第11話 世界
アルは深く息を吸った。
肺に入ってくる空気は血と土の匂いが混じっている。
だが不思議と咳き込むことはなかった。
耳に届くはずの音がどこか遠い。
剣がぶつかる音。
怒号。
悲鳴。
聞こえている。
確かに聞こえているのに、すべてが一枚隔てた向こう側にあるようだった。
アルは目を閉じた。
暗闇の中で戦場の輪郭だけが浮かび上がる。
一団は押されている。
左だ。
次々味方が倒れていく。
誰が倒れたのかは分からない。
分かろうとも思わなかった。
だからどうした。
どうでもいい。
生き延びることも、
ここで終わることも、
同じ重さで天秤に載っている。
――それでも。
理不尽にまた奪われるのは癪だと思った。
理由はそれだけだった。
怒りではない。
正義でもない。
ただ胸の奥に引っかかった小さな違和感。
アルはゆっくりと目を開けた。
すぐ近くでまた1人、味方が倒れた。
盾が落ちる音。
重たい金属が地面を打つ鈍い響き。
兵は仰向けに倒れ、必死に息を吸おうとしている。
その上に、敵が立ち剣を振り上げる。
今にも味方の兵の命が潰えようとしている。
――隙だらけだ。
剣を振り下ろすために体重が前に乗っている。
右足がわずかに浮いている。
視線は下、倒れた兵だけを見ている。
背中。
脇腹。
首元。
ここ。
ここ。
ここ。
どこが弱点か指でなぞれるほどはっきりと分かる。
なぜ分かるのかは分からない。
こんな訓練を受けた覚えはない。
実戦など、なおさらだ。
それでも。
なぜか体が理解していた。
考えるより先に足が動く。
アルは一歩、踏み込んだ。
敵の意識の外側から。
低い位置。
剣の軌道の下。
そのまま蹴った。
足首。
わずかに外側へ。
「――っ」
敵の重心が崩れる。
剣が空を切る。
転びはしない。
だが、踏ん張るために体が開いた。
その瞬間。
驚愕した表情でこちらを見る。
防具のない部分が、露わになる。
アルは迷わなかった。
武器は持っていない。
だから、使えるものを使った。
指だ。
両手の親指を真っ直ぐ伸ばして
一直線に――突き出す。
狙いは一つ。
眼球。
ぐじゅり、とした感触。
柔らかく、逃げ場のない抵抗。
敵の喉から音にならない声が漏れた。
剣が落ちる。
両手が顔を押さえ、
体が前のめりになる。
敵の喉からひび割れたような声が漏れた。
「あ――あ゛あ゛――!」
痛みと混乱が混じった、意味を成さない音が耳に突き刺さる。
だがアルには雑音でしかなかった。
音としては届いている。
だが意味がない。
ただ空気が震えているだけだ。
時間が、妙に遅い。
敵の指が宙を掻く動きが、
ひどく緩慢に見える。
視界の端で別の兵が剣を振っている。
その動きも遠くの出来事のようだった。
敵は視界を失い、反射で体を屈める。
首が前に出る。
——そこだ。
アルは一歩、踏み込んだ。
相手の背後に回り込み、
顎の下に腕を差し入れる。
もう片方の手で後頭部を押さえる。
捻る。
ゆっくりと、逃げ道を塞ぐように。
首の関節が限界まで回された。
嫌な感触。
骨と骨が擦れる感覚。
相手の腕がばたつく。
手が空を掴む。
それでもアルは離さなかった。
——折る必要はない。
気道を潰せばいい。
数秒。
喉から出ていた音が急に細くなった。
「あ……ぁ……」
最後は息が抜ける音だった。
体が崩れる。
体が、ずるりと崩れ落ちる。
そこでようやく腕を離した。
敵は動かない。
もう音もしない。
アルは一歩下がった。
息は乱れていない。
胸の奥も静かなままだった。
叫び声も、
骨の音も、
倒れる音も。
全部、ただの雑音だった。
当然の手順のように、
何をすればいいのか体が次を選んでいた。
——なぜだか殺すのは難しくない。
それだけがはっきりと分かった。
アルはゆっくりと自分の手を見下ろした。
指先が赤く濡れている。
生暖かい。
粘つく感触が、皮膚に残っている。
指の腹。
爪の縁。
眼球を潰したときの感触が遅れて蘇る。
柔らかく、逃げ場がなく、
押し返してくることもない。
——思い出そうとして思い出したわけではない。
勝手に浮かんだ。
アルは視線を上げた。
目の前に敵の死体がある。
首が不自然な方向に折れ曲がっていた。
顎が胸に沈み、
そこから先はもう二度と正しい位置には戻らない。
両目から血が流れている。
瞼は半開きで、
何も映していない。
動かない。
完全に……止まっている。
……残酷だ。
頭の中でそう言葉が浮かんだ。
だが、それだけだった。
嫌悪も、恐怖も、
胸を締めつける何かも、ない。
吐き気も、震えも、ない。
どうでもいい。
そう思った。
死体がそこにあることも、
自分がそれを作ったことも、
すべてが同じ重さで、どうでもいい。
アルは指を軽く握り、また開いた。
血が糸を引く。
それを見て何も感じなかった。
――ああ。
そういうことか。
誰も、悪くない。
敵も。
味方も。
自分も。
そうならざるを得なかっただけだ。
仕方がない。
そういう形をしているのだから。
悪いのは――
この世界だ。
この世界は、最初からそうだったのだ。
アルは一度、深く息を吸った。
肺に空気を入れる。
足元に落ちている剣に目を落とす。
敵が取り落としたものだ。
拾い上げる。
重い。
だが、持てない重さではない。
柄を握った瞬間、
手の中の生温かさが、鉄の冷たさに塗り替えられた。
ふと視線を感じて顔を上げる。
助けたはずの兵がそこにいた。
剣を抱えたまま動けずにいる。
こちらを見ている。
怯えた目だった。
感謝でも、安堵でもない。
理解できないものを見る目。
アルは一瞬だけその視線を返した。
それだけだ。
言葉はない。
何かを伝える必要も、意味もなかった。
視線を外す。
周囲を見渡す。
まだ戦っている。
まだ終わっていない。
ならやることは一つだ。
アルは剣を下げたまま歩き出した。
次の音へ。
次の気配へ。
心は動かない。
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