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誰が焔を終わらせたか 〜覇王と影の戦記〜  作者: スザキトウ


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第8話 甘い匂い

 アルはあの年嵩の男の馬に乗せられていた。


 馬が歩き出すと視界が揺れる。

 地面を歩くよりも少し高い位置。

 それだけで世界が違って見えた。


 背後から声がかかる。


「……ああいう方なのだ」


 低く、穏やかな声。


 アルはすぐには反応しなかった。

 誰に向けられた言葉なのか判断が遅れた。


「?」


 短く喉から音が漏れる。


 年嵩の男は渋い顔をしながら続ける。


「破天荒でな」


 一拍、間が空く。


「だからこそ……だ」


 それ以上は言わなかった。


 言葉の続きをあえて口にしないような沈黙だった。


 森が近づいてくる。


 木々の影が重なり、風の流れが変わる。


 馬の歩調がわずかに落ちた。


「……すまないな」


 突然、男はそう言った。


 アルは目を瞬いた。


「家族を埋葬してすぐだというのに、

 無理やり森を案内させることになった」


 謝罪だった。

 形式ではない、本心からの言葉だった。


 アルはしばらく黙っていた。


 何を言えばいいのか分からない。

 何かを言う資格が自分に残っているのかも分からない。


「……いえ」


 声は小さい。


「赤い飴を……」


 一瞬、言葉に詰まる。


「ミアに、渡せたので」


 それだけだった。


 それ以上、言葉は続かなかった。


 男はすぐには返事をしなかった。


 馬の蹄の音だけが一定の間隔で響く。


 やがて男は静かに名を告げた。


「ガウェイン・パルマだ」


 簡潔な自己紹介。


「閣下が生まれた頃からお仕えしている」


 それは、誇示ではない。

 事実の提示だった。


「……長い付き合いだ」


 ガウェインは前を見たまま言った。


 森の入り口がすぐそこまで迫っていた。


 空気がひんやりと変わる。


 この先にあるものを誰も、はっきりとは口にしなかった。


 森に入った瞬間、空気が変わった。


 冷たい、というほどではない。

 だが肌にまとわりつくような重さがある。


 光が、落ちない。

 枝葉が重なり、空は細切れにしか見えなかった。

 風は吹いているはずなのに葉擦れの音がほとんどしない。


 不気味だった。

 一歩踏み入れただけで異常だと分かる。


 だが――


 アルにとってはいつも通りだった。


 足元は柔らかく湿っている。

 踏み外せば沈む場所もある。

 木の根が露出し、岩が苔に覆われている。


 道らしい道はない。


 アルの案内で一団は無言で進んだ。


 馬の歩みが自然と遅くなる。


 兵たちは黙っていた。


 ヴァルの手前、露骨な不満を口にする者はいない。


 だが、無言でも伝わってくる。

 苛立ち。

 不安。

 そして、疑念。


 ――本当にこの道でいいのか。


 視線が何度もアルの背中に突き刺さる。


 ガウェインだけは穏やかだった。

 馬の上から周囲を注意深く見回している。

 己の今できる最善を尽くすだけだった。


 鳥の声も、虫の音もない。

 聞こえるのは馬の息と、鎧が擦れる微かな音だけだ。


 その沈黙を――


「――魔物だ!」


 誰かの叫びが、切り裂いた。


 一瞬で空気が弾ける。


 兵たちが反射的に武器を構える。

 隊列がわずかに乱れる。


 森の奥、影が重なるその向こうで――


 何かが動いた。


「――モルティス・ベアーだ!」


 次の瞬間、兵たちの間には動揺が走る。


「まずい……」

「何人やられる……?」


 ざわめきが一段低い恐怖に変わる。


 森の奥からそれは現れた。


 熊――

 だが、知っている熊とは、決定的に違う。


 体躯は常人の倍近く。

 肩の盛り上がりは異様で、首はほとんど見えない。

 毛皮は黒ずみ、ところどころが湿って光っている。


 そして――鼻。


 顔の中央にあるはずのそれは、歪んでいた。

 潰れ、裂け、肉が露出している。

 呼吸のたびに、ずぶ、と濡れた音がする。


 鼻孔は左右非対称で、

 一方は裂けて垂れ下がり、

 もう一方は無理やり広げられた穴のようだった。


 その奥が、赤く光る。


 その鼻を鳴らして嗅いでいる。


 血。

 汗。

 恐怖。


 ――生きているものすべてを。


 重い一歩。


 地面が、沈む。


 二歩目で、低い唸り声が漏れた。

 喉の奥から搾り出されるような、湿った音。


 誰も、動けなかった。


「……閣下を守れ!」


 怒号が飛ぶ。


「命に代えてでもだ!」


 兵たちが、即座に動いた。


 前列が盾を構える。

 後列が槍を下げる。

 弓兵が、手の震えを抑えながら弦を張る。


 誰もが分かっていた。


 生き残れる保証はない。

 これは決死の布陣だ。

 己が生き延びる為ではない。

 ――主君を守る為の。


 兵たちの背中に、はっきりと死の影が落ちていた。


 緊張が張り詰めたまま止まっていた。


 誰も先に動けない。


 盾を構えた兵の腕は強張り、

 槍先はわずかに揺れている。


 モルティス・ベアーが一歩、前に出ようとした――

 その瞬間だった。


 アルが無表情のまま手を上げた。


 声も合図もなく、ごく自然と。

 ただ、投げた。


 小さな球体が弧を描いて宙を舞う。

 地面に落ちた瞬間、乾いた音がした。


 ――ぱん。


 割れた。


 次の瞬間、甘い匂いが爆ぜるように広がった。


 花の香りだ。

 だが、嗅ぎ慣れたそれとは違う。


 最初に来るのは蜜のような甘さ。

 舌の奥が条件反射で唾を飲み込もうとする。


 次に遅れて――


 鼻の奥を刺す、生臭さ。


 腐りかけの果実と、

 湿った土と、

 血の残り香を無理やり混ぜたような匂い。


 甘いのに不快だ。


 呼吸をするたび、

 肺の内側にまで絡みつく。


 兵の何人かが、思わず顔を歪めた。


「……っ」


 吐き気を堪える音。


 モルティス・ベアーが、ぴたりと動きを止めた。


 歪んだ鼻孔が、ひくりと引き攣る。


「――グゥッ」


 低い唸り声。


 巨体が、後ずさる。


 もう一度、鼻を鳴らす。

 今度は、苦しげに。


 そして。


 森を裂くような音を立てて、

 モルティス・ベアーは方向転換した。


 逃げた。


 枝を薙ぎ倒し、

 地面を抉り、

 振り返ることもなく、森の奥へ消えていく。


 しばらく、音だけが残った。


 やがて、それも遠のく。


 ――静寂。


 一団は、誰一人として動けなかった。


 槍を下ろす者も、

 盾を緩める者もいない。


 ただ、呆然としている。


「……な」


 誰かが、ようやく声を出した。


「……逃げた?」


 その空気の中で、

 アルだけが、何事もなかったように口を開いた。


「……匂い玉です」


 淡々とした声。


 視線は森の奥を向いたまま。


「この森に生えている

 墓香花(ぼこうか)|の香りを凝縮して作ってます」


 聞き慣れない名。


「甘い匂いと死肉に似た匂いがする花で……

 モルティス・ベアーは、これが嫌いなんです」


 事実を並べているだけだった。

 誇りも、得意げな様子もない。


 ガウェインが目を見開いた。


「……そんな弱点が……」


 思わず言葉が漏れる。


「聞いたことがない」


 困惑と驚愕が混じった声。


 アルは、少しだけ首を傾げた。


「……普通です。そういうものだと父に教わりましたから」


 それだけだった。


 一団の中にざわめきとは違う、別の波が広がっていく。


 静寂の中で、足音が一つ鳴った。


 ヴァルだった。


 まだ消えきらない匂いの中、馬上で手綱を軽く引き、

 盾の列を割って馬を進める。


 そして――


 にやり、と笑った。


 先ほどまでの緊張が嘘のような軽い表情。


「よくやった」


 短い称賛だった。


「正直、派手な戦闘になるかと思ったが……」


 肩をすくめる。


「ちと拍子抜けだな」


 そう言ってから周囲の兵たちを一瞥する。


 誰も欠けていない。

 血も、悲鳴もない。


「だが」


 視線が戻る。


「兵に被害が出ないなら――それが一番いい」


 損失の有無で価値を量る目。

 その視線には戦場を盤面として捉える冷静さがあった。


 アルはヴァルの横顔を見る。


 先ほどまでの軽薄さと今の冷静な言葉。

 どちらが本当なのか分からない。


 笑みの奥に何があるのかも掴めなかった。


 アルの行動で周囲の空気がわずかに変わった。


 疑念ぎねんの混じっていた視線が少しずつ、形を変えていく。


 警戒から、観察へ。

 疑いから、評価へ。


 ――使える。

 ――役に立つ。


 そんな視線だ。


 アルはそれを感じていたが特に何も思わなかった。


 ただ、投げたものが効いた。

 それだけの結果だった。


 ヴァルは満足そうに一度だけうなずく。


「いい案内人を拾った」


 独り言のようにそう言った。


 その言葉は森の奥へと向かう道をさらに一段、深くしていた。

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