エピソード03:ただ走って、走って、走って――そして、彼女を置き去りにした。
ナオコ・ミツバラは、剣とドラゴン、そして魔法が存在する異世界に転生していた。まるでライトノベルのような世界だった。
この世界での新しい名前は「リーフ」。王国の南西、深い森の中にある村で狩人の家族の長男として生まれ変わったのだ。
その村には、数少ない住人たちが暮らしており、彼の新しい父親のように狩りを生業としていた。
リーフは、その村で普通の子供として育った。ただ、周囲の人々からは、いつも何かに苛立っているような、少し陰のある子供だと思われていた。
村人たちのそんな噂話も、彼には気にならなかった。いや、正確に言えば、話しかけられない限り、どうでもよかった。
この新しい人生で他人と関わるのは、どうにも好きになれなかった。ひとりの方が良かった。人との関わりは、前世の知人たちを思い出させるだけだった。
だが、そんな彼にも、目立つのを避けるのが難しい理由があった。
それは妹のアリシャの存在だ。彼女はいつでも、どこに行くにもついてくる。リーフが頼んでいなくても関係ない。
それに、彼のことをとても尊敬していて、みんなにも「お兄ちゃんはすごいんだよ!」と自慢したがるのだった――特に何もしていないのに。
「お兄ちゃん! お兄ちゃん! 一緒に森で奇跡の花を探そうよ!」
「危ないし…てか、なんで俺? 他の誰かに頼めよ。」
「だって、一番信頼してる人はお兄ちゃんだけだもん! 命を預けられるのはお兄ちゃんだけ!」
「…そういうこと言うと、パパとママが悲しむぞ。」
アリシャは、何か必要になるといつも彼のところに来た。わがままな性格なのに、彼の気を引きたがる。たまに、「大きくなったらお兄ちゃんと結婚したいな」なんて言い出す始末だ。
リーフは、理由もなく彼を慕うこの妹のことを、少々うっとうしいと思っていた。それでも――
「で? 行ってくれるの?」
「わかったよ…ったく、ほんとお前は面倒くさいな。」
「やったあああ!」
家族だから。ひとりで行かせるわけにはいかなかった。
二人は、奇跡の花を摘むために、カゴを持って森へと向かった。あの地域でよく見かける花で、「奇跡を起こす」なんて言われているが、実際は川の近くに咲くただの野草にすぎない。
「ふんふんふーん♪」
森の中をしばらく歩いた。リーフはいつも通り不機嫌そうな顔をしていたが、アリシャはニコニコしながら鼻歌を歌っていた。
「ねぇ、お兄ちゃん、あとどれくらいで着くかな?」
「あと五分か七分くらいかな、たぶん。」
「もっと近ければいいのに。北の方にある滝の近くには、いっぱい咲いてるって聞いたよ。」
「あそこは村の外だろ。立ち入り禁止だっての。」
森には「ベアデビル」と呼ばれる、角の生えた熊のような魔獣が生息しており、とても凶暴だった。
そのため、村人たちは特別な草を村の周囲に植え、その香りで魔獣を遠ざけていた。
当然、村の外に出るのは禁じられており、特に子供たちは厳しく制限されていた。
二人が歩き続ける中で、アリシャは急に黙り込んだ。何か言いたそうな様子。そして、やがておずおずと尋ねた。
「ねぇ、リーフ…この村でずっと暮らすって、どう思う? つまり、一生ここで過ごしたい?」
「チッ」
アリシャの問いに、リーフは舌打ちして、そっけなく答えた。
「さあな。ただ、もし選べるなら、人のいない場所がいい。」
兄のその返答に、アリシャはうつむいて、小さな声でつぶやいた。
「…なんでいつもそうなの?」
その言葉に、リーフはイラッとした。どうして誰も――特に彼女が――放っておいてくれないのか。彼の問題じゃないし、どうせ理解もされない。
「...」
「...」
沈黙がしばらく続いた。だがそのとき、リーフの耳に音が届いた。
「どうしたの?」
「...」
アリシャは不思議そうに、音のした茂みの方を見やった。そして――
「!」
茂みから、三人の男たちが武器を手に現れた。
「逃げろ…ぐあっ…!」
何かが視界を覆い、リーフは地面に叩きつけられた。両腕を縛られ、体を持ち上げられる感覚。
「いやぁ! リーフ! 助けて! 怖いよぉ! わああああ!」
アリシャの泣き叫ぶ声と助けを求める悲鳴が耳に届いた。
――それは、明らかに誘拐だった。
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リーフとその妹が奴隷商人の男たちにさらわれてから、すでに三日が経っていた。
彼らは、他にもさらわれた子供たちと一緒に馬車に乗せられていた。食事と水は、一日に二、三回ほどしか与えられなかった。
リーフは、怯えきった子供たちを見つめていた。みんな膝に顔をうずめたりして、この悪夢が早く終わるようにと願っていた。
彼も同じだった。怖くてたまらなかった。自分たちがこれからどうなるのか、何をされるのか。ただ考えるだけで、胸が締めつけられる思いだった。
――「お兄ちゃん……お兄ちゃん……」
思考の渦を断ち切ったのは、アリーシャのか細い声だった。
彼女はリーフの隣に座り、足を抱えて丸くなっていた。顔は汚れ、身体もすっかり弱っていた。
ほとんど食事が取れず、リーフが自分の分を分け与えても、アリーシャの体は栄養失調になりかけていた。
「どうしたの?」
「お兄ちゃん……私たち……大丈夫かな……?ちゃんと、おうちに帰れる……?」
希望を求めるその問いかけは、リーフの胸を深く刺した。
本当のことなんて言えるはずがなかった。彼は妹のために、強くいなければならなかった。だから――彼は嘘をついた。
「うん、大丈夫だよ。お兄ちゃんが、ちゃんと守るから」
アリーシャは目を見開いて彼の顔をじっと見つめ、そして小さくうなずいた。
少し安心したのか、彼に寄りかかってきた。
「ありがとう……お兄ちゃん……お兄ちゃんがそばにいてくれたら、私は大丈夫……」
そう言って、彼女は目を閉じた。
「大好き……お兄ちゃん……」
緊張と疲労に満ちていた彼女の体が、ようやく落ち着きを取り戻した。リーフはそっと彼女の頭を撫で、少しでも安らかに眠れるようにと願った。
――数時間後。
空から雨が降り始め、道はぬかるみ、馬車の進行は困難になった。やがて、車輪が泥に埋まり、完全に動けなくなった。
「くそっ!早く抜け出せ!このクソ森から出るんだ!」
リーダー格の男が怒鳴り、他の男たちは必死に馬車を押し、馬たちに力を入れさせていた。
「な、なに……?」
アリーシャが物音に目を覚まし、リーフに尋ねた。
「何でもない。ただ……」
言葉が止まった。
――それが現れたからだ。
「もっと引け、この馬鹿どもがっ……! くそっ!」
――グォォォォォ……!
森の奥から現れたのは、巨大な獣だった。
ベアデビル――身長は三メートルほど、巨大な爪、いびつな体、そして角を持つ恐ろしい魔獣。
男たちはその姿に恐怖し、武器を構えた。
だが、ベアデビルはたった一振りで一人の男を粉砕した。
「グォォォォッ!!」
止まることなく襲いかかり、さらにもう一人を叩き潰し、次の標的を馬車に定めた。
「貨物を守れ!ガキどもがやられたら金にならんぞ!」
リーダーが叫ぶ。しかし、ベアデビルは容赦しなかった。
ドンッ!
馬車の天井と扉が激しく吹き飛ばされた。
「きゃああああっ!!」
「いやああああああっ!!」
子供たちの悲鳴が響き渡った。
「リーフ!」
「に、逃げようっ!!」
アリーシャの声に我を取り戻したリーフは、彼女の手を引きながら馬車を飛び出した。
「逃がすなっ!うおおおおっ!」
男たちの一部は子供たちを追いかけ、残りはベアデビルと戦ったが、次々に倒れていった。
リーフは必死に走った。
だが――
「きゃっ……!」
アリーシャが足を滑らせて転んでしまう。
手が離れたことに気づいたリーフが振り返ると――
ドサッ。
男の首が目の前に転がってきた。
辺りを見回すと、血と死体が散乱していた。二十人いたはずの男たちは、今では十一人ほどしか残っていない。
リーフの体は硬直し、思考も止まった。
地獄のような光景。泣き叫ぶ子供たち。悲鳴。血と肉の匂い。
「............................」
その時だった。
「いやっ!やめてっ!お兄ちゃん!助けてっ!」
アリーシャが男に腕をつかまれ、他の子供たちと一緒に引きずられていた。
彼女の叫びが聞こえているのに――
リーフの体は動かなかった。
恐怖が彼を支配し、思考を止めていた。
そして――
ベアデビルがついに倒された。
その隙を見て、ある男がリーフに向かって駆け寄った。
「このガキっ!逃がすかっ!」
その叫びに反応し、リーフの足がようやく動き始めた。
「お兄ちゃんっ!置いていかないでっ!」
アリーシャの声が背中から追いかけてくる。
でも――
彼は走った。
走って、走って、走って――
「はっ……はっ……はっ……」
息が切れても、足を止めなかった。
アリーシャの叫びがまだ耳に残っていたけれど――
走るしかなかった。
走って、走って、走って、走って、走って、走って、走って…… 走って、走って、走って、走って、走って、走って、走って…… 走って、走って、走って、走って、走って、走って、走って……
そして、走り続けた。
何も考えず、何も見ず――
ただ、逃げた。
妹の叫びを、背後に置き去りにして。
自分の――たった一人の妹を、見捨てて。
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リーフが意識を取り戻したとき、彼は毛布をかけられ、どこか懐かしい部屋で横になっていた。
――ここは……僕の部屋だ。
家に戻ってきていた。
彼は自分の手を見て、それが包帯で覆われていることに気づいた。しばらくそれを見つめて――
思い出した。
彼は走っていた。何日も歩き続け、ほとんど食事も取れず、そしてついには力尽きてその場に倒れた。
もう、これ以上は歩けなかった。意識がゆっくりと薄れていく中で、
かすかに――道の向こうから誰かのシルエットが近づいてくるのが見えた。
それが、彼の覚えている最後の記憶だった。
彼はゆっくりと起き上がり、扉へと歩き出す。
部屋を出ると、そこにいたのは――
母だった。
彼の姿を見るや否や、彼女は駆け寄ってきて、涙を流しながら抱きしめた。
「よかった……本当によかった……無事でいてくれて……」
彼女の腕の中に包まれて、リーフはその温もりを感じた。
そして――それを拒まなかった。受け入れた。
「アリーシャは? 妹のこと……何か分かる?」
その問いかけに、記憶が一気に押し寄せてきた。
恐怖、無力感、痛み、絶望――
罪を責めるように、心を締めつける感情が襲ってきた。
真実を言うのが怖かった。
彼女を置いてきたこと。
一番必要としていたその時に、彼女を――見捨てたこと。
いつも彼のそばにいてくれた妹。
拒絶されても、報われなくても、それでも彼を愛し続けた存在。
そんな彼女を――裏切った。
臆病者のように。
前の人生でも、彼は助けようとしてくれた人たちを拒んだ。
そして今、また同じことを繰り返していた。
自分は、そんな愛情に値しない。
そんな優しさも、救いも、受け取ってはいけない人間なのに。
「どうして僕じゃなくて、彼女だったんだ……?」
心の中で、そう問いかけていた。
彼女は、誰よりも彼を愛してくれた。
何度も、何度も、それを伝えてくれた。
「リーフ……あなた……」
母の声を聞いて、彼は初めて自分が泣いていることに気づいた。
頬を涙が伝っていた。
こんなふうに泣いたのは、あの日以来だった。
「生きる理由」を失った、あの時以来――
「…………」
涙を流しながら、彼は母の目を見て、勇気を振り絞った。
「ご、ごめん……僕……何も……できなかった……
僕、あの子を……置いてきちゃった……
あの子こそ……助かるべきだったのに……
ごめん……うわあああああっ……!」
彼は、子供のように泣き出した。
今の彼は、実際に子供だった。そのままの感情で。
母はそんな彼を、優しく、強く抱きしめた。
「もういいのよ……あなたのせいじゃない……
そんなこと、言わないで……
無事でいてくれて、本当に嬉しいの……」
涙をこらえながら、そう言って彼を強く抱きしめ続けた。
リーフはそのまま、しばらく母にすがって泣き続けた。
――その光景を、食卓から静かに見つめている者がいた。
彼女は紫色の髪と瞳を持ち、まるで魔術師のような服装に身を包み、肩にはマントをかけていた。
手には、同じく紫色の本を持っていた。
そして、その表情――
無表情ではあったが、今この瞬間に何が起きているのかを、確かに理解しているようだった。
彼女の名は、知識を求めて世界を旅する、伝説の旅人。
――《大賢者》シオリ・エターナム。