第6話 空っぽ
……遠くで声がしていた。
意味を成さない音。
重なって、離れて、また戻ってくる。
意識は深いところに沈んでいる。
身体の感覚がない。
寒さも、痛みも、重さもない。
「――おい」
低い声。
怒鳴ってはいない。
だが、はっきりと届く。
「まだ生きているか」
その言葉で何かが引き上げられた。
瞼が重く開く。
最初に見えたのは空だった。
灰色に近い雲が、ゆっくりと流れている。
その下に影がいくつも重なっていた。
人影だ。
鎧。
槍。
剣。
町で見たものと同じようで、どこか違う。
反射で身体を動かそうとして動かないことに気づく。
全身が鉛のように重い。
「起きたか」
視界の端に一人の男が立っていた。
他の兵と同じ鎧姿だが、佇まいが違う。
武器を構えていない。
だが、場を支配しているのはその男だった。
男はアルの視線を受け止めたまま動かない。
近づいてこない。
覗き込まない。
ただ、そこに立っている。
周囲では別の兵たちが思い思いに動いていた。
倒れた木材をどかす者。
血の付いた槍を布で拭う者。
小声で何かを言い合い、短く笑う者もいる。
「運が良かったな」
「まだ息してるぞ、こいつ」
「ちっこいがしぶといな」
軽口だった。
誰かを嘲るわけでも、慰めるわけでもない。
ただの作業中の声だ。
「妹を……妹を助けてください!」
声が思ったより大きく出た。
喉が裂けるような感覚が遅れてくる。
身体はまだ動かない。
それでも言葉だけが先に飛び出した。
男は即座に答えた。
「それは無理だ」
短い。
考える間もない返答だった。
「え……?」
頭が理解を拒んだ。
「な、なぜ……?」
理由を探そうとする。
聞き返せば、覆る気がした。
どうにかしてミアだけでも助けてもらわないと。
そのときだった。
視界の端に違和感が入った。
すぐ横。
地面の上に、布を被せられた塊がある。
息が止まった。
胸が締めつけられ空気が入らない。
肺が動き方を忘れたようだった。
指先がかすかに動く。
動かそうとした覚えはない。
勝手にそう反応した。
「……っ」
声が喉の奥で潰れる。
頭の中で必死に言い訳を探す。
布を被せる理由。
小さい理由。
偶然の理由。
一つもうまく繋がらない。
伸ばした手が途中で止まる。
触れたくない。
見たくない。
それでも心臓が急き立てる。
早くしろ、と。
見ろ、と。
布の端に、指が触れる。
そっと、持ち上げる。
布が、ずれた。
そこにあったのは――
ミアだった。
目を閉じている。
眠っているように、静かだ。
だが。
胸が、動かない。
呼吸が、ない。
心臓が一瞬だけ止まり、
次の瞬間、壊れたように暴れ出す。
「……あ……」
音にならない声。
否定が、遅れて湧き上がる。
違う。
違う。
こんなはずがない。
視界が、歪む。
「――――――――――――――――――っ!!!」
叫びだった。
喉が裂け、肺が焼ける。
息を吸うことも、吐くこともできない。
名前を呼ぼうとして、声にならない。
触れようとして、手が止まる。
時間が、引き伸ばされる。
世界が、壊れた。
ミアは、動かない。
どんな音にも、応えない。
それでもアルの叫びは止まらなかった。
誰も、止めなかった。
誰も、声をかけなかった。
ただ、心臓の音だけが、
無意味に鳴り続けていた。
思い出したようにアルは口を開いた。
叫び疲れた喉から出た声はひどく平坦だった。
自分の声だと分かるまで一瞬かかった。
「……父と、母は」
言い方を探す余裕はない。
確認でも、期待でもない。
ただ、抜け落ちていた項目を埋めるような問いだった。
「どこに……いるんですか……生きて、いますか……」
男は答えなかった。
代わりに少し離れた位置にいた兵が口を開いた。
特別な配慮はない。
報告するだけの声だった。
「ちょっと行ったところの民家で住人と思われる男女の遺体が二体あった」
それだけだった。
名前はわからない。
顔も、年齢も、わからない。
思われるという言葉だけが心に残る。
アルはしばらく黙っていた。
理解しようとしたわけではない。
ただただ何も考えられなかった。
頭の中で、何かが切り替わる音がした。
「……そうですか」
自分でも驚くほど声は落ち着いていた。
誰かが小さく呟いた。
「……自分以外の家族が全員死ぬのはキツいな」
独り言のような声だった。
同情とも、距離を取るための言葉ともつかない。
アルはその言葉を聞いた。
聞こえた、という事実だけがあった。
胸に刺さりもしなければ、怒りも湧かない。
何も心が動かなかった。
さっきまで確かにあったはずの感覚がすっと遠のいていく。
悲しみも。
怒りも。
絶望も。
すべてが等しく消えていく。
アルはその場に座り込んだ。
泣かなかった。
叫ばなかった。
地面に拳を叩きつけることもしない。
ただ、力が抜けただけだった。
視線が定まらない。
音が、少し遅れて届く。
それでも何事もなかったように世界は続いている。
兵たちは動き、風は吹き、雲は流れている。
それらは、何一つ変わっていない。
変わったのはアルだけだった。
中身を失った器のように、
そこに座っている。
何も、感じない。
何も、考えない。
抜け殻だった。
「……絶望しているところ悪いが」
低い声が落ちた。
アルはすぐには反応しなかった。
呼ばれたという感覚が遅れて届く。
視線を上げると、あの男が立っていた。
変わらず一団の中で一回りも二回りも若い。
だが場の中心はそこで異質だった。
「お前、あの森に詳しくないか」
問いは、唐突だった。
文脈が、完全に切れている。
アルは、少し間を置いた。
考えたわけではない。
思い出したわけでもない。
ただ、知っている事実が、そのまま出てきた。
「……詳しいです」
声に抑揚はない。
「狩りで……よく森に行きます」
男は、その答えを聞いて――
口の端を、わずかに上げた。
ニヤリ、というほど大きくはない。
だが、確かに笑った。
「そうか」
短い一言。
「森を突っ切って行きたい」
男は続ける。
「案内しろ」
命令だった。
拒否を想定していない言い方。
アルは、何も返さなかった。
うなずきもしない。
首を振りもしない。
返事という行為そのものが、
どこか遠い場所の出来事のようだった。
男は、それを気にしない。
ゆっくりと片手を上げる。
その動きだけで、周囲の兵たちが反応した。
私語が止まり、視線が集まる。
「――少し休む」
短い命令。
兵たちは、疑問を挟まない。
各々が動きを止め、腰を下ろし始める。
男はもう一度だけアルを見る。
感情は読めない。
だが、視線は逸らさない。
「……誰か」
男は静かに、言った。
「穴を掘ってやれ」
命令は、それだけだった。
兵の一人が、無言で頷き、道具を取りに向かう。
土の匂いが、風に乗って流れてくる。
アルは、それを見ていた。
何も、思わなかった。
何も、感じなかった。
ただ、地面が掘られていくのを、
ぼんやりと眺めていた。
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