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家族  作者: 月夜の猫貴族
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家族 2

母はおばあちゃん家に多い時で週に二回くらい行っていた。

少なくても10日に一度は訪れていた。もちろん、いつも私を連れて。



いつものように、母はおばあちゃんと、私はおじとそれぞれに別れて遊びはじめた。

その日もおじに特に変わった様子もなく、私は二階の部屋について行った。

二階の部屋に入り、おじはある人形を私に見せた。それは手のひらに乗るくらいの大きさで、裸の男と女が向かい合わせになっているというものだった。手で少し動かすと男がちょうど、腰のあたりを前後に動くようになっていた。私は人形に不自然な印象を感じたのを覚えている。裸の男のオチンチンが体に対して不自然に持ち上がっていたのだ。ダランとしていないのである。なんだこの人形、変なのっ!そんなありもしないようになってて。

まだ、4歳の幼い私には男の人のオチンチンはダランとしている、そういうものだと思っていた。現実には成人の男のオチンチンは勃起するということをいずれ知ることになるにしても、まだまだ、知る必要もない年齢の私におじは愉快そうに人形を見せつけた。納得のいかない私の様子を眺めたあとおじは、さらに調子に乗り、私に自分の勃起したモノをみせつけたのだった。



わけがわからなかった。しかも、おじはその勃起したモノを手で握って上下にうごかして欲しいと私に要求してきた。


何の為に?


そうは思ったが、いつも遊び相手になってくれているおじが自分に悪いことをしようとしているとは気がつかず、逃げなければといった判断も私にはできなかった。


だだ、なんか変な遊び方だなぁとは感じてはいた。

ちょっと気持ちが悪いなぁとも感じていた。


でも、嫌がったら悪い気がしたようにも思う。


母にはこの遊びは話せないでいた。何故かわからないが、2人だけの内緒の遊びにしなくてはいけない気がした。

ひょっとしたら、おじに口止めするように言われたのかもしれないが、正確には思い出せない。


あまりにも衝撃的だった。


言葉を失うくらいの衝撃だった。


性の知識がまったくない幼すぎた私には変な生き物のようにも思えた。


おじは極端に強引なことをするとか、痛いことをするわけではなかったが、私が母とおばあちゃん家にくるとそれ以後も必ず関係を求めてきた。

さらにおじはエスカレートしていき、私の下半身もまさぐるようになっていた。

何故、私は嫌がらなかったのだろう?

推測だが、私の両親は知らない人についてっちゃダメよ、といった幼児期にまず教わる自分の身を守る為の教えをしなかったようにおもう。でなければ、下半身を他人に触られてもいけないことをされていると判断できないのも納得がいく。

私はおじの要求を嫌がったり、泣いたり、怒ったりできなかった。それができていれば、だらだらと毎回おばあちゃんにきてはおじの要求をのむという関係をしなくてすんだであろう。

母もいけないのだ。自分がおばあちゃんとのおしゃべりに夢中で、私のことを放ったままにしていた。おじに預けていて安心していたようだが、安心しきってた。たまには何して遊んでいるの〜かな?と顔でも出すくらいすれば良かったのに。


そういった、状況だった為私とおじの関係は幾度も繰り返された。


しかし、とうとう終わりを迎えた。


おばあちゃんに目撃されたのだ。

おばあちゃんとおじと私。

みな固まっていた。おばあちゃんが何て言ったかは覚えていない。しかし、今までに見たことのない表情で見つめていた。怒っているような悲しんでいるような、一言で言い表せない表情で、下の部屋に2人とも降りてくるよう言われた。



こんなこと二度としてはいけません。


他にもいくつか言われたのかもしれないが、印象に残ったのはその言葉だった。

その時、ことを聞きつけた母がそばにいたはずなのだが、あまり覚えていない。


やっぱり怒られるようなことをしていたんだ。

私はそう思った、そしておばあちゃんと母の顔色をみて、何かとんでもなく悪いことをしてしまったのだと思い、罪悪感を感じた。










そして、その日を境に私はおばあちゃん家に母と行かなくなった。


私はその時母になんて言葉を話せばいいかわからなかった。とにかく深い罪悪感が胸いっぱいにふくらみ、母の反応にびくびくだったように思う。



しかし、悪いのはおじであって私は悪くなかったと、のちに成長した頃の私は思えるようになるのだが、

一般に性的な事件の被害者は罪悪感をもちやすいのだときく。自分にもすきがあったから悪いんだとか、あの時あの道を通った自分が悪いんだとか。


でも、被害者は被害者なのであって、悪いのは絶対的に相手が悪いのであるから、自分で自分を慰めてあげるくらいでいいと思う。


私は4歳という幼い時期で性のこともよくわからないから何もかも忘れてしまうだろうと思われたみたいだったが、程度にもよると思う、まず忘れないものだと思う。


私は母に抱きしめて欲しかった。そして何度も何度もお前は悪くない、お前は悪くないのだと言い聞かせて欲しかった。


でも私の望むようなことを母にしてもらえなかった。

母に言わせれば、私が泣き出したりしないから、心に深いダメージがあることがわからなかったのかもしれない。でもそんなに単純に泣くような子供でなかったし、当惑していてどうしていいかわからなかった

わたしは取り返しのつかない何かをしてしまったようだと強烈にインプットしてしまった







私もそうだったが、なぜ性的被害者はその被害を打ち明けられないことが多いのだろうか?

私が打ち明けられなかったのは、一つには特に父親が悲しむだろうと考えたこと。一つには母親も加害者が弟であるわけだから、もっと苦しむだろうと考えたこと。一つには自分も悪かったのかもしれないと思う罪悪感が話すことをためらわせたこと。そして一つには、加害者に口止めされた可能性。

これらの考えと重い気分が打ち明けるということをできなくさせていた。私は当時まだ4歳くらいだったので、幼稚園に入るか入らないかくらいの頃だった。その頃にはすでに男の子に対して、警戒心や不快感を感じやすい女の子だったように思う。事実、私はよく男の子とよくけんかをして、その男の子と立たされていた記憶がある。気の強い男の子に対しては闘い、気の弱い男の子には無視していたようだ。できれば接したくなかったのである。仲良くはしずらかった。それでもたまには仲良くできる時もあった。私はおとなしい女の子ではいられなかった。

髪を結わいたり、スカートをはくなどのおしゃれで女の子らしくすることを極端に嫌っていた。


女の子に見える


それ自体が嫌であった。女の子だったから、嫌な体験をしたのだと理解していた私は身を守る為には女の子に見えてはいけないと思うようになっていた。



そして、小学生になった私はすっかり気の強い、負けず嫌いの女の子に成長していた。

髪を長くしたり、結わいたり、スカートをはくなどのおしゃれをまったくしないボーイッシュな女の子だった。


少し幼児期に話をもどすが、父親との関係はどうだったか?


私の父はとても厳格な人で、悪くいうと冗談の通じない、おっかなくて冷たい感じのするタイプの人だった。それでも四つん這いになった父の上にまたがり、居間をぐるぐるして遊んでもらった記憶がある。魚釣りを教えてもらったこともあったが、初めて釣りをした時に父よりたくさん魚を釣りあげたら、本気で悔しがっていたのでやっぱり子供ごころに(遊びにくい大人だ)と感じていた。

幼稚園児くらいの頃、その頃はまだたまに父とお風呂に入っていたこともあった。しかし、ある日

「この辺は大事なところだから、特に大切にするように」

と、いつもに増して真面目な顔で父が教育した。

この辺というのは、下半身のことである。


私はその言葉を聞いた時、泣きたいくらいに悲しくなったのを覚えている。そう、もう叔父に遊ばれたあとだったのである。その時は「は〜い」と言って流してしまったかもしれないが、内心動揺した。とっさに怒られると思った。そして悲しませるんじゃないかとも思った。罪悪感も込み上げた。

事実を打ち明けることはできなかった。



母は私に可愛いらしい、ピンク色や赤色、フリフリしたレースの縁取りのある服を着せたがった。事件の起こる前は私もそのような服を好んで着ていた。しかし、事件後、女の子に見られたくない気持ちが強くなった私は、母がデパートで楽しそうに可愛いらしい服を買いたがっても

「着たくない」

と断った。

母は軽く忘れてしまうものと考えていたようで、事件のことで気分が重くなっている私をまったくわかっていなかった。


世の中の母親には女の子を育てるにあたって特に注意する点があると思う。

当たり前のこととして、知らない(特に男の人)にはどんなに優しく話しかけられてもついていかない。危険を感じたら、大声で助けを呼ぶか今だったら、防犯ブザーを鳴らす。逃げる。この教えは小学校でも習うだろう。しかし、より早いにこしたことはないと思う。それが理解できないほど幼かったら、目を離してはいけないのである。

私の事件の場合はまだそのような教えはうけてない時だった。仮に教えてもらっていたとしても、相手は言葉の話せない頃からたまに遊んでいた、実の叔父である。だからこそ、母も目を離し、私も叔父を疑いもせず二人きりになってしまった。この事件の悪質さはそのすきをついて母や私を裏切ったところにある。









私には五歳年上の兄がいる。兄は普通に元気な男の子で近所の男の子たちとよく遊んでいた。


私の幼児期にとても優しく遊んでくれる、いとこの男の人が住み込みで働いていて私はそのいとこのお兄さんと元気な兄のそばで育った。

事件があっても、男の子と遊べる部分を多少もてたのはこの2人のおかげだったのだろうとおもう。



小学生になった私はとても活発な子供だった。男の子に負けたくない私は、とにかく元気だけが取り柄だった。どの教科も体育も言われなくてもがんばった。ありがたいことに私はがんばったら、がんばっただけ伸びるタイプの子で、気がついた頃にはなかなかの成績を取り、体育では選手に選ばれ、図画工作で絵を描いては表彰状をもらうという、なんでもこなせる子供になっていた。


特に図画工作には熱中した。幼稚園児の時もそうだったが、自由に絵を描き色を塗るのが、家の中で本音を言えずに抑圧していた私に自由な気分を表現するチャンスを与えられたのだろう。


震災などで強いストレスを感じている子供や問題を抱えている子供は暗い色の絵や残虐なシーンを描いたりするなどして、心理テストで問題視さるたりするらしい。

だとしたら、私は問題視されるような絵を描いてはなかったと思う。私はカラフルで鮮やかな色を使うことが好きだったからだ。絵の中だけは楽しく明るい絵を描いていたい。。。そういう子供だった。







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