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主婦の孤独

 朝の冷たい光がカーテンの隙間から差し込んでいる。杉本由紀は、目覚ましのアラームが鳴る前に目を覚ました。時計を見ると、午前5時45分。夫と子どもたちが起き出す前に、今日の支度を始めなければならない。


 彼女は、深く息をついてベッドから体を起こした。布団の隣には、夫の杉本隆司が背中を向けて眠っている。相変わらずの寝相の悪さで、布団を半分以上はぎ取っていた。


 かつてはこの姿を見て微笑ましいと思っていた。夜遅くまで仕事を頑張る夫の疲れを、朝、そっと受け止めるのが自分の役割だと思っていた。けれど今は、その背中に向かって何か声をかける気力も起きない。


──いつから、こんなに遠くなったんだろう?


 彼が最後に「ありがとう」と言ったのはいつだったか。いや、そもそも最近、まともな会話すら交わしていない気がする。


 由紀は静かに立ち上がり、寝室を抜け出した。廊下に出ると、家の中はまだ静まり返っている。


---


 キッチンの電気をつけ、冷蔵庫の扉を開ける。今日の朝ごはんは、子どもたちのリクエストに応えて和食にすることにしていた。卵焼き、鮭の塩焼き、味噌汁、そして白いご飯。


 無意識に手を動かしながら、由紀は考える。


 昨日、旧友たちと会った夜のことを。


 あのときの玲子の言葉が、脳裏にこびりついて離れない。


──「家族がいるだけで幸せになれるの?」


 あの問いかけに、彼女は何と答えただろう?


 「幸せだよ」


 そう口にした。口にしたけれど、本当に心からそう思えていたのか?


 包丁を持つ手が、無意識に力を込める。


 確かに、家族はいる。けれど、その「家族」の中に、自分自身はどれほど存在しているのだろうか。




「……おはよう」


 ぼそぼそとした声が聞こえた。振り返ると、長男の圭介(11歳)が寝ぼけ眼でダイニングの椅子に座る。


「おはよう、圭ちゃん。ちゃんと顔洗った?」


「……まだ」


「洗ってきなさい」


「あとで」


 投げやりな口調。由紀は、ふっと溜息をついた。


「……ご飯できるまでに、ちゃんと行きなさいよ」


「はいはい」


 気のない返事をしながら、圭介はテーブルに突っ伏した。その態度に少し苛立ちを覚えながらも、由紀は何も言わない。


 数年前までは、「お母さん、おはよう!」と無邪気に抱きついてきたのに。成長するにつれて、息子はどんどん素っ気なくなっていく。


「……ったく」


 独り言のように呟きながら、彼女は炊飯器の蓋を開けた。炊きたてのご飯の湯気が、ふわりと立ち上る。




「おはようございます」


 玄関の方から声がした。


 それは、長女の美咲(14歳)の声だった。彼女は、学校の朝練があるため、いつも家族の誰よりも早く家を出る。


「美咲、ご飯食べていく?」


「いい。時間ないから、行ってくる」


 顔も合わせずに、淡々と返される。


 彼女は今、思春期の真っ只中だ。母親の存在を煩わしく感じる時期なのはわかる。わかるけれど、それでもこんなにも距離を取られると、やはり寂しさが募る。


「いってらっしゃい、気をつけてね」


 玄関のドアがバタンと閉まる音がした。




 次男の悠人(6歳)が、ようやく起きてきた。


「ママ、おはよ」


 眠たそうな目をこすりながら、彼は甘えるように由紀の腰にしがみついてくる。


「おはよう、悠人」


 彼の温もりを感じながら、由紀は思った。


 この子が、あと数年経ったら、圭介みたいに素っ気なくなるのだろうか? そしてさらに数年経てば、美咲みたいに、ほとんど口をきかなくなるのだろうか?


 子どもたちは、確実に成長している。由紀の手を離れて、自分の世界を築いていく。


 それは、喜ばしいことのはずだ。


 けれど、それと同時に、胸の奥が冷たくなるのを感じる。




 夫の隆司が、ようやく起きてきたのは、子どもたちの朝食の時間が終わる頃だった。


「おはよう」


 寝癖のついた髪を無造作に手で撫でつけながら、彼は椅子に腰を下ろす。


「今日は、早く帰れる?」


 由紀が尋ねると、隆司は新聞を開きながら、適当に答えた。


「うーん、どうだろうな」


 まただ。


 ここ最近、彼はいつもこうだ。仕事が忙しいのは理解している。けれど、だからといって家のことに全く関心を持たないのはどうなのか。


「……そう」


 由紀は、それ以上何も言わずに、黙って味噌汁の椀を差し出した。




──私は、ただの家政婦なの?


 食事を終えた夫と子どもたちが、家を出ていく。


 「いってらっしゃい」と見送るのが、由紀の日課だった。


 玄関の扉が閉まり、家の中が静かになる。時計を見ると、まだ午前8時前。家の中には、由紀ひとりだけが残された。


 彼女はリビングの椅子に座り、ぽつりと呟いた。


「……これが、私の人生なの?」


 夫は仕事に、子どもたちはそれぞれの世界に。


 そして、自分だけが置いていかれているような感覚。


 冷たい朝の光が、彼女の肩を照らしている。


 家の中が静寂に包まれる。夫も、子どもたちも外へ出ていき、残されたのは由紀ひとり。時計の針は午前8時を指している。食器が並ぶテーブル、少しだけ乱れた椅子の配置、キッチンのシンクに溜まった洗い物。


 たった今まで、家族のために動き続けていたのに、その家族は何の未練もなく去っていく。


──私の一日は、彼らを送り出した時点で終わっているのかもしれない。


 否、それは違う。この後には、家の掃除、洗濯、買い出し、晩ごはんの準備が待っている。昼過ぎには悠人の幼稚園のお迎えもあるし、圭介は塾の日だ。夕方には宿題を見て、夜になれば全員の世話をして、また一日が終わる。


 だが、それは「私のための一日」ではない。


 それは「家族のための一日」であり、「母親としての一日」だ。




 スマホが震えた。画面を見ると、「ママ友グループ」の通知が入っている。


《おはよう! 今日はみんなでランチどう?》


 由紀は、すぐには返信しなかった。


 ランチの誘い。気分転換にはなるかもしれない。でも、その場に行けば、またいつものように「建前」の会話が続くのだろう。


《うちの子、最近ピアノ始めたの》

《うちの旦那、この前サプライズでアクセサリーくれたの》

《ママもキレイでいなくちゃね》


 本当かどうかも分からない「幸せな家庭」の話題が飛び交い、それに合わせて自分も「うんうん」と笑顔で頷く。


「……疲れる」


 そう呟いて、スマホを裏返した。


──私は、もう誰かと話す気力すらなくなっているのかもしれない。




 リビングのソファに座り、ぼんやりと天井を見上げる。


 昨日、玲子が言った言葉が蘇る。


「家族がいるだけで、幸せになれるの?」


 由紀は、その問いに対して確信を持って「イエス」と言えなかった。


 だけど、それを認めてしまったら、何もかもが崩れそうな気がする。


「……そんなこと、考えても仕方ないじゃない」


 無理やり心の中で打ち消した。


──結婚して、母親になって、家庭を守る。それが私の役割。


──そう思わなきゃ、やってられない。




 ふと、テーブルの上にある新聞を手に取る。


 最初のページをめくると、「少子化対策に関する特集」の文字が目に入った。


『子どもを持つことの喜び』

『家庭とキャリアの両立』

『理想の夫婦関係とは?』


 由紀は、それを眺めながら、乾いた笑いを漏らした。


「理想ね……」


 理想の夫婦関係とは何だろう? 夫と笑い合い、お互いに感謝し合い、手を取り合うこと?


 もしそうなら、我が家はもう随分前から理想とは程遠い。


 夫と最後に手を繋いだのはいつだっただろう?


 思い出せない。




 玄関のチャイムが鳴った。


 由紀はハッと我に返り、急いで立ち上がる。


「はい……?」


 ドアを開けると、そこには同じマンションに住むママ友の高橋彩が立っていた。


「おはよう、由紀さん!」


「あ、おはよう……」


「今日、ランチ行かない?」


 ママ友グループのメッセージを見たときと同じ気持ちが、胸の奥で広がる。


「えっと……今日は、ちょっと予定があって……」


「あ、そっか! じゃあ、また誘うね」


「うん、ごめんね」


 彩は笑顔で帰っていった。由紀は、その背中を見送りながら思った。


 ──私は、本当に予定があったんだろうか?


 予定なんて、何もない。ただ、誰かと会って「楽しいふり」をする気力がなかっただけだ。




 ソファに再び腰を下ろす。


 スマホを開くと、SNSのタイムラインには、友人たちの投稿が並んでいた。


《夫とデート❤️》

《今日は家族でピクニック》

《育児は大変だけど、やっぱり幸せ!》


 由紀は、しばらくそれを眺めた後、そっとスマホを伏せた。


──幸せって、なんだろう?


 写真の中で微笑む女性たちは、本当に心から笑っているのだろうか?


 それとも、ただ「そう見せている」だけなのだろうか?




 時計を見ると、午前10時を過ぎていた。


 そろそろ動かなければ。


 由紀は、ソファから立ち上がると、シンクに向かった。


 目の前の食器を片付け、洗濯機を回し、掃除機をかける。


 そうやって、「母親」としての自分を取り戻すために。


 ──考えることをやめるために。



 掃除機の音が、静寂に包まれたリビングを震わせる。ブォォォという機械的な音は、頭の中の雑念をかき消してくれるようで、由紀は無心で掃除機をかけ続けた。


 床に落ちているのは、昨夜子どもたちが食べこぼしたパンくず、夫が脱ぎ散らかした靴下の糸くず、そしてどこからともなく舞い込んだホコリ。


 それらを吸い込むたびに、由紀は心の奥で思う。


 ──私の役割は、こうして“家族の残骸”を片付けることなの?


 もちろん、誰もそんなふうには言わない。


 「家族のために、ありがとう」


 夫も子どもたちも、時折そんな言葉を口にする。けれど、それは儀礼的なものであって、決して「感謝」ではない。彼らにとって、母親が家事をするのは「当たり前」なのだから。




 掃除機を止めると、家の中は再び静寂に包まれた。


 ふと、リビングの窓の向こうに目をやる。マンションの駐車場には、母親に手を引かれた小さな子どもが歩いている。その母親は、子どもに何かを話しかけ、優しく微笑んでいた。


 由紀は、その光景をぼんやりと眺めながら、かつての自分を思い出した。


 まだ美咲が幼かった頃、彼女の小さな手を握って歩いたことがあった。


 あの頃は、手を繋ぐだけで幸せだった。子どもが初めて「ママ」と呼んだ日、初めて歩いた日、初めて熱を出して心配した日……そのすべてが、愛おしくて仕方なかった。


 でも今、美咲はもう、母親と手を繋ぎたがらない年齢になった。


 「お母さん」ではなく、「ママ」でもなく、「ねえ」とだけ呼びかけるようになった。


 由紀は、そっと手のひらを見つめた。


 この手を、もう彼女は握ることはないのだろうか。




 洗濯機が、終わりを告げる音を鳴らした。


 それが、思考を断ち切る合図のようで、由紀は立ち上がる。洗濯物を取り出し、バスケットに入れ、リビングの窓際に広げた。


 シャツやタオルを手際よく干していく。無意識のうちに繰り返す作業。


 そして、その合間に、また考えてしまう。


 ──私は、誰のためにこれをしているの?


 家族のため? もちろん、それはそうだ。だけど、それだけなの?


 ふと、玲子の顔が脳裏に浮かんだ。


「私は仕事してる方が楽しいし、家庭のことを考える暇もない」


 彼女はそう言っていた。


 由紀は、そんな玲子の生き方を「羨ましい」と思ったことはなかった。


 なかったはずだった。


 ──でも、もしも私が、専業主婦ではなくキャリアを持っていたら?


 ──もしも私が、子どもを持たなかったら?


 夫と二人だけの生活だったら、私はもっと自由でいられた?




 そのとき、スマホが震えた。


 テーブルの上のスマホを手に取ると、画面には「玲子」の名前が表示されていた。


 ──玲子?


 昨日の会食まで、特に連絡を取り合うことはなかった。突然の電話に、少しだけ戸惑いながらも、由紀は通話ボタンを押した。


「もしもし?」


「あ、由紀? 今、大丈夫?」


「うん、大丈夫だけど……珍しいね、玲子から電話なんて」


「ちょっと聞きたいことがあってさ」


「何?」


 一拍の沈黙の後、玲子はぽつりと言った。


「由紀はさ……結婚、後悔してる?」


 由紀の手が、洗濯物を掴んだまま止まる。


「……何、急に?」


「いや、昨日の話をしてから、いろいろ考えててさ」


 玲子の声は、どこか疲れていた。


「私たち、あの頃は“結婚すれば幸せになれる”って思ってたよね」


「……そうだね」


「でも、実際は、どう?」


 由紀は、答えられなかった。


「私はね……最近、なんだか自分が何のために生きてるのか分からなくなることがあるの」


 玲子の言葉は、由紀の心の奥深くに、じわりと染み込んでいった。


「それって……つまり?」


「結婚して、夫がいて、家庭があって……それで私は、何を手に入れたんだろうって思うのよ」


「玲子……」


「由紀は、違う?」


 玲子の声は、静かだった。でも、どこか切実だった。


 由紀は、すぐに「違う」と言えなかった。




 電話を切った後、由紀はしばらく窓の外を見つめていた。


 洗濯物が、風に揺れている。


 玲子の言葉が、頭の中で反芻される。


 ──結婚して、手に入れたものって、何?


 彼女はその問いに、明確な答えを出すことができなかった。


 「家庭」という形を手に入れた。


 でも、その代わりに、何を失ったのだろう?


 もし、玲子のようにキャリアを選んでいたら?


 もし、奈緒のように離婚していたら?


 もし、亜紀のように独身で自由に生きていたら?


 そのどれもが、想像するだけで怖かった。


 だからこそ、考えるのをやめようとする。


 でも、考えないようにするほどに、その問いは心の奥深くで響いていた。




 洗濯物を干し終えると、由紀はスマホを手に取り、SNSを開いた。


 そこには、玲子の投稿があった。


『忙しい日々。でも、それが私の生きる証』


 添えられた写真は、オフィスのデスクに置かれたコーヒーカップとPC画面。


 それを見て、由紀はため息をついた。


 玲子は、玲子なりに「今」を生きている。


 なら、私は?


 私は、本当に「私の人生」を生きているの?




 由紀はリビングのソファに腰を下ろした。時計を見ると、午前11時。やらなければならない家事はまだたくさんあるのに、体が重かった。


 ──私は、何をしているんだろう?


 ぼんやりとした思考の中で、スマホを手に取り        もう一度彼女のSNSを開いてしまう。


 『忙しい日々。でも、それが私の生きる証』


 その短い文章が、なぜか胸を締めつけた。


 ──私は、自分の生きる証を持っているの?


 家族のために毎日を過ごし、子どもたちの世話をし、夫の帰りを待ち、家を守る。


 でも、それは「私自身」ではない。


 由紀はスマホを握る指に少しだけ力を込めた。




 ふと、昔のことを思い出す。


 大学を卒業したあと、由紀は一度だけ本気で「働き続ける道」を選ぼうとしたことがあった。


 新卒で入った会社は、そこそこの規模の広告代理店だった。デスクに向かい、企画書を練り、上司に詰められながらも、それでも何かを生み出すことにやりがいを感じていた。


 仕事は忙しかったが、それが嫌ではなかった。むしろ、「必要とされている」という感覚が心地よかった。


 ──あの頃の私は、確かに「私」として生きていた。


 でも、隆司と結婚し、最初の子どもを妊娠したとき、すべてが変わった。


 「育休明けても、仕事は続けられるよね?」


 上司はそう言ってくれたが、現実は違った。


 妊娠が進むにつれ、体調が不安定になり、朝早くから夜遅くまでの業務が苦しくなった。会議中に何度もトイレに駆け込むことも増えたし、同僚の視線が冷たくなったのを感じた。


 「産休入るのはいいけど、その後復帰しても今みたいにバリバリ働ける?」


 そう問われたとき、由紀は答えられなかった。


 そして、最終的に退職を選んだ。




 「家族のため」。


 その言葉は、当時の由紀を納得させるのに十分だった。


 専業主婦になれば、子どもをしっかり育てることができるし、夫を支えることもできる。


 それが「正しい選択」だと思っていた。


 でも、今になって思う。


──あれは、本当に「私が選んだ道」だったのか?


 選んだのではなく、「選ばされていた」のではないか?


 誰もが「母親なんだから」と言うから、それが当たり前だと思っただけではないのか?




 ふと、リビングのテーブルに置かれた家計簿が目に入る。


 最近は、食費がかさむことが多くなっていた。圭介も美咲も成長期で、食べる量が増えている。習い事の費用も馬鹿にならないし、来年には美咲の高校受験が控えている。


 「専業主婦でいること」を選んだはずなのに、経済的不安が拭えない。


 夫の給料は決して低くはないが、それでも余裕があるわけではない。


 もし、私が今でも働いていたら、もう少し違った生活ができたのだろうか?


──もし、あのとき仕事を辞めなかったら?


 もし、玲子のようにキャリアを積んでいたら?


 今ごろは、自分の稼ぎで自由にお金を使えて、夫の機嫌を伺うこともなく、自分の意志で生きていられたのかもしれない。




 スマホの通知音が鳴った。


 画面を見ると、マッチングアプリの広告が表示されていた。


『あなたの人生に刺激を。大人の出会いを見つけませんか?』


 由紀は、指先でそっとその広告を撫でる。


 もちろん、そんなものに手を出すつもりはない。


 でも──。




 玲子は、最近、何をしているのだろう?


 彼女は、きっと仕事ばかりで忙しいはず。でも、どこか虚しそうな顔をしていた。


 もしかして、玲子も、何か「満たされないもの」を抱えているのではないか?


 由紀は、ふとスマホを操作し、検索窓に「マッチングアプリ」と打ち込んでみた。


 そして、そこで手を止める。


──何をやってるの、私?


 こんなことをしても、何の意味もないのに。


 指を止めて、スマホを閉じる。




 午後になり、悠人を迎えに行く時間になった。


 いつものように幼稚園の門の前で待っていると、子どもたちが元気よく駆けてくる。


 悠人は、笑顔で手を振った。


「ママ!」


 その笑顔を見て、由紀は「これでいいんだ」と思おうとした。


 でも、心の奥底では、ずっと何かがくすぶっている。




 夜、夫が帰宅した。時計の針は23時を回っている。


「遅かったね」


「ちょっと仕事が立て込んでて」


 夫は簡単にそう言いながら、スーツを脱ぐ。


「ご飯、温める?」


「いや、コンビニで食べたからいい」


 その言葉に、由紀は「そっか」とだけ返した。


 彼は、最近、コンビニや外食で済ませることが増えている。


 「仕事だから」と言われれば、それ以上追及することもできない。


 でも──。


 何か、違和感がある。


 由紀は、そっと夫のスマホに目をやった。


 画面が少しだけ光る。


 そこには、何かの通知が表示されていた。


──マッチングアプリのアイコン。




 由紀の指先が、テーブルの上で小さく震えた。


 夫のスマホの画面には、一瞬だけ見えたマッチングアプリの通知。


 それが目に入った瞬間、彼女の心臓は大きく跳ね、そしてすぐに冷たい鉛のように沈み込んだ。


──見間違い……じゃないよね?


 由紀は無意識のうちに唇を噛んでいた。


「……どうした?」


 夫の隆司が、不意に顔を上げた。


「え?」


「なんか、変な顔してたから」


 軽い口調。まるで何も知らないかのように。いや、何も知られたくない人間の、当たり前の演技なのかもしれない。


「……なんでもないよ」


 由紀は、作り笑いを浮かべてみせた。


 いつも通りに。何も気づいていないふりをして。




 夫はリビングの椅子に腰を下ろし、スマホを手に取る。


 親指で画面を滑らせ、何かを確認している。その顔に、特別な表情の変化はない。


 でも、それがかえって恐ろしかった。


 ──これが“当たり前”になっている証拠なのかもしれない。


「……お風呂、入ってくる」


 隆司は立ち上がると、スマホを手に持ったまま浴室へと向かった。


 由紀は、それをただ見送ることしかできなかった。




 リビングに、ひとり残された。


 時計の針は、もうすぐ日付が変わる時刻を指そうとしている。


 夫は今、お風呂場の中。


 そして、その手には、まだスマホが握られている。


 由紀は、ゆっくりと息を吸った。


 そして、立ち上がる。


 まるで夢の中にいるみたいに、足音が聞こえない。


 浴室の前で立ち止まり、耳を澄ませた。シャワーの音がかすかに響いている。


 ──いま、彼はスマホを触っているの? それとも、置いている?


 考えたところで、答えは出ない。


 だけど、もし今すぐに確かめたら──。


 もし、もし、この場で夫のスマホを見てしまったら。


 そこに何があるのか、わかってしまう。


──知りたくない。


──でも、知りたい。


 由紀は、拳を握りしめた。




 10分後、夫は風呂から上がり、タオルで髪を拭きながらリビングに戻ってきた。


「先に寝る?」


「ううん、もう少し起きてる」


 由紀は、普段と同じ調子で答えた。


「じゃあ、俺は寝るわ。おやすみ」


「……おやすみ」


 夫が寝室へ向かう足音を聞きながら、由紀は自分の膝の上に置いた両手を見つめていた。


 いつの間にか、爪が食い込んで白くなっている。




──私は、どうするべきなの?


 その問いが、答えのないまま、頭の中でぐるぐると回り続ける。


 もし、本当に夫がマッチングアプリを使っていたら?


 問い詰める?


 怒る?


 それとも、見なかったことにする?


 そして、もし……。


 もし、このことを誰かに相談するとしたら?


 玲子? でも、玲子に話したところで「そんなの珍しくないわよ」なんて言われそうだ。


 奈緒? 離婚を経験した彼女なら、何か助言をくれるかもしれない。


 それとも──亜紀?


 彼女なら、どう言うだろう?


「やり返せば?」


 そんなことを、さらりと言いそうな気がした。




 スマホの画面を開き、無意識のうちに検索アプリを立ち上げた。


 指が勝手に動く。


 「夫 浮気 マッチングアプリ」


 検索結果には、同じような悩みを抱えた女性たちの投稿が並んでいた。


『旦那のスマホにアプリのアイコンがありました。これって浮気ですよね?』

『夫が知らない女とメッセージをしているのを発見しました。離婚するべき?』


 ひとつひとつの文章が、まるで自分に向けられたように胸を刺した。


 けれど、他人の体験談を読んだからといって、何かが解決するわけではない。




 由紀は、スマホを置いて天井を見上げる。


 ──私は、どうするの?


 夫に問い詰めるのか?


 それとも、このまま知らないふりをして、何もなかったことにするのか?


 どちらを選んでも、「幸せ」とは程遠い未来が待っているような気がする。


 けれど、もし……。


 もし、このまま何も言わずにいれば、家族の形は保たれるのかもしれない。


 たとえ、夫が何をしていても。


 たとえ、それが裏切りだったとしても。


──知らないままでいたほうが、幸せなのかもしれない。




 リビングの時計が、午前1時を指した。


 もう、眠らなければ。


 由紀は立ち上がり、寝室へと向かった。


 そこには、静かに眠る夫の背中があった。


 ──この背中は、いつからこんなに遠くなったの?


 もう、思い出せない。

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