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玲子の迷い

 オフィスの窓から見える景色が、少しずつオレンジ色に染まっていく。


 橋本玲子は、デスクに向かいながら手元の書類をめくる手を止め、ふと視線を上げた。


 ビルの谷間に沈みゆく夕日。オフィス街の静かな光の移り変わり。


 パソコンの画面に映し出されたエクセルシートの数字の羅列が、一瞬だけ霞む。


「……ふぅ」


 小さく息を吐き、デスクの端に置かれたスマホを手に取った。


 LINEの通知が数件。部下からの業務連絡、取引先からの確認事項、そして夫・橋本智也からのメッセージ。


 「今日は少し遅くなる」


 たったそれだけの、味気ない一文。


 玲子は、その画面を無表情のまま見つめた。


──もう何年、こんな会話を続けているんだろう?




 時計を見ると、すでに19時を過ぎていた。


 オフィスには、まだ何人かの同僚が残っている。みな、それぞれのパソコンに向かい、仕事に集中しているようだった。


 玲子は、もう一度スマホを見た。


 「今日は遅くなる」


 その言葉が、何を意味しているのか、彼女はよく知っていた。


 夫は、仕事が忙しいわけではない。


 むしろ、最近の智也の勤務時間は、以前よりも短くなっているはずだった。


──遅くなる理由は、仕事じゃない。


 玲子は、スマホの画面を伏せる。


 その理由が何かを問い詰める気にもなれなかった。




「橋本さん、まだ残業ですか?」


 声をかけられ、玲子は顔を上げた。


 同僚の加藤沙織が、コーヒーを片手に立っていた。


「ええ、もう少しだけ」


「大変ですね。私、そろそろ帰ります」


「お疲れさま」


「橋本さんも、働きすぎないでくださいね。ご主人、待ってるでしょう?」


 その言葉に、玲子はわずかに眉を動かした。


 ──待っている? 夫が?


「ええ……まあ」


 玲子は、曖昧に笑うしかなかった。


 沙織は、何の疑いもなく微笑み、オフィスを出て行った。


 玲子は、静かにため息をついた。




 少しずつ、オフィスの人が減っていく。


 玲子は、ディスプレイの中の数字を眺めながら、意識を別のことへ向けていた。


 ──夫の帰りが遅い理由。


 ──最近、妙に増えた「残業」。


 ──目を合わせない会話。


 彼のスマホを見たことはない。


 見たら、きっと何かを知ってしまうから。


 ──でも、もう知っているのかもしれない。




 玲子は、カチリとマウスをクリックし、作業中のデータを保存した。


 もう、今日は終わりにしよう。


 帰る気力も、仕事を続ける気力もない。


 ただ、今すぐ家に帰って、何もない部屋の中で一人になるのは、もっと嫌だった。


 玲子は、無意識のうちにスマホを開き、あるアプリのアイコンに指を滑らせた。


 それは──マッチングアプリだった。




 開いた画面には、見知らぬ男たちのプロフィールが並んでいる。


 玲子は、ゆっくりとスクロールする。


 このアプリを入れたのは、ほんの出来心だった。


 夫が家にいない時間が増え、スマホを手にする時間が増えたとき、たまたま広告を目にした。


「大人のための、気軽な出会い」


 そう書かれた言葉に、指が勝手に動いた。


 最初は、誰かと話すだけでもいいと思った。


 けれど、いざ開いてみると、そこにいるのは「出会い」を求める男たちばかりだった。


 玲子は、何人かのメッセージを読んで、そっとアプリを閉じた。




 画面の中の男たちは、何を考えているのだろう?


 結婚している男もいるのだろうか?


 私の夫のように、こうして誰かを探している男もいる?


 玲子は、スマホを握る手に少しだけ力を込めた。


 夫が見ているかもしれないものを、私も見ている。


 それが、どうしようもなく虚しく思えた。




 玲子は、スマホを机に置き、深く息をついた。


 「今日は遅くなる」と言った夫は、今ごろどこにいるのだろう?


 オフィス? それとも、誰かと一緒に?


 何も知らないふりを続けることはできる。


 でも、それでいいの?


 玲子は、スマホをもう一度手に取った。


 アプリの画面を開くか、閉じるか。


 指先が、わずかに震えた。




 玲子の指先が、スマホの画面の上で静かに止まる。


 ──開くか、閉じるか。


 ただそれだけの選択なのに、指が動かない。


 オフィスの静寂の中で、自分の鼓動が微かに聞こえる。


 スマホの画面には、アプリのトップページが映し出されている。


 「今日のおすすめの相手」


 そこに並んでいる男たちは、名前も本名かどうか分からないし、プロフィールの写真が本物かどうかも分からない。


 けれど──。


 ここにいる誰かも、玲子と同じように「満たされていない」人間なのかもしれない。




 玲子は、ゆっくりとスクロールを始めた。


 表示されるのは、同世代の男たち。


 「経営者」「エリート会社員」「バツイチ」「趣味は旅行」──どのプロフィールも、どこか作り物めいたものに見えた。


 だけど、玲子自身も、ここでは「作られた玲子」なのかもしれない。


 本名は出していないし、プロフィール写真も、過去に撮った綺麗に見えるものを選んだ。


 ──何がしたいんだろう?


 夫の裏切りに気づいているのに、玲子は何も言えないままでいる。


 問い詰めたところで、何が変わる?


 もう、「終わっている」かもしれない関係を、引き伸ばすだけの意味がある?


 それなら──私も。


 同じことをして、何が悪いの?




 スクロールしているうちに、ある男のプロフィールが目に留まった。


「優しい時間を、一緒に過ごせる人を探しています」


 年齢は、夫と同じ三十代後半。


 仕事はコンサルティング会社の役員。


 写真の雰囲気は、落ち着いた印象だった。


 玲子は、数秒迷って、メッセージを開いた。


 ──返事をするか、しないか。


 送ったら、もう後戻りはできない気がする。




 そのとき、スマホが振動した。


 驚いて画面を確認すると、夫・智也からのメッセージだった。


「今から帰る」


 短い一文。


 まるで「用件だけ伝えればいい」というような無機質なメッセージ。


 この言葉の奥には、何もない。


 玲子は、スマホを握りしめた。


 そして、無意識のうちに指を動かした。


 「はじめまして」


 メッセージを、送った。





 玲子の指先がスマホを離れた瞬間、静かな罪悪感が広がった。


 送信したメッセージが、画面の中に表示されている。


 「はじめまして」


 たった五文字。


 それなのに、その五文字が、玲子の中の何かを決定的に変えてしまった気がした。


 スマホを机の上に置く。


 心臓が微かに速くなっているのを感じる。


 送らなければよかった?


 でも──。


 もう遅い。




 デスクの上の書類を片付けながらも、意識の半分はスマホに向いていた。


 ──返信が来たら、どうする?


 まるで、初めて誰かとデートの約束をした少女みたいに、玲子は自分の行動が理解できなかった。


 馬鹿みたい。


 私は、何を求めているの?




 スマホが震えた。


 視線を向けると、アプリの通知。


 相手からのメッセージだった。


 「はじめまして。メッセージありがとうございます」


 それだけのシンプルな返事。


 なのに、玲子の指は、迷わず返信を打ち込んでいた。


 「遅い時間にすみません。お仕事お忙しいんですか?」


 送信。


 このまま、何もなかったことにできるなら、アプリを閉じればいい。


 でも、玲子は閉じなかった。




 数分後、再びメッセージが届いた。


 「いえ、ちょうど帰宅したところです。玲子さんは?」


 玲子は、指先をスマホに滑らせた。


 「今、仕事が終わって帰ろうとしていました」


 送信。


 彼の返事は早かった。


 「お仕事、大変そうですね」


 ──この人は、私のことを気にかけてくれる。


 そんな錯覚を起こしそうになる。


 玲子は、自分が「求めていたもの」の正体を、ようやく理解した。


 ──私は、誰かに大切にされたかったんだ。


 夫からは、もう得られなくなった感覚。


 この人なら、それを埋めてくれる?




 外へ出ると、夜の冷たい空気が玲子の頬を撫でた。


 ふと、バッグの中でスマホが震えた。


 新しいメッセージだった。


 「もし、お時間があれば、少しだけお話ししませんか?」


 玲子は、立ち止まる。


 返信するか、しないか。


 帰るか、会うか。


 選択肢が目の前に並んでいる。


 そして、玲子は──。


 指を動かした。


 「少しだけなら」


 送信。


 今夜、彼と会うことになった。




 玲子は、スマホを手にしたまま深呼吸をした。


 ──本当に会うの?


 理性の声が、冷静に問いかけてくる。


 けれど、その声はすでにかき消されつつあった。


 「少しだけなら」


 そう送信した時点で、彼女はすでに一歩を踏み出していた。


 あとは、流れに身を任せるだけ。




 待ち合わせの場所は、オフィス街にある落ち着いたバー。


 玲子は、仕事帰りに寄れる距離のカフェかと思っていたが、相手は「静かに話せる場所がいい」と言った。


 ──警戒するべきだった?


 それとも、自分がこの展開を望んでいた?


 答えは出ないまま、玲子はタクシーを拾った。




 店の扉を開けると、穏やかなジャズが流れていた。


 天井には間接照明。カウンター席には、グラスを傾ける大人たちが数人。


 玲子は、店内を見渡した。


 そして、奥のテーブル席に座る男と目が合った。


 写真よりも少し落ち着いた印象。


 それでも、スーツ姿はスマートで、どこか余裕のある微笑みを浮かべていた。


「橋本さん、ですよね?」


「はい」


 玲子は、軽く会釈して席に座った。




「来てくれて、ありがとうございます」


 男は、優しく微笑んだ。


 玲子は、彼のグラスに目をやる。


 ウイスキーのロック。


「お仕事、お疲れ様でした」


 玲子は、グラスに口をつけながら、ゆっくりと彼を観察する。


 ──本当に独身?


 既婚者の可能性は?


 でも、そんなことはどうでもいいのかもしれない。


 だって、私も──。




「橋本さんは、どうしてアプリを?」


 男が、穏やかな口調で尋ねた。


 玲子は、少しだけ迷ってから答えた。


「何か、変わりたくて」


「変わりたい?」


「……うまく言えないけど」


 男は、興味深そうに玲子を見つめる。


「じゃあ、僕はその“変わりたい”のきっかけになれるかな?」


 玲子は、グラスを傾けながら、微笑んだ。


「それは、あなた次第じゃない?」


 店内の灯りが、グラスの中の液体をゆっくりと揺らしていた。




 玲子は、グラスの中の氷が溶けていくのをぼんやりと見つめていた。


 カラン、と氷が揺れる音がする。


 男は、向かいの席で静かに微笑んでいる。


「じゃあ……橋本さんは、今の生活に満足していない?」


 玲子は、少しだけ間を置いてから答えた。


「あなたは?」


 男は、ゆっくりとウイスキーを口に含んだ。


「誰でも、何かしら欠けているものがあるんじゃないかな」


 玲子は、その言葉を反芻した。


 ──私に欠けているものは、何?


 夫との関係? 愛情? それとも、ただの刺激?




「橋本さんは、結婚してどのくらい?」


「……十年」


「長いね」


「そうね」


 玲子は、グラスを置いた。


「あなたは?」


「僕は、まだ独身」


「本当に?」


「……どうして、疑うの?」


 玲子は、ゆっくりと彼の目を見た。


「このアプリには、既婚者も多いでしょう?」


 男は、少しだけ笑った。


「……たしかに。でも、僕は違うよ」


「そう」


 玲子は、その言葉を信じることにした。




 会話は、途切れることなく続いた。


 仕事の話。趣味の話。


 他愛のないやり取り。


 けれど、そのすべてが、玲子には「夫とはしない会話」だった。


 誰かに興味を持たれること。


 誰かと心地よい時間を過ごすこと。


 そんな感覚が、久しぶりすぎて、少し怖くなった。




「橋本さん」


「なに?」


「僕と、また会ってくれる?」


 玲子は、グラスの中の氷を見つめた。


 答えは、すでに決まっていた。


 「……考えておく」


 店の灯りが、玲子の頬を淡く照らしていた。


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