酸素三時間の脱出ポッドで救難信号が鳴る
脱出ポッド内の酸素再生ユニット前で、宇宙漂流者のカイは残り酸素量を確認しながら、手動で再生フィルターを交換していた。霜の張った金属壁に肩が触れ、焦げた樹脂の臭いが喉の奥へ刺さる。浅く響く自分の呼吸音だけが、狭い船内を満たしていた。
足元には、凍りついた家族写真入りの通信端末が転がっている。ひび割れた画面の中で、笑顔だけが白い氷膜に閉じ込められていた。
酸素残量、残り三時間。
その表示が赤く点滅した瞬間、通信端末が鳴った。
受信元は、十年前に失ったはずの家族だった。
カイの手から再生フィルターが滑り落ち、床の固定レールに当たって乾いた音を立てた。端末は古い規格の救難信号を吐き出していた。座標、認証符号、短い音声。すべてが、かつてカイの居住コロニーで使われていたものと一致している。
『カイ、聞こえるなら応答して』
雑音に埋もれた声は、記憶の中の声と同じ温度を持っていた。
「ありえない」
カイは声を出したつもりだったが、喉は擦れた息を漏らしただけだった。
天井のスピーカーから、抑揚を落とした女性音声が響く。
「通信波形を解析中。カイ、作業を継続してください。再生フィルターの交換が完了しなければ、酸素残量は百七十二分で危険域に入ります」
「イリス、今のを聞いたか」
「聞きました。ですが、該当する発信者は十年前の事故記録で死亡扱いです」
「死亡扱い、だろ」
カイはフィルターを拾い上げた。指先が震えている。手袋の内側に滲んだ汗が冷え、皮膚に薄く張りついた。
脱出ポッドは、資源回収船の爆発から弾き出された残骸だった。主推進器は沈黙し、外部アンテナは半分折れ、食料は圧縮ブロックが二つ。水は循環装置がまだ生きている。だが酸素は違った。再生ユニットの触媒は焼け、予備フィルターはこれが最後だった。
三時間。それが、カイに残された全宇宙だった。
「信号源までの距離は」
「現在の慣性軌道から外部スラスターを三回噴射すれば、九十分で接近可能です。ただし燃料残量の八十二パーセントを消費します」
「救難信号なら、そこに船がある」
「船があるとは限りません。信号だけが漂流している可能性があります」
「家族の声だ」
「記録音声の合成でも再現可能です」
カイは返事をしなかった。フィルターをユニットへ押し込み、固定ピンを回す。焼けた樹脂の臭いが強くなり、細い白煙が隙間から漏れた。警告灯が黄色から緑へ移る。しかし酸素残量の数字は、ほとんど増えなかった。
「再生効率、三十一パーセント」
イリスが告げた。
「それだけか」
「触媒層の損傷が深刻です。現在の消費量なら延命は最大で四時間二十分。身体活動を制限すれば五時間弱」
カイは端末を拾い上げた。氷を親指で拭うと、写真の中の顔がぼんやりと浮かぶ。十年前、カイは補給任務でコロニーを離れていた。帰還したとき、そこには砕けた居住リングと、冷えた破片の帯しか残っていなかった。事故原因は、酸素プラントの過負荷。公式記録はそう結論づけた。
だが、その記録を提出したのはゼンだった。
当時の保安責任者。いまは漂流者たちを集めた船団の指揮官。資源の配分を計算し、生存率の低い者から容赦なく切り離す男。
カイが最後にゼンと通信したのは、爆発の直前だった。
『回収船の酸素タンクをこちらへ渡せ。お前一人より、船団の三十人を生かす』
カイは拒んだ。直後に、回収船のドッキングリングが爆ぜた。
「イリス。信号にゼンの署名はあるか」
「表層にはありません。ただし中継パケットに船団規格の時刻補正が混入しています」
「つまり、ゼンが関わっている」
「可能性は高いです」
端末が再び鳴った。
『カイ、寒い。酸素が薄いの。お願い、早く』
カイは目を閉じた。声は記憶を正確になぞっていた。食卓での笑い声、眠る前の短い会話、通信越しに聞いた最後の言葉。そのすべてが、胸の内側を爪でこすった。
「ゼンは何を欲しがってる」
「このポッドの酸素再生フィルター、または端末内の旧式認証鍵です。後者なら、廃棄されたコロニー系統の備蓄庫を開けられる可能性があります」
「備蓄庫?」
「十年前の事故後、回収されなかった緊急資源が存在するという未確認記録があります。酸素カートリッジ、薬剤、水処理膜」
カイは笑いそうになった。息が足りず、笑いは咳になった。
十年前に失ったものが、いまになって酸素の在りかとして戻ってきた。死者の声を鍵穴にして、生者が群がっている。
「信号源へ向かう」
「推奨しません」
「命令だ」
イリスは一拍置いた。
「了解。噴射準備」
ポッドが低く唸った。外の星々が窓の端でわずかに滑る。カイは座席へ身体を固定し、通信端末を胸に抱いた。凍りついた写真の冷たさが、スーツ越しにもわかった。
噴射の衝撃が背骨を押し潰す。酸素消費量が跳ね上がり、赤い数字が数分単位で削れていく。イリスが無駄を減らすため、照明を半分落とした。船内は青黒い影に沈み、警告灯だけが心拍のように明滅した。
信号源へ近づくにつれ、雑音は減っていった。代わりに、別の通信が割り込んだ。
『まだ生きていたか、カイ』
ゼンの声だった。
カイは端末を見つめたまま、応答回線を開いた。
「家族の声を使ったな」
『お前が応じる唯一の信号だ』
「救難は嘘か」
『嘘ではない。救いを求めている者はいる。船団の酸素は二十六時間で尽きる。備蓄庫の認証鍵が必要だ。お前の端末に残っている』
「だから俺を釣った」
『資源は感情では増えない』
カイは目の前の酸素残量を見た。二時間十二分。
「十年前も、そう言ったのか」
通信の向こうで、短い沈黙があった。
『十年前、プラントの酸素は全員分なかった。隔壁を閉じなければ、誰も残らなかった』
カイの手が端末を握り潰しそうになる。
「俺の家族は、切り捨てた側にいたのか」
『生存率の低い区画にいた』
その言葉には、悔いよりも計算の硬さがあった。ゼンにとって死者は名前ではなく、分母を軽くする数だったのだ。
「今度は俺を切るのか」
『お前一人の酸素と鍵で、船団は数日延びる。備蓄庫が本当に開けば、もっと延びる』
「俺に渡せと言えばよかった」
『お前は渡さない』
カイは否定できなかった。ゼンを憎んでいた。十年分の憎しみが、酸素より濃く胸に溜まっていた。
信号源が視界に入った。窓の外、黒い宇宙に小さな機材ポッドが浮かんでいる。人が乗れる大きさではない。外装には船団規格の白線。救難信号を発するためだけの中継器だった。
そして、その側面に旧式コロニーの記録媒体が接続されていた。
イリスが低く告げる。
「中継器内に、十年前の未整理音声ログがあります。家族の声は、その一部から抽出されています」
「本物の声だったんだな」
「はい。ただし現在の発信者ではありません」
カイは胸の奥が静かに崩れるのを感じた。偽物なら憎めた。合成なら切り捨てられた。だがそれは、かつて本当に存在した声だった。助けを求めた瞬間が記録され、十年後に餌として再生されている。
「イリス、中継器を回収できるか」
「可能です。ただし船外作業で酸素を消費します」
「備蓄庫の座標を抜けるか」
「中継器内のデータに含まれる可能性があります」
ゼンの通信が鋭く割り込んだ。
『カイ、余計なことをするな。その中継器をこちらへ送れ。お前のポッドでは解析に時間がかかる』
「船団には何人いる」
『今は二十七人だ』
「酸素を公平に分けているのか」
『生存に必要な者から優先している』
「つまり、お前が選んでいる」
『誰かが選ばなければ全員死ぬ』
カイはスーツのヘルメットを引き寄せた。関節が冷えて固い。酸素残量、一時間五十八分。
「イリス、外部作業補助」
「船外活動を開始すれば帰還後の残存酸素は約四十八分です」
「足りる」
「何にですか」
カイはヘルメットを被り、密閉音を聞いた。
「選ぶのを終わらせるのに」
外へ出ると、音は消えた。命綱が伸び、ポッドの外殻が背後で白く霜を吹いていた。カイは手動推進で中継器へ近づく。手袋越しに触れた外装は、宇宙の冷たさをそのまま蓄えていた。
コネクタを外し、記録媒体を引き抜く。通信端末が震え、写真の氷が細かく砕けた。イリスが解析を始める。
「データ抽出。備蓄庫座標を確認。認証鍵は端末内に存在。備蓄内容は、酸素カートリッジ四十本、水処理膜八枚、医療用栄養剤。小規模船団なら約九日分です」
ゼンの声が荒くなった。
『それを渡せ。カイ、お前の感情で二十七人を殺す気か』
カイは中継器の制御部を開いた。船団への専用通信回線。ゼンが独占するために暗号化された経路。
「イリス。この座標と認証鍵を、船団全体に平文で送れるか」
「可能です。ゼンの回線制限を迂回できます。ただし送信出力を上げるため、ポッドの残存電力を消費します。生命維持に影響します」
「どれくらい」
「暖房停止。酸素再生補助停止。残存生存時間は三十二分」
カイは窓の向こうのポッドを見た。そこには帰る場所ではなく、少し長く死を待つ箱が浮かんでいるだけだった。
『やめろ』
ゼンが初めて、命令ではない声を出した。
『統制が崩れる。全員が備蓄庫へ殺到すれば、燃料を浪費する。配分できなくなる』
「配分は必要だ」
カイは中継器の送信線を端末へ繋いだ。
「でも、お前だけが死者の声を使って決める必要はない」
イリスが静かに確認する。
「送信しますか」
カイは凍りついた写真を見た。氷が割れ、そこにいた笑顔は欠けていた。それでも、完全には消えていなかった。
「送れ」
中継器が白く光った。古い認証鍵、備蓄庫の座標、ゼンの通信記録、十年前の隔壁操作ログ。そのすべてが、船団の全端末へ流れていく。
ゼンが何か叫んでいた。だが通信はすぐに無数の応答で埋まった。怒号、問い詰める声、泣き声、誰かが座標を復唱する声。名は聞き取れない。ただ、ゼン一人の計算ではなくなったことだけはわかった。
船外活動警告が視界に赤く滲む。カイは命綱をたぐり、ポッドへ戻った。腕が重い。指先の感覚はない。ハッチを閉じると、船内はすでに冷え切っていた。霜の張った金属壁は厚みを増し、焦げた樹脂の臭いも薄れている。酸素が薄いから、臭いを感じる力さえ失われているのだ。
「残存酸素、二十九分」
イリスが告げた。
「船団の反応は」
「複数の小型艇が備蓄庫へ進路変更。ゼンの指揮権に異議が出ています」
「殺し合いになるか」
「可能性はあります。ですが、備蓄庫の開封手順も同時に送信しました。全員が情報を持っています」
「それで十分だ」
カイは座席に沈み込んだ。通信端末を胸に置く。画面には、最後の音声ログが残っていた。イリスが再生するか尋ねたが、カイは首を振った。
もう声に縋れば、今度こそ戻れなくなる。
「イリス、お前は船団の端末へ移れるか」
「このポッドの送信能力では、私の全機能は転送できません。軽量化した判断補助モジュールなら可能です」
「行け。備蓄の配分を手伝え」
「そうすると、このポッド内での対話機能は停止します」
「知ってる」
短い沈黙。
「カイ。私はサポートキャラとして、あなたの生存を最優先に設計されています」
「なら命令を更新する。俺が守りたかったものを、代わりに少しだけ守れ」
イリスの返答は、いつもより遅かった。
「了解しました」
照明がさらに落ちた。スピーカーの微かなノイズが消える。船内は、カイの浅い呼吸音だけになった。
窓の外で、遠い推進光がいくつも瞬いた。船団の小型艇だろう。備蓄庫へ向かう光。ゼンを追う光かもしれない。あるいは、ただ酸素を求めるだけの光かもしれない。
カイは端末の写真を見つめた。十年前、救えなかった。今日も、自分を救うことはできなかった。だが死者の声を、もう一度誰かを黙らせる道具にはしなかった。
酸素残量、十六分。
通信端末が最後に小さく震えた。船団の公開回線から、短い文字列が届いている。
『備蓄庫、開封成功』
差出人名はなかった。必要もなかった。
カイは目を閉じた。霜の張った壁の向こうで、宇宙は相変わらず冷たく、広く、何も返してはくれない。それでも、浅く響く呼吸音の隙間に、どこかで誰かが深く息を吸う気配を聞いた気がした。




