傷口の温度
「あなたは、何を求めているの?」
小松亜紀は、その言葉を飲み込んだまま、ホテルの部屋の白い天井を見上げていた。
窓の外では、ネオンの灯りが雨粒に滲んでいる。
シーツの上に横たわる身体は、しっかりとした熱を持っていた。
そして、その隣には──橋本智也がいた。
「……寒くないですか?」
智也の声が落ち着いたトーンで響く。
ベッドサイドの間接照明が、彼の横顔を淡く照らしていた。
スーツの上着は脱がれ、ネクタイも緩められたまま。
その姿は、夫でもなく、会社員でもなく──ただの、一人の男だった。
「ううん、大丈夫」
亜紀は、少しだけ身体を起こして、枕に背中を預けた。
冷えたグラスの中で、氷が音を立てる。
カラン、カラン、と。
どこか不安を掻き立てるような、その静かな音に耳を澄ませながら、彼女は自分の心の奥底に沈殿しているものを探ろうとした。
──これは、何?
たった一週間前、名前すら知らなかった男が、今こうして隣にいる。
けれど、これが恋ではないことは、誰よりも自分が分かっていた。
寂しさに寄りかかるようにして、互いの温もりを求めた。
ただそれだけ。
そこに、「愛」はなかった。
それでも、智也の指先が彼女の髪に触れたとき、亜紀の身体はほんの少しだけ震えた。
久しく忘れていた感覚。
誰かに「触れられる」ことの意味。
そして、「触れることが許されている」関係の特別さ。
──このまま、落ちていくのかもしれない。
そんな予感が、微かに脳裏をかすめた。
「……ねえ」
亜紀は、小さく息を吐いた。
「どうして、私なの?」
智也は、一瞬だけ表情を曇らせた。
その沈黙が、彼の答えを物語っているようだった。
「……理由なんて、ないですよ」
「嘘」
「嘘じゃない。ただ……あなたと話していると、何も考えなくて済むんです」
「考えなくて済む」
その言葉が、妙に引っかかった。
まるで、「忘れたいものがある」と言っているように。
──この人は、家庭のことを、私といる間だけ忘れようとしているんだ。
それを理解した瞬間、亜紀の心の奥に、かすかな痛みが走った。
それは、何の痛みだったのだろう?
嫉妬? 罪悪感? それとも──「自分が代用品にされている」という無力感?
「私も、あなたといるとき、何も考えたくないのかもしれない」
そう言ってしまえば、楽になれる気がした。
だから、亜紀はその言葉を、あえて口にした。
けれど、それは決して「本心」ではなかった。
──私は、本当は何を求めている?
智也に、何を期待している?
その答えを知るのが怖かった。
「……まだ、帰らなくていい?」
亜紀がそう言うと、智也は静かに頷いた。
その夜、彼らは「何も考えなくて済む時間」を、もう少しだけ引き延ばした。
けれど、それは決して「癒し」ではなく、ただの「傷を抱えたまま寄り添う」にすぎなかった。
橋本智也は、寝返りを打つようにしてゆっくりとベッドから身体を起こした。
ホテルの部屋の空調は少し強めに設定されていたのに、肌には微かに汗が滲んでいる。
亜紀はシーツの中で、まだ目を閉じていた。
長く染みついた疲労が、彼女のまぶたを重くしているのか、それとも、このまま目を開けたら現実に引き戻されることを恐れているのか。
智也は、乱れたワイシャツを拾い上げながら、自分の内側に渦巻くものを確かめようとした。
──罪悪感は、あるか?
玲子の顔が、頭の中に浮かぶ。
けれど、それは痛みを伴うほど鮮明なものではなく、どこか遠い場所にある映像のようだった。
すでに壊れているものを、ただ見つめているだけの感覚。
「起きた?」
微かな声がして、智也は振り返った。
亜紀が、目を細めながらこちらを見ている。
シーツにくるまる肩は、どこか無防備で、守りのなさが滲んでいた。
「……起こした?」
「ううん、もともとあんまり深く眠れないんだ」
「そうなんだ」
「あなたは?」
智也は、すぐに答えなかった。
「……寝たような、寝てないような感じ」
それは、亜紀も同じだった。
二人の間には、まだ微かに夜の熱が残っていた。
それは、ぬるま湯のような心地よさだった。
けれど、それが「何かを温めるもの」ではなく、「冷たくなる前の余熱」にすぎないことも、二人は分かっていた。
「コーヒーでも飲む?」
亜紀がベッドサイドの電話に手を伸ばそうとすると、智也は軽く首を振った。
「……いや、そろそろ行くよ」
「そっか」
その言葉には、特に感情が乗っていなかった。
引き止めるつもりもなく、また、急かすつもりもなく。
ただ、ここで過ごした時間が終わることを、静かに受け入れているようだった。
智也は、ネクタイを手に取りながら、ふと呟いた。
「……子どもがほしかったんだ」
亜紀は、思わずその言葉に目を見開いた。
「……え?」
「俺の妻、子どもを作るつもりがなくて」
智也は、苦笑した。
「最初は、俺もそれでいいと思ってた。でも、気づいたら、自分の人生のどこかに『子どもがいる未来』を勝手に思い描いてたんだ」
その言葉は、妙に現実味を持って響いた。
亜紀は、何も言えなかった。
智也は、シャツのボタンを留めながら、静かに続けた。
「家では、この話はできない」
「……なんで?」
「もう、あの人と話し合うこと自体が、無意味になってしまったから」
その言葉の中に、諦めと倦怠が混じっているのが分かった。
亜紀は、枕に額を押しつけるようにして、かすかに目を閉じた。
「……じゃあさ」
彼女は、どこか無意識のうちに言葉を紡いだ。
「もし、私があなたの子どもを産むって言ったら?」
智也は、シャツの袖口のボタンを留める手を、わずかに止めた。
「……どういう意味?」
「そのままの意味」
冗談ではなかった。
もちろん、本気とも言い切れなかった。
でも、このまま智也が「ほしかったもの」を求めているのなら、彼は、どんな答えを返すのだろうか。
智也は、少しの間、沈黙した。
そして、ゆっくりと答えた。
「……それは、考えたことなかった」
その言葉が、亜紀の胸の奥で、何かを締めつけた。
──それが答えなんだ。
「考えたことなかった」
つまり、「今この瞬間まで、俺はお前のことをそんな対象として見ていなかった」と言われたのと同じだった。
亜紀は、小さく笑った。
「そっか。なら、忘れて」
その笑顔は、どこか空虚だった。
智也は、彼女の表情を見て、何か言いかけたが──言葉にはならなかった。
「また、どこかで」
智也は、そう言ってホテルの部屋を出て行った。
ドアが静かに閉じる音を聞きながら、亜紀はシーツの中で、ひとり目を閉じた。
──結局、私は何も得られていない。
智也は「何かを求めて」ここにいたのに、その答えを差し出しても、彼は受け取ろうとはしなかった。
それは、智也が誠実だからではない。
むしろ、その逆。
「自分が何を求めているのか、本当は分かっていない」
そんな迷子のまま、彼はここに来たのだ。
亜紀は、布団を引き寄せて、自分の体温を感じる。
だが、その体温は、もう少しずつ冷え始めていた。
シャワーの音が、無機質なタイルの壁に反響する。
小松亜紀は、流れる湯の温度を確かめながら、ゆっくりと目を閉じた。
温かい水が背中を滑り落ちるたびに、肌に残っていた智也の指の感触も一緒に流れていくような気がした。
けれど、心の奥底に沈んだものだけは、どうしても流れ落ちてはくれなかった。
「……子どもがほしかったんだ」
智也の声が、何度も頭の中でリフレインする。
彼の表情は、決して軽いものではなかった。
それは、彼自身も気づかぬうちに抱えていた「欠落」に、ふと気づいてしまったような顔だった。
彼は、私に何を求めていたのだろう?
それとも、彼自身、本当にそれを理解していたのだろうか?
湯を止め、鏡を覗き込む。
湿気に曇った鏡の向こうに映る自分は、まるで別人のように見えた。
髪から水滴が落ち、鎖骨を伝って滑り落ちる。
その水の筋を指でなぞりながら、亜紀は自分自身に問いかけた。
──私は、何を求めている?
智也が答えを持っていなかったように、私自身も答えを持っていないのではないか。
シャワールームを出ると、カーテン越しの夜景が淡いオレンジ色に滲んでいた。
部屋の中には、冷えた空気と、少しだけ残った香水の匂い。
シーツのシワが、今夜の出来事の痕跡を残している。
智也は、私に「またどこかで」と言った。
それは、決して「もう会わない」と言う別れの言葉ではなかった。
──彼は、また私のもとに来るのだろうか?
──私は、そのとき、どうするのだろう?
スマホを手に取り、LINEの履歴を開く。
そこには、智也の名前はない。
電話帳にも、何も登録されていない。
それなのに、私は今、彼に連絡を取ろうとしている。
──いや、連絡できないからこそ、こうして迷っているのだ。
繋がりたくないわけではない。
でも、繋がってしまったら、もう後戻りはできない気がした。
ベッドに腰を下ろし、足を抱え込むようにして座る。
ベッドサイドの時計が、静かに午前2時を指している。
智也は、今ごろどこで何をしているのだろう?
私は、ただの「彼の逃避先」にすぎなかったのだろうか?
それとも──彼は、私に何かを期待していたのだろうか?
どちらにせよ、その問いに答えるのは智也ではなく、私自身なのかもしれない。
「……もう考えるの、やめよう」
そう呟いて、亜紀はベッドの中に潜り込んだ。
答えの出ない問いを、何度も繰り返すことに、少しだけ疲れていた。
橋本智也と別れてから三日が経った。
小松亜紀は、会社のデスクに向かいながら、無理やり現実のリズムに自分を押し込もうとしていた。
けれど、パソコンの画面に映るメールの文字は、どこか上滑りしていて、まるで自分の意識の外側を流れているようだった。
「小松さん」
後輩の声にハッとする。
「……ごめん、なんて?」
「あ、すみません、考え事してました?」
「ちょっとね」
そう笑って誤魔化すが、後輩の視線がどこか探るように感じられる。
「いや、最近ちょっと様子が違うなって。疲れてるんですか?」
「……まあね」
自分でも、表情を取り繕えていないのが分かる。
けれど、その原因が「仕事」ではないことは、誰よりも自分が分かっていた。
パソコンの通知音が鳴る。
何の気なしに開いたメール画面に、「橋本」という名字が表示されていた。
──一瞬、心臓が跳ねた。
けれど、それは取引先の「橋本商事」からの連絡だった。
それでも、そのわずかな偶然だけで、智也の名前が意識の奥から引っ張り出される。
──まだ、忘れられない。
わずか一度だけだったのに。
スマホを取り出し、画面を開く。
──連絡先は、ない。
ホテルに居ても、互いに連絡を交わすことなく別れた。
それが、この関係の「正しい形」だったはずだ。
でも、彼が「またどこかで」と言ったその言葉を、私は信じてもいいのだろうか?
それとも、これはただの幻想?
「小松さん、今日飲みに行きません?」
また後輩の声がする。
「金曜ですし、たまには発散しましょうよ」
「あー……ごめん、今日は用事があるの」
自分でも驚くほど、咄嗟に口をついて出た言い訳。
──用事なんて、ないのに。
夜、部屋に戻る。
いつも通り、コンビニで買った缶チューハイとサラダをテーブルに並べる。
ソファに沈み込み、スマホをぼんやりと眺める。
ニュースアプリ、SNS、何を開いても、画面の向こう側の情報が頭に入ってこない。
──どこかで、彼に会えないだろうか。
その考えが浮かんだ瞬間、ぞっとした。
私は、自分で思っているより、ずっと彼に引きずられているのかもしれない。
同じ頃、智也は自宅のソファに座っていた。
テーブルの上には、空になったウイスキーのグラスが置かれている。
玲子は、書斎にこもったまま出てこなかった。
夫婦の会話は、すでにほとんどない。
会話が減るということは、何もないのではなく、「話すことを諦めた」ということだ。
結婚生活は、静かに壊れていく。
智也は、スマホを開いた。
亜紀の連絡先は、ない。
それなのに、何度も連絡先一覧を確認してしまう自分がいた。
──俺は、あの夜のことを、どんな風に整理すればいいんだ?
家庭では得られないものが、確かにそこにはあった。
けれど、それを「必要なもの」と呼んでいいのかは、分からなかった。
深夜1時過ぎ。
智也は、ふとスマホを手に取る。
そして、あるアプリを開いた。
──あのバーの営業時間を、何の気なしに検索する。
「……行くつもり、なのか?」
自分自身に問いかけながら、スマホを握る手に力が入る。
一方、亜紀もまた、同じようにスマホを見つめていた。
彼が、今どこにいるのか。
彼が、もう一度私のもとに来るのか。
私は、それを待っているのか?
「……もう、考えるのやめよう」
そう呟き、亜紀はスマホの画面を伏せた。
けれど、胸の奥でくすぶる期待は、まだ消えてはいなかった。
夜の静寂が、部屋の隅々まで染み込んでいた。
小松亜紀は、ベッドの上に座ったまま、天井をぼんやりと見つめていた。
時計の秒針が、一定のリズムで進む。
それなのに、自分の時間だけがどこかで止まってしまったような感覚に襲われる。
──智也のことを考えている。
そう自覚した瞬間、亜紀は唇を噛んだ。
関係を終わらせたわけではない。
けれど、始まったとも言い切れない。
ただ、ひと晩を共にしただけ。
それだけのはずなのに、彼の姿が脳裏から消えなかった。
スマホの画面を開く。
SNSをスクロールし、ニュースアプリをチェックし、メールの通知を確認する。
けれど、どこにも彼の痕跡はない。
──当然だ。
連絡先を交換しなかったのだから。
それなのに、なぜか無意識のうちに「彼からのメッセージ」を探してしまう。
もう一度、彼と会うことはあるのだろうか。
それとも、もう二度と会わないのか。
どちらが正しい選択なのか、亜紀には分からなかった。
けれど、もし次に会ったら、私は何を求めるのだろう?
その頃、智也は、家のソファに沈み込んでいた。
足元には、飲みかけのウイスキーグラスが置かれている。
リビングの奥から、妻・玲子が動く気配がする。
けれど、お互いに声をかけることはない。
夫婦の会話は、もうずっと途切れたままだった。
智也は、ぼんやりと天井を見上げながら、亜紀のことを思い出していた。
「もし、私があなたの子どもを産むって言ったら?」
あの言葉が、なぜか頭から離れなかった。
冗談のようでいて、決して軽い言葉ではなかった。
そして、智也自身、あのときなぜ返答に詰まったのか、未だに整理がついていなかった。
玲子と子どもを作る話は、何度もしてきた。
けれど、玲子はいつも「その話はまた今度」と言って、具体的な話を避けてきた。
彼女は、自分のキャリアを第一に考えていた。
智也も、最初はそれを尊重していた。
だが、結婚して十年。
そろそろ子どもがいてもいいのではないかと思い始めたときには、もう遅かった。
夫婦の間には、すでに埋められない溝ができていた。
智也は、スマホを開き、何の気なしにバーの地図を検索する。
──また、あの場所に行けば、彼女に会えるだろうか?
そう思った瞬間、自分が何を求めているのかが分かってしまった。
「もう戻れない」
そんな気がした。
同じ夜、亜紀もまた、スマホを手に取っていた。
けれど、誰に連絡を取るでもなく、ただ画面を見つめていた。
──もう一度、あのバーに行けば、彼に会えるのだろうか?
そんな期待が、心の奥で静かにくすぶる。
けれど、それは期待なのか、それとも執着なのか。
自分でも分からなかった。
ベッドサイドのランプを消し、亜紀は静かに目を閉じた。
智也の温もりは、すでに消えているはずなのに、
それでもまだ、肌の奥に彼の感触が残っている気がした。
そして、もう一度彼に触れたいと思ってしまった自分を、ひどく愚かに思った。
翌朝。
目覚ましが鳴る。
カーテンの隙間から、朝の光が差し込む。
亜紀は、いつものようにシャワーを浴び、服を選び、会社へ向かう。
何も変わらない日常のはずだった。
けれど、彼女の中の何かは、すでに変わってしまっていた。




