シングルマザーの夜
田辺奈緒は、夜のコンビニの冷たい灯りの下に立っていた。
店内には、仕事帰りのサラリーマン、コンビニ弁当を手にした大学生らしき若者、タバコを買いに来た男が数人。冷えた空気と蛍光灯の白い光が、どこか現実感を奪っていく。
カゴの中には、娘の美優(9歳)が好きな苺ヨーグルトと、自分用の缶チューハイが入っていた。レジに並びながら、何となくスマホを取り出し、画面を眺める。
──通知は、0。
数年前までは、夫からのLINEが頻繁に届いていた。「今日は飲み会」「遅くなる」「先に寝てて」。そんな無機質な言葉が並んでいたが、あの頃はまだ「夫婦」でいたのだと今になって思う。
離婚してから、誰かとメッセージを交わす頻度は極端に減った。仕事関係のやり取りか、学校の連絡網くらい。友人たちのグループチャットには、未読のままのメッセージが増えている。
「……必要とされていないって、こういうことか」
自嘲気味に笑いながら、スマホをポケットに戻した。
レジの順番が来た。
支払いを済ませ、袋を受け取る。
店を出ると、夜風が肌を撫でた。少しだけ酔いたい気分だったが、家には美優が待っている。いつもなら、帰宅後に彼女を寝かしつけ、それから缶チューハイを開けるのが奈緒の「一日の終わりの儀式」だった。
けれど今日は、何となくまっすぐ帰る気になれなかった。
足が向かったのは、家の近くの公園だった。
街灯がぽつりぽつりと灯る中、ベンチにはカップルがひと組。その先には、タバコを吸うサラリーマン風の男がひとり。
奈緒は、人のいないベンチに腰を下ろした。
スマホを取り出し、しばらく画面を眺める。
数秒の迷いのあと──マッチングアプリのアイコンをタップした。
──こんなこと、意味がないのに。
アプリを開いた瞬間、奈緒の胸には後ろめたさと虚しさが広がった。
男性のプロフィールが一覧になって流れてくる。どの顔も、どの言葉も、どこか「作られたもの」に見えた。
「はじめまして! よかったら仲良くしてください」
「一緒に美味しいご飯でもどうですか?」
「真剣な出会いを探してます!」
どれも、どこかで聞いたような、見飽きた言葉ばかり。
それでも、指先は無意識のうちにプロフィールをスクロールしていく。
画面の中の男たちは、「優しい夫」である可能性もあるし、「浮気を楽しむ既婚者」である可能性もある。
──私が元夫と出会った頃、彼もこんな感じだったのかもしれない。
恋愛をして、結婚して、子どもが生まれて──。
それがどれほど脆く、儚いものなのか、今の奈緒は痛いほど知っている。
でも、それでも──「誰かに必要とされたい」という気持ちは、どうしても消えなかった。
メッセージが来ていた。
「こんばんは! もしよかったら、お話しませんか?」
奈緒は、相手のプロフィールを開いた。
30代後半、営業職、既婚歴なし。プロフィールの文章は、どこか誠実そうに見える。
けれど、そんなものはいくらでも偽装できる。
──この人も、本当に独身なのか分からない。
奈緒は、しばらく画面を見つめたあと、ため息とともにスマホを閉じた。
こんなものに、何を求めているんだろう?
公園の時計を見ると、すでに22時を回っていた。
「……帰ろう」
奈緒は立ち上がり、家に向かって歩き出した。
美優は、もう眠っているだろう。
部屋に帰れば、明かりの消えたリビングと、整然と並んだ家具、そして何もない静寂が待っている。
そしてまた、缶チューハイを開け、一人で飲む夜が始まるのだ。
奈緒がマンションのエントランスに足を踏み入れると、管理人が軽く会釈した。
「お帰りなさい、田辺さん」
「あ、こんばんは」
奈緒も軽く頭を下げる。
このマンションには、もう4年住んでいる。離婚が決まって、元夫が家を出て行ったあと、彼女はすぐにここへ引っ越した。2LDK、家賃はそれなりに安く、日当たりも悪くない。
だけど、この部屋を「自分の家」だと思えたことは、一度もなかった。
鍵を開け、そっと扉を押し開ける。
玄関に並ぶ小さな靴──美優のものだ。
リビングに向かうと、ソファの上で彼女が眠っていた。
「美優……」
奈緒は、そっと娘の額に手を当てた。
少し汗ばんでいる。
テーブルの上には、ランドセルと開きっぱなしの絵本が置かれていた。
「寝落ちしちゃったのね……」
奈緒は、ふっと微笑んだ。
それから、美優の小さな体を抱き上げ、寝室へと運ぶ。
ベッドに寝かせ、毛布をかける。
そのとき、美優がうっすらと目を開けた。
「……ママ?」
「うん、ママよ」
「おかえり」
「ただいま」
美優は、まだ眠たそうな声で囁く。
「今日は……お仕事、遅かったの?」
「うん。ちょっと寄り道しちゃった」
「ふーん……」
美優の声が、次第に弱くなっていく。
「ママ……」
「なに?」
「明日、お休み?」
「ううん。お仕事」
「そっか……」
美優の瞼が、ゆっくり閉じる。
奈緒は、そっと娘の髪を撫でた。
「ごめんね」
その言葉は、誰に向けたものだったのだろう?
リビングに戻ると、静寂が広がっていた。
時計は、もう23時を回っている。
奈緒は、コンビニの袋から缶チューハイを取り出し、プルタブを開けた。
シュッと小さな音が響く。
最初のひと口を飲むと、少しだけ体が温まるような気がした。
ソファに沈み込みながら、再びスマホを手に取る。
アプリを開き、しばらくメッセージの画面を眺めた。
──そこには、新しい通知がひとつ。
「よかったら、少しだけお話ししませんか?」
数分前に届いたメッセージ。
奈緒は、それをじっと見つめる。
──何をしてるんだろう、私。
返事をするべきか、しないべきか。
考えながら、指が勝手に動いた。
「こんばんは」
それだけを打ち込んで、送信ボタンを押した。
しばらくすると、返信が来た。
「こんばんは! お仕事帰りですか?」
奈緒は、数秒迷ったあと、指を動かす。
「そうですね。あなたは?」
「僕も仕事終わりで、ちょっと夜の散歩中です」
会話は、淡々と続く。
どこにでもあるようなやり取り。
相手の顔も、声も知らないのに、言葉だけを交わしている。
何の意味があるのか、自分でも分からない。
ふと、奈緒はカーテンの隙間から外を見た。
マンションの前の道路を、一台のタクシーが通り過ぎる。
夜の街は静かだ。
スマホの画面を見る。
「田辺さんは、どんなお仕事をされているんですか?」
少し迷って、奈緒は答えた。
「パートで事務をしてます」
「そうなんですね。お仕事、大変ですか?」
「……うん、まあ、いろいろと」
「いろいろ?」
「生活のためだから、やるしかないけど、たまに虚しくなりますね」
送信してから、少しだけ後悔した。
こんなこと、見ず知らずの男に言うことじゃない。
でも、次の瞬間、返信が返ってきた。
「分かります。その気持ち」
奈緒は、思わず画面を見つめた。
──この人も、同じようなことを感じている?
「どんな気持ち?」
「何のために働いてるんだろうって思うこと、ありません?」
「ある」
即答だった。
それから、しばらくの沈黙が続く。
相手も、何か考えているのだろうか。
そして、ようやく新しいメッセージが届いた。
「田辺さん、今、ひとりですか?」
その言葉に、奈緒の指が止まった。
スマホの画面に表示された言葉を、奈緒はじっと見つめた。
「田辺さん、今、ひとりですか?」
何の変哲もない問いかけ。けれど、この言葉がなぜか引っかかった。
返事をするか、やめるか。
指を動かしかけて、止まる。
──私、何をしてるんだろう?
缶チューハイを握る手に、じわりと冷えが広がる。
外では、遠く車のエンジン音が聞こえる。家の中は、ただただ静かだった。
「ひとりです」
送信した後、スマホをテーブルの上に置いた。
画面を見続けるのが、なぜか怖かった。
もし、この後に「会いませんか?」とでも送られてきたら?
どうするつもりなの?
──私は、会いたいの? 誰かに。
深く息をつき、髪をかき上げる。
もう一口、チューハイを飲む。喉の奥が軽く焼けるような感覚。
少しだけ、酔えた気がする。
数秒後、スマホが震えた。
ゆっくりと画面を覗き込む。
「俺も、ひとりです」
それだけのメッセージ。
奈緒は、しばらくそれを見つめた。
──だから、何?
そんな風に思う一方で、この短い言葉が、心の奥をじわりと刺激する。
彼も、今、静かな部屋でひとりでいるのだろうか?
見えない誰かが、自分と同じ夜を過ごしている。
その事実が、ほんの少しだけ、心を温めた。
「寂しいんですか?」
奈緒は、そう送った。
送信した瞬間、何をやっているのかと自分に問いかける。
返事はすぐに返ってきた。
「……寂しいですよね、人って」
奈緒は、スマホを握る指に力を込めた。
──この人は、何を求めてここにいるの?
ただの暇つぶし? それとも、本気で誰かを探している?
私に、何を期待している?
いや──。
本当に期待しているのは、私の方じゃないの?
もう一口、チューハイを飲む。
少しだけ、視界がぼやける。
──会ってしまえば、何か変わるのかな?
そう考えた瞬間、ぞくりとした。
もし今、自分が「会いましょう」と言えば、きっとこの男は受け入れるだろう。
そして、会えばどうなる?
お酒を飲んで、適当な話をして、心の寂しさを埋めるように身体を寄せ合う?
それが何になる?
ただの「一夜の気休め」にしかならないのに。
でも、それでいいなら──?
奈緒は、ふっと笑った。
自分がこんなことを考えるなんて。
昔の私なら、絶対にありえなかった。
結婚していた頃の私は、夫だけを信じていた。愛されていると思っていたし、それが永遠に続くものだと、疑いもしなかった。
でも、現実は?
夫は、別の女に走り、私を捨てた。
「幸せな家庭」なんて、いとも簡単に崩れるものだった。
なら、もう信じるものなんて何もないじゃない?
──だったら、私も好きに生きればいいんじゃない?
スマホを握りしめる。
「会いましょう」と打ち込もうとして、指を止めた。
そのとき、隣の部屋から小さな寝息が聞こえた。
美優が、安心しきった顔で眠っている姿が、目に浮かぶ。
──私がいなくても、この子は大丈夫?
たとえ「一夜の気休め」でも、私は母親であることを放棄していい?
奈緒は、スマホをそっと置いた。
結局、私にはそんな勇気はない。
心の奥では、わかっていた。
私がどれだけ寂しくても、この子の母親であることだけは、変えられない。
それを捨てたら、私は本当に「何者でもなくなる」。
スマホの画面を見ると、メッセージが一つ増えていた。
「田辺さん?」
返信を待っているのか。
でも、私は──。
奈緒は、ゆっくりと入力した。
「ごめんなさい、もう寝ます」
そして、送信ボタンを押した。
アプリを閉じる。
それが、「現実に戻る」ための儀式のようだった。
リビングの照明を落とし、部屋の奥へと歩く。
寝室に入ると、美優の寝息が小さく響いていた。
布団にそっと潜り込み、彼女の隣に横たわる。
そして、目を閉じた。
──たったひとりの娘の母親であることだけが、今の私の「証明」なのだから。
朝、スマホのアラームが鳴った。
奈緒はゆっくりと目を開ける。カーテンの隙間から差し込む光が、ぼんやりとした視界の中に映る。
隣では、美優がまだ眠っていた。規則正しい寝息。小さな手が布団の上に投げ出されている。
しばらく、その寝顔を眺めていた。
昨日、私は何をしていたんだっけ?
──マッチングアプリを開いて、誰かとやり取りをしていた。
そして、「ごめんなさい、もう寝ます」と打ち込んで、アプリを閉じた。
それだけのことなのに、なぜか妙な罪悪感が残っている。
──私、何がしたかったんだろう?
寂しさを埋めたかった? 誰かと繋がりたかった?
それとも──何かを壊したかった?
「……ママ?」
不意に、美優の小さな声がした。
「うん?」
「おはよ……」
寝ぼけた声で、美優は奈緒の腕を掴んだ。
「もう朝?」
「うん。もう朝だよ」
「ふぁぁ……」
美優は、まだ眠たそうに目を擦る。
奈緒は、優しくその頭を撫でた。
「あと5分だけ寝てていいよ。でも、その後はちゃんと起きるんだよ?」
「うん……」
美優は、もう一度布団に潜り込む。
奈緒は、その小さな背中を見つめながら、胸の奥に重たいものを感じていた。
リビングへ行き、コーヒーを淹れる。
朝の静かな部屋に、コーヒーが滴る音が響く。
スマホを手に取り、通知を確認する。
昨夜の男から、新しいメッセージは届いていなかった。
ほっとしたような、寂しいような、複雑な気持ちになる。
──彼も、私と同じように、一晩経って現実に戻ったのだろうか。
それとも、ただ次の誰かを探しているだけ?
どちらでもいい。もう、関係ない。
そう思いながら、奈緒はスマホの画面を消した。
仕事へ行く準備をしながら、鏡の前で自分の顔を見た。
少し、やつれている気がする。
髪の毛のツヤがなくなってきた気がするし、目の下にはうっすらクマができている。
20代の頃、仕事終わりに夫とデートをしていた頃とは、まるで違う。
「ママ」という役割は、いつの間にか自分のアイデンティティのすべてを飲み込んでしまった。
──私は、どこへ行ったんだろう?
美優を学校へ送り出し、奈緒はパート先の事務所へ向かう。
そこは、街中にある小さな会社だった。
「おはようございます」
「おはよう」
職場には、同じようにパートで働く主婦たちがいる。彼女たちは、家庭の話をするのが好きだ。
「昨日、うちの子がね……」
「旦那がまた飲みに行っちゃってさ……」
「今日の晩ごはん、何にしよう?」
奈緒は、それらの会話に適当に相槌を打つ。
自分も、同じ立場のはずなのに、なぜかその輪の中にうまく馴染めない。
どこか、ここにいない誰かの話を聞いているような気がする。
昼休み、スマホを開く。
ふと、SNSのタイムラインに流れてきた投稿に目が止まった。
玲子の投稿だ。
『忙しい毎日。でも、それが私の生きる証』
奈緒は、ふっと笑った。
玲子は玲子で、満たされていないのかもしれない。
彼女は仕事がすべてで、家庭のことなんて考えていないふりをしているけれど、それが本当に「正解」だったのか、もしかしたら彼女自身が分かっていないのかもしれない。
──結局、誰も満たされていないのかもしれないな。
奈緒は、スマホを閉じた。
夕方、仕事を終えて、買い物をして帰宅する。
夕飯を作る。
当たり前のように流れていく日常。
でも、その裏で、私の心はどこかに行ってしまっている。
夜、美優が眠ったあと、奈緒はソファに座り、缶チューハイのプルタブを開けた。
昨日の夜と、同じように。
一口飲んで、スマホを手に取る。
──マッチングアプリを開くか?
昨日と同じように、指が迷う。
この先には、何がある?
誰かとの出会い? 一夜限りの関係? それとも、ただの空虚?
──それでも、また開こうとしている。
奈緒は、そっと目を閉じた。
「寂しい」という感情は、一度味わってしまうと、なかなか手放せないものだ。
スマホの画面を見つめたまま、奈緒は動けなかった。
マッチングアプリのアイコンが、薄暗いリビングの中でぼんやりと光っている。
指を伸ばせば、昨日と同じように、知らない誰かと繋がることができる。
──でも、それが何になる?
一度は閉じたはずなのに、また開こうとしている。
まるで、そこに「何か」があると信じているみたいに。
──寂しいから?
それとも、ただの気の迷い?
缶チューハイを口に運ぶ。冷たい炭酸が喉を刺激する。
意識が少しだけぼんやりしてくる。
「……バカみたい」
奈緒は、苦笑しながらスマホを裏返した。
どうせ、誰と繋がったところで、何も変わらない。
それは、もうわかっている。
今夜、誰かとメッセージを交わしたとしても、結局は「一時の暇つぶし」にしかならない。
それなのに、どうしてこんなにも「繋がりたい」と思ってしまうのだろう?
──私は、何を求めている?
──私は、誰に求めている?
その答えが出ないまま、奈緒は深く息を吐いた。
リビングの照明を落とし、寝室へ向かう。
美優の寝顔を確認する。
すやすやと、小さな胸が上下している。
この子は、私がいなくなったらどうなるんだろう?
ふと、そんなことを考えた。
もし私が、明日、突然いなくなったら?
この子は、誰に頼るのだろう?
奈緒は、毛布を少しだけ引き上げて、美優の肩にかけた。
「……ママは、ここにいるからね」
そう囁いて、自分にも言い聞かせる。
翌朝、奈緒は仕事へ向かった。
昨日と同じように、バタバタと支度をし、美優を学校へ送り、パート先の事務所へ向かう。
何も変わらない日常。
でも、その中で、ふとした瞬間に「昨日の自分」を思い出してしまう。
スマホを開きかけたこと。
知らない誰かと繋がろうとしたこと。
「寂しい」と思ったこと。
昼休み、スマホを手に取る。
マッチングアプリのアイコンは、そのままだ。
アンインストールしようか。
そう思いながら、結局指は動かない。
「もしかしたら」という期待が、まだどこかに残っている。
馬鹿みたいだと思いながらも、それを消し去ることができない。
──私は、こんなふうに生きていくの?
奈緒は、スマホをバッグにしまった。
考えすぎると、何もかも嫌になってしまう。
夜、仕事を終え、家へ帰る。
美優が玄関で迎えてくれた。
「ママ、おかえり!」
「ただいま」
この子がいてくれる。
それが、どれほどの支えになっているのか、自分でもよくわかる。
──私が求める「繋がり」は、本当はここにあるのに。
それでも、何かが足りないと思ってしまうのは、どうしてなのだろう?
夜、また一人になる時間が来る。
奈緒は、スマホを手に取った。
アプリのアイコンを見つめる。
──開く?
──やめる?
指が、わずかに動く。
そして、ゆっくりと画面をスワイプし、アプリを削除した。
画面から、アイコンが消えた。
それでも、胸の奥には、まだざわざわとしたものが残っている。
「これでよかった」とは、まだ思えない。
でも、「これで終わり」にしなければいけない。
奈緒は、そっと目を閉じた。
この夜も、また一人で過ごす。
それが、これからも続いていく。
たった一人の娘の母親であり続けるために。