第10話:夢魔の毒、冥龍の罠
北の国境、深い霧に包まれた静寂の森。
そこは、足を踏み入れた者の感覚を狂わせる「迷いの森」としても知られていた。
その霧の深淵に、一人の女が優雅に佇んでいる。
北の魔王軍四天王『夢幻将』ベラドンナ。
紫のロングヘアを夜風になびかせ、彼女はアルドから贈られた世界樹のお守りを指先で転がした。
「ウフフ、ワタシ、あんなに心配されちゃったら……いつもより少し、張り切っちゃうわ」
その時、森の霧が急激に色を変えた。
白から不吉な紫黒へと。
地を這うような冷気と共に、影の中から冥龍将ハデスが姿を現す。
彼はガルドスのような巨体ではないが、その存在自体が「死」を象徴するような悍ましさを放っていた。
「……夢魔の四天王か。ガルドスのような脳筋が敗れたのは想定内だが、貴様のような女が我が術を止められると思うな」
ハデスが杖を振ると、森の木々が瞬時に枯れ果て、地面から無数の亡者の腕が這い出してきた。
「『冥府葬送・魂の檻』。貴様の精神をバラバラに引き裂き、龍皇様への貢物にしてくれよう」
亡者たちが放つ呪詛の言葉が、精神を蝕む波となってベラドンナを襲う。
だが、彼女は怯えるどころか、艶やかな唇を吊り上げた。
「あら、そんな古臭い呪いでワタシを揺さぶるつもり? アルド殿の淹れてくれるハーブティーの方が、よっぽど体に刺激的だわ」
「何……!? 精神防御もなしに、我が呪詛を無効化しただと!?」
「無効化したんじゃないわ。ワタシの『愛』が、あんたの毒を上回っているだけよ」
ベラドンナが指先で宙を撫でると、彼女の周囲に極彩色の蝶が舞い始めた。
「『万毒葬送・紫煙の檻』。……さあ、冥府の王様。どちらの『悪夢』が深いか、試してみましょうか?」
森全体を覆っていた死の霧が、一瞬にしてベラドンナの毒霧に飲み込まれていく。
ハデスは慌てて障壁を張ろうとしたが、彼の感覚はすでに狂い始めていた。
地面が空に見え、自分が放った亡者たちが愛しい家族の顔に見える。
精神に直接作用するベラドンナの魅了と毒が、龍の精神耐性すらも容易に貫いていた。
「な、なんだ……!? 身体が動かん、魔力が……逆流する……!!」
「ウフフ、可哀想に。あんたの術は、誰かを絶望させるためのもの。でも、ワタシの術は、みんなとの幸せな日常を守るためのものなの。……想いの重さが、違うのよ」
ベラドンナが瞳を怪しく光らせると、ハデスの背後に巨大な「夢魔の口」が具現化した。
「アルド殿に『怪我をするな』って言われちゃったから。あんたみたいな不潔な影は、一滴も残さず、ワタシの毒で溶かしてあげる」
「ぎ、ぎあぁぁぁぁぁっ!!」
悲鳴を上げるハデスを、紫の霧が包み込む。
彼は死ぬことすら許されず、終わりのない「自らが焼かれる悪夢」の中に閉じ込められ、その魔力を根こそぎ吸い取られていった。
数分後。
霧が晴れた森には、煤一つ残っていなかった。
ベラドンナは乱れた髪を整えると、お守りを大切そうに服の中に仕舞い、いつもの優しいお姉さんの表情に戻る。
「さて、お掃除完了。早く帰って、リナちゃんに新しい刺繍を教えてあげなくちゃ」
『夢幻将』は、鼻歌を歌いながら軽やかな足取りで聖域へと戻っていく。
彼女の歩いた後には、枯れ果てていたはずの木々が、なぜか春のような瑞々しさを取り戻していた。
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