【幕間:月は満ち、修羅は父になる】
アイゼンベルク辺境伯爵邸の、月明かりも届かぬ深い回廊。
先代魔王は、アルドの治療が行われている客室の扉から少し離れた壁に身を預け、独り闇を見つめていた。
扉の向こうからは、ミラの焦燥を含んだ、それでいて慈しむような声が漏れ聞こえてくる。
「アルド様、もう少しだけ我慢してくださる? すぐに最高の治癒魔術を……ああ、どうしてそんなに無茶をなさるのですか……」
その声を聞きながら、先代は静かに目を閉じ、先刻の「月下の戦い」を反芻していた。
まず、自分を恥じた。
武の極致を求めるあまり、愛娘が同じ場所にいることを、戦いの中できれいに忘却していた。
あろうことか、剣を砕かれ、その破片が凶器となってミラを襲った際、自分はただ呆然と立ち尽くすことしかできなかったのだ。
魔界を統べ、幾千の戦場を潜り抜けてきたこの自分が、あの一瞬、金縛りにあったかのように動けなかった。
(……だが、あの青年は違った)
頭に焼き付いているのは、光を追い越すような速さでミラの前に割り込んだ、アルドの背中だ。
自身の防御を一切顧みず、ただ一人を守るためだけに身を投げ出した。
あの淀みのない、一切の迷いがない跳躍。
それは技術や魔法などという次元を超えた、魂の反射だった。
そして、武人としての己が突きつけられた残酷な現実。
自分の放った「本気の武」は、彼には全く通用していなかった。
いや、通用しないどころか、彼はまるで子供の遊びに付き合うかのような、あまりに自然で、あまりに暴力的なまでの「柔らかさ」で、自分の剣術を無効化していた。
砕かれた愛剣が、その力差を無慈悲に証明している。
何より、先代を沈黙させたのは、ミラのあの顔だ。
あんな風に頬を染め、瞳に熱を灯し、ただ一人の男を見つめる娘の顔など、生まれて一度も見たことがなかった。
冷徹で高貴な魔王としての仮面が剥がれ落ち、ただの恋する乙女へと変貌した瞬間。
「……認めざるを得んな」
ようやく口からこぼれ落ちた言葉は、重く、夜の空気に溶けていった。
認めざるを得ない。
あのアルドという青年が、娘を託すに足る、自分を遥かに凌駕する存在であることを。
先代の胸中では、二つの感情が激しくせめぎ合っていた。
一つは、親としての心。
あんな顔をするほど想い人を慕う娘の気持ちが、どうか報われてほしいという、切なくも温かな祈り。
そしてもう一つは、武人としての心。
あのような理外の強者を目の当たりにして、なお「次はどう挑むべきか」と血を滾らせてしまう、救いようのない闘争本能。
(娘の想い人が、最強の壁か……。なんとも皮肉なものだ)
扉の向こうで続くミラの献身的な看病の声を聞きながら、先代魔王は深く、長く息を吐き出した。
娘の幸せを願う平穏な日々を望む自分と、再びあの黒色の閃光に挑みたいと願う修羅の自分。
その矛盾した感情の渦に揉まれ、彼は月光の差し込む窓辺で、何とも言い難いアンニュイな表情を浮かべることしかできなかった。
それは、偉大なる魔王が、一人の「父親」として、そして一人の「敗北者」として、新しい時代の到来を悟った夜の独白であった。
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