第三幕:最初の嫌がらせ ― 歪み発生
式が終わると、大講堂の緊張はほどけた。
だがそれは解放ではない。
外廊へと続く長い回廊は、次の舞台へと姿を変える。
磨き上げられた白い床。
高窓から差し込む午後の光。
壁に並ぶ歴代王妃の肖像。
そこは、儀式の後に必ず“確認”が行われる場所だった。
貴族子女たちが、ゆるやかに輪を作る。
中心に立つのは――リリアナ。
淡い色のドレスは、この豪奢な空間ではあまりにも控えめだった。
逃げ道は、ない。
だが、これは暴力ではない。
王妃選定演習課程における慣例。
悪役令嬢が、ヒロインに最初の牽制を行う。
力関係を示し、物語の緊張を生むための儀式。
誰もが息を潜めて、その瞬間を待つ。
赤いドレスが、一歩、前に出た。
ヒールの音が、静かに響く。
レディアナ・フォン・グランヴィル。
背筋は伸び、顎はわずかに上がり、視線は揺れない。
彼女は、完璧な角度で立ち止まる。
そして、静かに口を開いた。
「随分と、目立つ位置にお立ちでしたのね」
柔らかな声音。
だが、刃のように冷たい。
意味は明白だ。
――身の程を知れ。
空気が、凍る。
周囲の令嬢が、息を呑む音すら聞こえそうだった。
誰もが、この一言を待っていた。
これで構図が完成する。
悪役令嬢は圧をかけ、
ヒロインは怯え、
王子が庇う。
完璧な三角形。
だが。
リリアナの鼓動は、恐怖ではなかった。
どくん、と強く跳ねる。
視線が絡む。
あまりにも近い、赤。
レディアナの瞳は冷たいはずなのに、その奥に宿る強さが眩しい。
喉が熱い。
指先が震える。
(来た)
待っていた。
この瞬間を。
胸の奥が、幸福に似た震えで満たされる。
(私に、向けられた)
圧。
選別。
拒絶の予兆。
それすら、甘美だった。
だが、外から見れば違う。
頬は紅潮し、瞳は潤み、唇はわずかに震えている。
どう見ても、怯えている少女だ。
「レディアナ、やめろ」
低い声が割り込む。
王子が前に出た。
彼のマントが翻り、二人の間に立つ。
完璧な構図。
悪役令嬢を制し、ヒロインを守る調停者。
周囲から安堵の空気が広がる。
これで正しい。
これが王道。
だが王子は気づかない。
リリアナの瞳が、彼ではなく――
なおもレディアナを見ていることに。
潤んでいる。
だが、恐怖ではない。
逃げたいのではない。
むしろ。
もっと、という渇き。
レディアナは王子に制され、わずかに目を伏せる。
「……失礼いたしました」
形式通りの退き。
だが、その視線は再びリリアナへ向く。
泣かない。
目を逸らさない。
震えているのに、後退しない。
(……?)
胸に、小さな棘が刺さる。
違和感。
これまでのヒロイン候補は皆、視線を落とし、王子の背に隠れた。
だがこの少女は違う。
怯えているようで、怯えていない。
むしろ――
向かってくるような、熱。
一瞬だけ、レディアナの鼓動が乱れる。
すぐに整える。
そんなはずはない。
制度は正しい。
構図は完成している。
それでも。
視線が、離れない。
回廊の光が、二人の間に細く差し込む。
王子は満足げに頷き、場は解散へと向かう。
貴族子女たちも、安堵と興奮を抱えながら散っていく。
誰もが、物語は順調に始まったと思っている。
だが。
赤いドレスの背を見送りながら、リリアナは胸を押さえる。
どくどくと鳴る鼓動。
甘く、熱い。
(もっと)
その願いだけが、静かに芽吹いていた。
そしてレディアナの胸にもまた、名もなき小さな棘が残る。
歪みは、まだ目に見えない。
だが確かに、発生していた。




