疑念のはじまり
夜の静けさが、部屋の隅々まで染み込んでいた。
由紀は、寝室の暗闇の中で目を閉じたまま、隣に横たわる夫の気配を感じていた。
夫・隆司の寝息は静かで、まるで何もかも順調であるかのように規則正しく響いている。
──本当に、順調なの?
由紀は、閉じた瞼の裏で、自分に問いかけた。
スマホの画面に浮かび上がった、マッチングアプリの通知。
玲子が、言っていた言葉。
「家族がいるだけで、幸せになれるの?」
その言葉が、頭の中をぐるぐると回り続けている。
数時間前、リビングで見た隆司のスマホ。
そこに映っていた、見覚えのないアプリのアイコン。
彼は、何もなかったような顔で夕食を食べ、当たり前のように「疲れた」と言いながら風呂に入り、そして今、隣で眠っている。
──これが、私たちの夫婦?
由紀は、そっと寝返りを打った。
彼のスマホを、見ればよかった?
もしあのとき、手に取っていたら?
何が、そこにあった?
見なければ、知らなければ、なかったことにできる?
そうやって、私は今まで目をそらしてきたんじゃないの?
夫の顔をそっと覗き込む。
もう、・・ここにいるのに、・・・遠い。
愛してる?
その問いに、すぐに「はい」と答えられなかった。
由紀は、ふと天井を見つめた。
暗闇の中で、自分の輪郭がぼやけていく気がした。
翌朝、目覚ましの音で目を覚ます。
窓の外は、すでに明るい。
夫は、すでに起きていた。
洗面所から、歯を磨く音が聞こえる。
普段通りの朝。
何も変わらない。
でも──私は、昨日と同じ気持ちではいられない。
──私は、知りたいの? 知りたくないの?
答えが出ないまま、由紀はベッドから抜け出した。
キッチンに立つ由紀の手元には、朝食の準備が並んでいた。
目玉焼き、焼き魚、味噌汁、白米。
どれも、これまで何千回と作ってきたものばかり。
フライパンに油を敷く音、湯気が立ち上る香り。
すべてが「いつも通り」。
だけど、心の中だけは、昨日とは違っていた。
「おはよう」
夫・隆司が、食卓に座る。
「おはよう」
由紀は、普段通りの声を出した。
でも、その言葉には、昨夜から残る違和感がこびりついていた。
夫は、新聞をめくりながら、コーヒーを口にする。
「今日は早く帰れる?」
由紀は、何気ないふりをして聞いた。
「まだわからない」
無機質な返答。
「そっか」
それ以上、何も聞けなかった。
ふと、スマホに手を伸ばした。
LINEの通知。
玲子からだった。
「今度、ランチしない?」
いつもの誘い。
でも、由紀は、何かを察した。
──玲子は、何か話したいことがある?
それとも、私が話したいことがある?
指が、返信を打ち込む。
「うん、行こう」
美咲が、制服を着て玄関に向かう。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
長男の圭介、次男の悠人も、次々と家を出ていく。
夫も、鞄を手に取る。
「じゃあ、行ってくる」
「うん」
由紀は、彼の背中を見送った。
玄関の扉が閉まる音が、やけに冷たく響く。
シンクに流れる水の音が、静まり返った家の中で妙に大きく響いていた。
由紀は、食器を洗いながら、今朝の夫の背中を思い出していた。
──今、私は何を考えている?
何をするつもり?
確かめる? それとも、見なかったふりをする?
──私は、何を疑っているんだろう?
夫がスマホを見ているところを見ただけで、それが「浮気」だと決まったわけじゃない。
でも、「そうかもしれない」と思った瞬間から、何もかもが変わってしまった気がする。
水道の蛇口を閉めると、家の中が一瞬、完全な静寂に包まれた。
夫も、子どもたちもいない家。
何も音のしない空間が、妙に広く感じた。
──私は、この家の中に「ひとり」なんだ。
由紀は、スマホを手に取った。
マッチングアプリのことを検索しようとした指が、一瞬だけ止まる。
──本当に、確かめるつもり?
もし、見つけてしまったら?
そのとき、どうするの?
息が詰まるような感覚に襲われる。
でも、もう戻れない。
指が画面を滑る。
そして、夫のスマホの画面で見たアプリのアイコンのデザインを探し始めた。
検索結果には、いくつものアプリが並んでいた。
「大人の出会い」
「本気の恋愛」
「気軽な関係を」
由紀は、喉の奥が乾いていくのを感じた。
夫は、どれを使っていた?
もう一度、夫のスマホを見れば、答えはすぐにわかる。
でも、それをする勇気はなかった。
ピンポーン
玄関のチャイムが鳴った。
由紀は、ハッとしてスマホを握りしめる。
──誰?
扉を開けると、そこに立っていたのは玲子だった。
「……どうしたの?」
驚きながら尋ねると、玲子は軽く笑った。
「ねえ、ランチ、今からにしない?」
その笑顔の裏に、何か隠しているものがあるような気がした。
──もしかして、玲子も?
由紀は、一瞬だけ息を呑んだ。
玲子が家の前に立っていたことに、由紀は驚いた。
「……ランチって、今から?」
「うん。ちょっと、話したいことがあって」
玲子の表情は、一見すると穏やかだった。けれど、その目の奥には何か迷いのようなものが浮かんでいた。
由紀は、その視線の違和感を感じながらも、家の鍵を手に取った。
「ちょっと待って、すぐに出るから」
2人は、駅近くのレストランへ向かった。
平日の昼間にもかかわらず、店内はにぎわっている。
主婦らしきグループ、オフィスワーカーらしき男女、そしてカップルの姿もちらほら。
由紀は、玲子と向かい合って席に座った。
「何か飲む?」
「ううん、水でいい」
玲子の返事は、いつもより少し短かった。
「それで……何かあったの?」
由紀が尋ねると、玲子は微かに笑った。
「……ねえ、由紀。結婚してから、一度でも『これは間違いだった』って思ったこと、ある?」
その問いに、由紀は思わず息を呑んだ。
──玲子は、何を言おうとしている?
「どうして、そんなこと聞くの?」
「ただ……聞きたくなったの」
玲子の指が、テーブルの上のグラスの縁をなぞる。
その仕草が、不安を隠しているように見えた。
「……考えたことがないわけじゃないけど」
由紀は、慎重に言葉を選びながら答えた。
「でも、それが『間違いだった』とは思いたくない、かな」
玲子は、じっと由紀の顔を見つめる。
「……私ね」
玲子の声は、少しだけ震えていた。
「最近、誰かと会ったの」
由紀の背筋が、少しだけ冷えた。
「誰かって?」
「マッチングアプリで知り合った人」
その言葉が、鋭く由紀の胸を刺した。
マッチングアプリ。
それは、昨夜、由紀が夫のスマホで見たものだった。
「……会った、って?」
「食事をしただけ。でも……」
「でも?」
玲子は、一瞬だけ口を噤んだ後、ゆっくりと口を開いた。
「私、あの人と一緒にいたとき、久しぶりに『女』として扱われた気がしたの」
その言葉に、由紀は返す言葉を見失った。
玲子は、テーブルの上に視線を落としたまま続ける。
「夫とは、もう何年もまともに会話もしていないのに、たった一度会っただけの人が、私のことを気にかけてくれた」
「……その人、独身なの?」
「……そう言ってた」
「本当に?」
玲子は、微かに笑った。
「分からない。でも、確かめる気もなかった」
その笑顔が、どこか壊れかけているように見えた。
「……玲子、それでいいの?」
「分からない。でも、もう戻れない気がする」
玲子は、ため息をついた。
「ねえ、由紀。もし、あなたの夫が同じことをしていたら?」
由紀の心臓が、激しく鳴った。
「……どうして、それを聞くの?」
「ただ、聞いてみたかったの」
玲子は、じっと由紀の顔を見つめた。
──まるで、何かを見透かそうとしているみたいに。
その瞬間、由紀のスマホが震えた。
LINEの通知。
夫からだった。
「今夜、飲み会だから夕飯いらない」
それを見た瞬間、由紀の中の何かが、音を立てて崩れ落ちた気がした。
由紀は、スマホの画面をじっと見つめた。
「今夜、飲み会だから夕飯いらない」
たったそれだけのメッセージなのに、心臓が冷たくなる。
──本当に「飲み会」なの?
──それとも、誰かと会うため?
考えたくないのに、疑念が広がっていく。
「どうしたの?」
玲子が、由紀の表情の変化に気づいた。
「……夫から。今日は飲み会だから夕飯いらないって」
玲子は、じっと由紀を見つめる。
「信じてる?」
その言葉に、由紀は即答できなかった。
「分からない……」
「もし、夫がマッチングアプリを使っていたら?」
由紀は、喉の奥が詰まるのを感じた。
「玲子……どうしてそんなこと聞くの?」
「……なんとなく、ね」
玲子は、グラスの水を一口飲んだ。
──それは「なんとなく」なんかじゃない。
玲子は、何かを知っている?
それとも──彼女自身も、同じ闇の中にいるから?
「ねえ、由紀」
「なに?」
「もし、夫が裏切っていたら、どうする?」
由紀は、無言のまま玲子を見つめた。
──答えが出せない。
裏切りの証拠を見つけても、私はどうする?
夫を責める?
離婚する?
でも、子どもたちは? 生活は?
それとも、何も知らなかったふりをして、このまま生きる?
どちらの道を選んでも、幸福にはなれない気がした。
「私、今、夫のことをどれくらい知ってるんだろう」
由紀の呟きに、玲子が微かに微笑んだ。
「私も、同じことを思ってた」
「玲子……」
「結婚して十年。ずっと一緒にいるのに、彼が何を考えてるのか分からない」
「……それって、怖いよね」
「うん。だから、私は踏み出したのかもしれない」
「踏み出した?」
「……夫が何をしているのか確かめるよりも、私が何をするのかを決めたの」
玲子の目が、一瞬だけ暗く光った。
その言葉の意味が、由紀には痛いほど理解できた。
玲子は、すでに「夫とは違う誰か」に心を傾けている。
夫が裏切るなら、自分も裏切る。
「待つ」側ではなく、「動く」側になる。
玲子は、それを選んだ。
由紀は、ふとスマホを見つめる。
玲子のように、自分も「踏み出す」べきなの?
それとも、まだ「待つ」べき?
──どちらを選んでも、傷つくのに。
「由紀、またランチしよう」
「うん……」
玲子は、ゆっくりと席を立つ。
由紀も、それに続いた。
二人は、店を出る。
その瞬間、由紀のスマホが再び震えた。
夫からのメッセージだった。
「今日は帰りが遅くなるかも」
その言葉に、由紀の心は決定的に揺らいだ。