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【第一話:夜泣き長屋と無銭の客】

纏めなおしました。

 江戸の町にも、深夜の静けさというものがある。


 人の声も、行き交う馬の蹄も、どこか遠くへ吸い込まれたように沈む午前四つ時(午前二時)。

 しかし、時折その静寂を破るのが、ひとつの声――。


 「うっ……ひっく……うぅ……」


 それは、男とも女ともつかぬ微かなすすり泣きだった。

 声の主は定かでなく、しかもそれが毎夜違う場所から聞こえてくるとあって、長屋の住民たちはすっかり寝不足になっていた。


 ──そして、ある朝。


 「どうにもなりませんよ、神原様。このままでは子どもまで体調を崩してしまいます……」


 長屋の一角に暮らす、青物売りの男が嘆いた。


 「夜中の泣き声、聞こえましたろう? 昨夜は裏手の納屋。今朝方には路地の角。その前の晩は屋根の上から……まるで、見えざる幽霊でも彷徨っているかのようですわ」


 俺は、その話にうなずきつつ、湯呑の茶をひと口。


 この町に来て三月。俺、神原左近は「浪人」を名乗ってはいるが、刀は抜かず、揉め事を拳で納めることで知られるようになっていた。


 そう、俺は“転生者”だ。現代で空手道場の師範をしていたが、通り魔から生徒を庇って命を落とし、気づけばこの江戸の町にいた。


 理由はわからない。ただ、己の信じる道を、刀ではなく拳で貫く。それだけを胸に生きている。


 「今夜、様子を見よう」


 俺が短く告げると、男は安堵の息をついた。


 そのとき、戸を控えめに叩く音がした。


 「神原様、失礼いたします……」


 現れたのは、細身の娘。年は十五か十六ほど。少しばかり着物の裾が乱れている。息は上がり、目元は赤く染まっていた。


 「父が……父が、いなくなってしまったんです……!」


 娘の名はおしの。近くの飴屋に勤めており、病の父とふたり暮らしだと聞いている。


 「昨夜、知らぬ男を家に泊めてしまって……朝、父もその男もいなくなっていて……」


 部屋に緊張が走る。


 「その男、どんな姿だった」


 「痩せて……目が鋭く、でも、どこか影のあるような……父の話では『宿賃がなくて困っている』と……」


 「娘がいて、見知らぬ男を上げるか普通」


 そうつぶやくと、青物売りが口をはさんだ。


 「神原様、まさか“夜泣きの声”と、その男に関わりが?」


 俺は立ち上がると、腰に刀を差し──だがそれは飾り。代わりに、拳を軽く握って確かめた。


 「行こう。まずは、おしのの家だ」



* * *



 おしのの家は、長屋の裏手にあった。簡素な造りの二間で、病床と思しき布団が敷かれたまま、主の姿だけが消えていた。


 「父は、あの男に酒をふるまい……話し込んで、すぐに打ち解けていました。でも、まさか……」


 おしのが肩を震わせる。


 部屋の中に争った形跡はない。畳に傷もなく、食器も倒れていない。

 だが、窓際の障子がわずかに歪んでいた。


 ──風にしては、妙だ。


 俺はしゃがみこみ、指で障子の縁をなぞる。すると、ひと筋、乾いた砂のようなものが指先についた。


 「……外へ出る前に、誰かがここに立っていたようだな」


 「えっ、でもそれは……」


 おしのが戸惑うように言葉を探す。


 「父は、立てないはずなんです。三年前に足を悪くしてから、ほとんど寝たきりで……」


 その瞬間、背中にひやりとしたものが走った。


 ──つまり、“歩けないはずの男”が、自ら外へ出ていった?

 それとも、連れ去られた……?


 「神原様……!」


 外から声がした。さきほどの青物売りだった。やや息を弾ませている。


 「裏手の納屋から、また声が聞こえたとのことです! さっきの町娘が、夜明け前に耳にしたと……!」


 俺は軽くうなずくと、部屋を出た。


 「おしの。留守を頼む。俺が、父君を連れ戻す」


 そう言い残し、青物売りとともに小走りで裏手の納屋へと向かう。


 朝焼けが町の端をうっすらと染めはじめたそのとき――


 納屋の戸の隙間に、人影があった。


 「待て!」


 俺が声を張り上げたと同時に、戸が開く音。中からひとりの男がよろめき出てきた。


 ……それは、片足を引きずる壮年の男だった。


 「おしのの……父君……?」


 だが、表情が違う。目は虚ろで、顔色は土のようにくすんでいる。

 明らかに“自我”を失ったようなその姿に、俺は思わず身構えた。


 すると、納屋の奥から、もうひとつの影が――


 「ふう……やっぱり追ってきたか、拳の侍」


 現れたのは、痩せた若い男。おしのの証言どおり、鋭い目をした影のような顔立ちだ。


 「てめぇが、“夜泣き”の正体か」


 俺の問いに、男はニヤリと笑った。


 「“夜泣き”なんて、そんな生ぬるいもんじゃない。あれはな、“喪失の声”ってやつだ。忘れられた者たちの、魂の呻きだよ」


 「戯言を」


 俺は一歩前へ踏み出した。拳を握る。


 「連れ去って、何をした」


 「ふっ……何もしてないさ。ただ、少し“歩かせて”やっただけさ。この男の魂を引き出して、別の足を与えただけのこと」


 その言葉に、背筋が凍る。


 まるで、死人を操っているかのような──


 「怪しげな術を使って人を弄ぶとは……生かしてはおけん」


 男は目を細めた。


 「その拳で俺を止められるなら、やってみな」



* * *



 俺は音もなく間合いを詰めた。


 男の動きは俊敏だ。だが、腕の振りは甘い。


 ──現代の実戦を知らぬ素人か。


 足元を払うようにして低い構えから回し蹴りを放つ。

 男の膝に寸前で当て止めし、バランスを崩させる。


 「ぐっ……!」


 倒れかけた男の首筋に、右拳を当てる。

 このまま力を込めれば気絶するだろう。


 だが。


 「やれよ……このままじゃ、また“あいつら”が泣く」


 男がうめくように言った。


 「……“あいつら”?」


 男は、虚ろな笑みを浮かべた。


 「死んだはずの家族を、もう一度歩かせたかった。それだけなんだ。たった一晩……あの人の声を聞けるなら、何でもするって思ったんだよ……」


 ふと、背後から音がした。


 振り返ると、おしのの父が、まるで意識を取り戻したかのように、ゆっくりと立ち上がっていた。


 「お……しの……どこだ……」


 かすれた声が、闇に沈む納屋の中に響いた。


 だが、目はまだ焦点を結ばず、どこか違う世界を見ているようだった。


 「この男の術か?」


 「……違う。もう、術は切れた。こいつは、残された“身体の記憶”で立ってるだけだ……」


 男の口調は、急に弱々しくなった。


 「おれの家族もな……ずっと、ずっと寝たきりだったんだ……。それでも、声が出るなら、目が合うなら、それで……いいと思った。お前には、わからないだろう……」


 ……わからない?


 俺は拳を下ろし、静かに言った。


 「いや……わかる」


 男が、目を見開く。


 「かつて俺も、拳を教えていた。事故で歩けなくなった少年がいた。絶望の淵で、泣きながら拳を振っていた。その姿を、何度も見た」


 俺はゆっくりと息を吐く。


 「でも、だからこそ言える。“思い出”に逃げても、何も変わらない。生きているなら、生きるしかないんだ」


 男はうつむき、ポツリとつぶやいた。


 「……罰を受けるよ。だから、こいつは、返す」


 男の指が動くと同時に、おしのの父の膝が崩れ、そっと倒れた。

 慌てて駆け寄り、脈を確かめる。


 「……眠っているだけだ。術が抜けたな」


 「連れていけ。俺のことも、裁きに出せばいい……」


 俺は頷いた。


 「……その前に、一杯だけ飲ませてやろう。熱い茶をな」



* * *



 納屋の中に置かれた風呂桶に汲んだ水で、おしのの父の顔を拭う。

 冷やされた額に、ほんのわずかだが血色が戻っていた。


 「神原様!」


 路地からおしのが駆けてきた。髪も整えぬまま、足袋すら履いていない。

 俺は手を挙げて制しながら、父親の肩をそっと支えた。


 「無事だ。目覚めれば、すぐに戻る」


 「……本当に、父なんですね?」


 「魂は戻った。だが、今は疲れ切っている。しばらく静かに休ませてやれ」


 おしのは唇を噛み、父の手を握りしめた。


 「ありがとうございます……」


 小さく頭を下げるその姿に、納屋の外にいた町人たちもほっとしたように息をついた。


 「それで、その男は?」


 青物売りが顔をしかめる。


 すぐ隣では、件の“夜泣き男”が膝をついたまま、静かに手をついていた。


 「騙したつもりはなかった。どうしても、一晩だけ、声を聞きたかったんだ……」


 その目に、悔いと憔悴の色が浮かんでいる。


 俺は彼の肩に手を置いた。


 「お前の術は、誰かを救うためにも使えたはずだ。まだ、やり直せる」


 「俺なんかが……?」


 「“なんか”と自分を呼ぶな。それは、これから救われるはずだった誰かを、否定する言葉だ」


 男の目が揺れる。


 しばらくして、小さく頷いた。


 「……あんた、変な侍だな。斬るでもなく、叱るでもなく、殴るでもない」


 俺は少しだけ口元を緩めた。


 「俺は、素手で揉め事を納めると決めたんだ」


 「……素手侍、か」


 ぽつりとつぶやいた男の口調は、先ほどまでとは違っていた。


 そして、その夜。


 「夜泣きの声」が町から消えた。


 かわりに、長屋には、静かで穏やかな風が吹き込んでいた。





* * *





 それから三日後――


 おしのの父は完全に意識を取り戻し、歩けはしないが、枕元で娘の手を握り笑う姿があった。


 「あの夜、夢を見たんだ。昔のように歩いて、川べりを散歩してな……。不思議だったが、心が軽くてなぁ……」


 「夢じゃないわよ。ちょっとだけ、お父っつぁんががんばったんだと思うの」


 おしのはそう言って、布団をかけ直す。


 「神原様には、お礼のしようもございません」


 彼女の言葉に、俺は首を振った。


 「礼など要らぬ。俺はただ、拳が黙っていなかっただけだ」


 「……でも、やっぱり不思議なお侍さんだわ」


 そう言って笑うその表情には、以前のような不安や怯えはなくなっていた。


 ――この町には、刀より拳が向いている。


 ふと、そんな思いがよぎる。


 その日の昼下がり、町角の豆腐屋に寄って帰る途中だった。


 「おう、神原様!」


 後ろから呼び止めたのは、例の青物売り。


 「聞きましたぜ。あの男、“咎人小屋”へ入ったそうですが、牢じゃなくて……寺の小屋で掃除の手伝いをしてるって」


 「そうか。まあ、拳を振るうまでもなかった」


 「やっぱりただの浪人じゃないですな。今度はどんな揉め事が飛び込んできますやら」


 そう言ってにやにや笑う男に、俺は苦笑を返した。


 「揉め事は、刀でなく拳で納める」


 「へいへい、心得ておりますとも」


 青物売りは笑いながら去っていく。


 俺は屋台の横に腰掛け、買ってきた豆腐をひとつ箸で割った。

 軟らかいが、芯がある。見た目より、しっかりしている。


 ──まるで、江戸の町そのものだな。


 俺は湯呑に注いだ茶をひと口すすった。


 表通りからは、太鼓の音。子どもたちのはしゃぐ声。

 誰かの怒鳴り声に、笑い声が混じる。


 今日も、何かが起こる気がする。

 俺は拳を握りなおし、立ち上がった。




* * *




 午後の陽が少し傾いた頃、町の通りにある飴屋の前で、俺は足を止めた。


 暖簾の奥から、おしのの声が聞こえる。


 「はい、おつり二文でございます。毎度ありがとござんす」


 声には張りがあり、先日までの陰りは消えていた。

 父が無事戻ったこと、そして“夜泣き”の騒ぎが収まったことで、町全体がどこか明るくなったような気がする。


 「……ん? お侍さんじゃねぇか。こっち、こっち!」


 通りの向かいから手を振るのは、瓦屋の親父。俺に一目置いているらしい、酒好きの世話焼きだ。


 「こないだの“夜泣き”の話、ようやく町役人も動いたようだぜ。寺社のほうで怪しい者の出入りを洗ってるってよ」


 「役人より先に動いてどうすんだ、お侍さんよ。こっちは命預けてんだからなあ」


 そんなふうに笑われても、俺は首を横に振るだけだ。


 「命を預かるつもりも、偉ぶる気もない。俺は揉め事を、ただ片付けるだけだ」


 「それができりゃ、十分立派な“侍”さ」


 親父はそんなことを言いながら、肩を叩いてきた。


 その後ろから、小走りでやって来た子どもがひとり。

 振り返ると、小さな男の子が顔を真っ赤にして叫んだ。


 「お侍さーん! おっかさんが、おっかさんが泣いてるんだ! 誰かに騙されたって……!」


 周囲の空気が一瞬で張り詰めた。


 「どこだ」


 俺は腰の刀を軽く押さえ、問いかける。


 「え、えっと……火の見櫓の近く、薬草屋の角っこ!」


 「案内しろ。すぐ行く」


 少年の手を取ると、通りを駆けだした。


 ──揉め事の匂いがする。

 その背後には、きっとまた誰かの“闇”がある。


 俺の拳は、また黙っていない気がしていた。





* * *




 火の見櫓の近く、薬草屋の角まで駆けると、確かに人だかりができていた。

 その中心にうずくまる女と、周囲に立つ二人の男。


 一人は袖のほつれた羽織を着た中年男。もう一人は痩せた若い男で、どこか目つきが鋭い。

 両者とも、見るからに胡散臭さをまとっている。


 「なあにが“手っ取り早く稼げる薬草”だよ……! これじゃ、ただの枯れ草じゃないかっ」


 うずくまる女が、震える声で言う。


 「返してよ……あの銭、父の形見だったんだよ……」


 女の前に立つ若い男が、ふてぶてしく鼻を鳴らす。


 「おいおい、証文もねえのに、今さら詐欺だの騙されたはないだろ。自分で納得して出したんだ、違うかい?」


 周囲の町人たちは騒ぐでもなく、遠巻きに見ているだけだった。

 この手の揉め事は日常茶飯事で、深入りすると面倒に巻き込まれると知っているのだろう。


 だが、俺は一歩踏み出す。


 「やめておけ。その女から受け取ったもの、今すぐ返して立ち去れ」


 静かな声だったが、通りに響いた。


 二人の男がこちらを見て、鼻で笑った。


 「なんだぁ、お侍さんかい? こちとら商売だぜ。手出しは無用ってもんさ」


 「商売とは、相手も得してこそ成り立つ。搾取は商売ではない」


 俺が言い切ると、痩せた若者が舌打ちした。


 「うるせぇな……じゃあ聞くが、てめぇは証拠でもあるってのか?」


 「あるさ。お前のその口がな」


 「……あ?」


 次の瞬間、若者が懐に手を突っ込んだ。


 ──ナイフか、仕込みか?


 俺は半歩前に出て、右手を開いた。


 「来るか?」


 その静かな問いに、一瞬、若者の動きが鈍る。


 だが、横にいた中年の男がそれを煽った。


 「やっちまえ! こんな浪人なんざ、みんな見て見ぬふりよ!」


 ──ならば、見せてやる。


 俺は一気に間合いを詰め、突き出された手首を素早く掴んだ。


 若者の目が見開かれる。


 「な──っ」


 ひねりを加えて肩を決め、そのまま腰を落として崩し投げる。


 地面に叩きつけられた若者が、呻き声をあげた。


 「う、ぐっ……腕が……!」


 「へえ、やるじゃねぇか」


 残った中年の男が、今度は木刀のような棒を持って構える。


 俺の目が冷たく光る。


 「次はお前だ」



* * *




 中年男は棒を肩口から大きく振り下ろしてきた。

 だが、それは勢い任せの素人の打ち方。

 間合いが遠く、軌道も読める。


 俺は身を屈めてかわし、そのまま男の懐に潜り込んだ。


 「うっ……!」


 間髪入れず、腹に正拳を一発。


 ──ドッ。


 深く沈むような衝撃音とともに、男の身体がよろけ、膝をついた。

 喉から何かを吐き出しかけ、しゃがみこんだその肩を、俺はそっと押した。


 「終いにしろ。痛みが残らぬうちにな」


 周囲の町人たちが、ようやく安堵の息をつき始めた。


 「すげぇ……倒した……!」


 「やっぱり神原様だ……」


 囁き声が小さく広がる中、俺はうずくまっていた女に近づいた。


 「……立てるか?」


 女は顔を上げ、うるんだ目で小さく頷いた。


 「……はい。ありがとうございます」


 「奪われた銭は?」


 「たぶん、あの若い男の袋に……」


 俺は倒れた男の懐から袋を取り出し、中身を確かめた。

 銭のほかに、小さな桐の箱がひとつ。開けると、白く乾いた薬草が詰まっていた。


 ──それ自体は本物か。だが、用途も知らずに“効能がある”と売りつけるのは詐欺に等しい。


 俺は薬草の箱を女に渡した。


 「これは、火で炙って鼻から吸うと、咳止めになる。だが、多く摂ると熱が出る」


 「え……?」


 「母の介護で、俺も少しだけ薬草を学んだ。無用な毒にもなり得る、忘れるな」


 女は深く頭を下げた。


 「……はい」


 その顔には、涙の跡と共に、強さが戻ってきていた。


 やがて、野次馬の町人たちが散っていく。

 倒れていた二人の男も、しばらくしてしょんぼりと起き上がり、見物人に連行されていった。


 火の見櫓の鐘が、夕暮れを告げるように、静かに鳴っていた。




* * *



 夕暮れが江戸の町を染め始める頃、俺はひとり、火の見櫓の前で立ち尽くしていた。

 町の喧騒が少しずつ静まり、空が茜色に変わる。


 「お侍さま、ありがとうございました!」


 振り返ると、女が一歩前に出て、深く頭を下げた。


 「いえ、俺はただの浪人です。気にせずに」


 そう言って足を動かすと、彼女が声をかけてきた。


 「……これ、どうしても受け取ってほしいんです」


 差し出されたのは、わずかながらの銭。

 その中には、今しがた取り戻したばかりの金銭も混じっていた。


 「それは、受け取れません」


 俺はそっとその手を押し戻す。


 「お前さんが、真面目に生きるための手助けをしただけだ。金で返されるものではない」


 「でも……!」


 女は、強い眼差しを俺に向けた。

 その顔は、もう泣き顔でもなければ、恐れた顔でもない。ただ、困ったように言った。


 「なら、せめて……」


 「せめて?」


 「神原様が、次に困った時、助けを求めた時には、私、できることなら手を貸しますから」


 その言葉に、俺は一瞬、何かを考えた。

 江戸の町では、どうにもならないことも多い。助け合うのも、またこの町の“生き方”の一つだろう。


 「……わかった」


 俺は小さく頷くと、再び足を進めた。


 その後ろで、彼女は満足そうに微笑んでいるのが見えた。


 ──世話を焼くのも、案外悪くはない。


 ふと、そう思いながら、俺は町を歩き続ける。


 その日の夜。

 町の片隅で、俺は再び声をかけられた。


 「神原様……!」


 その声に振り返ると、再び青物売りがやってきた。

 どうやら、また別の問題が持ち込まれたらしい。


 「町内会の連中が揉めてますぜ。見てきてくれや」


 俺はため息をつき、青物売りに頷いた。


 「……またか」


 何度でも、こうして助けを求められるのが、俺の仕事というわけだ。

 そして、それを見過ごさずに、俺はこの町を守っていくのだろう。


 ――だが、ひとつだけ決めたことがある。


 江戸という町で、拳を使ってでも、人々の揉め事を納めていく。

 そのことが、俺にとっての“正義”だと信じて。


 俺はもう一度歩き出す。


 今度の揉め事が、どんなものだろうと、恐れることはない。

 俺は拳ひとつで、すべてを片付けてやる。




* * *




 青物売りが言った通り、町内会の連中は本当に揉めていた。

 場所は、町の広場にある小さな市場。数人の商人と、地元の住人たちが集まって、言い争いをしている。


 「それじゃ、商売が成り立たないだろう!」


 「いや、むしろお前の店がそのせいで売れなくなったんだ!」


 怒声が交錯し、突き飛ばし合いまで始まっていた。


 「またか……」


 俺はため息をつきながら、広場に歩み寄る。


 「何があった?」


 俺の声に、みんなが振り返る。

 その中で、商人のひとりがすぐに駆け寄ってきた。


 「神原様、助けてください! これ、全く理不尽なんです!」


 「どうした?」


 「いや、うちの店がさ、最近調子良くて売れ行きもいいんですけど……」


 商人は勢いよく話し始めた。


 「その近くのこいつらが、うちの商売を妨害してきているんです! 商品を横取りしたり、値下げして売ったりして!」


 俺はその商人の目を見つめた。


 「本当に、それが原因だと思うのか?」


 商人は一瞬だけ動揺し、すぐに顔を引き締めた。


 「し、しかし! 今までこんなことはなかった!」


 「……つまり、商売がうまくいって、目立ち始めたというわけだな」


 俺は静かに言うと、商人は少しだけ顔を伏せた。


 「別に、誰かを狙ってやったわけじゃないんですけど、ちょっとした偶然ですよ……」


 その言葉に、俺はうなずきながら周囲の商人たちを見渡す。

 彼らもまた、言い争いの最中でそれぞれが自分の主張を繰り返していた。


 俺は歩みを進め、少しだけ声を張った。


 「やめろ、全員。騒いで何か解決すると思っているのか?」


 俺の声に、広場の騒ぎはぴたりと止まった。

 みんなが静かにこちらに注目している。


 「まずは冷静に、それぞれの話を聞こう」


 俺はまず、商人たちにそれぞれの言い分を聞いた。


 最終的にわかったことは、ひとつの店が急に売れ出したことが原因で、他の商人たちがそれに嫉妬し、逆に自分たちの商売を妨害するようなことがあったということだった。

 だが、単に売り方の工夫やサービスがうまくいったからだ。


 「つまり、実力で勝ったわけだな」


 俺はその商人を見つめ、ゆっくりと話を続ける。


 「自分が売れるようになったからって、他の商人の邪魔をしてはいけない。だが、逆にお前たちも、新しい工夫をすべきだろう。こうやって揉めている暇があったら、商売をどう改善するかを考えろ」


 商人たちは言葉を失った。


 「どちらも悪くない。ただし、問題が起きた原因をしっかりと見極めて、今後のために活かせ」


 俺の言葉に、ようやく商人たちがうなずき始めた。


 「……すみませんでした、神原様」


 「自分たちの商売を妨害するのは、どんな理由があっても許されない。でも、自分の商売がうまくいった理由も考えなければならない。どっちも、手を取り合ってやっていけ」


 その後、商人たちは謝罪し、互いに手を取り合って和解することができた。

 問題は一応収束し、町の平穏は戻った。


 俺は、少しだけ歩みを進めると、青物売りが後ろから声をかけてきた。


 「やっぱり、神原様のやり方が一番ですね」


 「……揉め事は、拳じゃなくて心で解決するものだ」


 俺は静かに言った。


 「だが、どうしても拳を使わなきゃならない時は、もちろん、使うだけだ」


 そう言って振り返り、広場を見渡す。


 ──俺の仕事は、ただの浪人としての生き方に過ぎないが、ひとつだけ胸を張れる。

 それは、ここで生きる人々に、少しでも力になれていることだ。


 ――この江戸の町で、俺はどんな揉め事でも、拳で納めていく。





(完)

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