焦燥と誘惑
カラン、とグラスの中で氷が跳ねた。
湿った夜風が扉の隙間から忍び込み、重たく停滞する空気をわずかに揺らす。
小松亜紀は、渋谷の路地裏にあるカウンター7席ほどのバー、その隅に座っていた。
黒のタイトなワンピースに、首元だけ控えめなゴールドのチェーン。足元はピンヒールではなく、ローヒールのブーツ。全体の装いは「誘い」でも「拒絶」でもない、“無言の防御”に近かった。
バーテンダーが無言で注いだジントニックが、カウンターの木目の上で微かに汗をかいている。
「おかわりは?」
声は静かに、過不足なく。
「……ええ。じゃあ、同じものを」
彼女は微笑まずに答えた。
このバーに通うようになったのは、半年ほど前だった。
会社の飲み会で解散した帰り、歩き疲れて入ったのが最初。
以来、月に数度、何の予定もない夜にふらりと立ち寄る。
カウンターの向こうにある、飾り気のない棚。強い酒と控えめな音楽。常連同士の過度な干渉もなければ、バーテンダーの過剰なサービスもない。
だからこそ、亜紀はここに自分の居場所を見出していた。
──誰かと繋がることもなく、孤独を塗りつぶすだけの“静かな夜”を。
けれど、この夜の彼女には、わずかな乱れがあった。
昼間、職場での打ち合わせ中に、後輩がふいに放った一言。
「先輩、そういえば結婚とか考えないんですか?」
亜紀は一瞬、言葉に詰まった。
──考えない、わけじゃない。けれど、「今さら考えることでもない」と、自分に言い聞かせていた。
周囲の友人たちは既に結婚し、母になり、生活に追われ、愚痴を言いながらも“人生を持って”いるように見えた。
自分は──どうだ?
着飾ることも忘れ、恋もご無沙汰で、休日にベッドから出るのも億劫な35歳。
未婚、恋人なし、頼れる親族も東京にはいない。
そして、今夜もこうして、バーの隅で一人、グラスを傾けている。
「失礼」
左隣の椅子が音を立てて引かれた。
そこに座った男の存在に、亜紀は視線をわずかに動かす。
黒のスーツにグレーのシャツ。タイは緩めで、グラスワインを頼んでいる。時計は高そうだが主張がない。ヘアセットも決まりすぎず、崩れすぎず。
──女慣れしているようで、女を選び慣れていないタイプ。
直感的に、そう判断する。
男は彼女に気づいたふうもなく、グラスのワインをひと口、ゆっくりと口に運んだ。
「一人飲み、ですか」
不意に声をかけられ、亜紀はわずかに眉を上げた。
「ええ。たまに、ここで」
男は、にこりともせず頷いた。
「いい店ですよね。……落ち着いていて」
その言い方には、変な下心もなく、媚もなかった。
亜紀は警戒を少し緩めた。
「あなたも常連?」
「いえ、今日は初めてなんです」
「へえ、意外」
「そう見えました?」
「なんとなく」
男は微かに口角を上げ、ワイングラスを回した。
「橋本です」
「……小松」
互いに名乗り合う。フルネームではない。それもまた、お互いにとってちょうどよい距離だった。
その夜のバーは、ふしぎと静かだった。
ジャズのピアノがどこかでメロウに鳴り、グラスの氷が揺れ、二人の間に流れる空気も静かだった。
だがその静けさの中にこそ、亜紀はじわじわと迫る“何か”を感じていた。
この男──橋本智也。
名刺も交わさず、素性も明かさず、ただ名前だけ。
だが、それがかえって亜紀の好奇心を刺激した。
彼は既婚か?
仕事は何か?
この時間、この雰囲気、この距離感で、彼女の隣に座る意味は?
それを聞くことは、今は野暮だ。
むしろ、聞かずに済ませた方が、都合がいい。
「小松さんは、お酒、強そうですね」
「飲めば飲むほど、嫌なこと忘れますから」
「なるほど」
「あなたは?」
「忘れたいというより……黙っていたいだけです」
その言葉が、妙に耳に残った。
亜紀の心の奥が、わずかにざわつく。
──似てる。
この男、もしかして、私と同じような場所にいるのかもしれない。
言葉にしない寂しさ。顔に出さない倦怠。日常から切り離された、ただの“夜”。
その夜を、誰にも見つからないように過ごす場所。
ここは、そういう場所だった。
グラスの中のジントニックが半分ほど減った頃、亜紀は心の中の風向きが変わっていくのを感じていた。
目の前にいる男──橋本智也の会話は、表面こそ淡白だが、どこか乾いた深さがあった。
共通の話題はない。互いの生活も知らない。過去を語らず、未来を描かず、ただ“今”だけを静かに共有している。
それなのに、不思議と心地よかった。
むしろ、言葉よりも沈黙の方が安心できる相手というのは、これまでの人生でほとんどいなかった。
「……ここ、会社からは遠いんですか?」
亜紀が問いかけると、智也は頷いた。
「ええ。でも、たまにこういう場所に逃げたくなる日があるんです」
「逃げる」
その言葉に、亜紀はふと反応した。
「何から?」
智也はすぐには答えなかった。
ゆっくりとグラスを揺らし、その琥珀色の液体に視線を落としたまま、淡々と呟いた。
「……答えたくないですか?」
「いえ、答えられないだけです。自分でも、何から逃げてるのか、よく分かってないんですよ」
その言葉の裏にある痛みに、亜紀はなぜか少しだけ安心した。
彼もまた、誰かと繋がることに疲れ、ひとりでいることに飽き、けれど寂しさを口にできないでいる人間なのだ。
結婚しているのか、子どもがいるのか、そういった“属性”の話題にあえて触れないことも、どこか合意の上のように感じられた。
──これは現実の外側にある、儚い泡のような時間だ。
日常では許されない“無責任な心の逃避”を、互いに演じている。
「小松さんって、何してる人なんですか?」
「広告関係の会社で働いてます。企画とか、クライアント対応とか……いろいろ」
「大変そうですね」
「うん。でもまあ、仕事してないと、逆に自分の価値がわからなくなる」
「……わかります、それ」
亜紀は驚いて智也の方を見た。
「僕も、家にいると“役割”が消えるような感覚になる時があるんですよ」
その一言が、なぜか胸に引っかかった。
──“家”にいると?
それはつまり、彼が「家」を持っているということなのだろうか。
けれど、そこで詰問のような質問を投げることは、亜紀にはできなかった。
なぜなら、それを聞いた瞬間、この夜の魔法が解けてしまうと分かっていたから。
バーの中の音楽が、少しテンポを落とした曲へと切り替わる。
時間が経っても、カウンターにいるのは彼ら二人と、入口付近の静かなカップルだけだった。
智也はグラスを空にし、バーテンダーに手を挙げた。
「もう一杯、飲みますか?」
亜紀は、わずかに笑った。
「……はい」
その笑顔は、どこか拙く、それでいて真実だった。
新しい酒が注がれる間、二人の間には少しの沈黙があった。
でも、それは気まずさのない沈黙。
寂しさを埋めるためではなく、ただ互いの存在をそばに感じるための間。
そして、その沈黙の中で、亜紀は初めて自分の内側を明確に意識した。
──私、寂しいんだ。
自由を謳歌しているように振る舞いながら、心のどこかでは「誰かに選ばれること」を、ずっと欲していた。
けれど、過去の恋愛はことごとく破綻し、家族にも期待できず、今さら「結婚」など現実味もなかった。
でも。
今、目の前にいるこの男といると、不思議と自分の輪郭がはっきりする気がした。
「……橋本さんって、不思議な人ですね」
「よく言われます。でも、だいたい“信用できない”って意味で」
「……私は、そうは思わないけど」
亜紀の声は、少しだけ震えていた。
智也はそれに答えるように、ゆっくりと彼女の目を見て言った。
「あなたも、不思議な人ですよ。静かなのに、すごく、何かを抱えている感じがする」
亜紀は、心臓が高鳴るのを自覚した。
──この夜の続きを、望んでしまいそうになる。
けれどそれがどこへ繋がるかは、まだ誰にもわからなかった。
カウンターに並んだふたつのグラス。
そこに注がれた透明と琥珀色の液体が、照明に反射して揺らめいていた。
バーの空気は、先ほどよりもいっそう低く、深く沈み込んでいるようだった。
亜紀は、グラスの底を見つめたまま、ふと自分の背筋を正した。
──こんな風に「誰か」と飲むのは、いつ以来だろう。
友達とわいわい飲むのとも、同僚と気を遣いながら飲むのとも違う。
ふとした視線の重なりに、言葉に出さない気配を読み合いながら過ごす時間。
自分という人間を、誰かが「女」として、ひとりの存在として丁寧に扱ってくれているような、そんな錯覚。
「……橋本さんって、いつもこんなふうに知らない人と話すんですか?」
亜紀が聞くと、智也は笑いもせずに答えた。
「いえ。むしろ、こんなにちゃんと話せたのは久しぶりです」
「へえ、意外」
「僕は、人と距離を取る癖があって。でも今日は……なぜか違った」
その視線がまっすぐ亜紀に向けられていた。
真面目すぎるほど真剣で、嘘をつくための演技には見えなかった。
──だから、怖い。
本当にこの人が、自分の心を見つけてしまいそうで。
「たぶん、私も……似てるのかもしれません」
亜紀の声はかすかに揺れていた。
「ずっと、誰かとちゃんと話すってこと、避けてたんですよね」
「なぜ?」
「そういうのって、続けようとしたら、ちゃんと相手を信じなきゃいけないじゃないですか」
「……それが、怖い?」
「うん。怖い。期待して、裏切られて、またひとりになるのが……」
智也は、亜紀の言葉を遮らず、じっと聞いていた。
まるで、彼女の心に耳を澄ませるように。
亜紀は一口、グラスの中の酒を飲んだ。
喉の奥に静かな熱が流れ、体の芯に少しずつ溶けていく。
この場にいる間だけでも、何かから解放されたかった。
傷を癒す薬ではなく、傷を忘れる麻酔のように。
「……私、いま誰かとちゃんと話してるって思ったの、久しぶりかもしれない」
ぽつりとこぼしたその言葉が、自分でも驚くほど本音に近くて、亜紀は小さく息を呑んだ。
智也はゆっくりと頷いた。
「人って、話すことで、自分の輪郭を確かめるんだと思いますよ」
「輪郭……?」
「話して、伝わって、相手が受け取ってくれる。それで、自分ってこんな形してたんだなって気づける」
「……なんか、詩人みたい」
そう言って亜紀は、ふと笑った。
自分でも久しぶりだと感じるほど、柔らかな笑顔だった。
「……ねえ、橋本さん」
「なんでしょう」
「あなた、結婚してる?」
その問いが、空気を変えた。
問いかけた瞬間、自分の中で何かが固まったのを感じた。
ここで“嘘”を聞けば、今夜のまやかしは続く。
“本当”を聞けば、すべてが終わる。
智也は、目を逸らさなかった。
「……その質問には、答えないほうがいいんじゃないかな」
その言葉が、すべてだった。
答えは、聞かなくても分かる。
でも、彼は逃げなかった。嘘もつかなかった。
だからこそ、亜紀はそれ以上、何も言えなかった。
グラスの中の氷が、カラン、とひとつ崩れる音を立てた。
店内の音楽は、マイナーコードに差しかかり、メロディが影のように流れた。
「……そろそろ、帰ろうかな」
亜紀が静かに立ち上がると、智也も席を立った。
「駅まで、送ります」
「いえ、いい。歩ける距離だから」
「でも……」
「ほんとに、大丈夫」
笑って断ったその声が、少しだけ寂しげだった。
二人は、店の外に出た。
夜風はすっかり冷たくなっていた。
信号の向こうに灯るコンビニの明かり。
交差点の先、互いに違う道へ向かう足音。
数秒の静寂のあと、亜紀が小さく口を開いた。
「また、どこかで」
「はい。きっと」
そして、背を向けた。
振り返らなかった。
あの夜、背中を向けて別れたはずの誰かの存在が、亜紀の生活の中に残り続けていた。
小松亜紀は、そのことに気づくまでに時間はかからなかった。むしろ、翌朝の目覚めと同時に、橋本という男の名も顔も、指先で触れられそうなほどにはっきりと記憶に残っていた。
そのくせ、スマホの履歴には何の痕跡もない。LINEも連絡先も、ましてや名前すら「橋本」としか知らない。
あれほど距離を保った出会いだったのに、なぜこんなにも引きずるのだろう。
「おはようございます、小松さん」
オフィスの朝は、いつも通りに始まった。
フリーアドレスの社風のせいで、日によって隣に座る顔が変わるのが当たり前になっていたが、今日は珍しく人事部の遠山がすぐ近くにいた。
「企画会議の資料、今朝中で大丈夫でしたっけ?」
「あ、はい。すぐ仕上げます」
亜紀はいつものように微笑みながら応対したが、キーボードに向かう手元がどこか浮ついている。
メールの文字が霞むのは、昨日の酒がまだ残っているからではない。
亜紀の頭の片隅には、あの夜のことがずっと居座っていた。
グラスの向こう側にあった瞳。
沈黙が許される心地よさ。
そして──あの、問いかけに対して返された「その質問には答えない方がいいんじゃないかな」という静かな拒絶。
あの言葉が、優しすぎたのだ。
拒絶の中に、なぜか理解と迷いが滲んでいた。
もし、彼が冷たく「はい、結婚してます」と言っていたら、亜紀の心は今ごろここまで揺れなかっただろう。
「また、どこかで」
そう言って背を向けたのは自分だった。
でも、内心では再会を願っていた。
いや──願ってしまっていた。
偶然でも、もう一度あの空気の中で、彼と向き合いたかった。
昼休み。亜紀はスマホを手に取り、指先で地図アプリを開く。
渋谷のあのバーの位置を確認し、ついでに営業日と営業時間を調べてしまう。
今夜、また行ってみようか?
そんなことを考える自分が、ひどく滑稽にも思えた。
でも、気持ちの奥には確かに「知りたい」という衝動があった。
彼がただの通りすがりの人だったのか、それとも……。
その夜、亜紀はバーには行かなかった。
代わりに、自室のカーテンを閉じ切ったまま、缶チューハイを一本だけ開けてソファに沈んでいた。
「今、何してるんだろう」
ぼんやりと天井を見上げながら呟く。
答えの出ない問いに、自分で自分を慰めるように苦笑した。
──彼が既婚者だったら、何ができる?
──何もできない。
それが真実だった。
そして、彼女自身がそれを誰よりも分かっていた。
翌朝、鏡の中の顔がどこか締まりをなくして見えた。
化粧のノリが悪い。肌も少しくすんでいる気がした。
年齢、というものが、こんなにも精神の状態に左右されるものなのかと痛感する。
けれど、鏡越しに映る瞳の奥には、妙な光があった。
それは、悲しみでも怒りでもない。
むしろ──**「焦り」**だった。
---
亜紀は、スーツを着て出勤するために玄関に立った。
ハイヒールのかかとがカツン、と床を打つ音が静寂を破る。
扉を開けた瞬間、春の終わりの風が頬を撫でた。
背筋を正しながら思う。
また、どこかで。
あの言葉を、もう一度、信じてもいいだろうか?
焦燥はまだ消えていない。
でも、今の彼女は、それを“恥”と呼ばず、“生きている証”と名づけることにした。
週が明けて火曜日の夜、小松亜紀は、再び渋谷のあのバーの前に立っていた。
入り口の木製の扉は、その日も控えめな灯りを漏らしていた。上階のネオンや大通りの騒がしさとは無縁の、まるで別の国の空気が、そこには流れていた。
亜紀は、数秒だけ迷ってからドアを押した。
──いるわけ、ないよね。
そう自分に言い聞かせながらも、心のどこかで、もしかしたら、と願っていた。
カウンター席には、先客が二人。どちらも女性だった。
バーテンダーが亜紀に気づき、小さく頷く。
「いつもの、ですか?」
「……はい、お願いします」
ジントニックが注がれ、透明なグラスがカウンターに置かれる。
氷がカラン、と音を立てた瞬間、亜紀の胸に波紋のように広がる“空白”があった。
──彼は、本当にただの通りすがりだったのだろうか?
スマホを取り出し、連絡先一覧を見る。
当然、「橋本智也」の名はない。メッセージも履歴も、何もない。
それなのに、彼の声や表情は、記憶の中に刻み込まれたまま薄れなかった。
あの夜、彼が見せたためらい。
「その質問には答えない方がいいんじゃないかな」
既婚者であることを示唆しながらも、彼は断らなかった。
もし、亜紀が「一緒に帰ろう」と言っていたら、彼は断っただろうか?
それとも──。
「……小松さん?」
声がした。
亜紀は一瞬、聞き間違いかと思った。
だが、振り向いた先に立っていたのは──橋本だった。
あの夜と同じスーツ、けれどネクタイはしていなかった。
ほんの少し驚いたように眉を上げた彼が、亜紀を見て、ゆっくりと微笑んだ。
「偶然、ですね」
「……ほんとに?」
亜紀は、笑った。けれどその笑みには、警戒と安堵、そして戸惑いが同居していた。
智也は、バーテンダーに軽く合図して隣に腰掛ける。
彼の前には、ハイボールが置かれた。
二人の間に、言葉にならない空気が流れる。
「来るって、思ってなかった」
亜紀が言うと、智也は静かに頷いた。
「僕も、そうです」
「……本当に、たまたま?」
その問いに、智也は一瞬だけ視線を泳がせた。
「たまたま、じゃないのかもしれません」
それが答えだった。
沈黙が落ちる。
けれど、それは重苦しさではなかった。
お互いに、どこまで踏み込むべきかを探っているような、慎重な間合い。
──この再会は、偶然ではなく、どこか必然だったのかもしれない。
そしてきっと、今日が分岐点になる。
「……あの夜、少し、聞きすぎたかもって思ってた」
亜紀の言葉に、智也はゆっくりと目を伏せた。
「いえ。むしろ、聞かれてよかった。自分がどこにいるのか、少し分かった気がしたんです」
「どこに、いるんですか?」
智也は、グラスを持ち上げ、ゆっくりと氷を揺らした。
「……“名前のない余白”みたいな場所です」
「それ、ずるい」
「え?」
「その言い方。何も答えてないようで、答えになってる」
亜紀の声には、笑いが混じっていた。
智也は、少しだけ真顔になり、彼女を見つめた。
「名前をつけてしまうと、戻れなくなりそうで」
「じゃあ、何も始まらないままでいるの?」
智也は答えなかった。
だがその沈黙は、拒絶ではなかった。
むしろ、“許し”に近いような静けさがあった。
その夜、二人はバーを出て、それぞれ別の道を歩かなかった。
今度は、同じ方向に向かって歩き出していた。