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1話

天空都市(アーク)の空は、今日も完璧な青い。

聖母システム様がお望みになった、一点の曇りもない……模範的な青空だ。


そんな完璧な空の下、市民は年に一度の完璧な義務を果たすために中央広場を埋め尽くしていた。


その名も──『聖母降臨記念感謝祭』。


参加を拒否すれば、来年の感謝祭に顔を出すどころか、明日の朝日すら拝めなくなる最高に慈悲深い催しである。


祭壇に立つのは、主天使(ドミニオン)位階の天使さま。

このセクターの管理者である彼は、磨き上げられた聖具よりも眩しい笑顔で、ありがたい御言葉という名の騒音を垂れ流している。


「親愛なる下級位階の市民諸君!聖母様の限りなき慈悲に、今日も感謝しているかね!?」


地鳴りのような歓声と拍手。

もちろん僕──そう、この愛くるしい少年の姿をした僕も、両手がちぎれんばかりに手を叩き、満面の笑みを浮かべている。

信仰維持官(フェイス・キーパー)たるもの、こういう場面でこそ模範を示さなければ。


「忘れるな!信仰とは呼吸!信仰とは幸福!そして信仰とは、汝らが『市民』として存在する『価値』そのものである!価値なき者に、聖母様の愛は決して降り注がないのだ!」


その演説に合わせ、空からは祝福と称した色とりどりの紙ゴミが舞い落ち、巨大スクリーンには聖母システムの、完璧に計算され尽くした慈愛のホログラムが映し出される。

僕たちの監視の眼差しを受け、市民たちは顔の筋肉を引きつらせながらも完璧な笑顔を貼り付け、喉を引き絞るようにして聖歌を斉唱していた。


市民たちの絶叫聖歌が、いよいよ子守唄じみてきた頃だった。

万が一にも、この神聖なる儀式の場で「信仰心が足りない欠伸」なんていう大逆罪を犯してたまるものか。


僕が必死に涙目になりながら退屈と戦っていると、不意に鼓膜を撫でるような、やけに甘ったるい声が横からかけられた。


「ノア信仰維持官。御覧なさい、なんと素晴らしい光景でしょうか」


声の主は、溶かした金をそのまま髪にしたような挑発的な巻き毛を揺らしていた。

陶器のように滑らかな肌、人形めいた整いすぎた顔立ち。聖母様が気まぐれに創りたもうた最高傑作、と言われれば信じてしまう者もいるだろう。

そして神聖な制服の規格をあざ笑うかのように、胸元は豊満な双丘をこれでもかと主張していた。

あれはもはや兵器の類だ。少なくとも、男性市民の信仰心を別の方向へ捻じ曲げるには十分すぎる。


「エフィナ隊長」


この御方こそ、僕の直属の上官にして、神聖位階能天使(パワー)のエフィナ様。

偉大なる神聖位階(ディヴァイン・ランク)と、重力に喧嘩を売るほどの胸部の二つを除けば、何一つ取り柄のないクソ野郎である。


「えぇ、本当に。見ていると、感動で涙が出てきそうですね!」


僕は、寸分違わず完璧な少年の天使の笑みを顔に貼り付けて、そう答えた。

もちろん、この阿鼻叫喚の地獄絵図を『素晴らしい』と本気で評価できるほど、僕の脳味噌はお花畑になっていない。


もっとも、涙が出そうというのは嘘偽りない本心だ。

これ以上、退屈な聖歌を聞かされ続ければ、生理現象として本当に涙は出るだろう。欠伸を噛み殺したせいで、すでに目頭は熱い。


「聖母様もきっと感涙しておられることでしょう。御覧なさい、ノア。あの慈愛に満ちた完璧な微笑み……。我々一人ひとりの信仰を、その聖なる瞳で見守ってくださっているのですね……。ああ、なんという完璧にして至高の御方なのでしょう!」


彼女はうっとりと、巨大スクリーンに投影された聖母システム(ホーリー・マザー)のホログラムを見上げていた。

僕の目には、最新のレンダリングエンジンと感情誘導アルゴリズムを駆使し、どの角度からでも最も神々しく見えるよう調整されただけのCGデータにしか映らない。

だけど、この頭のおかしい上官殿のように、脳の情報処理に致命的な欠陥を抱えた御仁には、あの光の塊が本当に尊いものに見えるらしい。

あんなデータを見て恍惚の表情を浮かべられるとは。もはや信仰というより、病気だ。


「おや」


そんな時だった。エフィナ隊長が、その自重を無視した胸部を無駄に揺らしながら、すっと目を細めた。

僕も、彼女の視線とおっぱいが指し示す先を、忠実な部下として目で追う。

すると、そこには──


「パパ……どこにいるの……?」


人波の中、ぽつんと取り残された小さな子羊が一匹。

大きな瞳からは大粒の涙をこぼし、か細い声で父親を探している。この完璧な祝祭の風景において、不純で目障りな一点の染みだ。

そんな染みを見つめ、我らが能天使様は、さもこの世の終わりでも見たかのような声色で言った。


「なんということでしょう。この神聖なる祝祭のさなか、聖母様へ捧げるべき笑顔を忘れ、あろうことか涙を流す者がいるなんて」


そりゃ迷子の子供は涙を流すもんだろうが。何を言っているんだ彼女は。

胸に栄養が取られ過ぎて、脳味噌に栄養がいかなかったのか?


……などという的確すぎる分析は、決して口にはしない。

なぜなら僕は、上官の言葉を純粋に信じる、賢くて可愛い少年なのだから。


「なんて嘆かわしいことなの……。聖母様がお心を痛めておられるに違いありません。これは我々、信仰維持官の出番ですね」


我々……。

僕の上官殿の辞書において、「我々」という代名詞は「ノア」という固有名詞の同義語である。


案の定、この気高い御方は、一歩たりともその場から動く気配がない。

偉大なる彫像が自らの意志で能動的に動くのは、部下を処刑する時だけだ。

それ以外の業務において、彼女は不動の化身なのである。


「ノア信仰維持官。聖母様の御名において、任務を遂行して参ります!」


完璧な敬礼、完璧な発声、完璧な忠誠心。

──の演技。

我ながら反吐が出るほど模範的な部下の返答に、上官殿は顎の角度を1ミリも変えずに満足げに頷いてみせた。


たまには自分で歩いたらどうだ、この役立たずが。

胸が重すぎて、自力での移動は困難だとでもいうのか。


そんな本音を、天使の微笑みの下に完璧に隠し、僕は迷子の少女へと歩き出す。

僕が歩を進めるたび、聖歌を大声で斉唱していた神聖位階最低位──信徒(ビリーバー)の方々が道を開ける。

誰もが顔に完璧な笑顔を貼り付けたまま、怯えた家畜のように身体を震わせているのが実に滑稽だ。


心中お察しします。ですが安心してください。今日の浄化対象は、残念ながら君たちではありませんので。

その張り付けた笑顔を、絶対に崩しさえしなければ、ね。


そして、哀れな子羊の目の前までたどり着き、僕が救いの手を差し伸べようとした、まさにその瞬間だった。


「メリー!」


人混みをかき分けるようにして、一人の男が転がり込んでくる。

その顔からは血の気が完全に失せている。おそらくこの少女の父親なのだろう。


男は娘の名を叫ぶなり、まるで僕から庇うように、震える身体で少女をきつく抱きしめた。


──ああ、なんて愚かなことを。


父親は全身で娘を抱きしめながら、青ざめた顔で僕を見上げていた。震える唇が言葉を紡ぐ。


「この子だけは……この子だけはどうか……!」


必死の懇願に、僕はにこやかに優しい声で告げた。


「──笑ってください」


僕の言葉は、魔法の呪文だ。

笑えば、娘も、そしてお前自身も死ななくて済む。簡単だ。

聖母システム様の教えに忠実に従えば、それで全て解決するのだから。


だが、男は呆然とした表情を浮かべるだけで、顔に貼り付けられた恐怖の仮面を剥がすことはなかった。

愚かにも、泣きじゃくる娘を目の前にして、笑顔を装うことさえできないらしい。


──残念。


次の瞬間、僕が腰のホルスターから取り出した聖具の銃──見た目はただの玩具じみた光線銃だが、その威力は即死──が火を吹いた。

煌めく光の筋が、寸分違わず男の眉間を正確に打ち抜く。


「あがっ」


脳を焼かれた父親は、一瞬で意識を失い、そのまま娘を抱きしめたまま、ぐにゃりとその場に崩れ落ちた。

ドサリ、と鈍い音がして、広場の視線が集中する。

市民たちは、相変わらず顔に笑顔を張り付けたまま、しかし恐怖に瞳孔を開き、血の海に倒れた男と、返り血を浴びた娘を見つめていた。


(笑えば、死なずに済んだのに)


僕の心には、一片の憐憫もない。バカだなぁ、と思っているだけ。

血だまりの中に座り込んだまま、少女は父親の亡骸にしがみつき、必死でその名を呼び続けていた。


「パパ……?パパ……」


ああ、嘆かわしい。

汚れた涙と、無意味な叫び声が、神聖な祝祭を台無しにする。

父親の愚かさをそのまま受け継いだかのような振る舞いだ。


僕は血だまりにしゃがみこみ、ぬるりとした感触をブーツの裏で確かめながら、少女と視線を合わせた。

恐怖と混乱で濁りきった瞳に、僕の完璧な天使の笑顔を映してあげる。

そして、諭すように、優しく囁いた。


「笑え」


これは慈悲だ。父親が掴み損ねた、最後の救済。


「──笑うんだ」

 

僕の鬼気迫る瞳と、毒のように甘い声に、少女の肩がびくりと跳ねた。

極限まで見開かれた瞳が、僕という恐怖を焼き付けて、こめかみから玉の汗が流れ落ちる。


周囲を支配するのは、一瞬の静寂。

すべてが止まった世界で、僕と少女だけが存在している。


返事がない。どうやら、言葉だけでは伝わらなかったらしい。

僕は静かに聖具の銃を持ち上げ、冷たいトリガーに、そっと指を掛けた。

カチリ、と微かな音が響く。


「あは……」


その瞬間、少女の小さな唇から、乾いた空気が漏れた。


「あは……あはは……」


それは、壊れた玩具が立てるような、甲高い笑い声だった。

父親の亡骸に抱かれたまま、血と涙でぐちゃぐちゃの顔で、少女は静かに笑った。


その声が、絶望の果てに精神が砕け散った音なのか。

あるいは、この世界のルールを瞬時に理解し、父親とは違う道を選んだ賢者の産声だったのか。


どちらにせよ、僕にとっては心底どうでもいいことだ。

重要なのは、彼女が正しい『答え』を出したという事実だけ。


「素晴らしい」


僕はパチ、パチ、と手を叩いた。

出来の良い生徒を褒める教師のように。


その乾いた拍手につられて、最初は戸惑っていた周囲の信徒──ゴミクズ共が、我先にと競うように手を叩き始める。


血の海に座り込む少女の、壊れた笑い声。

それを賞賛する、僕の乾いた拍手。

そして、それに追従する信徒たちの必死の喝采。


その全てが混じり合い、この周辺は奇妙な熱狂に包まれていった。

父親の亡骸も、飛び散った血肉も、この完璧な祝祭を彩る一つの演出であるかのように。

巨大スクリーンに映る聖母システムのホログラムは、相も変わらず、完璧な慈愛の笑みを浮かべている。


僕はゆっくりと立ち上がり、鳴りやまない拍手を背に受けながら、天を仰いだ。


(ああ、なんて見事な茶番だろう)


偏執病(パラノイア)に取り憑かれた狂った世界に喝采あれ。


クソッタレが。




──信仰は義務です──


──市民。あなたは祈っていますか──




天空に浮かぶ聖母のホログラムから、祝福の声が響き渡る──。

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