第1話:北限に集う王と、不穏な空
北の大地に吹き荒れる地吹雪は、ときに世界の終わりを予感させるほどに鋭い。
アイゼンベルク辺境伯邸の重厚な王の間。
そこには、普段アルドの前で見せる「可憐なお嬢様」の面影を微塵も感じさせない、冷徹な支配者の顔をしたミラがいた。
赤氷の魔王――それが彼女の真の姿。
そして今、彼女の前で血を吐きながら膝を突いているのは、かつて東の地を統べた魔王、バロールだった。
「……顔を上げなさい、バロール」
ミラの言葉に、ボロボロの鎧を纏った巨躯が震える。
「赤氷の魔王ミラ様……。突然の不調法、この首を以てお詫びいたします。……吾輩の負けだ。だが、どうか聞き届けていただきたい」
バロールの背後には、彼が龍皇の炎から命懸けで守り抜いてきた、数千の傷ついた臣下たちがいた。
西の魔王、龍皇。
その圧倒的な侵攻の前に、東の王国と魔王軍が手を取り合ってなお、抗えなかった絶望的な戦。
バロールが北の国境を強行突破したのは、略奪のためではなく、民が生き延びるための最後の博打だった。
「吾輩の首ひとつで、どうか許して欲しい。 侵略の汚名はすべて吾輩が背負う。願わくば臣下たち……彼らだけは、この凍てつく北の地で生きることを許してはもらえないだろうか!」
床に額を擦りつけ、嗚咽を漏らす東の王。
その悲痛な叫びを、傍らに控えるミラ配下の「四天王」たちがそれぞれの表情で受け止める。
「……ミラ様の真意を測りかねますが。敗軍を飲み込むのは相応のリスクを伴います」と、冷静な口調で懸念を示すゼクス。
「ガッハッハ! 固いこと言うなよゼクス。東の魔王がこれほど震えてんだ、相手は相当な化け物だぜ」と、斧を担ぐゴルド。
「某も、この男の覚悟に嘘はないと見る」と、静かに太刀を構えるシオン。
そして、影から妖艶に姿を現したベラドンナが、紫の煙を揺らしながら口を開いた。
「……クスクス。ワタシはいいと思うわよ。これほど美味しい絶望を抱えた男、殺してしまうのはもったいないもの。ねぇ、ミラ様?」
ミラは扇を閉じ、バロールに問いかけた。
「……バロール。あなたをこれほどまでに追い詰めた『西の龍皇』とは、一体何者なのですか?」
バロールは、思い出すだけでも魂が凍りつくかのように、声を震わせて語り始めた。
「……奴は、ただの魔王ではございませぬ。龍皇の吐息は山を溶かし、その軍勢は死を恐れぬ龍人族。何より恐ろしいのは、奴が掲げる『世界の再構築』にございます。龍皇は、龍の血を引かぬすべての種族を『不純物』として焼き払うつもりだ……。東の王国が誇る聖騎士団も、我が誇りの魔獣軍団も、奴の前では赤子同然。あれは……歩く災厄そのものにございます」
執務室に沈黙が流れる。
本来のミラであれば、他国の窮状など鼻で笑って切り捨てていただろう。
しかし、今の彼女の脳裏には、ある一人の青年の穏やかな笑顔が浮かんでいた。
(アルド様なら……。行き場を失った人々を見捨てれば、きっと悲しまれるわ。それに、その『災厄』とやらがこの地を汚すというのなら――)
「……バロール。あなたの覚悟、受け取りましたわ」
ミラは立ち上がり、静かに宣言した。
「本日より、あなたの一団を『北の魔王軍』へと併合します。あなたはそのまま、一個師団を率いる師団長として、この地の防衛に当たりなさい。その首、生きて龍皇からこの地を守るために使いなさい」
「……ミラ様……ッ! この命、粉骨砕身、捧げる所存にございます!!」
魔王たちの間で歴史的な同盟が結ばれたその頃。
国境から少し離れた小さな村のログハウスでは、そんな世界の動乱とは無縁そうな、温かな湯気が立ち上っていた。
「お兄さん! ただいま!」
「アルドお兄さん、お腹すいちゃった」
元気よく扉を開けて入ってきたのは、人類の希望である勇者カイルと聖女リナだった。
二人は世間では英雄だが、育ての親代わりであるアルドの前では、ただの甘えん坊な弟と妹に戻る。
「おかえり、カイル、リナ。今日は冷えただろう? 特製のシチューを作っておいたから、早く座りなさい」
アルドは、自らが「世界最強の剣聖」であることを理解しつつも、それを自慢することはない。
彼にとっての幸せは、二人が無事に帰ってきて飯を食うこと。
それだけだった。
だが、二人の表情にはどこか落ち着かない影がある。
「ねえ、お兄さん。最近、国境の様子が少し変なんだ。押し寄せてきたはずの兵士たちが、急に整列して……。まるで、誰かに守られているみたいに静かになったんだ」
「ええ。それに、西の空から嫌な気配がするの。今まで感じたこともないような、禍々しい力が……」
二人の不安げな言葉に、アルドは鍋を混ぜながら、穏やかに笑った。
「そうか。まあ、寒いところに来てみんな疲れてるんだろう。お互い仲良くできるなら、それが一番じゃないか。……西の空か。確かに、少し空気が焦げ付いている気がするね。でも大丈夫さ、俺たちがここでしっかり暮らしていれば」
アルドの言葉は、どこまでも純朴だった。
しかし、彼が放つその圧倒的な肯定感こそが、この北の地を龍皇という巨悪から守る「聖域」にしていることに、まだ誰も気づいていない。
「さあ、冷めないうちに食べよう。ミラさんも、そろそろ来る頃だろうからね」
ミラが「アイゼンベルク辺境伯令嬢」として、この温かな食卓に加わるまで、あと数分。
最強の剣聖と、正体を隠した魔王。
そして勇者と聖女。
奇妙で温かな家族の物語、第2章が静かに幕を開けた。
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