが全てを裏切るように物騒だ。
己が絶対の自信を持っていた剣術、その象徴を打ち砕かれた青年は灯次の言葉に身体を震わせることしかできない。しかし、そのとき青年に天啓が訪れた。
こんなところで死ねない。母と父と妹が待っている。友は自分との約束をまだ信じているだろう。あいつには、まだ胸の内を明かしていない。
震える手を叱咤して、半ばで折れた刀を強く握る。こんなところで終われない。
「……いやいや、あんちゃん本気にしすぎじゃないか?
おじさんはそれなりに真っ当な常人だから。そうそう人殺しなんてしないって」
「へ……う、嘘だったのか?」
「その通り。
それで、あんちゃんはおじさんが『柄松灯次』だって納得してくれた?」
「あッ、ああ! もちろん! 全面的に俺が悪かった!
申し訳ない!!」
灯次の念を押すような確認に、青年は首がどこかに飛んでいってしまうのではないかと思うほど激しく頷いた。何か一つ失言でもして、さっきのような状況に逆戻りするのは勘弁という内心がありありと見て取れる。
「じゃあ一つ聞きたいんだが、あんちゃんはなんでいきなり襲ってきたんだ?
おじさんは別に、寝込みを襲われなきゃいけないようなことはしてないだろ」
「……俺は近くの村の自警団の一員で、その、隣の村から連絡が入ったんだ。俺の村はこの川の上流の方、連絡を伝えてきたのは下流の方にある」
「ああ、おじさんは多分昨日その隣の村に泊まったな」
「そうなのか? じゃあ、向こうの村の奴が見間違えたのかもしれない……。
ともかく、連絡がきたんだ。『柄松灯次を名乗った男が朝早く、あどけない少女を狙っているかのように村を出発した』と」
「……げ」
ぽつぽつと自分の記憶を確かめるように話す青年に、灯次は静かに耳を傾けていたが、だんだんその顔色は悪くなっていく。
(あれを見られてたのか!? 気配なんてちっとも……あー、あのときは俺もかなり動転していたからなあ)
実は、今朝──そろそろ昨日かも知れない──灯次があの場所にいたのは、明日香を待ち伏せていたからなのだった。
朝早く散歩がてらに村の中をぶらついていた灯次は、今にも村から出て行こうとする明日香の姿を見つけた。その後ろ姿は、灯次に強い郷愁の念を駆り立てた。灯次に故郷などないにも関わらず、である。
いてもたってもいられなくなった灯次は、慌てて寝場所を提供してくれた民家に戻り、礼もそうそうに村を出発したのだった。
青年の話から察するに、その様子を村人に目撃され通報されてしまったのだろう。
「げって何だ!? 心当たりがあるのか!?」
「あーっと、その……。とりあえず、その女の子なら向こうで寝てるぞ」
「お前と一緒にいた……?
まさか、もう手を出した後だっていうのか!?」
「違う違う! おじさんにそんな趣味──」
「灯次っ!!」
そんな趣味はない、そういって弁解しようとした灯次の言葉は、しかし肩で息をする少女によって遮られた。