「今夜は良い月だ、なあ──」
焚き火の灯りは消え、頭上の木々の隙間からわずかに月の光が漏れている。こうなってしまうと、夜目がきくものでも走り回ることは不可能だろう。夜は、小さな虫たちやキイキイと飛び回るコウモリたちの世界だ。
しかし、先程から、そういった夜の主たちの気配が全くしない。
灯次は薄目をあけて、あたりの様子をうかがった。このあたりは人里に近いので危険な動物はそうそういない。ならば、この変化は灯次たちとは別の人間の接近を示している。
あまりの暗さに視覚に頼ることを諦めた灯次は、耳に意識を集中することにした。かすかに、明日香の寝息に混じって、木々の枯れ葉や枝を踏む音が聞こえる。
(一人……?
俺を狙ってるわけじゃないのか。お嬢ちゃんを巻き込まずに済んで一安心だな。
しかし放置しとくわけにもいかんだろうし……さて)
ちらりと隣の明日香の様子を見やって、灯次は思考を巡らせた。彼女を起こしてしまうのは本意ではないし、もし全く無関係の村人などであったら、少し恥ずかしい。逆に最悪の事態として、多少血なまぐさい展開になるかもしれない。これも、あまり年若い少女に見せたい光景ではない。寝る前のあの出来事を思えば気の回し過ぎかもしれないが。
さくさくと、灯次が迷っているうちにも、足音は近づいてくる。
灯次は小さくため息をついて、毛布代わりにかけていた布をはねのけた。同時に、左手で自分の刀を掴む。昼間は巻いてあった長い布はなく、ところどころ刃こぼれした刃が抜き身のままになっている。
「うーむ、寝苦しい夜だなあ! 確かあっちの方に小川があったはずだ。水でも飲んでくるとしよう」
言っている灯次自身も笑ってしまいそうになるほどのわざとらしさだった。だが、これで少なくとも相手の狙いはわかるはずだ。幸い、最大の懸念だった明日香の眠りも妨げずにすんだようである。
しかし、頭上で、それもかなりの大声だったにも関わらず、明日香は平然と寝ている。非常に穏やかな寝顔だ。灯次は感心する一方で、明日素直に起きてくれるか心配になった。
ざっくざくと小枝を踏み抜いて歩く。ここで野宿すると決めたときに、辺りの地形は確認してあった。小川の水はおそらく近くの山から流れてくるのだろう。充分綺麗な、美味しい水だった。
(……おっと、俺の方に来たか。これはますます狙いがわからないな。
善良なただの村人って可能性はなくなったが)
ざくざく。さくさく。ざくざく。さくさく。
大きな足音の陰に隠れて、微かな足音が続く。規則正しいそれは、第三者が聞けば音楽のように聞こえたかもしれない。
それをしばらく続けると、ようやく灯次は月の光が直接当たる場所に出た。
「今夜は良い月だ、なあ──あんたもそう思うだろ?」
「同意するぜ。全く、酒が欲……あ」
「あんちゃん、あほだとか馬鹿だとか言われたことないか?」
「うるせえっ!!」
あまりにも呆気なく存在をバラしてしまった追跡者は、威勢のいい声と共に姿を現した。
両手でしっかりと刀を握り締めているものの、それ以外の格好は普通の村の青年と大差ない。左の二の腕に黒い布を巻いているのが特徴といえば特徴だろうか。
刀を構えるその姿も、刃先がよく見ると小刻みに震えていて、努力の跡は見られるものの二流といったところだろう。
「それで? あんちゃんはおじさんに何の用なんだ?
言っておくが、おじさんは悪いことなんてしてないぞ」
「はん! 悪いことだと? その胸に聞いてみるんだな!
なにより小悪党ごときが、かの剣豪柄松灯次の名をかたるなんざ、百年早いんだよ!!」
「え、なに? あんちゃん、おじさんのファンなの? ……っとぉ!」
灯次の言葉が勘に障ったらしい青年は、いきなり上段から切りかかる。灯次は落ち着いた動作でそれを受け流すものの、表情にははっきりと驚きが浮かんでいた。
「寝ボケたこと言ってるんじゃねえ!
お前が本物の柄松灯次なワケがない。そんなボロボロの刀がかの名刀だとでも?
てめえなんて、虎の威を借りてるだけの狡っ辛い悪党だろうが!」
「はぁ……。こういうのって、どうすればいいんだ?」
青年の正義感たっぷりの発言を聞く限り、この近くの村の自警団員といったところだろうか。灯次の予想のどこにも当てはまらない動機に、どう対応すればいいのか決めかねていた。
しかし、本来灯次は我慢強い人間ではない。一方的な言いがかりにやられっぱなしという状態は、そうでなくても不愉快だ。
剣豪、柄松灯次。それが自身のことを指しているかは確証がないが、それでも灯次は灯次だ。気付いたら戦場で刀を振るっていた、そんな曖昧な自分を名前だけが保証してくれた。
(……だけ、か。そうだな。今となっては、名前だけだ)
「ちょこまかと逃げんな! 仮にも柄松灯次を名乗るなら、技の一つくらい見せてみろ!」
「……あんちゃんが、そういうのなら」
青年の太刀筋は力強く的確で、そこらの武士崩れなら問題なく通用するだろう。しかし何分、的確すぎる。フェイントも何もない一撃では、灯次の守りを崩すことはできない。
しかし、小川の周辺には大小さまざまな石が転がっている。刀を邪魔する木々がないだけましとはいえ、こうも足場が不安定では灯次といえどやすやすと攻撃に転じることができないのだった。
数合打ち合った後、痺れを切らした青年は裂帛の気合いと共に大きく踏み込んだ。空気を切り裂いて、下段から刀が跳ね上がる。狙いは灯次の左腕だろうか。上段からの打ち込みと違って、これを捌ききるのは難しい。
灯次の青年を見る目がすいと細められる。
痛みに顔をしかめながらも、それまで左手一本で扱っていた刀を両手で掴む。同時に見事な体捌きで青年の左側に移動し、下から跳ね上がる刀に合わせてボロボロの刀を振り下ろした。
刃が噛み合ったのは、僅かに一瞬。
キンッと小さく甲高い音が鳴って、青年は小さくたたらを踏む。そして、信じられないという表情で手元を見つめた。
「……か、刀が!?」
「ほらほら、気を抜くなよあんちゃん。戦場じゃ、それが命取りだぞ」