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風の迷い道

欠けた月に愛を

作者: 月夜
掲載日:2025/11/01

 今作は2023年10月〜12月に執筆した作品です。

 とある曲をきっかけに書き始めた曲パロです。途中で終わりが見えずに迷走してしまいました。今でもオチや途中が気に食わないところはありますが、お気に入りの作品です。




○注意

・この作品はフィクションです。現実の団体、建物、場所、人物などとは一切関係がありません。

・誤字脱字があるかもしれません。

・読後の批判は受け付けません。

・これ以上読むことが難しいと感じた場合は読むことを中断してください。

・以上をご確認の上、読んでやるよという心の広い方は続きをお読みください。

 怪盗『をちみず』を知っているか。

 欠けた月の晩、彼らは五人で現れる。

 古い人形、美しい宝石、曰く付きの鏡……など。彼らが盗むものは様々だった。

 しかし、一つとしてそれは彼らの手元に置かれることはなく、元の持ち主の手元に返っている。彼らが盗んだ先は、元の持ち主たちから強引に奪った者だった。

 その様から誰かが言った、彼らは義賊なのだと。

 そして今宵も彼らはそろいの白と胸元の色違いの薔薇を携え、蝶のように舞うのだった。


***


 真っ白なマントとジャケット、スラックス、靴。薄暗い夜に、その格好は目立つことこの上ない。けれど、夜風になびく長いネクタイは深く濃い青で、彼らの胸元を飾る薔薇は色違いだった。

「『をちみず』!」

 周囲を警官に囲まれようが上空を包囲されようが五人は余裕そうに笑う。唸るようなパトカーのサイレンの音も下からする。

 ここは高いビルの屋上。逃げ場はどこにもない。

「これで追い詰めたつもりか?」

 寂しい夕陽色の少し長い髪をちょんと尾のように結わえた男が唇だけでニヤリと笑う。

「なにを!逃げられないだろう?!」

「あっはは!……本当に?」

 カラスのような黒い髪の男が八重歯を見せて笑った後、無邪気に問いかける。

「馬鹿だねぇ。これで逃げられないって言うなんて」

 銀色に輝く柔らかな髪を風に舞わせ、呆れたように男は言った。

「ふふふ、お馬鹿さんなんだから。ハッキリと言ってはかわいそうでしょう?」

 薄いカスタード色の髪を梳きながら男が楽しそうに言う。

「さあさあ、楽しいShowの始まりです!」

 赤い髪が白によく映える男がそう言って人差し指と中指で挟んだカードを取り出した。くるりと集まった警官側を向くとそれはカッと眩く光った。警官たちが思わず視線を外したその一瞬の隙を狙って、彼らは駆け出す。

 警官たちの後ろまで駆け抜けると、非常階段から身を投げた。高さ三十メートルほどの高さのビル。落ちれば怪我は免れない。それでも躊躇なく飛んだ。

 警官たちが気付いた時には、彼らはビルの下にいた。その頃には周囲に溶け込むような警官服で、包囲網をみるみる間にぬけていく。

 その先、停めていたワンボックスカーに乗り、変装をとく。彼らは表の顔がそれなりに有名で『をちみず』のときだけ髪色を変えていた。

「これ、届けるんでしょぉ?」

 淡い青の目の青年がそう言ってポケットから小さなカフスボタンを取り出す。丁寧にジップロックにしまわれたそれには傷一つついていない。

「安全運転で頼むね〜」

 のんびりと紅の目を細めて青年が唇だけで笑う。後部座席をゆっくりと後ろに倒し、もはや寝る準備をしていた。

「分かってます」

 深いアメジストの目をした若い男がハンドルを握る。その隣の助手席には少し淡い紫色の目の青年が座っている。

「それじゃあ行こうか」

 深い緑の目をした男がニッと笑う。その笑みに今夜の作戦が成功したことを彼らは悟った。


 怪盗『をちみず』の正体は若い日本人の青年たちだ。

「喜んでたな!」

 にぱっと笑う緑の目の青年が上丘新(かみおかあらた)

「まあ、そうでしょうねぇ」

 コーヒーを飲みながらやって来た淡い青の目の青年が古道懐(こどうなつき)

「僕も嬉しいよ。正しい持ち主の元に戻って」

 淡いアメジストの目を細めて言った青年が完美謡(なるみうたい)

「もうっ!祭兄さま!寝てないで起きてください!」

 キャンキャンと子犬のように吠える深いアメジストの目を持つ青年が名来光(めいらいひかる)

「や~だ〜。俺は眠いの〜」

 紅の目を眠たげに閉じた青年が安東祭(あんどうまつり)

 この個性的な五人組は、行く先々で演奏会をやってお金を稼いで生活をする。たった五人でもオーケストラを作れることを可能にするのが新の特殊能力だった。

 部屋に置かれていた楽器ケースから楽器を取り出す。懐はバイオリン、謡はチェロ、光はハープ、祭はティンパニーだった。ハープとティンパニーに関しては移動が面倒なので部屋から弾くことにしている。

「さて、行こうか」

 新はシンセサイザーを持ってそう言った。その足でバタンッと窓を開け、広くないベランダにシンセサイザーを置く。懐と謡はもう既に下におりていた。

「Are you ready?」

 ベランダの近くにティンパニーとハープが置かれ、それぞれが配置につく。下にいる謡と懐が頷いた。新の背後にいた祭と光も頷いた。

 新はシンセサイザーの音を小さく出した後、確かめるように一つのフレーズを演奏した。その音が消えるより早くハープがメロディーを引き継ぎ、バイオリンとチェロが参加した。

 シンセサイザーが伴奏をする中、ティンパニーがリズムをとる。まだ楽器の音は五つしかない。しかし次の瞬間、それが覆る。

 どこからか美しいフルートの音が聞こえてきた。さらにビオラやトロンボーンなどが加わってくる。世界はどんどん鮮やかに、そして重厚感を持っていく。あっという間に彼らの演奏はオーケストラのようになった。たった五人で出来るはずがないオーケストラ。それをいとも簡単にやってのけたのだ。

 あちこちで手拍子や笑顔が咲く中、新もとびっきりの笑顔を浮かべた。それが彼のパフォーマンスだった。


 ーー楽団『Blue Moon』。それが彼ら五人の表向きの顔だった。


***


「ねぇ、この前のカフスの子さぁ」

 懐はフライパンを振りながらそう言った。近くにいたのは祭だけで、新はソファーで寝ている。昼の練習で疲れてしまったらしい。光はお風呂に直行、謡はベッドの準備をしていた。

「どったの、な〜くん」

「いや。俺たちの前にタイミングよく現れすぎじゃないかと思って」

「タイミングよく……。まあ、そうかもね~。でも、俺たちは変装してたでしょ〜?」

 盗む獲物を決める時に、二つのパターンが存在する。一つが情報屋からの情報。そしてもう一つが世間話の延長で『強引に奪われた』ことを知ることだった。

 前者のパターンが多く、返しに行くときも慎重に向かうようにしている。もちろん、夜中のことなので誰にも会わない。

 しかし、前回のカフスボタンの時は違った。町の情報を聞いているうちに教えてくれた子の祖父の形見が強引に奪われたことを聞いたのだ。そんなことは滅多にない。

「ほら、新ってばメイクぐらいしかしてなかったでしょぉ?」

「あ〜、うん」

 たしかにあの日はオフだったので、五人はたいした変装をしていなかった。中でも新は軽く目元の印象を変えただけで、その美しいエメラルドはそのままさらされていた。まあ、黒いキャップとマスクで顔を隠していた懐や女性のようなメイクを施してナンパばかりされていた謡に比べれば軽装備だっただろう。

 けれど、そんなことを言われれば祭と光はメイクもしていなかった。一応マスクや帽子は身につけていてたが、新よりもずっとずっと危険なはずだが……。

「ほんと、な〜くんってあ〜くんのこと好きだね~」

「なっ……?!」

 違うから!と言う懐の頬は真っ赤だった。祭はくすくすと笑う。出会った時から彼ら二人はお互いのことが大好きで大切で掛替えのない存在として認知していた。初めの頃は羨ましく思って割り込んでいたこともあったが、今では懐をからかう方が祭にとっては楽しかった。

「んん……、よる……?」

 ソファーから聞こえたぽやぽやとした小さな声に懐が素早く火を止める。そしてフライパンをコンロの上に置いた後、足早にソファーに向かった。

「新」

「あっ、懐……。おはよぉ~」

 よいしょ、という声とともに起き上がった新は懐を見ながらそう言った。ことりと首を傾げるとサラリと音を立てて黒が肩を隠す。輪郭さえ隠してしまえばその小さな身長ゆえに新は女に見られることもあった。

「懐?」

「あ、おはよぉ。もうすぐ光がお風呂出てくるんじゃない?入ればぁ?」

「おっ、そっか。うん、じゃあ入ってこよっと」

「ふふふ、新は起きたの?」

「あ、謡!おはよぉ!」

 ベッドの準備を終えたのか謡がやって来る。身長が一番低い新は弾むような足取りで謡に抱きつくとふわっと笑った。

「ななっ、一緒に風呂入ろう!」

「ふふふ、僕と?良いよ、入ろうか」

 新が嬉しそうに笑う。『をちみず』と『Blue Moon』という居場所を得た新はその仲間を大切に思っているようだった。みんな大好きだ!と笑う新が簡単に思い浮かべられるほど、彼からの親愛の情が向けられている自覚が彼らにはあった。同じぐらい、いや、それ以上の気持ちを返せているかは分からなかった。

「お風呂いただきました」

「はあい。じゃあ、行きましょ、新」

「うん!」

 どこからか部屋着を持ってきた新は謡と共にお風呂場に向かっていった。

「いい?新には内緒だからねぇ」

「もちろん〜。念のため防犯システムを上げとくね~」

「ありがとう」

「ん〜ん。俺もな~くんの気持ち分かるし〜」

 新は純粋で何度も騙されかけては懐が助けている。

「それに極度の方向音痴だし」

 新は初めて行く場所はもちろん、何回か訪れた場所でさえ迷うのだ。なのではじめから一緒にいるようにしていた。そうすれば探す手間が省けるから。

「懐兄さま、夕飯はなんですか?」

「生姜焼きだよぉ」

「やりました!」

「キャベツ大盛りだけどねぇ」

 何気ない光と懐の会話を聞きながら祭はどう動くかを考えた。防犯システムを上げることは決定だが、それ以外にもできることはあるだろう。この前のカフスボタンの子についてもう少し情報を集める必要がありそうだった。

 くふくふと祭は笑う。人の動きというのはチェスに似ていた。自分や仲間がどう動いたらチェックメイトになるかを考えることは祭にとって楽しいことだった。

「祭兄さま!何がおかしいのですかっ?」

「放っときなぁ、光。祭はまた作戦練ってるだけだしぃ」

 懐はそう言って大皿に生姜焼きを盛り付けた。

「あの二人がお風呂から出てきたら食べようか〜」

「はいっ!」

 光の元気な返事を見て祭はまた小さく笑った。


「はあはあ、なるほどなあ」

 平日のお昼時、ファストフードチェーン店で待ち合わせをした目の前のスーツ姿の男、藤原天(ふじわらあま)は懐や新の友人で懐たちと同じだった。

 表の顔は普通のサラリーマンだが、その裏の顔はどんな情報でも取ってくる凄腕のスパイ。ハッカーとしてもかなり優秀で、懐に体術を教えたことからも彼のことをハッカーとは言い難い。

「そう。それでちょっと見てきてほしいんだけど」

「おやすい御用だぞお!俺に任せてほしい!」

 近所の人の様子でも見てくるよう頼む人たちのような会話で懐の依頼は終わった。

「ありがとぉ」

 ちょっと酸っぱいオレンジジュースを飲み干し、懐はため息をついた。天はにこにこと人が好さそうに笑っているが、その笑顔の裏で獰猛な牙を持つ獣を飼っているなど誰も思わないだろう。

 天は二重人格だ。表は快活とした青年、裏はぶりっ子の女。それぞれの人格で記憶が分けられているらしく、いつ人格が変わってもいいように付箋にメモを残しているらしい。

 それを見抜いたのは新が初めてだったそうだ。表と裏の言動は似つかず、足音で新に見抜かれた。それからだ、天が新に力を貸すようになったのは。

「ところで、一つ共有しておきたいことがあるんだけどぉ~」

「ふぅん、なに?」

 懐は飲み物だけ頼むのも憚られて買ったフライドポテトの指先についた塩をなめる。天はフライドポテトをつまんで飲み込んだ後、その目を一瞬だけ輝かせて言った。

「この前、『をちみず』が奪還したカフスボタンだけどぉ~、オークションにかけられたみたいぃ〜」

 ぴくりと懐が動きを止めたが、一瞬のことだった。懐はフライドポテトへと手を伸ばす。

「『をちみず』が取り戻した、ということで付加価値がついたらしいよぉ~。かなりの高値で売り払われたはずぅ~」

 天はそう言って画面を見せた。そこにはネットニュースの記事があった。

「これ、新たちは……」

「知らないと思うよぉ~?」

 知らない方が良い。

 これまで『をちみず』がやってきたことは不当に奪われた宝を取り戻すことだった。それは見るからに価値があると分かるため、強引にでも奪おうとする者がいて、泣き寝入りの被害者のために取り戻すが、それが『悪』に変わるかもしれない。懐はそれが怖かった。

「それとぉ、祭さんに言われて買ったお土産があるんだけどぉ~」

「分かった。渡しとくよぉ」

 懐が箱を受け取ると天は朗らかな笑みを浮かべた。もうすっかり表のようだ。コロコロと表と裏が変わるあたりは懐にとってはなれないことだが、懐にとって天は友人で、大切な人だった。

「助かるぞお。それじゃあ、俺はそろそろ行くかなあ」

「色々とありがとぉ」

「今度は新さんも一緒にランチしようなあ」

「新に言っておくよ」

「うん!それじゃあ、また」

 天は食べかけのフライドポテトをかっさらい、店を出ていった。懐は指先についた塩をなめた。

「しょっぱ……」


 それから『をちみず』はテンからの情報以外では怪盗をしなくなった。この前のカフスボタンのようなことをもう二度と繰り返してはいけない。それを新だけは知らないままだった。

 あっという間に半年が過ぎ、彼らの表も裏も順調に活動をしていた。

「なあ、明日の演奏会なんだけどさ」

「どしたの〜?もしかして中止したい〜?」

「熱でもあるの?」

「大丈夫!オレは元気だ!」

 新はそう言って笑う。その顔がいつもと同じだったから祭と謡は胸を撫で下ろす。

「んん?じゃあどうして?」

「曲を変えたいと思ってさ。意見聞いても良い?」

「うん、いいよ~」

 新はそう言って二つの譜面を見せた。一つは懐が担当するバイオリンと光の担当するハープがメインの曲、もう一つがシンセサイザーメインの曲だった。

「珍しいね〜、シンセメイン」

「ああ。でも、オレもやってみたくなっちゃって」

「こっちのハープとバイオリンがメインの曲は綺麗なものだね」

「そう!だから迷ってて!」

 演奏会の曲は全員で決める。それぞれがやりたい曲を持ち寄ることもあれば、季節などを考えて選ぶこともある。ちなみに新は聞いた曲を譜面におこすこともやるため、かなり重要なポジションだ。

「これはひ〜くんとな~くんの意見も聞いてみた方が良いかも〜」

「だよな~。あ~あ、なんで今日二人はでかけちゃったんだ?」

 懐と光は家族に会いに行っている。滅多に会えないから行けと謡も祭も悩んでいた二人の背を押した。

「まあまあ〜」

「僕たちがいるじゃない」

 落ち込む新を慰めながら祭と謡は顔を見合わせた。出かける前、懐が新を見ていてくれと言っていた。祭と謡は新の身を守るために残された護衛だった。

「あ、じゃあ俺たちだけで練習しようよ~」

「そうだね。僕もぶっつけ本番よりは良いかな」

「そっか、それもそうだな」

 新はそっと窓とカーテンを閉めた。各国にある『Blue Moon』の滞在場所は練習場も兼ねていたので防音仕様になっている。

「ちょっと楽譜見せてね~」

 祭は楽譜や図面などの図を覚えることが得意で、その図を忘れない。パラパラと楽譜を全部見た後、その楽譜を謡に渡した。

「新は大丈夫なの、楽譜見なくて」

「まあな」

 にっこりと笑った新はシンセサイザーなどの楽器を用意していた。祭のティンパニーはどちらの曲でもあまり音がないため、今回はバイオリンで参加するらしい。

「ど?終わった?」

 調音が終わったかを聞かれて祭と謡は頷いた。謡の前には譜面台がある。ある程度は頭に入れたが、実際にできるかどうか自信がないといったところだろう。

「じゃあ、ハープとバイオリンのからいこっか」

 謡と祭がうなずく。新はリズムを刻むと祭に合図を出した。この曲はバイオリンから始まり、ハープ、チェロ、とうつった後、バイオリンとハープの追いかけっこが始まる。謡の担当するチェロも新の担当するシンセサイザーもその土台を支える役割を担っていた。

 美しいバイオリンの音だけが聞こえる。その後、ハープパートの時は新の特殊能力で音が入った。祭はシンセサイザーの前にいる新をじっと見た。

 ハープの音が少し弱まった。つまり、バイオリンのメインパートにうつったのだろう。祭は歌うようにバイオリンを奏でる。それまで追いかけっこしていたハープの音が一歩引いているからか、スポットライトを独り占めしているかのような気分になった。

 やがて、ハープの音が徐々に大きくなる。それはつまり、ハープが主役の時間が近いということ。バイオリンの音を少しずつ小さくしながら新を見れば、その唇は弧を描いていた。

 それを見て祭も口角を上げる。新が楽しければ自分たちも楽しい。それが、祭の中の感覚だった。

 そのまま、またバイオリンの音が大きくなってハープとの追いかけっこが再開された。似たメロディー、重なって、離れて、また重なって。楽しいと素直に思った。

 しかし、その音が突然プツンと途切れる。見れば新が部屋の扉をじっと見ていた。それを見て謡と祭は察する。

 新はイメージした音を出すことができるだけでなく、どんな小さな音でも拾える地獄耳を持っていた。ただし、全ての音を拾うと疲れるため、雑音として普段は聞き流していた。

「ただいまぁ」

「ただいま帰りました」

 部屋の扉が開いたその瞬間、新がパアッと顔を輝かせた。足音で分かっていたがやはり嬉しいのだろう、シンセサイザーからはなれ、懐と光を迎える姿は子犬のようだ。尻尾が見えたならぶんぶんっと勢いよく振られているだろう。

「おかえり!おばさん元気だった?」

「まあねぇ。今度は新たちも連れてこいなんて言われちゃったよぉ」

「皆さんに会いたいと言ってましたよ!」

 光がにっこりと笑ってそう言えば新がパアッと顔を輝かせた。

「やった!じゃあ今度行こうな!みんなで!」

 明るく放たれた言葉に謡が救われていると新は知らないのだろう。うっすらと潤んだ淡い紫の目に祭だけが気付いていた。

「それより、アンタたちは何してたの?」

「あ、明日の演奏会の曲を選んでて。どっちが良いかってことで簡単に練習してたんだ」

 謡が楽譜を懐と光に見せる。二つの譜面を見た後、懐は新の目を真っ直ぐ見て言った。

「シンセメインが良いんじゃない?」

「え?」

「新メインの曲って少ないでしょぉ?だからこそお客さんも聞きたいと思うんだよねぇ」

「私も聞きたいです!」

 光は目を輝かせる。懐の従兄弟である光は小さい頃から懐とよく一緒にいた新に憧れていた。

「僕も賛成だよ。新のこと、ただの複数楽器担当者だと思ってる人もいるし、ここで新はすごいんだぞって言っておきたいし」

「う〜くん、そっちがホンネじゃん~」

 祭に指摘されて謡が真っ赤になる。新は目を丸くしていたが、嬉しそうに、少しはにかむように笑った。

「えへへ、じゃあこっちにしようか!」

 新はシンセサイザーメインの楽譜をとると懐たちの顔をぐるりと見た。反対の色はなかった。

「明日はこれを最後にやるぞ」

「おっけ〜」

「それでは早速譜面を覚えちゃいますね」

「三十分後に全体練習ねぇ」

 懐の言葉に光が驚いていたが新も祭も頷いていた。この譜面で一番大変なのはシンセサイザーの新だけで、他の楽器は繰り返しが多く、それほど難しくないのだった。

「できるよねぇ?」

「は、はい!」

 光は震え上がりながら譜面を持って楽器の元に駆けていった。


 その演奏会は『Blue Moon』ファンにとって伝説の演奏会となった。今まで一度としてメインにならなかった新がメインとなる曲が演奏された。それを聞いた者は『Blue Moon』のリーダーはやはり新しかいないと思い、その技術力に惚れ直した。

 演奏会のDVDは過去最高の売上をほこり、『Blue Moon』は時の人となった。


***


 その夜の獲物は砂時計だった。美しいアンティークの砂時計は美術館などに飾られていても不思議じゃないものだった。それを前にコウは少し考える。これは本物なのか、と。

 数日前、テンが『Blue Moon』の部屋にやって来た。扉のノックは五回。それは『をちみず』の活動の合図だった。

「ロクに価値も分からない老夫婦から十万で買い取ったものだよぉ~」

 画像を見せてくれたテンはそう言う。かわいらしいゴスロリのスカートが揺れた。

 小さな砂時計だが装飾はもちろん、中の砂粒さえ美しい。普通にオークションに出せば一千万の値がついただろう。

「正当な対価じゃないってことか」

 新はそう言って懐を見た。懐はじいっとそれを見ていた。

「そうだねぇ~。だから、正当な対価を払ってほしいと老夫婦の息子が訴えているんだけどぉ~、どうもうまくいっていないらしいよぉ~」

「だから奪還するってことぉ?」

「『をちみず』の出番でしょぉ〜?」

 そう言ってニヤリと笑ったその顔は天とは似ていない。相変わらず見事な変装だ。

「そうだね~。家の図面とかは?」

「もちろん〜」

 テンは一枚の紙を出した。そこには屋敷が描かれていた。立体図も平面図もあった。祭はそれを見ながら警備の配置を考える。

 謡はその屋敷の警備員の服などを確認している。逃げる時にはそれを身に着けるからだ。一瞬で着替えなどをする特殊能力を持つ謡ならではだった。

「あの、私はーー」

 光は特殊能力も持たない一般人だが、幼い頃から良いものに囲まれて育ってきた彼の審美眼は信頼できるものだった。新はそれを見抜いていた。

「懐、そろそろ光に実行を任せても良いんじゃないか?」

 新の言葉に驚いたのは光だけだった。実は懐も祭もそろそろ光に実行を任せてみようと考えていた。

「そうだねぇ」

「ふふふ、僕がサポートするよ。だからやってみないかい?」

 懐と謡から言われて光は大きく頷いた。今まで実行役は小柄で身体能力の高い新だった。光は新よりも身長もあるし、筋力や素早さは少し劣る。それでも任せたいと彼らは思っていた。

「じゃあ、今回はオレが光の担当で良いか?」

「あはっ、じゃあ俺とだね〜」

 祭がそう言って顔を上げる。その紅い目がキラリと輝いた。嬉しさがじわじわと滲み出ていた。

「そうだねぇ。じゃあ、俺が人目を引いて謡が光のサポート。祭と新で脱出経路の確保」

「うん、大丈夫だよ」

「私にできるでしょうか……」

「大丈夫!オレと懐でみっちり教えるから!」

 その言葉に光は死ぬかもしれないと思った。小柄ですばしっこい新はまだしも、体術を極めつつある懐との特訓は倒れるまでやること確定だ。実行役にはそれなりに危険が伴うため、対処法を知っておいて損はないからだ。

「じゃあ、お願いしますぅ~」

 テンはそう言って部屋を出ていき、彼らは顔を見合わせて小さく笑んだ。

 というわけでコウが実行役になったのだが。

「一番大切なのは本物であることだよぉ」

 捕まりそうな時の対処法をいくつか教えてもらったが、カイはそれよりも獲物の確かさを何度も口にした。その理由が、予告状によって偽造品と取り替える可能性もあるからだ。

 もし偽造品を盗ませた場合、爆弾やその他の危険物が入っている可能性は否定できない。全てこちらで確認するわけにもいかず、元の持ち主が被害に遭う可能性がある。

「偽造品かもしれないと思ったら盗らないで合図を出すこと」

 そう言って懐はコウに偽造品の場合の合図をした。コウはもう一度、砂時計を見た後、カイから教わった偽造品の合図をした。

 その瞬間、頭上の窓ガラスが割れ、コウの腕に鞭が絡みついた。一秒後、ぐいっと引き上げられ、コウは部屋を脱出した。

 屋根にヨウは潜んでいて、合図を見て脱出させたのだ。もし自力で出ようとしたら、なにか罠を発動させてしまうかもしれないからだった。

「偽物だった?」

「はい」

「うん、じゃあ行こう」

 そのまま待ち合わせ場所に行くとサイとカイがいた。しかしシンの姿はなかった。

「あれ、シンは?」

「なんかね~、忘れ物って」

「まあ今回は急いでないから良いけどね」

 サイの言葉にカイも頷く。シンはこうと決めたら何があってもやるような性格だった。

「まあ、すぐ来ると思うけど一応人目を引いといてよ。カイだっけ、担当」

「はいはい。シンが戻ってきたら教えてねぇ」

 カイはそう言ってわざとたくさんの警官がいるところへと躍り出た。そして始まる警官との鬼ごっこ。カイは蝶のように舞う。あっちへひらり、こっちへひらり。その舞いが美しいせいで『をちみず』はダンサーではと噂が立った。疑われたダンサーたちには申し訳ないが滑稽で面白かった。

 警官たちが束になっても『をちみず』の一人だって捕まえられない。それは警察という組織に泥を塗るどころか、投げつけたことと同様である。

「ほらほらぁ、俺さえ捕まえられないなんて駄目だねぇ」

 カイがくすくすと笑いながらかわしていく。それを隠れながら見ていたコウは尊敬の目を向けていた。

「憧れちゃう?」

「はい」

「まあ、カイは格好良いからね」

 ヨウはそう言ってカイを見る。細いその身体には綺麗に筋肉がついている。カイーー、いや、懐という人間は己のためではなく、他者のために追い求めることができる人だった。

「すまない、遅れたな!」

 そこへひょこっとシンが顔を出す。少し潰れた白いシルクハットを直したらサンキュー、と返した。

「じゃあ合図するね~」

 サイはそう言うとスッとポケットから煙玉を取り出すと一瞬で火をつけて放り投げた。煙玉はコロコロと転がり、シュウウウと音を立てて勢いよく煙を吐き出した。カイはそれを見てニヤリと笑った。マントを大きく広げ、ゆったりと一礼して煙に紛れて戻ってきた。

「おかえり!」

「アンタねぇ……」

 のんびりとカイを迎えたシンに詰め寄ろうとしたが、今はそんな時間すら惜しい。素早く身を隠した後、ヨウの特殊能力で一瞬で変装が完了する。

「さ、紛れよう」

 ふわりと笑ったヨウは平凡な男に見えた。一瞬で服装を変えるなんて特殊能力は珍しいものなのに。

「くそっ、どこに……!」

「探せ!くまなく探せ!」

 五人は探すふりをしながら遠くへと逃げて行く。警官の服であれば事件がない中、街中を動き回っていても怪しまれなかった。


 家に最初に着いたのは光だった。いくつか角を曲がってできるだけ複雑な道を選んだとは言え、比較的最短ルートで帰ってきた光が真っ先にやったことはお風呂の準備だった。お風呂があれば全て浄化されるような気がした。

「お疲れ様。お風呂はどう?」

 それから十数分して帰ってきた謡は光にたずねた。光がもうすぐわきますと言えば準備をしようと言い、それぞれ部屋に戻って着替えを持ってきた。

「おつ〜。あ~、大変だった〜」

 お風呂がわく頃に帰ってきた祭はソファーにぐったりと横たわった。彼曰く、何故か追いかけられてまくのに時間がかかったのだそう。

「普段のアイツらならまかれてくれるのにな〜。もしかしたら何か変わったのかも〜。探ってみようか」

 明らかに警察の動きが良くなっている。祭がまくのに手間取ったならば新の方向音痴を心配して一緒に逃げている懐と新もそうかもしれない。

「俺が連絡くるか見とくから二人は入っておいで〜」

 祭はそう言って光と謡の背を押した。しかし、光は浮かない顔をして祭を見た。

「ですが、私の方が下っ端ですし……」

「ふむ、だからだよね」

「え?」

 謡が肯定したことで祭が口角を上げた。

「そう。あの二人がどこにいるか、そこからどう逃げれば良いかをひ〜くんがアドバイスできる〜?できないよね~?」

 光はその言葉にハッとする。正体がバレるかもしれない危険を冒してまで電話する理由は何か。彼らは助けを求めているのだ。自分たちだけではどうにもならないから。

 その場合、光では何もできない。だって光は地図を全て覚えていないし、警官の動きを予測できない。全て覚えている上に警官たちの動きを読むことができるのは、『参謀』の祭だけだ。

「……分かりました」

「それにほら、僕たちは今日、疲れたでしょ?祭の言うことは最もだし、疲れをとるためにもお風呂に入らなくちゃ」

「分かっています」

 光が少し拗ねたように口を開く。そのかわいさに謡は頬を突き、祭は髪をくしゃくしゃに撫でた。

「も、もうっ!私は先に入ってます!」

 光は怒ったような顔で脱衣所に駆け込んでいった。二人は顔を見合わせて小さく笑い合った。

「それじゃあ、よろしくね」

 謡はそう言って光の後を追いかけた。祭は眠たげにあくびをした後、隠していた携帯電話を見た。そこには先ほど受信したメッセージが表示されていた。

『ごめん。ヘマして帰れないかも』


 カイとシンは路地裏を駆け抜けていた。

「なあ、なんかおかしくないか?」

「なにがぁ?」

 二人はかれこれ一時間ほど追いかけっこに興じていたが息が一切乱れていない。しかし、いつ終わるか分からない追いかけっこに辟易としていた。

「もしかして、発信機でもつけられてるんじゃないか?」

「それは思ったけどねぇ」

 かと言って白い服を捨て置くわけにもいかない。あの服には指紋も汗も染み込んでいて持ち主が特定される可能性が非常に高い。

「まあ捨てられないもんな」

 シンはため息をついた。かと言ってなにか解決策があるわけでもない。

「サイには連絡したか?」

「まだだよぉ。さすがに逃げるので精一杯だってば」

「じゃあ、オレがちょっと時間稼ぎしとくからよろしく」

 そう言うとシンは足を止め、素早くしゃがみ込んだ。そして目を閉じると頭の中でイメージした大きな音を、警官などの自分たちを追ってくる相手を対象に流した。

 遠くで足音が乱れる。走っていたものだったので追手だったのだろう。

 ぐっと踏ん張ってもっと大きな音をイメージする。車の衝突音、ガラスが勢いよく割れる音、鉄砲の音、爆発音……。

 その瞬間、シンの頭に壊れた家々が浮かんだ。それは触れるだけで砂に変わるような脆いものへと変わっていた。嘘だと口にしながら駆けた先、崩れ落ちた家のそば。そこに転がっていた真っ黒に焦げた塊は、触れるだけで煤へと姿を変え、ボロボロと崩れて壊れてしまった。それは、新にとっての大切な人のはずなのに。

「……かぁさ、」

「シン!」

 ガッと肩をつかまれ、揺さぶられる。それによってシンはハッとする。淡い青の目がまっすぐシンを見ていた。

「大丈夫だから。ここはあの場所じゃないから」

 ガタガタと震えるシンをカイは抱きしめた。ある時からシンは大きな音が怖くなった。それがあの事件のせいであることは明白だった。それは今でもシンの心の奥深くに突き刺さり、未だに止まることなく赤い血を流し続けている。

 カイには何もできない。過去に戻って事件を阻止することも、シンの心を救うような言葉も持っていなかった。シンが猫可愛がりしていた、幼い妹の命を取り戻すことも。

 けれど、こうなった時にシンのそばにいることはできた。明るく元気に振る舞う反面、本当は繊細で弱くて脆い愛しいシン。このままカイに全てを委ねて、二人して堕ちてしまいたい。

 どこかでカイはそんな風に思っていた、実行はしなかったし、これからもすることはないけれど。

「か、イ」

 見ればシンは泣いていた。新とシンがまざったような、幼い子どもの顔。カイは自分に特殊能力があれば、とこれほど願ったことはなかった。そうすればシンの涙を拭うことも、この状況から脱することもできたはずなのに。どうして自分には、後悔しか詰まっていかないんだろう。

 カイはシンを抱き上げる。もはや動く気力すらないのかシンは何も言わなかった。カイはマントでシンをおぶる抱っこ紐を作り、シンをおんぶした。立ち上がって周囲を見る。

 人影はない。まいたのだろうか。カイは持っていた私服に着替えるとシンに軽くメイクを施し、私服をテキトーに着せて街に降り立った。そしておんぶしたまま家に向かって歩き出した。


***


 あの日から一週間経った今も新は寝込んだままだった。その間に警察に協力者がいることを掴んだ。それが怪盗専門というわけでもないが、逃走経路の推測や事件解決などに貢献するという実績があり、とても頭が良いらしい。

「ソイツのせいってことね〜」

 祭はそう言ってため息をついた。

「まあ、これから要注意ってことで」

 謡はそう言いながらも心配そうにベッドを見た。ベッドでは新が顔を真っ赤にして呼吸も荒く、苦しそうに眠っていた。

 熱が出てすぐに医者に診てもらったが精神的なものだと言って解熱剤は出されたが、彼らからすれば大したことはないと言われたも同然だった。

「苦しそうだね〜」

「かわってあげたいくらい」

 謡と祭は不安そうにベッドを見るだけで決して近付こうとはしなかった。その理由は新自身にあった。誰かが近付くとごめんなさい、と謝り続けるのだ。それがなかった懐だけがそばに行くが、その懐もずいぶんと辛そうだった。

「あの、お粥です」

 光がトレーに乗せた土鍋を見せる。懐がそれを受け取ってベッド脇の低い机の上に置く。それから布団にくるまっている新の肩を弱く揺さぶる。

「あらた、ご飯だよぉ」

 何度か優しく声をかければ新はゆっくりと目を開け、緩慢な動きで座り、懐にご飯を食べさせてもらった。七割を食べたあたりで新からストップがかかる。懐は新の頭を優しく撫で、水などを飲ませ、苦い薬をぶどうゼリーに包んで飲ませ、濡れたタオルで汗を拭き、新しい寝間着を着させた。

 甲斐甲斐しい世話にも関わらず、新はぼうっとしていて懐を認識できているかすら怪しい。キラキラと輝くエメラルドは濁り、どこか遠いところでも見据えているかのようだった。それは神託を授ける巫女か、はたまたガラス玉を埋め込まれた人形のようだった。

「あらた、大丈夫。ここはあらたの居場所だよぉ」

 その言葉にも新は反応しない。それでも懐は声をかけ続けた。

「ゆっくりお休み」

 返事はないけれど、新は懐のその言葉を聞くと布団に戻り、それから目を閉じる。意思疎通はできなくても生きている。こちらの言葉が届いている。それだけでも彼らにとって嬉しかった。

 ベッドから懐が戻ってくる。トレーに乗った土鍋のお粥は冷めきっていた。けれど、残すことは勿体ないと彼らはそれと自分たちのお昼ご飯を食べるべく、リビングに向かった。

「少しずつ食欲は戻ってきてるみたいだねぇ」

「それは良いことです。ただそろそろお粥だと飽きてしまうかと」

「うどんとかどうかな?ちゅるっていけて楽じゃない?」

「うんうん。う~くん、さすが〜」

 なんとも緩い会話だが彼らはいたって真剣だ。新がいないリビングは広くて寒々しているし、楽器たちも寂しそうだ。特にシンセサイザーは新が弾くことをいつだって待っているような雰囲気を漂わせている。

「そう言えばそろそろだよね、演奏会」

「新があれじゃ無理でしょぉ?」

「あ~くんなしじゃできないし」

「ですがそろそろ練習しなくては……」

 光が不安そうに懐と謡を見る。弦楽器は弾かないと音が出なくなっていく。まだそれほど期間が空いていないとはいえ、勘が鈍ったりすることもある。

「だとしても一人じゃ寂しいでしょう?」

 謡はそう言いながら、平皿を置いた。ふわりと広がるソースの匂いに光のお腹が鳴った。真っ赤になる光を見ながら祭は促した。光が懐を見れば頷いた。光は箸をとって食べ始めた。

「だったら新の前でやろう」

「え〜、な~くんホンキ?」

 ぶすくれた顔で祭が聞く。祭は心配しているのだ。

「新なら聞いたら俺たちって分かるかもしれないでしょぉ?」

「でも、それーー」

 分からなかったら辛いよね、とは謡は言えなかった。懐の目はそれを覚悟していた。痛くても辛くても可能性のある方へ。それが古道懐という男だった。

「分かった。それじゃあ、午後に早速やろう」

「ふぁあ、ふんひひまふへ(じゃあ、準備しますね)」

 もぐもぐと焼きそばを口に含んだまま光が言う。懐はスパーンとその頭を叩いた。光はしゅんとする。

「光ぅ〜?」

「はい、ごめんなさい」

 口の中を空っぽにして素直に謝る光に懐は頬を緩めた。

「それじゃあ曲を決めなきゃだね」

 謡はそう言いながら焼きうどんを置く。それは懐と謡の分だ。

「曲だけどぉ」

 焼きうどんを一口食べてしっかりと飲み込んでから懐が口を開く。

「シンセはどうするぅ?」

「……祭、弾けたっけ?」

「一応ね~。でもあ〜くんと比べると全然だよ~」

「シンセはなしの方が良さそうだねぇ」

 懐の言葉は悲しそうだった。シンセサイザーはそれ一つで様々な音が出せる。祭がやっているティンパニーだってやろうと思えばできる。けれど新が祭にティンパニーを任せるのは、祭がティンパニー専属じゃないからだ。ティンパニーの出番が少なければ弦楽器や管楽器にシフトチェンジする。基本的な楽器は弾けるという祭の特技のなせる技だった。

「あの、あえてシンセメイン曲をやりませんか」

 やいやい言って盛り上がっていた彼らにそう言ったのは光だった。ハープ担当の光は祭と違って弦楽器や管楽器はできない。譜面を読むこともメンバーの中では比較的遅い。

「シンセのパートを私たちで分けるんです。このままじゃシンセのパートがなくなっちゃうぞって、やるんです」

 光はぎゅっと握り拳を作った。努力しても到底追いつけないぐらいのところに彼らはいる。

「私は、新入りに奪われると思ったら嫌です。そこは私の場所だと叫ぶでしょう。新兄さまもそういうお人でしょう?」

 子どもっぽくて負けず嫌い。新はたしかにそんな人だった。

「……ははっ、良いね!僕は賛成だよ!」

「俺も〜。あ〜くんの魅せ場なんて奪っちゃうよ~」

「懐兄さまは、どうですか?やっぱり、嫌ですか?」

 ずっと沈黙していた懐を見れば、彼の肩が震えていた。身体も小刻みに震えている。懐はバッと顔を上げる。

「ううん!最っ高!良いねぇ、それ!」

 その目はギラギラと輝いていた。やるからには本気で。そう言っているかのようだった。

「ええ、ええ!コテンパンにしてやりますよ!」

 にっこりと光が笑う。その顔は懐にそっくりで、さすが従兄弟だと祭は思った。

「それじゃあ、振り分けを決めるねぇ」

 懐はそう言いながらいそいそとシンセサイザーメインの楽譜を取ってくるとシンセサイザーの楽譜を見ながらパートを割り振っていく。

「光はここと、こっちで」

「俺、ここやりたい〜」

「じゃあ僕はここかな」

「あまりは俺ってことねぇ」

 彼らはイタズラを仕掛ける子どものように笑うと静かに楽器たちを振り返った。楽器たちは持ち主たちが楽しそうなことに気付くとどこか嬉しそうに笑っていた。


 濁った水の中を揺蕩っているような、そんな感覚に包まれている。新が気が付いた時、それだけが五感の中でハッキリしたものだった。

 目も開けているはずなのにほとんど見えない。頭はぼうっとして身体が熱かった。どうしてこうなったか考えようとしても考えもまとまらない。何度かやってみたが、うまく形にならずに消えた。それならいっそ、もう一度眠ってしまおう。

 そう思って眠った後、どれくらいの時間が経ったかは分からないが、再び意識が浮上した。自然と起きたのではない。肩を弱く揺すられて、その振動で目が覚めた。

 しかし、目は相変わらずほとんど見えない。白いモヤでもかかっているようにちょっと先さえも見えなかった。これまでもそうだったかと自問自答したが、ハッキリした答えは出なかった。

「……らた、」

 その時、耳が音を拾った。耳障りの良い声だ。新は声のした方をゆっくりと見る。しかし、そこにいる人影しか見えず、誰がいるのかは分からなかった。

「、ぃじょ……。こに、ぃないか、」

 優しい声だ。無意識のうちに強張っていた肩から力が抜ける。この人は自分に危害を加えない。そう思った。新はよく分からないが、この声の人に信頼を寄せることにした。

 それからその人は新にご飯を食べさせてくれた。ドロドロに溶けたお粥とも言い難かったが、薄味でじんわりと胸を満たすそれは美味しかった。

 しかし、新は多くは食べられなかった。二口、三口ほどで気分が悪くなってしまい、頭を左右に振った。それだけでフラフラする頭に嫌気が差したが、ぽふっと温かなものが頭に触れた。

「ょく、べたねぇ」

 えらいね、と言うようなほにゃりとした声。褒められていると新は思った。褒められるなんて幼い頃以来だ。最近はあまり褒められることもなくて、できることが当たり前で。本当はできないって叫びたいのに。

 そう。だからあの時、動けなかった。あの一言が胸に刺さって、自分のやっていることが本当に正しいことか分からなくて、それからずっとネガティブなことばかり考えてーー。

 ふと目の高さに紫色の物体がいる。よく分からないけれど、食べ物らしい。鼻をくすぐったのはブドウの香り。毒じゃないことが分かり、新は素直に口を開けた。

 つるんとしたゼリーはあっという間になくなった。もっとちょうだいと口を開ければ、再びゼリーが口の中に入った。それを飲み込んだらもう一度頭を撫でられた。

 それから服を脱がされ、温かいタオルで汗を拭かれ、新しい服を着させられた。

「ぉやすみ」

 そっと横にならされ、布団をかけられる。ぽんっぽんっと胸元を優しく叩かれた。

 目を閉じればあたりは真っ暗になる。けれど不思議と怖くなかった。きっとこの人のおかげなんだろう。この人なら、怖い夢を追い払うどころか、たとえ怖い夢だとしても手を引いて歩き、ハッピーエンドまで一緒にいてくれるだろう。そんな安心感に包まれて、新は眠った。

 そんな感じで同じことを何度も繰り返した。少しずつ耳がハッキリとした音を拾い、新に食事をくれる人が『なつき』だと知った。舌の上でその三文字を転がす。なんとなく馴染む音だった。たぶん、何度も呼んだのだろう。

 しかし、新は声を発することすらできなかった。細く開いた窓から中に入り込んでくる風のような音しかしないのだ。だから名前を呼ぶこともできなかった。それでも『なつき』が新のために心を砕いていることが分かった。彼はたくさんのことを話してくれた。

 『ひかる』という従兄弟がいること、『まつり』という怠惰な人がいること、『うたい』というお兄ちゃんみたいな人がいること、自分たちは楽団をやっていること。どれも新は知っているような気がした。けれど、声も出ない上にうまく伝えられる自信がなくて黙っていた。

 ふと綺麗な小さな音を耳が拾う。不思議に思って身体を起こす。音は部屋の中からはしない。どうやら外からするようだ。

 新はずりずりとベッドの端までにじり寄るとその端から転げ落ちた。しかし身体は痛くない。よくよく見ればクッションが敷き詰められていた。どうやら新がベッドから落ちても大丈夫なようにしていたらしい。ゴロゴロと敷き詰められたクッションたちの上を移動する。

 ここにきてある程度の視力が戻ってきていた。なんとなく開いているところめがけて転がれば、それは扉のようだった。普段は閉まっているはずのそれが少しだけ開いている。ちょっと手で押せば、隙間は大きくなった。どうやら開いたらしい。

 四つん這いになって新は部屋を出た。廊下は冷たく、熱い新にとってはちょうど良い温度だった。音が聞こえる方へ、まるではじめから知っていたかのように。

 長い廊下の先、ほんの少し開いた扉から中を覗けば、霞む視界に四人の人物が見えた。もっとよく見ようと目を細めた瞬間、頭と目の奥でぱちぱちっと星が弾けた。

 聞こえる音は四つ。バイオリン、チェロ、ハープ、そしてトランペット。しかし足りない。この曲には、もっとたくさんの音があったはずだ。それに、こんなでたらめなパート分けをしただろうか。

 ぐっと扉に手をかける。その瞬間、入ってすぐのところにキーボードのようなものが置かれているのが見えた。それはキラキラと輝いているように見えた。新は吸い寄せられるようにそばに行くと顔を上げた。

 今度こそハッキリと見えたその光景は、熱のある新を突き動かすには充分だった。四人が笑いながら演奏しているその中央には一つの譜面台。そこに乗せられた楽譜は、オタマジャクシのような音符をたくさん携えて鎮座していた。

 咳をするように一度笑うと新はシンセサイザーを鳴らし始めた。楽譜は覚えていた。当たり前だ。それはこの曲が新の初めてのメイン曲だから。

 新の音が加わると、それをずっと待っていたかのように四つの音がメインを譲ってくれる。スポットライトを浴びているようなジリジリとした暑さとわくわくが胸を満たした。それは、忘れかけていたステージの楽しさだった。

 あっという間に曲は終わる。それと同時に新は横に倒れる。

「新!」

 ゆっくりと抱き起こされ、新は淡い青の目を見る。ほにゃりと笑った新は掠れきった声で楽しかったと口にして目を閉じた。


***


 新はそれから劇的に回復した。一週間以上寝込んでいたのに三日で治していた。

 元気いっぱいにシンセサイザーを弾くところを見る限り、問題はなさそうだった。そう、表の顔は問題なかった。

「『をちみず』?」

 新は『をちみず』のことを一切覚えていなかった。『Blue Moon』の記憶はしっかりあるが、『をちみず』のことは一つも覚えていない異常事態。それでも彼らは新の前で動揺を見せなかった。むしろ、覚えていないことを無理に思い出させる必要はないと考えた。

 その理由はいくつかあったが、中でも彼らを決心させる大きな要因となったのは『をちみず』が取り戻した後の宝の行方だった。カフスボタンと同じことが多くおこっていた。それらの事実を突き付けられ、自分たちのしていたことが本当に善なのか疑問を持ったのだ。

 もちろん、善だと思ってやってきた。しかし、『をちみず』が危険を冒して取り戻した宝はそれまでの倍の値段をつけられて持ち主たちから買われている。『をちみず』が取り戻した、という価値が加わっていたた。

 だとしたら、『をちみず』の活動は無駄だ。元の持ち主たちのところで幸せになるのではなく、変わらずショーケースの中に閉じ込められ、狭い世界しか見られない。それならいくら盗み出しても変わらない。

 その結果、『をちみず』は活動を休止した。もちろんマスコミなどは連日ニュースで取り扱った。これまで一月に最低二回は盗んでいたがさっぱりなくなったから。

 しかし、どんなニュースもずっと大きく報じることはできない。日々事件はおきるし、有名人同士の恋愛も不倫も止まらない。どこそこの銀行でシステム障害が、どこそこの婦人が殺された、どこそこでおこった事件の裁判が、など。そんな中に『をちみず』の活動停止のニュースはあっという間に埋もれていった。

「うわぁ!広いな!」

 『をちみず』をすっかり忘れた新はそれまでよりも無邪気になった。よく笑い、よく眠る。本当に子どものようだった。それは、事情を知る懐にとっては満足に笑えなかった新の、子ども時代のやり直しのようにも思えた。

 新自身は家族を失ったあの事件すら覚えておらず、仕方なく、今は懐たちと『家族』に近い関係であると教えた。あの凄惨な事件を覚えていないなら、その方が良いと懐は祭と相談して決めた。

 知らないまま、今のまま。幻想でしかなくても、このままでいたい。懐の、新に傷付いてほしくないというエゴに似た行動に、否を唱えられるほど彼らは薄情でなかった。

「走ると危ないよぉ」

「思ったよりも広くてびっくりだね」

「ちゃんと音が届くか心配だよ〜」

「もうっ、祭兄さま!しっかり起きてください!」

 今は明日の夜の演奏会の会場でリハーサルをしようと会場にやって来ていた。今回の会場は広い。普段の演奏会でも会場はずいぶん広いが、今回は特にそれが顕著だった。

 一階、二階を使って作られた階段のような座席だけで七千人前後は入る。しかし、同じような座席が三階部分にもあり、こちらは三千人ほどが座れる。さらにその上はファミリー席、いわゆるボックス席だ。他のお客さんに迷惑をかけることもなく鑑賞できることで人気が高い場所だ。

「合計でどれくらいなんだ?」

「最高で一万人以上って言われているよ」

 ステージからの景色を楽しんでいた新の疑問に答えたのは謡だった。懐や光はセットリストやトークなどの時間の計算や演出についてスタッフと話し合っていた。祭は邪魔しない程度に音を出してチューニングをしていた。新の次に耳が良いのは祭であり、新には調音は難しいからだった。

「一万人以上か〜」

「んん?なにか気になるかい?」

「んーん。楽しみだなって思って!」

 新はにぱっと笑うと置かれたシンセサイザーに手を置く。シンセサイザーはスポットライトの光を浴びていつも以上に気合いが入っているように見えた。新が復活してから何度か共に演奏してきたが、それでもどこか誇らしげにシンセサイザーは鎮座している。

「ね〜ね〜、あ~くん」

「んん?」

「Aの音ちょうだい」

「ん」

 言われた新はすぐさま鍵盤を押す。ポーンとピアノのような音がする。

「ありがと〜。うん、良い感じ」

 そう言って楽器を変える。新はそれをそっと構えると即興で弾き始めた。たった一音だけで懐は自分の音とは違うと認識する。たとえ楽器が同じでも響きがちょっと違うのだ。懐の時はもっと慎重さが滲んでいるが新の時は大胆だ。

 弾むようなスタッカートもゆらゆら優しいスラーも全部ぜんぶ表現されている。楽しいところは楽しみ、ゆったりするところはゆったりするというメリハリのある演奏は、新らしさが滲み出ていた。

「あはっ、楽しそうだね」

 ーー僕もまぜてよ。

 謡がそう言ってハープへと手を伸ばす。ぽろろん、と音が揺れる。調律が済んでいるバイオリンは新の手の中、いつもの楽器は祭の手の中。謡があとできるのはハープかティンパニーだった。しかし新の演奏に打楽器で入ることは難しい。なにせ新は一人の時はリズムになんて縛られない演奏をするからだ。

 だからハープで乱入した謡はとても賢い。ハープならば音が優しいので仮にリズムが狂っていても誤魔化すことも容易い。もちろん、新だって一人じゃないと分かれば考えたりもするが、いかんせん夢中になると気遣う余裕すらなく、リズムのリの字すらない演奏になるのだ。

「ズルいです……」

 羨ましそうな視線を向ける光はそれ以上何もしなかった。光にはスタッフとの打ち合わせという重要な仕事がある。真面目な光はそれをほっぽって演奏に興じるなんてことはできなかった。

「まざってくればぁ?」

「……っ!で、ですが……!」

「気になるんでしょぉ?それに実力を試したいとか」

 懐がニヤリと笑う。光は悔しそうな顔をする。まだまだ勝てそうもない。

「咎めないから行っておいでぇ。俺一人でも充分だからさぁ」

 そう言ってハエを追い払うみたいに手を動かす。光はしばしそれを見ていたが、やがて口角を上げて頷いた。パッとステージに向かう背中を懐は目を細めて見守った。

「あの、古道さん」

「あぁ、はい。すみません、お見苦しいところを」

 ふわりと笑って懐は目の前のスタッフを見る。スタッフが顔を赤らめたのを見ながら耳から伝わる楽しい音楽に胸を踊らせた。


 『Blue Moon』はあちこちに行った。ロンドン、パリ、フィレンツェ、ベルリン。ヨーロッパなどをメインにしたツアー中、三回ぐらい演奏会をしたらすぐに次の国、といった移動スケジュールはただただ疲労が蓄積していくだけだった。しかし、夜以外は意外と自由時間があって観光まで楽しむ猛者もいた。もちろんそれは新ではない。

「ねぇ、パンが美味しそうなお店があってね。フランスパンが名物って言うから買っちゃったんだ。どう、これをラスクにしようと思うんだけど」

「う~くんってほんとう、楽しそうだね〜」

 一メートルは軽くあるフランスパンを抱えた謡は困ったように眉を寄せた。基本的に昼間に眠っている祭はせっかくの海外でも拠点の部屋で完結する。

 また、真面目な光は復習などの練習に時間を割くことが多く、基本的には練習室を根城としている。新に関しては懐や謡などがいない状態で外にはあまり出さないようにしているので楽しむ以前の問題である。

「僕ぐらいでしょ、楽しめるの」

「うん?」

「だってさ、美味しいパンとかスイーツとか紅茶とか。スーパーに行くと面白いものに出会えるし、街を歩くだけでも楽しいんだよ。ウインドウショッピング。僕の息抜きなんだ」

 ラスクを作る気なのか冷蔵庫から材料を取り出し始める。そんな謡は見て祭は目を閉じる。まぶたの裏には薄汚れた子どもがこびりついていた。

 それは憐れで愚かな子ども。楽器ができればお金を稼ぐことができると安直に考えた子ども。それが誰なのか、祭は知っていた。

「ねぇ〜、う〜くん」

「うん?」

「ラスク、俺も手伝うよ〜」

「本当?嬉しいな、ありがとう」

 パッと顔を輝かせた謡はもしかしたら『Blue Moon』の中で一番幼いかもしれない。祭が立ち上がると謡はさらに嬉しそうに笑い、ピンクのうさぎが大きく描かれたエプロンを取り出すと祭につけるよう言った。面倒だと思っても謡の言う通りにしておくべきと分かっている祭はエプロンをつける。

「それじゃあ、早速やろうか」

 腕まくりをして準備万端な謡はフランスパンを切っていく。それを見ながら他の準備をする。祭はなんとなく作り方を知っていた。

「あれ、なにか作るのか?」

「うん」

「ラスクだよ~」

「おぉ!ラスクか!」

 たくさんの紙を引き連れて新がやって来る。どうやら新しい曲の楽譜を書いているらしい。もちろん、何度も曲を聞いてバイオリン、チェロ、ハープ、その他のパートを作るだけであるが、これが難しい。どう作れば原曲の雰囲気を壊さないか、そればかり気にして演奏できない楽譜を作るわけにもいかない。さじ加減が難しいのだ。

「ちょうど甘いの欲しかったんだ」

「それは良かった。張り切って作らなくちゃね」

 にっこりと笑った謡はふわふわしていてかわいらしい。謡が扱う小物は全てかわいいもので統一されている。男であろうとかわいいものが好きだって良いじゃないという謡の主張だった。

「そういや、光は?ちょっとハープのパートで相談したいことがあって」

「練習室じゃない〜?いつもはそこにいるでしょ〜?」

「うーん、それがいなくてさ。懐もいないし変だよなぁ」

 携帯電話を取り出して連絡ないや、と新は呟く。二人は顔を見合わせて小さく頷き合った。いないということは二人で天に会いに行ったのかもしれない。

「散歩かもよ~。ねね、それより次の曲ってどんな感じ〜?」

「そうだね、僕も気になるよ」

「うん、次はポップなやつだ!できるだけ軽やかにしたいからハープは細かい音ばかりになりそうだ」

 新が書きかけの楽譜を見せる。たしかにそこには八分音符よりも小さなものが踊っていた。

「でもこれ、ハープの良さ消しちゃってない?」

「そう!そこなんだよなぁ」

 ハープの音は優しく繊細である。ポーンッと鳴ってからの余韻を楽しむような楽器だ。なのでハープの曲はゆったりしたものが多い。

「でもハープに伴奏をやってもらうにはちょっと……」

「そう!音が優しすぎて聞こえないと思って。だから細かい音を鳴らせるか、もしくは他の楽器なら何が得意かなって思って」

 どうやら重要なことだったらしい。しかし、光に細かい音を狂わず演奏できるかと聞かれれば少し難しい。繊細なハープを大切に扱いつつも的確に音を奏でることができるのは新ぐらいだ。光はまだその域に到達していない。

「ひ〜くん、弦楽器と管楽器はできないよね〜」

「そう言ってたね。じゃあ打楽器かな?」

「うーん、これ以上打楽器がいてもなぁ」

 新は楽譜をじっと見る。浮かない目をしている。新が書き下ろそうとしている楽譜は、五人で珍しく意見が一致して演奏会で演奏することが決定したものだった。

 しかし、その音符たちを見ていた目がパッと輝く。謡と祭はなにか閃いたなと思う。

「ねぇねぇ!謡も懐も打楽器できるよな?」

「まあ一応ね。祭みたいに専門にはしてないけどできるよ」

 謡の返事に新は目だけでなく顔も輝かせた。

「ありがとう!良いこと思いついた!」

 にぱっと笑うと五線譜に音符を書いていく。そのペンの速度はとても速い。目で追えていることが奇跡のようだ。

「なんだかんだ言ってる間にあとは焼くだけになったね」

「もうそこまでいったんだ〜」

 気付けばラスク作りも終盤だった。祭はエプロンを外すと丁寧に畳んで椅子に置いた。あくまでも謡のもので、大切にしているそれを乱雑に扱うほど無神経ではなかった。

「少し休憩しようか。祭はなにか飲む?」

「ん〜、じゃあジュース。たしか炭酸があいてたよね〜?」

「オッケー。僕もそれにしよ」

「いいよ~」

 祭から許可を得た謡は炭酸を二つのコップに注ぐ。紅が祭の、クリーム色が謡のだった。おそろいのコップはどこかの市場に行った時に新が見付けたものだった。

『シンプルだけどかわいいじゃん』

 丸みを帯びた見た目もさることながら、すべすべの手触りなど、駄目なところをあげる方が難しかった。

『これにしよ!な、良いだろ、懐?』

 それは、まだ『Blue Moon』が五人じゃなくて四人だった時のこと。懐は新とコップを見比べた後、渋々頷いた。懐が新のおねだりに勝てないことを新自身は無意識のうちに知っていたようだ。

『良いの、僕たちとおそろいで』

 その時の謡は、まだ彼らと仲良くなかった。自分が家から出ることだけで手一杯だった。つっけんどんに言った謡に対し、新は目をぱちくりと瞬かせた後、にぱっと太陽みたいに笑ったのだ。

『謡と祭だからおそろいが良いんだ!だって俺たち、もう家族だろ?』

 打算も何もなく、新はあっけらかんと言った。それがどれほど嬉しかったか、謡を奮い立たせたか。この人は、冷たい態度をとった自分を怒るでも乏しめるでもなく、丸ごと包んで大丈夫だと頭を撫でたのだ。それは簡単なことではない。

「う〜くん」

「あ、ごめん。今行くよ」

 コップにいれた炭酸の泡が少ない気がする。どうやらぼうっとしすぎたらしい。慌てて持っていけば焦らなくても良いのに〜と祭に笑われた。謡は小さく笑い返した。

「俺ね、う〜くんに会えて良かったよ」

「なん、で、急に」

 目を丸くした謡を見てチェシャ猫のように祭は目を細める。いたずらっぽくて子どもっぽくて、でもふわりと匂い立つような色気をまとったその笑み。思えば祭がそんな顔をする時は誰かをからかう時だった気がする。

「ふふっ、う〜くんにちゃんと伝えてなかったな~って思ってさ〜」

 いや、それだけじゃない。本当は素直になりたくてもなれない時。祭はからかうかのような顔をして、いつだって照れをごまかす。その証拠に美しい艶のある黒髪から覗く耳が真っ赤だ。

「そう、だったかな?でも、僕の方こそ祭たちに会えて、こうして僕を『Blue Moon』にしてくれてありがとう」

「あははっ、最高!う〜くん、泣きそうな顔しちゃってさ〜」

「うえっ?!」

 謡は慌てて目元を拭う。指先がちょっぴり濡れた。あぁ、泣いたんだと謡は思った。祭はにこにこと笑いながら謡の目元に指を這わす。そして涙を拭う。

「笑って、う〜くん。一番はあ〜くんだけど、俺、う〜くんの笑顔も好きなんだ〜」

「あ、はは。なに、それ。新が一番って……、まあ、分からなくもないけど、さ」

「ふふふ〜、分かるんだ」

 祭は楽しそうに笑う。謡も笑った。それを見て守りたくなるようなかわいさはないが、不用意に触れれば壊れてしまいそうな儚さがあった。

「ね、これからも俺たちは『家族』だよ」

「あ、たり前でしょ。嫌って言ってもはなしてなんかやんないから」

 祭は頷く。あの薄汚れた子どもは、今は立派に前を見ている。本来の艶と色を失った髪も戻り、楽器が好きだと雄弁に語る目はハッキリと見える。かわいいものが好きだと語った彼は、本当はかわいいものが好きじゃなかった。綺麗になりたかったのだ。けれど、綺麗なものはかわいいものだった。だからかわいいものが好きだと勘違いした。けれどそんなところも祭は丸ごと愛している。だって家族だもの。

「なあ!新しいのできた!」

 バンッと大きな音がして勢いよく扉が開く。緑の目を輝かせた新が楽譜を片手に笑っていた。子どもっぽい表情は、見るだけで曲の出来を察させる。傑作だ。

「へぇ〜。楽しみだね」

「だろう?!ねね、見て見て!」

 バサッと楽譜をばらまいた新はじっと二人を見る。二人が舞い散る楽譜を見ながら笑う。特に祭は楽しそうだった。図などを記憶することが得意な祭はなんとなく曲の雰囲気やイメージを掴んだのだろう。

 それができるのは懐でも謡でもない。祭だけだった。

「いい曲だね〜」

「祭はぜんぶ見れたの?」

「ま〜ね〜。あはっ、早速やる〜?」

「せめて五分ちょうだい。僕は二人ほど天才じゃないからね」

「オッケーオッケー!ある程度頭に入れてくれればそれで良いよ!やろ!」

 新は笑って楽器を用意する。今回使うのは小太鼓やティンパニーなどの打楽器だ。大太鼓やシンバルを使わないのは、小刻みなリズムが大切な曲を打楽器だけでアレンジをするからである。

 これがもし、ゆったりした曲などであればシンバルなどで締める必要があったかもしれない。けれど、それは必要ない曲だった。むしろシンバルなどがあることで曲の醍醐味である小刻みなリズムが消えるなら、使わない方が最善だった。

「ねぇ、あ〜くん。あの曲、パート二つあったけど誰がどっちとか決まってるの〜?」

「うーん、考え中!でも光は上だろうな~」

「それもそうだね~。下は俺とあ〜くんじゃない?」

「懐もできっかなとは思うけどなあ」

「う~ん、う〜くんの言い方じゃあちょっと難しいんじゃない〜?」

「だよなあ。じゃあオレと祭が下かな。祭は下、覚えてるの?」

「だいたい〜」

 新は目を丸くした後、目を輝かせた。相変わらず子どもっぽい。けれど素直な称賛は祭にとって嬉しかった。

「じゃあオレ、楽器準備する!」

「小太鼓とティンパニーと〜?」

「うん!そんなもん!」

「じゃあ俺も行こ〜っと」

「わはは!助かる!さすが祭!」

 二人は楽譜とにらめっこしている謡を置いて楽器を取りに行った。謡はそれに気付かないほど集中していた。なにせ今回は音ではなくリズム主体だから。

 新のリメイクした曲は打楽器がメインの曲だった。

 かけ声を合図に三人だけの練習会は始まった。謡と新の前に置かれた小太鼓と祭の前にあるティンパニーだけ。それだけでもなんとか聴けるレベルの演奏になった。欲を言えば他の楽器があった方が良いとは思う。もちろん、人数は増える予定だし、改善すべき場所もいくつかあるだろう。しかし、初めて演奏したにしては良い出来だった。

「謡、このリズム難しいか?」

「そうだね。もうちょっと練習すればできると思うけど」

「あ〜くん、この辺ちょっとキツイかも。上と分けない〜?」

「んん〜。じゃあ、オレだけそれやって一小節休止でも良い?たぶん、すぐパート戻ると手が死ぬかも」

「ん、それで良いよ~」

「あ、謡、そこはこう!うん、上手じょうず。もう一回やってみよ?」

 新は楽しそうだ。それを見ながら祭と謡は本当に良かったと思う。『をちみず』の時は、いつバレるかとヒヤヒヤしていた。しかし、その不安がなくなれば新はただの子どもっぽい人物で通る。おまけに心配なことが減った分、動きやすくなった。

 だからもう、『をちみず』はこのまま消えた方が良い。それが世界や新、懐のためでもある。彼らが幸せならば、拾われた身である祭や謡は反対しない。自分たちの幸せのためには拾ってくれた二人の幸せが必要不可欠だから。

「よし!もっかいやってみるか」

 楽譜を手直しした新は新しい楽譜を譜面台に置くとにっこりと笑って楽器の前に立った。祭はさらっと楽譜を確認する。そして頷いた。

 カチカチとリズムをとって演奏が始まる。一回目よりも個々の負担が減った曲は危うげなく進んでいく。しかしやはり足りない。それはそうだ。本来五人で演奏するはずの曲だから。

「わ、すごいことやっていますね」

「新しい曲?それにしては打楽器ばかりだねぇ?」

 一曲を演奏し終えると声が聞こえた。見れば出かけていた二人が帰ってきていた。新はにっこりと笑う。

「次の曲だ!楽譜を見て!早く合わせよう!」

「はいはい」

「楽しみです!」

 満面の笑みを浮かべた光だったが、楽譜を見てすぐにその顔が曇る。打楽器。ハープ以外はあまり得意でない光には難易度の高いものだった。けれどできないと言わせないのが新である。

「このパート」

「そう!光の!どう?簡単なパートを多くしたけどさ」

「基本的にずっとメインだね〜」

「主旋律なら大丈夫だよ」

 光に渡された楽譜を見ればたしかに優しめの主旋律が多く、難しいパートは二箇所のみ。練習すれば光でもできる難易度になっていた。

 懐は新を見る。周囲はお飾りリーダーだとよく言うが、実際はそんなことはない。むしろ、周囲をよく見た上でそれぞれが物にできそうなレベルの楽譜を作る、天才だ。そんなこと、普通はできない。他の楽団などでは難易度の高い楽譜を弾けなければその瞬間、クビと言われるだけだ。けれど、新はそれがないように楽譜を書き換えたりする。

 そんな優しい新だからこそ、懐たちはついていくのだ。

「懐」

「うん?」

「あのさ、今度美術館行きたいんだ」

「美術館?」

「ああ。絵画を見たくて。もしかしたら新しいアイデアが降ってくるかも!な、だめ?」

「良いよぉ。俺が付き添う」

「ホントか!?ありがとう!」

 新がふわりと笑う。その笑顔は子どもらしく無邪気だった。

「それじゃあ俺も練習してくるねぇ」

「うん、ありがと!」

 懐が部屋を出ていく。いつの間にか、部屋には新しかいなかった。新はそっと目を伏せる。その目に寂しげな光が浮かんでいたが、それに誰も気付かなかった。


***


 新が『をちみず』を忘れて二ヶ月。もはや『Blue Moon』として生きていく決断をしようとした時、テレビでとある男が報じられた。その男は有名人ではない。いや、犯罪者として報じられたから有名人には違いないだろう。しかしそれは、あまり良い意味のことではなかった。男は『をちみず』を(かた)り、お金を騙そうとしたのだ。

「怖いな、気を付けなくちゃ」

 新の言葉に共にニュースを見ていた祭は平静を装いながら必死に考えていた。『をちみず』が活動を休止する期間が長ければ長いほど『をちみず』の手口を模倣され、騙られることは増える。今はまだ良い。

 しかしもし、『をちみず』が活動を再開することになったら?本当の『をちみず』を誰もが忘れていたら?それはきっと、新の、シンの望むものではない。

 こうして彼らは新には内緒でこっそりと『をちみず』の活動を再開しようとしたが、そこには大きな問題があった。『をちみず』のリーダーはシンで、彼だけは『欠けてはならなかった』のだ。

 『欠け』を意味する『をちみず』でも、その『欠け』はリーダーのシンではない。彼らは、シンが居なければ今もきっと『欠けたまま』だったから。だからシンの『欠け』た『をちみず』は意味がなかった。

「なるほどなあ。それで俺に相談を……」

 濃い緑と黄色のチェックのセーターにジーンズを着た天はのんびりとオレンジジュースを飲んだ。

 ここはおやつの時間を目前にした某有名ファミリーレストラン。閑散とした印象を受けるボックス席がたくさん並ぶ中、ドリンクバーにもレジにもトイレにも遠い、不便さしかない目立たぬボックス席を陣取って懐は天と会っていた。

 先程から二人のいるボックス席の脇を『お届けに行くロン!』と高い声で喋る奇っ怪な機械が何度も往復しているが、それ以外は人さえ通らない。チャンチャカチャカチャカスッテンテンン、と転びそうになる陽気な音楽とともに動く機械は一体どこを目指しているのだろう。

 グレーのパーカーにジーンズという無難な格好をした懐は、ここが日本だからか真っ直ぐ天を見ていた。淡い青の目元には隈が鎮座している。きっと『参謀』と毎晩のように作戦会議をしたが行き詰まったのだろう。

「ちゃんと寝てるかあ?」

「まぁねぇ」

 寝ないと新がうるさいというのは言葉にしなかった。しかし、言わなくても天には通じた。

「それなら良いけどなあ」

 陽気な音楽を引き連れる奇っ怪な機械によって運ばれてきたチョコレートケーキを食べながら天は斜め右上を見る。不審な動きをする監視カメラにここが安全でないと悟った。かと言って今すぐ出ていくわけにもいかない。なにせ今、天の前にあるチョコレートケーキは天が食べたくて食べたくて仕方のなかったものだ。

 朝晩の気温がぐっと冷え込むようになってから期間限定メニューとして売り出されたものだ。クリスマスはまだ一ヶ月も先なのだが、それはそれ、これはこれである。

「人形ってさぁ、分かると思う?」

 懐はそう言いながら横目でさり気なく天が気付いた監視カメラを確認する。天の言いたいことに気付いたらしい。懐は頭がそれほど良くないと言うが、天はそんなことはないと思う。少なくとも、察する力に関しては天も一目置くところだ。

「まあ分かるかもしれないけれどなあ」

 チョコレートケーキの上の白い粉をフォークに乗せる。ゆっくりと咀嚼した天はのんびりと考える。

 それはどれほど似せた人形なのだろう。もし、そっくり似せたならバレないだろう。しかし人形はあくまでも『人形』であって、『本人』ではない。いずれバレる。それはどれくらいの期間、騙すかにもかかってそうだ。

「完成度が大事だろう?」

「そうだねぇ」

 だがシンの真似をできる人間は限られる。身長的な話で残念ながら懐と天はできない。演技経験などを踏まえて祭か謡が妥当だが、シンになるには身長が少し高い。遠目からならバレないだろうが、映像に残ると後々面倒なことになりそうだ。

 残るは演技経験が少なく、すぐにボロを出しそうな新人の光のみ。

「なるほどなあ。それで俺が選ばれたのかあ」

 天の手元のグラスから氷がぶつかる音がやけに響く。ストローで大きく円を描くように動かしたからだろう。いつの間にか黄色っぽい橙色は半分になっていた。

「そう。それで、いつ空いてるぅ?」

「んん?デートのお誘いかあ?」

「違うってばぁ」

 懐はフォカッチャを口に運ぶ。塩味もなにもないが懐はこれが好きだった。

「そう。新と」

「新さんとか?」

 天は少しだけ嬉しそうに笑った。

「新も天に会いたがっていたしぃ」

「ははあ、それは嬉しいなあ!」

 ウキウキと顔を輝かせる天は新に似ている。新も天に会いたいか聞いたときは目を輝かせて頷いていた。

「それじゃあ、また連絡するからねぇ」

「うん、待っているぞお」

 なるべく早く連絡してくれと天は言う。その目が一瞬だけ鋭くなった。懐はそれを天ではなくテンからの言葉と受け取る。覆面ハッカーはずいぶん忙しいらしい。

「分かってるよぉ」

 そっちの事情も、とは口に出さなかった。言ったところで監視カメラに拾われるだけだ。

「うん」

 天はにっこりと笑った。その顔がやはり新に似ていた。懐は財布から五百円玉を出すと机の上に置いた。懐の分の飲食代だ。そのままあの奇っ怪な機械とすれ違った。

『またのお越しをお待ちしているロン!』

 奇っ怪な機械はそう言って再び運搬の仕事に戻っていった。それは天のいる机を通り過ぎ、どこかへと行った。

 天はじっとりと汗をかいたグラスを指で拭った。大した意味はないがなんとなくそうやってしまった。


 新は鼻歌を歌いながら画集を見ていた。ペラペラとページをめくる手が止まらない。どれも新の好みに合った絵だった。

 一ヶ月ぐらい前に新は懐と美術館に行った。その時に画集をおねだりした。それなりの値段がしたが懐は渋りつつも買ってくれた。

 ページをめくればそこには新が一目惚れした絵が紙の上にいる。しかし、どこか違うと新は感じていた。それがなにかは分からなかった。

「また見てるのかい?」

「謡」

 呆れたような困ったような顔をして謡がクッキーを持ってくる。近くにお菓子屋がある。そこから毎日のようにバターの香りがするため、新は謡と共に覗きに行き、そして店主たちに気に入られた。帰りにたくさんのクッキーをお土産にもらったが、代金は半分しか受け取ってもらえなかった。

「だって、面白いんだもん」

「面白い?絵が?」

 謡は新が開いたページの絵を見て首を傾げる。さらりと薄いクリーム色の髪が眉にかかる。

「うん、面白い」

「興味があるな、新が面白いというとこ」

「そうかあ?オレの目なんて光ほどじゃないだろ?」

「それでも、ね。よかったら教えてよ」

 新はもう一度絵と向き合う。見れば見るだけ小さな違和感が心に住み着く絵だ。何が原因なんだろう。

「美術館でさ、この絵を見たんだ」

 そのときはでーんって感じがした、とたどたどしく新は話す。

「でも、この絵はなんか違う気がする」

 その言葉にできない何かは、まだ新も掴んでいないのだろう。

「そっかあ」

「謡は、分かる?」

「うん?……うーん、僕は実物を見てないから何とも言えないけど。でも色は実物と違うんじゃないかな?」

「色、か?」

「うん、そう」

 謡はそう言いながら一枚の写真を見せた。それはこの前の夕焼け空を撮ったものだった。昏いオレンジと紺、それから白と黄色が薄く薄く伸ばされたような、そんな境界を持つ色の、綺麗だけど寂しくて怖くなるような空だった。あの空の色は、新も覚えている。珍しく祭が写真を撮っていた。

「この空、どう思う?」

「どうって……」

 見せられた写真にはあの日の夕焼けが若干違う色で切り取られていた。あの時、寂しくて昏くて怖くてたまらないと感じた色ではなかった。思わず謡の腕を掴むほどに畏怖の念を抱いた色は、この色ではなかった。

「違う、と思う」

「うん、そうだよ」

 謡はにっこりと笑う。

「あの時の色をカメラのレンズはたしかに切り取ったはずだけど、出来上がる写真は再現できてない」

「そうだな」

 家に帰って懐がいることを確かめたかったあの時の新の気持ちは今の新にはなかった。

「色々と技術は進歩してるけれど、自然のあの色は再現できないんだよ、まだ」

「いずれできるのか?」

「かもね」

 謡はそう言って写真を戻す。

「新の実物と違うって、そういうことじゃないかい?」

「……わかんない」

「そっか。……まあ、悩むといいさ。それで、なにか分かったら僕にも教えてね」

「うん」

 新はそう言うと再び画集を眺める。謡はそのそばにバターの匂いのするクッキーののった皿を置いた。新は器用に薬指と小指のみで摘むと画集にこぼさないように少し距離を取ってぱくりと食べた。

 謡はそれを見ながらそっと目を伏せた。謡は新の違うという絵を知っていた。いや、謡だけではない。だって、その絵の行方を知っているのは『をちみず』だから。

 あの美術館は、盗まれた絵を取り戻したと言って再び展示しているがそれは不可能だった。なにせ、あの絵は正しい持ち主のもとに戻り、愛でられているから。

 話は八ヶ月ほど遡る。テンが『をちみず』に持ち込む依頼の中で初めてとも言える美術品の話が出てきた。

 それは白馬が砂浜を駆ける様を描いたものだった。美しい白い馬は夕暮れ時の雲の隙間からうっすらと差し込む光を受けて淡い青紫に引き締まった身体を染め、自身と同じ色に染まった空や砂浜を駆ける。なびくたてがみや駆けた時に飛び散ったとみられる砂を舞わせ、まるでそこから今にも飛び出してきそうな躍動感のある馬の絵だった。

 家宝が堂々と盗まれ展示されている事実に持ち主たちは憤り、取り戻そうと躍起になった。しかし、美術館は取り合わないどころか名誉毀損だと彼らを訴えたのだ。メディアをうまく利用した慣れた手法だった。

 テンはそれを依頼した。絵画を盗むことは初めてだったが、祭が何度もシミュレーションをしたおかげで誰一人として欠けることなくミッションをクリアした。

 絵画は持ち主たちのもとへ戻り、家宝らしく客人の入らない場所に飾られているらしい。それをもう一度見ることはできなかったが、その家で大切にされているらしいことを知って新は嬉しそうにしていた。

 一度だけ、その家から依頼があり、演奏会をしたことがある。もちろん広い客間での小さな演奏会だったが、主人も夫人も召使いたちでさえきちんとマナーを守り、楽しそうにしていてくれた。子どもたちも『Blue Moon』に優しくしてくれた。遅い時間だったこともあって一泊することまで許してもらい、それに甘えさせてもらった。

 共にした朝食はとても美味しく、理想的な家だった。また頼むよ、と社交辞令だとしても言ってくれたのは、とても嬉しかった。

 そんな家に帰された絵だ、新が引っかかっている絵は。きっと画集のものは本物の絵だろう。現在も展示されているそれは贋作だ。

 それを、記憶がないのに見抜いたのか。

 謡は練習室に向かいながらゆっくりと息を吐き出した。新にそういうことができても、おかしくはない。むしろ何度も盗む実行役をしていたからできないとおかしいだろう。

 しかし、その記憶がない今でもできるのはどういうことだろう。記憶はあるのか?それともないままなのか?もしないフリをしているならばそれは何故?

 いや、と謡は頭を左右に振る。

 ガチャリと扉を開けて中に入る。黒い譜面台には白い楽譜が置かれている。新が書いた、新しい曲だ。珍しく新が作曲したものだ。

 楽しげに踊る音符はもちろん、全員が必ず一度は主旋律を演奏するパート分けなど新らしい。この曲では、祭はティンパニーではなくビオラが割り振られていた。

「これとバトゥカーダが次回のメインだったね……」

 バトゥカーダは打楽器だけの合奏のことだ。つい先日、新がそれを書き直した。打楽器経験の少ない光は苦労していたが、祭の教えが良かったのか、はたまた光自身の才能があったのか、新が光用に用意した楽譜ではなくても演奏できるようになった。おかげで二つのパートに分かれての演奏になった。

 謡はチェロを取り出す。チューニングを済ませると楽譜を見る。トントンとつま先でリズムを作ると弓をひいた。


 天はぶすくれた顔で目の前の青年を見た。少し顔が引きつっているが、それ以外は『新』に見える。しかし本来の瞳の色を隠すカラーコンタクトのせいなのか、新の子どもっぽい光を浮かべた目ではない。さすがにころころと感情の変わるエメラルドの目を再現することはできないようだ。

「天。あと何をしたら似るかなぁ」

 ゆるりと顔を向けた先にいる懐はメイク道具を持っている。どこかのお店の中ならば絶対に怪しまれただろうが、残念ながらここは天の家。誰も咎めなかった。

「懐さん。もしかしてそのためだけに俺の家に来たのかあ?」

「当たり前でしょぉ?濁った水を戻さなくちゃ」

 隠語のような言葉だが、どうやらそれは懐の本音のようだ。そりゃ濁った水は綺麗にろ過した方が良い。それにそうするなら早いほうが良いのも分かる。けれど。

「だからって俺に嘘をつかなくても良いだろお?」

「それは悪かったってばぁ」

 天は今日、新と懐が来ると聞いていた。半年ほど前に一度会ったきり、新とは会っていなかった。もちろん、テンとしては何回か会っているようだが、主人格でもある天の記憶にはなかった。

 だから、とても楽しみにしていた。部屋を綺麗に掃除して新の好きなお菓子をちょっと並んで買って用意し、冷蔵庫で新が好きなジュースを冷やした。ゲームや漫画、はては画集や作曲集などを分かりやすく棚に置いた、新が手に取りやすいように。それもこれも新のためだ。天にとって新は『テン』と天の共通の友人であった。

「光がどれくらい新に似れるかのチェックだからねぇ」

「す、すみません、天さん」

 新の顔に似せた光に謝られる。懐の従兄弟だが、光は懐にあまり似ていない。目の色はもちろん、生真面目な光は時に手段を選ばない懐よりも優しいと天は感じていた。

「光さんも突然だったもんなあ」

 突然懐に天のところに行くと言われ、新の変装をした。それを聞いた天は懐らしいと思った。

「それよりもどこ直したら良いかなぁ?」

「まあ、目元だろうなあ」

 天はそう言って光の目元をなぞる。新はパッチリした猫目だが、あいにく光はそうではない。いや、メイクでだいぶ似せているが近くで見れば違うと分かる。

「あとは振る舞いだなあ」

 ここを訪ねてきた時、『新』になろうとしていることは分かったしほとんど似せていたが、小さな所作が光らしかった。これが初対面であればあまり気にならなかっただろうが、新ならばそこまで指先まで綺麗に振る舞うことはほとんどない。ましてやシンならばよけいにそうだろう。

「振る舞い、ねぇ」

 懐は盲点だったと思う。新らしい振る舞いはある程度身に付けさせたが、細々としたものは光のままだった。目元のメイクを直しながら頷く。光は大人しく目を閉じてメイクされている。天はその様子を見て慣れているように感じた。

「声はどうするんだあ?」

「変声機があるから大丈夫です」

「あぁ、もう!動かない!」

「はい!」

 懐が光の肩を掴む。光がぴしっと背筋を伸ばした。それからゆっくりと目を閉じる。新の色と似た緑がまぶたに隠される。

 天は静かに顔を伏せた。天の脳にこびりついて離れない幼い子どもがいる。

 肩までの黒の髪にエメラルドのようなキラキラ輝く目の少女のような子ども。その子どもは、その輝かしい容姿に似合わない場所にいた。灰色に近いコンクリートの壁におおわれた狭い小部屋。端のちぎられた白いシーツ、鈍く銀に輝く簡素なベッド、床に散らばる少しふやけた段ボール。子どもは細い腕に黒い鎖をつけられて不便にも関わらず、猫のように丸くなってベッドに横になっていた。

 幼い天が近付けば音で気付いたのか目だけでこちらを見る。カサリと髪が音を立て頬にかかる。子どもは、だるそうに目を閉じた。カクカクと換気扇が変な音を立てる。そっと手を伸ばせば、子どもはさらに奥へと逃げた。怯えが浮かんだ目に天は精いっぱい優しい声を出す。

『出したげる』

 なんと傲慢な発言だろう。しかし、この時の天にはそれ以外の言葉を持っていなかった。両親から言われた通りにダクトを抜けた先にいた綺麗な子ども。それを連れて戻ることが天の指令だった。

 子どもは腕の黒い鎖を見て頭を左右に振る。もう無理だ、と言いたげな顔をしていた。

 こんな暗いコンクリートの部屋で一生を終える気か。それは許せなかった。だってこんなに綺麗な子どもだ。狭く暗い場所にいるよりも、太陽の光を浴びていた方がこの子どもらしいと思った。

 天はぐいっと鎖を掴むとブチッとちぎった。馬鹿力だと今なら思う。けれど幼い天は普通だと思っていた。

『行こう』

 手を伸ばした天に対して子どもは不思議そうな顔をした。天は子どもを抱えて来たときと同じようにダクトを使って脱出した。細く小さなその子どもはとても軽かった。

 建物を出た天は待機していた両親と合流した。その後、両親が子どもになにやら確認していた。子どもは頷いたり頭を左右に振ったりしていた。天にはよく分からないことだったので、全て聞き流していた。

『あま』

 天の母親に抱き上げられた子どもがゆっくりと天の名を呼んだ。エメラルドの目はほとんど閉じられていた。けれどゆっくりと、それが開く。ふわりと弧を描いた唇に、天の目は釘付けになった。

『ありがとう』

 それだけ言って子どもは眠った。閉じられた目は、もう天をうつしていない。けれど天はじっと見られているかのように感じた。

『あま。帰ろっか』

 後に、天が助けたその子どもと友人になる。けれどこの時の幼い天はそれを知らなかった。

 それが天の初めての仕事で、初めての感謝だった。

 拭っても拭っても消えない赤い血に手を染める天をいつだってすくうのは新で、彼の見ている先が明るいと天は知っている。キラキラした笑顔で、子どもっぽく元気よく言葉を声に乗せる。信じろと言われれば信じてしまうほどのカリスマ性と、言われたことをそのまま受け入れる素直さをあわせもつ天にとっての天使。

「あの、どうでしょう」

 顔を上げた天の前には、顔だけはそっくりな新がいた。まさに顔だけだ。所作はこれから直すとして、顔だけはあの新にそっくりだった。彼なら、言えるかもしれない。天がずっと、本人には言えなかった言葉。『をちみず』として活動する彼を応援しつつも天は言いたかった。

「怪盗なんてやめて、俺のところに来ないかあ?」

 そんな、プロポーズにも似た言葉。それを気付けば口にしていた。目の前の『新』の顔が驚きに彩られる。

 よほど意外だったのか、『新』は懐を見た。そんな風に何かあれば懐に頼る。それが、たまらなく寂しかった。新にとって『天』は友人で『家族』にはなり得ない。その枠の中にいるのは目の前の二人と今、新と共にいるだろう二人だけだ。

 知っている。いや、知っていた。天は新にとってのかけがえのない友人で、家族ではないことを。向けられる情は友としてのもの。しかし、どうしても欲しかった。天と地がひっくり返っても新は天を『家族』にはしてくれないとしても。

「ずるい、なあ……」

 友人で協力者で情報屋で。天はどれだけ新との関係を深めれば『家族』になれるのだろう。望んではいけない。けれど、その手を取りたいと思っていることぐらいは伝えたってかまわないだろう?

「天、アンタさ、ずっと友人だと思ってたのぉ?」

 新の側近は呆れたようなため息をついた。天はうなだれながら小さく頷く。だって新は天のことを頼らない。それにいつだって言伝だった。会いたいのは天だけじゃないかとずっと思ってきた。

「新は、アンタのこと『家族』だと思ってるよ」

「だが……」

「天さんならばなんとかしてしまうから頼らないのでしょうね」

 目の前の『新』はそう言って目を伏せた。

「なんでもやってしまう。それだけじゃない。暗いことや恐ろしいことは背負って隠してしまうから、では?」

 『新』の言葉は天の胸を刺した。そう言えばそうだった。新からの頼まれ事で学業を疎かにして調べたこともある。新は感謝していたけど、それと同時に複雑そうな顔もしていた。あれは、そういう意味だったのか。

「新は天のこと信じてる。それに、愛してるよぉ。俺たちが会いに行くと言うとついてこようとするしぃ」

「そ、そうなのかあ?」

 天は目をパチクリとさせた。そうしていれば幼く見えた。懐は少し笑みを浮かべる。何年もこうしてたまに会っているが、今でも新しい面を見られる。それだけまだまだ深い関係になれるということだ。

「今は絶対駄目だけどねぇ。昔は尾行とかしてまで会おうとしてたからまくのが大変だったんだよぉ」

「今は新兄さまの興味を引いてるうちに出ているので問題はないんですが……」

 それでもついてこようとしているらしい。天はしばし呆然とした後、ゆっくりと笑った。

「あっ、ははは……」

 掠れた疲れたような笑みだった。いつだって豪快に快活に笑っていた男は、そうしていればひどく大人びて見えた。口元を掴むようにした片手も節くれていた。

「そっ、か。俺は、新さんにとっての『家族』だったんだなあ」

 光はそっと目を伏せる。

 新と天のすれ違いは互いの認識の違いだったと光は考える。『家族』について、『友人』について。新の愛は天の目には見えないところにあった。天はそれに気付かずにすれ違った。

 では、新はどうなんだろう。

 新は天の愛に気付いていたのだろうか。いや、あの敏い人は気付いていたのだろう。その分を贈ろうとして、一人で外出できないから遠回りして、上手く渡せないままにすれ違った。

 あぁ、きっとそうだ。そう思えばなんて不器用な人たちなのだろう。

「今度は天さんが直接誘ってみたらどうですか?」

「直接、かあ?」

「ええ。チケットでもプランでもなんでも持って。なんだったらお茶会でも良いでしょう」

「そうだねぇ。新は喜ぶと思うよぉ」

 懐の言葉に天はうなずく。天ならば有名なオーケストラやバレエの公演のチケットだって簡単に入手できるだろう。遊園地だって水族館だって行こうと思えば行ける。だからこそ、少しぐらい強引になっても良いと懐は思った。

「そうだなあ。それじゃあ、今から行くとするかあ」

「い、今からですか?」

「あっはは!それぐらい強引でなくちゃねぇ」

 懐は笑って立ち上がる。光も慌てて立ち上がった。

「メイクを落とし忘れるなよお」

「あっ!」

 光が慌てて洗面所に駆け込む。天はそれを見て笑った。その笑顔はひどく子どもっぽく見えた。


 突撃した天に対して新はにこやかに笑って受け入れ、天からのデートの誘いを受けた。二人きりのお出かけは祭がこっそりついていくことで決着がついた。そして数日後、楽しそうに笑う二人が水族館で目撃されたという。


***


 月の欠けた夜。紺色の空を照らす淡く柔い光を放つ月すら隠す、憎き灰色の雲。

 真っ白なジャケットの裾と深い濃い青のネクタイをはためかせた男が静かにそこに降り立った。深く被った白のシルクハットのせいで顔は見えないが、ふんわりと温かい風に揺れる髪は寂しい夕陽色だった。唇に浮かべられた笑みにその場にいた人間は息を飲む。胸元で輝くエメラルドの薔薇は、男が何者なのかを示していた。

「『をちみず』……」

 そう。怪盗『をちみず』のリーダー、シンだ。それが偽名でもメディアも関係者も便宜上そう呼んだ。

 『シン』は驚くほど変わっていなかった。しいて言うならば少し背が伸びただろうか。しかし、それ以外はいたって変わらない。まるで時が進んでいないかのようだった。

「覚えててくれたんだな!」

 あはっと乾いた笑い声と共にシルクハットが彼の人差し指によって少し持ち上げられる。ニイッと弧を描く唇に輝くエメラルドの目。間違いない『シン』だ。

 しかし違和感は拭えない。今まで『をちみず』は五人で一緒に来ていたはずだ。いや、実行役は一人か二人のことが多かったけれど、逃走時には仲間と合流していた。だからてっきり『をちみず』は五人なのかと思っていた。

 驚くほど変わっていない『シン』の背後にはガラスケースがあった。

 中にはキラリと輝く美しい片目だけの人形。片方の目は冷たくも弱い月の色をしていて、今日という日に合わせて用意されたのでは、と思うほど美しいものだった。髪も服も肌も、全てが完成されているのに、なぜか左目だけが失われていた。それはせっかくの人形を不完全たらしめる忌々しいものだった。

「今日こそ観念してもらおうか」

 薄汚れた茶色のトレンチコートを来た長身の刑事が『シン』に詰め寄る。しかし、『シン』は慌てない。にっこりと笑ったまま黙って見ていた。

 あと少し、の距離で『シン』はひらりとガラスケースの後ろに立った。刑事から見ればガラスケースを間に挟まれた形になる。

「なあ、オレたちがなんで三ヶ月も動かなかったか、分かる?」

「はあ?」

 刑事がピタッと足を止める。『シン』はじっと刑事を見ていた。そんなことは関係ないと言うこともできた。しかし『シン』の目がそれを許さなかった。はぐらかすことはできない。そう感じた刑事は少し考える。

「答えは簡単。オレたちの正義が揺らいだから。このまま続けて良いかと悩んで意見を出し合ってた」

 『シン』はゆっくりと答える。その目が切なく歪んだ。刑事は驚く。これまで『シン』も『をちみず』もここまで近付いて見ることはなく、その目にどんな感情が浮かんでいるのかも分からなかった。やはり彼らも人間なのだと実感した。

「あんたはさ。オレたちがいない方が楽できんのになんで嬉しそうにしてた?」

「はあ?」

 刑事は慌てて自身の頬に触れる。しかし、いつも通り口角が少し下がっているだけで嬉しいという感情は見られなかった。無愛想だ不機嫌そうだと言われて孤立しやすかった刑事にとっては、初めてのことだった。

「オレたちのこと、大好きなんだな!」

 にぱっと子どもっぽく『シン』は笑う。その手にはガラスケースの中にいたはずの美しい人形がいた。ガラスケースの中で座っていた姿は触れれば壊れてしまいそうな儚さを持っていたが、『シン』の手の上にいる姿はそうではない。触れることを躊躇うような畏怖と強かさを感じる。圧倒的な存在感と言うのだろう。

「Mission Complete」

 フッと『シン』は笑った。その身体がふわりと浮いた。刑事が慌てて飛びかかるがガラスケースが邪魔で『シン』までたどり着かなかった。

「それから、オレたちを甘く見ない方が良いぞ!」

 ーー大きく進化してるしな!

 パチンとウインクをして『シン』があっという間に見えなくなる。警察はそれを指を咥えて見ていることしかできなかった。

 ヒラリと『シン』が消えた場所から美しい薔薇が落ちてきた。それは音もなく地に落ちて、ぐしゃりと勢いよく誰かに踏まれた。


 回収された『シン』は警官服に一瞬で着替えさせられるとそっと人形を手渡した。ヨウは頷く。柔らかなクッションの上で眠る人形は生きた人のようだった。

「このまま届けに行くからねぇ」

 運転するカイの言葉に『シン』は頷いた。

 今宵盗み出したものは昔から有名な『人形師』一族の持ち物だった。薄い桃色の髪を持つ芸術一族。その一族出身者は絵画や陶器などの作り手としてもその名を馳せている。その家の現当主の息子がひい祖父から受け継ぎ、大切にしていた人形、烏野オト。それが片目だけの美しい人形の名だ。

 烏野オトは元は美しい月色の両目を持つ人形だったらしい。しかし、現当主の祖父が彼の持ちうる技術全てを使って作り出し、所有していた時に一度、盗まれて片目だけ奪われた。それを、当時の所有者である男はなおさなかった。片目がないことで『欠陥品』になったにも関わらず、男は嬉しそうにしていたという。

 その後、烏野オトは男が亡くなるまで男と共に過ごした。男はよく、烏野オトに話しかけていたらしい。小さな部屋には時折、笑い声も響いたという。

 その後、男は亡くなった。その時にほとんどの人形は現当主の父へと受け継がれたが、烏野オトだけは違った。晩年狂った人形愛好家の男の唯一ショーケースから出ることを許されていた烏野オトを、男の子どもはひどく怖がった。片目だけないことも不気味さを助長していただろう。結局、烏野オトはひ孫である現当主の息子へと遺産として受け継がれた。

 さて、烏野オトは男からそのひ孫に所有者が変わってからもそれなりに幸せだったらしい。ひ孫は烏野オトをショーケースにはしまわなかった。自身の寝室に持ち込み、時折お喋りをした。しかし、悲劇はおこる。烏野オトが誘拐されたのだ。

 現当主の息子は烏野オトを探し回った。広い家をくまなく探した。しかし烏野オトはいなかった。現当主の息子は狂った。烏野オトは彼にとって精神安定剤だった。

 ほとほと困った現当主は『テン』を頼った。『テン』は『をちみず』への仲介を一手に引き受けていることで有名だった。

 それが今宵までの簡単な流れであった。

「どう?報道は?」

「んふふ、みんな『シン』だって言ってるよ~」

 ざわざわと騒がしい中でものんびりと間延びした声が車内に響く。声の主はサイだ。ただし、今は祭の格好をして野次馬に紛れているのでそう呼ぶのは正しくないだろう。

「それは良かった。みんな分かってないならいいや」

 少し退屈そうにヨウは笑う。ヨウの力は衣服だけでなく機械などにも通じることがこの前分かった。今回はそれを応用してこの乗っている車(今はヘリコプターのようなもの)の見た目を変えている。そのせいでスリルが少なくて退屈なのだろう。

 念のために乗車しているメンバーも警官の服を着ているから万が一にもバレることはないだろう。

「ところでその芸術一族とどういう関わりなんですか?」

 『シン』の変装をといたコウはそう言いながら窓の外を眺めた。キラキラと眩い光が眼下に広がっている。

「なんかねぇ、『テン』の知り合いだってさぁ」

「ふうん。それは天もかな?」

「そうだろうねぇ」

 カイはそう言いながら真っ直ぐ前を見た。目指すのは暗い場所。彼らは俗世から身を隠すように生きていた。

 特に今回の依頼者の現当主はその傾向が強かった。その息子は、とんでもない才能を持っているとか、外見が醜すぎて部屋に閉じ込められているとか噂されていた。

「んう」

 むずがるような声にゆっくりとそちらを見れば六十センチほどの人形が、いや、烏野オトが、動いていた。からくり人形なんかが動く時のようなカタカタとした音も聞こえない。彼の頭上には糸もない。けれどゆっくりとその硝子玉のような月色に光が戻り、何度か瞬いている。ハッキリと光が浮かんだ左目は、弱い月明かりの下で見た時よりもずっとずっと綺麗だった。

「おニイさんたちがタスけてくれたん?」

 烏野オトは、ゆっくりと現状を把握した後、やけに落ち着いてそう言った。言葉が少し歪んでいるのは、ずっと人形のフリをしていたからだろう。

「どこにムカうん?」

「あんたの家」

「ほんま?」

「ええ」

「ふへへ」

 烏野オトは頬を緩めた。ふにゃんと笑う顔は幼子のようだった。

「カエれるんや」

 心底嬉しそうに笑う烏野オトをじっと見ていたヨウはぽすっとその頭に手を伸ばす。優しく撫でれば、烏野オトは少し驚いた後、さらに笑った。そうしていれば美しすぎる人形には見えず、撫でられるのが好きな子どもみたいだ。まあ、烏野オトが自分で動き出した年を考えるとそれも納得だ。まだまだ幼い子どもと変わらないぐらいしか『人間』として生きていないのだろう。

「あと十分はかかるから休んでおきなぁ、烏野オトさん」

「お、おん」

 カイに話しかけられた烏野オトは少し戸惑いながらも小さく頷いた。その後、ゆっくりと目から光が消える。その身体から力が抜けて人形に戻った。

「受け渡しはヨウがやってねぇ」

「分かったよ」

 ヨウはそう言ってクッションを増やした。烏野オトのためだろう。唇はゆっくりと弧を描く。

「コウは少し休みな~。俺は先に帰っているね〜」

「サイもお疲れ様ぁ。お風呂よろしくぅ」

「は〜い」

 プツンと音がして通話が切れる。カイはそっと目を伏せた。


 その後、変装したヨウが烏野オトを持って芸術一族の屋敷の中に入っていった。カイたちはそれを隠れて見守っていた。

 十五分ほどして屋敷から出てきたヨウは真っ白の封筒を持っていた。その中には一枚のカードが入っていた。ヨウ曰く、

「現当主の息子さんがくれたんだよ、この屋敷の鍵だって」

 とのこと。理由を聞けば、現当主の息子ーー兎月(うつき)ーーは烏野オトを連れ帰ってくれたヨウにひどく感謝した。そして烏野オトを大切に扱う姿に、時折烏野オトに会いに来てほしいと言ったそう。

「なんかね、オトもそれを望んでるって言ってたよ」

 すごいねぇとヨウは呑気だ。さらに兎月は噂以上の美人だった。長い豊かな薄桃色の髪、切れ長の目、まとっていた中世のようなドレス。美女と言われても納得してしまいそうなほどだったと言う。

「身長はけっこうあったけどね。でもツンとした感じの美女に見えるんだよ、これが。あそこまで完璧に化けてたら素顔を見ても分かんないかもね」

 ヨウにとっては面白い出会いだったらしい。弾んだ声で報告するヨウは口角を上げて嬉しそうだった。

「それは良かった。ただし、『完美謡』だとバレないようにねぇ」

「うん、分かってるよ」

 ヨウはそう言って大事そうにカードをしまった。

 しかし、兎月は想像以上に頭の良い人物だった。あっという間にヨウ=完美謡に気付いた。けれど、兎月は警察にも家の人にもそのことを言わなかった。烏野オトの悲しむことはしないという発言に、謡は大いに感謝した。そして、都合が合えばと『Blue Moon』の関係者席のチケットを渡した。

 兎月は行く気はなかったそうだが、烏野オトに言われて来てくれた。そのときの『Blue Moon』の演奏にひどく感動した兎月が一ヶ月で作り出した人形、『マドモアゼル』はとても高値で売れたそうだ。それ以降、兎月は『Blue Moon』の演奏会に何度も足を運んでいる。


***


 初丹武次(ういにかけじ)は三十代前半の刑事である。それも怪盗・泥棒を専門とする部署に所属している。いつも着ているトレンチコートは祖父のものだ。かつて名探偵として名を馳せた祖父だが、サポートをしてくれていた男と祖母がいなくなってボケた今ではただの好好爺である。

 しかし、武次は祖父に憧れて警察に入った。いや、正確に言うならば探偵をしていた祖父のサポートをしていた警察官に憧れた。その警察官はまだ子どもだった武次の遊び相手にもなってくれた。両親も祖父も兄もいないときはその警察官だけが武次の相手をしてくれた。

『かけは将来どうするんだ?』

 一度だけ、その警察官が武次に聞いてきたことがあった。武次の家族は何か一つだけ誰にも(まさ)るものがあった。祖父は探偵、父は法律家、叔母はクレーム対応者。それぞれの優るものを武器にしていた。

 さらに、武次の兄は植物に詳しく、従兄妹は人の身体に詳しかった。そういう道に進むのだろうと期待されていた。しかし、武次はドラマが好きで探偵の祖父が大好きないわゆる凡人であった。勉強も運動も普通。一つも優るものがなかった。

 だからきっと、そんな武次を心配したのだろう。警察官の仕事に子守はなく、不満だってあっただろうにおくびにも出さない、優しい人だった。

『かけはねぇ、けいじさん!』

 無邪気に武次は答えた。それに対してあの時の警察官はなんと言っていただろうか。今の武次は少しも思い出せなかった。

 幼く弱い武次は歳をとるごとに大きく成長していった。高校二年生になると身長は百八十まで伸び、肩幅もガッシリとした。可もなく不可もない運動神経は周囲に器用貧乏とまで言われ、数合わせに助っ人をすることもあった。

 あの時の警察官は、ある日から武次の家には来なくなった。それが殉職だと武次が知ったのは、ずいぶん大きくなった頃だった。それは三つはなれた従兄妹が大学受験をすると言っていた年のことで、祖父の最愛の人が亡くなった年でもあった。

 それ以降、祖父は探偵を辞めた。探偵をしていた頃の相棒が何度かやって来ていたが、それも途絶えた後はどんどんボケていった。

 武次はそんな祖父を嫌悪していた。よく笑っていた子どもは、それから口をへの字にした。感情がどんどん抜け落ち、武次は無敵のポーカーフェイスと不機嫌にも無愛想にも見える下がった口角を手に入れたのだった。

 なにはともあれ、初丹武次とはそんな人物である。


「ねぇ、おじちゃん。ここってどこ?」

 武次が非番の日に道を歩いていたら幼い雰囲気の青年に声をかけられた。青年は肩辺りまでの黒い髪とエメラルドのような緑の目を持っていた。身長は少し低く、百六十五前後だろう。男にしては小さい方だ。

 しかし、武次は驚いてすぐに返事ができなかった。前述の通り、武次の顔はあまり機嫌良く見えない。そのため、道を聞かれたりすることもない。おまけに助けようとした相手に怖がられることもあった。巡査時代はとても困ったが、取り調べの書紀などをする今の部署では役に立つことの方が多かった。

「おーい、おじちゃん。聞こえてる?」

 青年はそう言って武次の前で手を上下に振った。武次の目がそれを素直に追う。あぁ、と漏れた声に青年はにっこりと笑った。そうすると猫みたいな目が細められてかわいらしい顔になる。

「良かった!あのさ、ここどこか分かる?オレ、迷子なんだ」

 青年の言葉に武次は目を丸くする。こんな大きな迷子はあまり見たことがなかった。いや、大人だって迷子になるだろう。初めての場所ならばそれもそうだ。しかし、青年は初めて来た場所という目をしていなかった。どちらかというと困りきっていることだけがうかがえた。

「あのさ、宮口って駅、分かる?オレ、そこに行ければ良いんだけど」

「宮口、ですか?」

「うん、そお!」

「だったらこの道を真っ直ぐ行って三個目の信号を左折したところにある駅で電車に乗って……」

 武次が説明をしているうちに青年の顔が曇っていく。

「ちょ、ちょっと待ってな。真っ直ぐ行って四つ目で右折だっけ?」

「いや、三つ目で左折です」

「うーん、聞いても無理そうだな。……おじちゃん、この後空いてる?オレを宮口まで連れてってくんない?」

 青年はそう言いながらゆっくりと武次を見た。すがる子犬のような目には逆らえない。それに、元々予定はなかった。宮口に行く予定もなかったが、無愛想だなんだと言われる武次に声をかけた青年に興味がわいた。

「良いですよ」

「おっ、サンキュー!オレ、新ってんだ。おじちゃんは?」

「武次です」

「かけじ?あは、おじちゃんっぽいな」

「俺っぽい、とは?」

 新はそれには答えなかった。かわりに鼻歌を歌い出した。上手な鼻歌だった。武次に音楽は分からないがとても上手かった。

「新くんは、歌好きなんですか?」

「うん!あと、呼び捨てで良いし、敬語も取れば?オレのが下でしょ、歳」

「ちなみにいくつ?」

「うんと、二十六?だったかな?」

「二十六?!」

 そこまで離れていない。しかし新は無邪気というか子どもっぽい。顔も童顔だ。おかげで高校生と言われても納得しそうだった。

「おじちゃんは?」

「……三十二」

「六つか〜。じゃあお兄さんのが良い?」

「いや、おじちゃんで……」

 武次は少し老け顔で、年齢より上に見られることもあった。だから仕方ないのだ。年齢的にもおじちゃんの方がしっくりきたのも理由の一つだが。

「新は、宮口に何をしに行くんだ?」

「うん?んっとね、演奏会!」

「演奏会?」

「そうそう。いちお、有名な楽団なんだ。日本公演するために帰国中!」

 しかし新はスーツケースすら持っていなかった。武次の視線に気付いた新は二週間ぐらい前から日本にいるから荷物はない!と笑った。

 だんだん駅が近付いてくる。武次は財布とICカードと携帯電話しか持っていなかった。

「お金はあるのか?」

「んっと、ICはある」

 新はポケットから緑色のカードを取り出した。それをかざして改札内に入る。

「どっち乗るの?」

 この駅は二つの電車が停まるらしい。武次は停車駅を確認した上で三番のホームに降り立った。

「これ?」

 そこへスーッと電車が滑り込んできた。武次は行き先を確認するとそれに乗り込んだ。新も後に続く。プシュウとドアが閉まる。昼間の時間帯であるせいか、人はポツポツとしか乗っていなかった。

「どれくらいで着く?」

「十分ぐらいだな」

「近いんだな」

 新は席に座る。黒のスニーカーに包まれた足が前後に揺れる。武次はその隣に座った。新は興味なさげに窓の外を眺めていた。少しずつ景色が都会に近付いていく。普段からビルばかりのところにいるせいか、武次には新鮮だった。

「おじちゃん」

「うん?」

「……ありがとう」

 武次が新を見れば、新は顔を伏せていた。その表情は見えない。

「オレさ、しょっちゅう迷子になるんだ。だから一人ででかけるなって言われてて」

「うん」

「でも、何回も来てるし。ほんとは差し入れ、買おうとしてたんだ」

 新はポケットからメモを出した。そこには『三田原屋』と書かれていた。聞いたことのない名前だった。武次はあの辺りに住んでいるが、まだまだ知らない場所が多いんだなと実感した。

「ここのパン、美味しいんだ。謡がきっと気に入る。そう思って」

 ーーなのに、駄目だなあ。

 新は笑う。小さく見えた歪んだ口角に情けなく思っていることが分かった。

「どうして俺に声をかけたんだ?」

「おじちゃん、オレのこと知らなそうだったし。オレも、その方が楽だからさ」

 ふっと顔を上げた新は諦めたような顔をしていた。有名人ということは追っかけもあるだろう。

「あのさ、もし暇だったらで良いんだけど」

 ーー演奏会、見てってくれない?

 新はポケットから一枚のチケットを出した。そこには関係者席と書かれていた。武次はそれを受け取る。

「良いのか?」

「うん。おじちゃんさえ良ければだけど」

「ありがとう」

 宮口、と駅の名が聞こえる。新の手を握って席を立つとホームにおりた。人でごった返した階段を上がり、改札を抜ける。案内板を見ながら西口に出ると目の前にいくつかのビルが飛び込んできた。あまり詳しくない武次でも、それらのビルのいくつかにホールがあることを知っていた。

「会場は?」

「エーデルホールってとこ」

「エーデルホールっと……。あぁ、こっちか」

 駅直結のデッキを通ってホールの入り口に辿り着く。エーデルホール入り口とあることを確認し、中に入る。中はふわっと暖かい。あちこちで人が駆け回っているのを見ながら武次は隣に立つ新を見た。

「おじちゃん、ありがとう」

 新は武次を見ていた。ふわりと笑った顔に、ドキリと心臓が跳ねた。新はスタスタと歩き出す。手を繋いだままの武次も引っ張られた。

「こっち」

 重い扉を開けたホールの中、座席が綺麗に並ぶ景色は武次には馴染みのないものだ。しかし新は気にすることなく階段をおりてステージに向かっていく。

 ステージの上には四人の青年がいた。一人は楽器を持ち、一人は携帯電話を持ち、一人はあわあわとしながら電話をして、最後の一人は椅子に座ってうなだれていた。

「おーい、みんな〜!」

 新は武次の手を繋いでいない方をぶんぶんと振った。その声に彼らが反応する。うなだれていた青年はパアッと顔を輝かせた。

「新!」

「あ~くん!」

 新は武次の手をはなし、ステージに飛び上がると淡い青の目の青年と紅い目の青年に抱きついた。新の背に回された腕にはぎゅうぎゅうと力がこめられ、くしゃりと歪められた顔に胸が痛くなった。それほど新を心配していたのだろう。

「あ、そうだ!ここまで連れてきてくれたおじちゃん!」

 新はパッと武次を振り返る。スポットライトに照らされている新は暗い客席にいる武次とは、きっと違う人種なのだろう。それは生まれなのか、はたまた顔の作りなのか、それとも能力か。キラキラとスポットライトに負けないぐらい輝く笑顔を浮かべていた。

「この後、見てってくれよな」

 パチンと星を飛ばすようなウインク。無邪気でいたずらっぽいその顔は、いっそアイドルだとしても納得してしまいそうだった。


 新を連れてきてくれてありがとうございました、と目の前に座る青年に頭を下げられて武次は慌てた。新と同じ歳だという淡い青の目を持った懐は、新とは違って冷ためな美形で大人びていた。子どもっぽい新と大人っぽい懐。二人を足して二で割ればちょうど良いのかもしれない。

「新はほんっとうに手がかかりまして。迷子になるのに出かけたいと言って聞かないんです」

「は、はあ……」

 目の前に出されたコーヒーにたくさんのミルクをいれて混ぜる。武次は老け顔のくせに甘党だった。ギャップが大きいと武次自身も感じている。しかし、すくすく伸びた身長や必要以上に低くなった声を除けば、武次を構成するほとんどが子どものままだった。未だにわさびは駄目だし、カラシも駄目。コーヒーもミルクを山ほどいれる。それでようやく飲めるぐらいの子ども舌だった。

「ちなみに今日の演奏会、聞いていきますよね?」

「それなんですけど、こんな格好でも大丈夫ですか?」

 武次は自身の格好を見る。グレーのモタついたトレーナーと何度も着たせいで擦り切れそうな薄い青のジーパンというダサすぎる服だ。まだ部屋着と言われた方が納得できる。

「ええ、大丈夫ですよ。俺たちの演奏会は『どんな格好でも』観賞できますし、マナーも厳しくないんです。曲の演奏中でも子どもが泣けば退出は可能です。トイレも我慢せず行っていいですし、お隣のお客様とお喋りしても大丈夫です。俺たちはお客様が楽しければ演奏会は成功だと思ってるので」

 懐はそう言ってにこりと笑った。

「あ、ただし携帯電話はマナーモードでお願いします。飲食も禁止なんです。ホールの方の片付けが面倒なのでそこだけは守ってもらいますけど」

 ずいぶんゆるい演奏会だ。もっと服やマナーが厳しいと思っていた武次は目を丸くする。厳しいルールがないならば気軽に見られそうな気がする。

「チケット代も日本だけ比較的安価にしています。俺たちの故郷なのでそこは交渉するんですけどね」

 片目を閉じて内緒話をするように微笑む。そんな懐は武次よりも大人びて見えた。

「おかげで日本公演は大人気です。新曲のお披露目とかもやるせいで即完売になっちゃうんです」

 懐はそう言いながらお茶を飲んだ。彼の目の前には武次が近くのコンビニで買ってきたお情けのロールケーキが置かれていた。さすがに手ぶらで行くのは良くないだろうと思って慌てて買ったのだが、もしかしたらアレルギーがあったのかもしれない。懐は一度も手をつけていなかった。

「な〜くん、そろそろ着替えといで」

 ひょこっと顔を出したのは祭という青年だった。黒い髪と紅の目が引き込まれるような魅力を持っている。着ている服はステージ用だろうか。キラキラとして綺麗だった。

「そっかぁ。ありがとう。祭、武次さんと少し話しててぇ」

「は〜い」

 懐がロールケーキを持って立ち上がる。いれかわるように祭がその椅子に座った。

「武次さん、で良い〜?あと敬語も外しなよ、歳上でしょ〜?あ、俺は祭ね、安東祭〜。あ〜くんのこと、本当にありがとう〜。携帯電話を置いてっちゃって困ってたんだ〜」

「いや、俺は当然のことをしたまでで」

「うん、それでも。俺たちはあ〜くんがいないと『欠け』たままだから」

 『欠け』に祭は力を入れた。それには何かしらの意味があるように感じた。しかし、武次は触れない方が良いことだろうとそれを流した。

「武次さんは俺たちのこと知らないってほんと〜?」

「う、そう、なんだ。『Blue Moon』だっけ?俺、あんまり詳しくなくて」

「うん、じゃあ教えたげる〜。あ、今日のこと、職場で自慢しちゃいなよ~。めちゃくちゃ誇れるからさ〜」

 祭はにこにこと笑いながら武次に教えてくれた。

 曰く、『Blue Moon』とは五人組の楽団で、満ちた月夜に演奏会をする。名前の由来は公演をたくさんやりたくないというリーダーの新の一存で『珍しいもの』となり、海外公演もするぐらいの有名さ。メンバーはお互いのことを大切に思っている。

「あとは担当楽器ぐらいかな~、知っとくと良いのは」

「担当楽器?」

「うん〜。俺はティンパニーなんだ。う〜くんはチェロ、な〜くんはバイオリン、ひ〜くんがハープ」

「新は?」

「ふふふ、あ〜くんはシンセサイザーなんだ〜」

 祭はふわふわと笑う。そうしていると年齢より幼く見えた。

「あ〜くんは複数の楽器の音を出すの。俺はそんなあ〜くんを尊敬してる」

 真っ直ぐな目は本当にそうだと武次に実感させた。祭はふざけた態度を取ることが多いように感じるが、それは照れなどを隠すためもあるようだ。今も耳が真っ赤だった。

「あ、おじちゃん!」

 そこへバタバタと新が駆け寄ってきた。武次はその姿を見て目を丸くして固まった。

 セーラー服のような襟のついた焦げ茶色のジャケットは珍しいノースリーブ。金色と明るい赤の糸で刺繍された薔薇は光を反射してキラキラと輝いて美しい。胸元には真っ赤なリボンが大きな花のように咲いている。

 腰辺りで中のシャツをインした焦げ茶色のズボンは太腿のところに細く赤い紐がリボンになっている。それが動くたびに揺れ、長い紐はヒラヒラと蝶のように舞う。ステージで踊ったならばきっと映えるだろう。

 中の白のシャツは黄色のベストがくっついているようだ。袖口にかけて一度大きく膨らみ、袖口できゅっと絞られている。緩急のしっかりとしたシャツだった。

「うわ、かわいい」

「ふふ、ありがとうございます」

 おそろいの衣装を着た謡がやって来る。どうやら謡が衣装を担当したらしい。思えば祭も同じ衣装を着ていたが、新の衣装が一番綺麗だった。刺繍もジャケットも、ズボンだって同じなのに、新が一番輝いて見える。

「これ、懐には似合わないって言って却下されそうになったんです」

 武次は懐を思い出す。たしかに彼にはあまり似合わないかもしれない。しかし少なくとも新と謡と祭にはよく似合っている。

「懐のだけちょっと色が違うんだよな!」

「うん。配色を考えるの、大変だったんだよ」

「お疲れ〜、う〜くん」

「そう言えば、光は?」

「あはっ、自販機!緊張してた!」

 新の言葉に謡は肩をすくめた。いつものことなのだろう。武次は先ほど会った光を思い出す。たしかに真面目な雰囲気だった。

「あ、おじちゃん。そろそろ行った方が良いかも」

 時計を見れば演奏会開始の十五分前だった。武次は慌ててコーヒーを飲み干し、客席に向かう。

「おじちゃん!」

 扉を押そうとしたその瞬間、新に呼び止められて慌てて振り返る。新がにぱっと笑う横で祭がニタリと笑って謡がにこりと笑っていた。新はばっと右手をあげる。

「楽しんでってくれよな!」

 それだけ。たったそれだけで期待が胸を埋め尽くした。きっとこれは、そう、高揚感だ。面白いアトラクションを前にした子どものように、武次は笑った。その顔はいつも不機嫌だ無愛想だと言われる武次にとって珍しいぐらい安らいだ、それでいて興奮を隠しきれない子どものような笑みだった。

 新はそれを見てやっぱり良い人だと心の中で呟いた。

 扉を開けて客席に向かう武次の背を三人は見送った。


 演奏会は一言では表せないほど良かった。楽器の音も五種類以上あった。どんなからくりかは分からないが、それで良いと思った。関係者席という特殊な席にも関わらず、ステージ上の彼らはファンサービスをしてくれた。本当に楽団の演奏会らしからぬ演奏会だった。

「おじさん、初めてなん?」

「こら、オト。やめなさい」

 演奏会が終わっても興奮冷めやらぬ武次は立てずにいた。すると後ろに座っていた子どもが声をかけてきた。オトと呼ばれた子どもは左目だけ美しい月色を持ち、右目は眼帯で隠していた。

「すみません、オトが」

 そう言った子どもの保護者と見られる女性は美人だった。美しい薄桃色の豊かな艶々とした髪をおろし、それは波に漂う海藻のようだった。顔立ちは冷たげに見えるが、ただ神経質なだけかもしれない。

「でもな、うーさん。初めてやったら言っといた方がええで」

 オトという子どもは眉を下げた。

「えっと、なにを?」

「ここまでが一般人も参加できる演奏会やよ。関係者はもう少し見れるんよ」

 くすくすと笑う顔は整っているせいか人形のように見えた。ゾクリと背筋を寒気が走る。知ってはいけないことを知ってしまったかのような気分だ。

「オト。喋りすぎだよ」

「おん、うーさん」

 オトは口を閉じてステージを見た。そこにはラフな格好に着替えた五人が立っていた。さっきの衣装も素敵だったが、ラフな格好でも輝いて見えた。

「兎月!それにオトも!あ、おじちゃんもいるじゃん!早くおりてこいよ」

 新だった。兎月と呼ばれた西洋のドレスを着た美人がオトと共に関係者席から一般席へと向かう。なんとなく武次も追いかければステージに最も近い席に兎月とオトは座った。武次もそれに倣う。

「来てくれてありがとう!これはオレたちからのアンコールだ!」

 次の瞬間、謡がギターを持ってやって来た。その後ろにはベースを持つ懐、マイクを持った光がやって来た。既にステージにはドラムがセットされ、祭が座っていた。細いスティックがスポットライトを受けて輝く。

 新がシンセサイザーの前に立ち、音を出す。それに合わせてギターとベースが音を出す。それを光がじっと見ていた。

 音がおさまると三人は光を見た。そして小さく頷く。光は頷き返し、ドラムの前に座る祭を見た。祭は小さく頷くとスティックでリズムをとった。

 叫ぶような声と共に曲は始まる。歌っている光の顔は演奏会で見た中で一番凛々しい。切なく寄せられた眉も、何かをこらえるように唇を噛む仕草まで色っぽい。

 ギターもベースもシンセサイザーも、そんな光を包みしっかりと支えている。最年少だと教えられなければ、その堂々とした振る舞いに新と同い歳だと思っていただろう。

「すっげぇ……」

「うーちゃんがスゴいんは当たり前やで!」

「オトッ!」

 静かに怒る兎月を横目で見ながら武次はステージをじっと見た。演奏会で披露していた曲はオーケストラ顔負けのクラシックはもちろん、子どもでも知っているようなアニメの主題歌、ドラマの挿入歌などジャンルは様々だった。

 なにせこの演奏会は手拍子もオッケーだったのだ。手拍子のリズムに合わせた演奏などは、会場が一体になって面白い体験だった。

 しかし、それだけでない。彼らは打楽器での演奏もやってくれたし、こうしてバンドのような演奏もしてくれる。たった一回の演奏会でオーケストラやバンドのライブに行ったかのような気分になる。それは、それぞれの技術があるからだろう。

 スポットライトの下で笑顔で演奏する彼らは、キラキラと輝いて見えた。武次はその光景をしっかりと目に焼き付けた。


 武次はそれから少しだけ変わった。『Blue Moon』のニュースを片っ端から見て、雑誌に取材が載るならば即購入、チケットを取ろうとパソコンにかじりついたこともある。完全に『Blue Moon』ファンと言っても過言ではなかった。

 しかし、武次はその痕跡をアパート以外では一切見せなかった。だっていい歳をした大人が夢中になっていることに恥ずかしさを感じていた。だからこそ、小さなアパートの部屋以外では無愛想な『初丹武次』を保ち続けた。だから、同僚にも演奏会に行ったことを教えなかった。

「初丹さん」

 隣のデスクに半年ほど前にやって来た後輩の柚木原(ゆずきはら)は時計を見た後、にっこりと笑った。焦げ茶色のふんわりした髪が揺れる。丸くてちょっと大きな目がキラリと輝く。

 武次と違って愛想も良くかわいらしい雰囲気のザ・後輩という感じだ。武次の部署は基本的に暇なので様々な部署を手伝いに行くが、取り調べの多い武次と違って、柚木原は聞き込みなどをやって、色々な部署でかわいがられているらしい。

「なんだ?」

「ランチ、行きません?」

「あー、悪い。今日は約束してんだ」

 武次が言うと柚木原は驚いた顔をした。

「初丹さん、友だちいたんすね」

「……失礼だな、お前」

 ぽかっとその頭を叩きたくなったが我慢した。

「えー、でも俺、初丹さんのお友だち、見てみたいっす」

 武次は嫌そうな顔をした。なにせ相手は新である。最近、昼食のお誘いのメールが来ていた。今までランチらしい時間に休憩が取れるか分からなかった。しかし今日は『をちみず』が予告を出してくれたおかげで準備などを午後にする都合で昼食の時間がちゃんと取れそうだった。さっきメールしたところ、すぐに返事が来た。どこにでもあるファミレスだが場所をリンクごと送られてきてちょっとドキドキした。

「良いじゃねーか、行ってこいよ」

 口をはさんできたのは上司である。ちょび髭が少しだらしない感じの男だ。

「……聞いてみます」

 さすがに武次の一存で決められるものではない。新は有名人である。柚木原がミーハーとは言わないが武次みたいなタイプではないことはハッキリしている。

 電話をかけるとスリーコールで出た。新です、とは名乗らなかった。そこで武次が名前を口にした。するとパッと明るい声が聞こえてきた。

「おじちゃん!どったの?都合悪くなった?」

「いや。同僚が一緒に行きたいって言ってんだけど」

「あはっ、大丈夫!今日は謡と行くからさ。店の前で待ってて」

「分かった。午後にやることできたから早く行くかも」

「うん、大丈夫!おじちゃんもお連れさんも気をつけて」

「新も。謡にもよろしく言っといて」

「はーい!」

 通話を終えて柚木原たちを見る。するとギリギリと睨んできていた。上司の睨む顔はなんとも言えない迫力がある。柚木原は恨みがましい目を向けてきていた。

「ずいぶん歳下っぽいじゃないか」

「そう、ですかね。六つぐらいだったはずですけど」

「どんな縁で?」

「迷子だったところを案内して」

 武次は言いながら面倒だなと感じた。新たちにはやく会いたいと思い、財布と携帯電話をポケットに入れる。

「行ってきます」

「初丹さん!」

 柚木原も慌てて準備をして武次を追いかけた。上司がしっかり探ってこいという目で二人を見送っていた。


 ファミレスの近くに行くとほとんど変装をしていない謡と新がいた。武次に気付くと新がぶんぶんと手を振った。駆け足で近付くと顔を輝かせた。

「待たせたみたいだな」

「ううん、大丈夫」

「ちょっと前に着いたばかりですよ」

 新と謡はそう言いながら後ろにいる柚木原に興味津々な目を向けた。

「柚木原だ。後輩」

「柚木原っす。よろしく」

 にこっと笑いかけた顔はキラキラしている。新たちと同じぐらいの年齢のはずだ。

「オレは新。こっちが謡」

「謡です。よろしくお願いします」

 和やかな挨拶を終えて四人はファミレスに入った。ランチタイムではあったが立地の関係なのかあまり人がおらず、すぐに席に案内された。素早く座ると謡がメニューを広げる。

「新は何にする?」

「んっと、ドリア!謡は?」

「僕はハンバーグにしようかな。デザートはどう?」

「うわ、ティラミスがあるんだな。それにしよっかな」

 二人は器用にメニューを上下反対に見ながら決めていく。見にくいはずだがそんな素振りは一切見せない。

「初丹さんはどうします?」

「俺もドリア。柚木原は?」

「ハンバーグにします!」

「じゃあ、決まりですね。新、それを押して」

 謡に言われて新が押しボタンを押した。ポーンッと音がして少しして店員がやって来た。注文を伝えると確認をされ、そのままオーダーが通った。

「あの、新さんたちは何してるんすか?」

「あはは、自営業?っていうの?」

「僕たちは演奏家です。今は日本で公演と休息をとってます」

「へぇ、演奏家。有名っすか?」

 武次はその言葉におや、と思った。人のことを言えないが武次も『Blue Moon』を知らなかった。

「ん。『Blue Moon』っていえば分かるか?」

 バンッ。

 柚木原が立ち上がっていた。その肩が震えている。

「え、あ、あの……?!」

「そうなんです。『Blue Moon』は僕たちのことですよ」

 謡は椅子に深く座って背もたれに寄りかかった。

「え、なんで初丹さん……」

「いや。言ったろ。迷子だったって」

「嘘じゃないぞ。おじちゃんに助けてもらったし!」

 新が胸をそらす。ドヤ顔をしているが謡が困ったような顔をしていた。今日だって一人で来られなかったところから、迷子になりやすいということは演技でもないようだ。

「なんで俺じゃなかったんすよ〜」

「柚木原さんだったらオレは声をかけてないな!」

「え、なんで?」

「オレのこと知ってそうだもん」

 新の言葉に柚木原はガックリと肩を落とした。名前だけ知っていたんですよ、と口にしている様子は子どものようだった。

「メディアへの露出、少ないもんなあ」

「演奏会に来ないと姿は見られないしね」

「あ、でもCDとかはあるじゃん」

「あれは曲だけ収録してるんだよ。映像あっても顔とか見えない角度とか逆光とか利用してるからね」

「初丹さんいーなぁ」

「おじちゃんは良い奴だぞ!」

 微妙に噛み合っていない会話を聞きながら武次はメニューをしまった。そこへハンバーグがやって来た。謡と柚木原がお先に、と言いながら食べていた。それをじっと見ていた新に気付いた謡が一口分だけ切って新に与えていた。新は目を輝かせて食べると美味しい!と口にした。

 一人じゃないランチは意外と楽しいものだった。


***


 あのランチの日からしばらく経ったある日、家のチャイムが鳴った。

「どちら様で?」

「おじちゃーん」

 聞こえた声にガバッとインターホンにかじりついた武次は悪くない。そう、少しも悪くないだろう。だってそこにいたのは新だったのだから。

「あ、新?」

 大慌てで玄関の扉を開ければ新が立っていた。その後ろには青い顔をした祭がいた。

「えっと、」

「あのさ~、新を一晩預かってくんない〜?」

「え?」

 祭曰く、今、懐が珍しく体調を崩し、謡と光は彼の看病をしているらしい。

「けどそれなら俺のところじゃなくても」

「インフルなんだ〜。懐はすすんで自主隔離してたけど、謡にも症状が出始めて〜。さすがに明日からのホテルはなんとか取れたんだけど今日は無理で」

「それならおじちゃんのとこが良いんじゃないかって!比較的近いし!」

「いや、なんで俺の住所……」

「この前、教えてくれたでしょ〜?」

 そう言われて武次は思い出す。日本滞在中に新と会えるようにと携帯電話の番号と住所を教えたのだった。

「でも、だとしたら電話でも」

「出なかったからでしょ〜」

 武次は携帯電話をポケットから出す。見れば山ほど不在着信があった。武次は申し訳ない気持ちになった。今日は先ほどまで寝ていたのである。家に帰ったのが日付をこえる直前だったので仕方ないが。

「ご、ごめん」

「んーん、いいんだ。おじちゃん、大変だもんな」

 新はそう言いながら武次の背後を見る。ここは狭いアパートの一室。ベッドという上等な物はない。濡れせんべいのようなぺたんこの敷布団とかけ布団。床にゴミが落ちていないだけマシかもしれない。

「ご、ごめん。片付けるから」

「あ、ならオレもやるよ。ってわけで祭。明日、迎え頼むな」

「オッケ〜。ふふっ、あ〜くんのことよろしくね〜」

 祭はそう言って武次にボストンバッグを渡す。バイバイと手を振ってボロい階段を軋ませながらおりていった。

「今日一日、よろしくな!」

 新はにっこりと笑った。それを見て武次は笑い返した。荷物を持ったままリビングに向かうと新は靴を脱いでついてきた。

 リビングにやって来た新は目を丸くした。それほど汚くなかったからだろう。独身男性の一人暮らしにしては荷物も少なく、質素な自覚は武次にもあった。

 しかし、あまり家に帰ってきていないと分かるぐらいには埃っぽかった。掃除機を深夜にかけるわけにもいかず、結局何もせずに寝たことを武次は思い出した。

「掃除機だけ、やるか」

「あ、おじちゃん、クイックルない?掃除機より早いし楽だぞ」

 武次はうなずく。壁にたてかけていたそれをとるとシートをつけた。新がそれで床を掃除していく。

「おじちゃん、食べ物は?ないなら買いに行こ!」

「ああ。スーパーなら近いぞ」

 安いスーパーが近くにあったことも、この部屋に決めた理由である。駅からは少し遠いが、この辺りには地下通路も多く、夏は涼しく冬は暖かい。しかもこれが駅まで繋がっているのだから言うことなしだ。

「あはっ!じゃあ早く行こ!」

 無邪気な子どものような笑みは本当に成人をした大人なのかと思う。武次はそんな風には笑えなかったし、周囲の人の満面の笑みも、ここ数年ぐらい見ていない気がする。

 武次は冷蔵庫を覗く。買い物に行くならば必要だった。

 冷蔵庫の中は賞味期限の近い卵と豆腐、油揚げ、それと味噌などの調味料しかなかった。冷凍室の中には枝豆と唐揚げ。完全にお酒のツマミだ。野菜室にはピーマンやモヤシ、キャベツとレタスが鎮座していた。

 冷蔵庫の調査を終えて武次はため息をつく。そう言えば五日ぶりに家に帰ってきた。いつでも家に帰れるわけでもないため、日持ちするものを選んで買い、その上でなるべく冷蔵庫を空にするようにしていた。

「おじちゃん、終わった!行こ!」

 新はシートをゴミ箱に捨てるとウキウキとした足取りで玄関に向かった。武次は買い物袋と財布を持つとポケットに鍵をいれて新の後を追いかけた。


 近所のスーパーで買い物を終えた帰り、おばちゃんたちの井戸端会議の声が聞こえてきた。普段の武次ならば気にしなかったが話題が問題だった。

「今日、『をちみず』が来るんでしょう?」

「そうそう!今日はどこもその中継でしょ?まあ、活動再開してから五回目だし」

「それに人気だもの!シルクハットでほとんど見えないけどイケメンだって噂だし!」

「でも、今回狙われてるのって壊れたオモチャのピアノでしょ?それもあの忌々しい……」

「しーっ!本来ならゴミなのに博物館に展示されてるんだもの。価値があるはずよ」

 武次の足はピタッと止まってしまった。手を繋いでいた新が不思議そうな顔をした。しかし武次はしばらく動けなかった。

「おじちゃん?」

 ハッと意識を戻すと新がじっと武次を見ていた。その目は武次の追う『をちみず』のシンによく似ていた。思えば、その背も声も、よく似ている。

「新は……、『をちみず』を知ってるか?」

 武次の言葉に新は首を傾げた後、名前は聞いたことがあるけど知らないぞと言った。

 ドッと肩の力が抜ける。武次は大きく息を吐き出した。そうだ。新が、『をちみず』のシンなわけがない。だって、シンはもっとこう、大人っぽい。新よりもほんの少しだけ大人のような気がする。

「おじちゃん、『をちみず』って?」

 ぐいぐいと新に手を引かれて武次はようやく歩き出す。

「『をちみず』は怪盗の名前だな。五人組の怪盗だ」

「五人で『をちみず』?」

「そうだな」

「ふうん」

 新はぼんやりと空を見上げた。武次はそれを見ながら歩く。空は普段となんら変わらない。しいて言うならば、無駄に青々としていて広いぐらいだろうか。

「おじちゃんは行かなくて良いの?」

「え?」

「だっておじちゃん、刑事でしょ?」

「……教えたっけ、俺」

「んー、なんとなく」

 その返答に新が察しただけだと気付く。しかし、武次はたった二回、新に会っただけだ。言葉を交わした回数も少ない。それなのに分かるだろうか。

「ね、せっかくだから見に行こうよ」

「え?」

 新は笑う。それは花火大会に行こうとでも言うかのようだった。

「今日、非番でしょ?見学ってことでどうだ?」

 見学。武次はその言葉に惹かれた。

「おじちゃん?」

「……いいよ、行こっか」

「あはっ、やったぁ!」

 嬉しそうに買い物袋を振り回す。遠心力のおかげか、中身は飛び出さなかった。

「じゃあ早く食べなくちゃ!」

「そうだな」

 武次と新は普段よりもはやいペースで歩き出した。


 早めの夕食を食べて地下鉄に揺られて辿り着いた駅は人でごった返していた。

「新、はぐれるなよ」

「うん、大丈夫」

 背の高い武次は自分を目印にすることも考えていた。しかし、こんなに人がいては動くことも難しい。というか、このままでは圧死しそうだ。

「あ、ここ出口だ」

 ぐいっと繋がれた手が引っ張られる。そのまま人ごみから抜け出せた。どうやら地上に出るエレベーターのようだ。丸い窪みはそれまで歩いていたところから見ればがらんどうの空間にしか見えない。

 カチッとボタンを押してエレベーターが来るまで待つ。山のような形がくっきりと光っていた。

「『をちみず』って人気なんだな」

「そっか。新は知らないんだな」

 新は『をちみず』のことを本当に知らなかった。話題になることも多いのにと武次は驚いたものだ。だけど、『Blue Moon』として忙しい新ならば、知らなくても仕方ない。

「『をちみず』は三ヶ月ぐらい、活動を休止してた」

「んん?そのまま消えてないのか?」

「ああ。一ヶ月半前に再開してから今日で五回目だ」

 彼らが休止した理由は分からない。いや、正確に言えば武次は知っていたが誰にも話さなかった。武次自身も、あの時シンに言われたことを理解できていなかった。

「あ、きた」

 エレベーターはゆっくりと口を開いて乗っていたご老人をおろした。杖をついた腰の曲がった老人だった。人ごみをかきわけられるのか不安になるほどの腰の曲がり具合だった。ご老人はよたよたと歩いて人ごみに消えた。

「行こ」

 エレベーターに乗り、地上階のボタンを押す。扉が閉まり、エレベーター内は小さな密室になった。暗いコンクリート剥き出しの柱を眺めていたらあっという間に地上に着いた。扉が開くと、外は薄ぼんやりとしていた。それもそうだ。もうすぐ日が暮れる。彼らが予告する時間はだいたい、月が頂点にいる時だった。

「わ、すごい人」

 見れば周囲は黒い格好をした人で溢れ返っていた。寒さが厳しくなってきている今日この頃、人々は温かい格好をして来ているのだろう。刑事であれば早く帰ってくれと願う光景でも、今は一般人だ。そこまで強くは思わなかった。

「どこなら見えっかな」

「えっと会場はたしか」

 屋外のテーマパークの広場。そこは周囲を一般人と警官に囲まれた、展示場所としては狭い場所だった。

 今回狙われているのはオモチャのピアノだ。大きさは二歳ほどの子どもが横に座ってバランスが取れるほど。曰く付き、と言われるからにはそれなりの話が付随している。それが二十年以上前に発生した宅配物連続爆破事件である。

 その最後の被害者である上丘満子(かみおかみちこ)とその娘、瑠璃香(るりか)の所持品だった。いや、正確に言えば、満子の息子の物だったが、当時は瑠璃香のオモチャになっていた。息子は当時四歳。瑠璃香は一歳と半年ほどだったという。

 二人はあまり言葉は良くないが、この連続事件の最後の被害者にふさわしい被害を受けた。それまでの三倍の火薬がこめられ、遺体が誰か分かりにくくなるよう調節された爆発物は、二人の表面だけを黒焦げにした。家はかろうじて形を保っている程度。このまま崩れた方が良いと言えるほどであった。

 たしか、遺体の確認をしたのは息子の幼馴染みの両親だったか。息子もそこの家に養子に入ったらしい。その家が古道だったはずだ。今の、その息子の名前は、古道新。

 そこまで思い出して武次は隣を見た。隣にはへにゃりと笑う新がいた。そしてハッとする。

 武次は今、何をしていた?もし、ついさっき考えていたことを無自覚に話していたとしたら。いや、それよりも、この新という青年はーー。

「おじちゃん」

 処刑台に向かう罪人のような気分で武次は新の言葉を待った。

「見に行こう。な?」

 寂しげで、でも綺麗な笑みだった。武次はそれで悟った。自分はどうやら宅配物連続爆破事件について話してしまったらしい。そして、新は最後の被害者の息子で、その事件のことを忘れていた、ということを。

 幼い子どもには酷な事件だった。だから忘れていたっておかしくない。けれど、さっきの反応は。

 忘れていたことをひどく驚いているようだった。


 『シン』はゆっくりと深呼吸をする。活動を再開してから屋外に獲物が置かれるようになった。一般人がいるという状況は逃亡を考えると楽であった。しかし、必ず頭上から現れないといけないのは少し面倒であった。いい加減、地下の道を探った方が良いかもしれない。

「そろそろだよ~」

 のんびりと間延びした声に『シン』はうなずく。夜に紛れるような黒いコートの下には真っ白な『をちみず』のジャケットが眠っている。

 ヒュウヒュウと吹く風にコートの裾がなびく。地上よりも風が強いのはビルの上にいるせいだろうか。

「では、行きます」

 『シン』らしくない言葉と共に彼はコートを脱ぎ捨てる。トンッとビルから身を投げた。


 上から白いものが降ってくる。よく見ればそれは人だった。武次はそれをじっと見る。バタバタとはためかせる濃い青のネクタイにそれが『をちみず』だと確信した。しかし、誰も気付いていない。当前だ。誰も頭上なんて確認しない。

 それはそのまま速度を落とさずに落下してきた。普通であれば怖いのに、慌てもしなかった。よく見れば、マントがパラシュートのようになっていた。それにより見ているより速度はないのだろう。

 誰かがそれに気付いたタイミングでゆっくりとパラシュートがマントに戻り、彼はゆっくりと地面に着地した。それだけで周囲から歓声がおこるのだから世間がどれほど注目しているのかよく分かる。

「こんばんは。あれ、いつもの人は?」

 ニタリと笑う口元は遠いところにいる武次にも少しだけ見えた。高く、子どもと大人の境にいるかのような声に白いシルクハットからチラリと見える寂しい夕陽色の髪。間違いない、シンだ。

「アイツは休みだ」

「ふうん。ま、いっか」

 ガラスケースの中に鎮座した古いオモチャ。それを見て『シン』は小さく笑った。武次はそれをじっと見ていた。

 いつもと同じようにガラスケースがパカッと開けられる。武次が関わってきた『をちみず』絡みの事件では、ガラスケースのフタはかたくしめられており、開けるには時間がかかるものを使用していた。それでも彼らはいつだって簡単に開けてしまう。だいぶ改良を重ねたはずだが、そんなことは知らないと言いたげである。

 『シン』はオモチャを抱えるとジャケットの内ポケットから数枚のカードを出した。赤と白のダイヤが敷き詰められたカード。武次はパッと下を見た。その一瞬の後、カッと辺りが真っ白になった。

 武次はバッとそちらを見る。すると『シン』は一瞬で着替えると一般人に紛れた。寂しい夕陽色の髪も紛れやすい黒になっていた。盗んだオモチャのピアノはどこからか取り出したリュックの中にしまわれる。黒いコートを着てリュックを背負った姿はそこらの一般人と変わらない。

 武次はそれを追いかけようとしたが、その手を新が引いた。武次が新を見れば新のエメラルドのような目はがらんどうだった。

「おじちゃんは、『をちみず』をどうするつもり?」

「どうするって……」

「悪いことって言う?彼らの行動は間違ってる?悪だって、お前らのせいでって言う?」

 仄暗いエメラルドに武次は目を丸くする。今まで新のそんな顔を一度として見たことがなかった。明るくてキラキラしていて太陽みたいに周囲を照らしていた。

 けれど今はそんな姿はどこにもない。触れることを躊躇うほど鋭利な刃を隠し持っているのではないかと思う。キュッと心臓が縮むような、変な脈拍になってしまう、そんな雰囲気をまとっている。

「オレは、悪くない。……いや、オレが悪い……、のか?」

 新がぐしゃりと頭をかきむしる。新はぎゅっと目を閉じては開くを繰り返している。何度かそうしてゆっくりと呼吸をする姿は手負いの獣のようだった。

「新……」

「おじちゃん」

 ゆうらりと新の目に浮かぶ感情を、武次は知らなかった。冷え冷えとしたその目を、武次はどこかで見たことがあった。

 ゆっくりと口角が上がる。歪なその笑みに欠けた月の光が当たる。

 その顔を見た武次はゆっくりと息を吐き出した。見覚えがあるわけだ。だって、その姿は武次が追い続けたものなのだから。


 初丹武次。初めてできた歳下の不思議な友人は、ここ二年ほど追いかけていた怪盗の一人だと気付いた。


***


 あの日、武次はどうすれば良かったのだろう。武次はたった七日前のことを鮮明に思い出せた。あの時感じた恐怖心も、彼の顔に浮かんでいたよく分からない狂気も、武次に眠ることを許さなかった。おかげでただでさえ老け顔なのにさらに凄みが増しているような気がする。

 武次が新を捕まえることはできなかった。気付いたら新は姿を消していた。武次のアパートには新の荷物があったのに、それも全て消えていた。部屋に残っていたのは楽しかった夕食の名残り。

 それら全てが武次を責めているようだった。

 いや、実際責めていたのだろう。だからこそ武次は寝られずにいたし、同僚たちには避けられてしまった。しかし、それも全て武次のせいだ。誰だって触れて良いことと悪いことがある。

 今回武次が触れたのは新にとって触れられたくない過去だったのだろう。きっと、思い出させたのは武次だ。知らないまま、が幸せだったはずだ。それを思い出させた。

 それだけじゃない。武次はせっかくできた友人を失った。新が『をちみず』のメンバーだと分かった時点で、おのずと残りのメンバーも分かる。

 『Blue Moon』は表の顔は楽団だが、裏の顔は『をちみず』という怪盗。

 武次はそれを上司に報告することもできた。けれど言えなかった。犯人隠避になろうが、言えなかった。それが罪悪感からなのかは、武次にだって分からなかった。

 あれから『をちみず』は再び活動を止めた。それと同時に武次の元に新からメールが届いた。急遽海外での仕事が入ったせいで挨拶もできずに発つことになったと簡単に書かれていた。

 きっと、それは嘘だろう。どうすべきか考えるために海外に行ったことにして武次と会わないようにしているのだろう。

 武次は頑張ってとメッセージを送っていつもの生活に戻っていった。ここ数日は年が明けたこともあって初詣客に混じってスリを捕まえる日々だった。年明けすぐが一番忙しく、他は泥棒などの対応がメイン。なんとも言えない仕事だ。

「初丹」

「はい」

 武次の上司は今、別のところにいる。声をかけてきたのは一般人を装う現在のバディの飯田だ。

 武次より温和な顔立ちだが性格はキツめだ。柚木原のような愛らしさもなく、細めの大人しい見た目ゆえに話していると違和感が拭えない。しかし、武次の顔立ちを気にしないレアな人でもある。

「なにを祈るんだ?」

「友だちに会えますように、ですかね」

「お前、その友だちは織姫か」

「まあ近いかもです」

「女?」

「いえ、男です」

 参拝客に紛れながら歩いているとふと飯田が足を止めた。視線の先にはぐすぐすと泣く子どもがいた。

「初丹はこのまま本殿とこ向かえ。こっち、やっとく。終わったら行くから合流しよう」

「はい」

 飯田は子どもの方に向かい、なにやら声をかけている。涙の滲んだ目元と真っ赤な頬に守ってあげたい欲がむくむくと浮かぶ。しかし武次は見た目で損をしているため、飯田に言われた通りに本殿の方に向かった。

「ひ〜くん、はや〜い」

「祭兄さま!しっかりしてください!」

「ちゃんと歩かないと不便だよ。しっかりして、祭」

「あ〜、う〜くんも冷た〜い」

 まのびした聞き慣れた声にそちらを見れば、謡と光と祭がいた。彼らの手には白い紙コップもある。ほわほわと湯気を上げているので甘酒か何かを飲んでいるのだろう、唇をペロリとなめる祭は無駄に色気を振りまいていた。

「あ」

「武次さん」

 パチリと目があった。無視されるかと思っていたが、武次の予想とは違って以前と変わらず声をかけてきた。

「武次さんも初詣でですか?」

 光がそっと駆け寄ってきた。武次には仕事があるが、それを口にすることは憚られた。おめでたい空気を壊すのも悪いし、潜入の真似事をしているので言いたくなかったとも言える。

「まあそんなとこかな」

「そっか〜」

「新や懐は?」

「さすがに人が多いしね〜。二人はお留守番」

 新の迷子癖は初詣ででは最悪だ。たった一人で家に置いておくには不安すぎる。そこでお目付け役として懐が残されたわけだ。

「武次さんは、新兄さまに会いたいですか?」

「……会いたいけど。でも、俺になんか会いたくないんじゃないか?」

「それを決めるのは新であって武次さんではないと思うよ〜」

「僕たちでもないしね」

「でも」

「うじうじしてなにか変わりますか?」

 いつの間にか足元を見ていた顔を上げれば真剣な顔をした光と目があった。その迫力に少し圧倒される。

「ぶつかって砕けたとしても何もしないよりは良いでしょう。心置きなく過ごすべきです。後のことは未来の自分に任せてしまえば良いんです」

 ーー今の自分よりは色々とできるはずですよ。

 光は微笑む。その顔はふんわりとしていて光の育ちの良さが滲んでいた。

「……来週、都合をつけるから」

「はい。待ってます」

 謡がそう言って頷いた。ぺこっと音がして祭が紙コップを潰す。どうやら甘酒は飲み終えたらしい。

「それじゃあ、また」

「うん〜」

「体調に気を付けて」

 ひらりと手を振った祭と律儀に一礼する謡は光と手を繋いで歩き出した。武次はその背を見送った。

「お前、知り合いがいたのかよ」

「う、うわっ、飯田さん?」

 不意に声をかけられて驚いて振り返れば飯田がいた。腕時計を見れば十五分は経っていた。

「まあ、はい」

「ふうん。あれ、『Blue Moon』だろ」

 飯田はそう言いながら本殿の方に向かっていった。武次は慌ててその背を追う。

「な、なんで……」

「演奏会に行ったことがあるからな」

「え、飯田さん、『Blue Moon』好きなんですか?」

「まあまあ。でも、あの演奏は好きだな」

 飯田はゆっくりと息を吐き出した。白い煙が少しだけ揺れた後、ほどけるように消えた。

「お前、後悔すんなよ」

 トンッと武次の胸を叩く。その手が何故か震えていた。


 翌週、武次は都合をつけて新を待っていた。初詣での後、すぐに新から電話があり予定を合わせた。

 集合場所は某有名カフェチェーン店前。駅からも近く、分かりやすい場所を指定された。しかし新は一人では来ないだろう。一緒に来るのは懐か祭か。

 そんなことを考えていたら、新がやって来た。その半歩後ろには光がいる。

「やあ」

「武次さん、こんにちは」

「光も来たんだ」

「同席はしませんよ。私は案内役です」

 光は唇だけで笑った。その顔にどこか見覚えがあった。

「新兄さま」

 新は光を振り返る。気まずそうにそらされた視線を、光に向ける。

「大丈夫です。新兄さまの思うままに行動してください」

「でも、」

「これくらいで私たちが離れるとでも?」

 ーーなめてもらっては困りますよ。

 ぽんぽんと新の背を叩く光は兄のようだった。

「また迎えに来ます」

 光は一礼して去った。武次は行こうと声をかけるち新は小さく頷いた。

 某有名カフェチェーン店は落ち着いた内装をしていた。オレンジの照明も、適度な柔らかさを持つソファーも、長時間滞在することを想定しているようだ。

 メニューを見てパンケーキを注文した。新はアイスティーを頼んだ。

「おじちゃん」

「うん」

「ごめん、この前は」

「うん」

「オレ、自分のことでいっぱいいっぱいだった」

 新の細い肩が揺れる。黒い髪が肩を隠した。

「俺こそごめん」

「……なんで」

「新のこと、なんにも考えてなかった」

「そんなこと」

「あるよ。俺は警察だから犯罪者とか捕まえないといけない」

「うん」

「新たちのことを調べた。それでこう判断を下す」

 武次は息を吸う。

「新たちを捕まえない」

 カランッと音がした。店員がアイスティーとパンケーキを持ってくる。失礼します、と去っていく後ろ姿を武次は見送った。

 新がアイスティーをかき混ぜながら飲む。小さく上下した喉仏から慌てて視線をそらした。

「それは、やっちゃ駄目なことだろ?」

「警察の俺は捕まえようとするけどな。プライベートでまで警察でいられないよ」

 パンケーキにナイフとフォークをいれる。一口大に切り、口に運んだ。生クリームの甘さとトッピングのベリーの酸味がちょうど良い。柔らかなパンケーキもほのかにバターと蜂蜜の香りがして武次の好みだった。

「だからこれまで通りだ」

 これまで通り。そんなことができるだろうか。いや、やるしかない。

 今の怪盗専門の部署は辞めるつもりだった。交番勤務に希望を出して、町の安全を見守りたい。派手な舞台はやはり武次には合わなかった。交番への異動願いは出したし、それも受け取られた。まだ場所は聞いてないが田舎が良いと武次は思っている。

「俺たちは友だちだろ?」

 知らないフリ、見ないフリ。今の生ぬるいこの『友だち』という関係が、武次には心地良かった。失うことは耐えられない。見た目のせいで損をしてきた武次は、見た目なんか気にしない人を、大切にしたかった。

「オレ、おじちゃんに会えて良かった」

 アイスティーを飲みきった新はゆっくりと武次を見た。

「悪人だって、お前が悪いんだって、言われると思ってた。やってることは悪いことだしな」

 武次はじっと新を見た。

「実は、やめようと思ったんだ」

 記憶をなくして、『をちみず』は活動をやめた。それは新や苦しんできたシンのためでもあった。しかし『をちみず』は活動を再開した。どうなるか分からない未来のために。

 記憶を取り戻した新は悩んだ。もうやめるべきだった、罪悪感に押し潰される前に。『Blue Moon』として生きるために。『をちみず』が消えることで、きっと様々な人が幸せになれる。

 だからーー。

「『をちみず』は消えるべきだと思ってた」

 でも。

「できなかった」

 『をちみず』をやめると言えばきっと優しい彼らは頷いてくれる。でも。

「きっと退屈だから」

 あのスリルが忘れられない。『Blue Moon』としては味わえないそれがなければ、きっと今以上に『欠け』てしまう。

「だからもう少しだけ付き合ってくれ」

 ニヤリと笑ったその顔は、武次が追い続けた怪盗そのものだ。

「やめるなんて言うなよ」

「しばらくは言わないさ」

「特に罪はないだろ」

「不法侵入になるだろ」

「気にしすぎ」

「おじちゃんはおおらかすぎ」

 ぷっと武次は笑い出した。新も笑った。目元に涙が浮かぶぐらい。どれほど笑っていただろうか。二人の息がきれる頃、ようやく笑いはおさまった。

「また会おうな」

「もちろん」

 たったそれだけの会話で全てが終わった。お互いに大切なことは話さなかった。武次は交番勤務になること、新は『をちみず』をそこまで長く続けないこと。けれどそれで良かった。それ以上はきっと友人からいう枠をこえてしまうから。

 お会計でそれぞれの分だけ払い、店を後にした。


***


 怪盗『をちみず』を知っているか。

 『欠け』た月の晩、彼らは五人で現れる。

 ある時、『をちみず』は表舞台に立たなくなった。その後、活動は再開されたが、五人で現れなくなった。

 『欠け』た『をちみず』は以前より遊ばなくなった。盗んですぐに消える。まるで一時の夢のようだった。

 それからまた少しして『をちみず』は五人で活動を始めた。以前のように逃げ回り、その鮮やかな手法に人々は舌を巻いた。

『We will steal your heart』

 それだけが書かれた予告状に一人の警察官が笑った。とっくに『心』まで奪われてる、と口の中で呟くだけに留めた警察官は交番の外に出る。

 もうじき夜が来る。『欠け』た月の晩だ。きっと今宵も、『をちみず』のファンが増える。それを思えばわくわくした。

 『欠け』た月を見上げ、遠い異国の地にいるであろう彼らを思い浮かべた。

「初丹!巡回行くぞ」

「はい」


 今宵も彼らはそろいの白と胸元に色違いの薔薇を携え、蝶のように舞うのだった。


 これは『欠け』た彼らの再生の物語。

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