仮面の再会
杉本由紀が、約束の時間の5分前に店へ着いたとき、店内はすでに華やかな笑い声と食器のぶつかる音で満たされていた。銀座のこのフレンチレストランは、昔、大学の卒業祝いで4人で来たことがあった。あの頃、未来は白紙で、どこまでも自由で、手を伸ばせば何にでもなれた気がしていた。
しかし今、目の前にあるのは、化粧直しをしながら自分の表情を確認するための鏡だった。
3人とも、もう来てるかな……」
由紀は、何となく落ち着かない気持ちで扉を押し開けた。
奥の席で、橋本玲子がスマートフォンを弄っていた。端正な顔立ちは、社会の荒波の中で磨かれ、学生時代よりも遥かに洗練されている。黒のパンツスーツに、ブランド物の時計。ふと、手元のスマホに表示された何かを見て、わずかに眉をひそめる。その隣で、田辺奈緒がワイングラスを軽く傾け、会話をしている。奈緒は相変わらず色気のある女だった。赤のタイトワンピースが肌に張り付き、男たちの視線を引きつけているのが分かる。
その向かいには、小松亜紀。短く切り揃えたボブカットの髪が、スポットライトに照らされて揺れている。彼女はグラスの水を回しながら、ぼんやりとした目で店内を眺めていた。
「遅れてごめん!」
由紀が声をかけると、3人が顔を上げた。
「由紀、久しぶり!」
「全然待ってないよ」
「相変わらずマメね、ちゃんと5分前行動なんだ」
3人の言葉を受けながら、由紀は空いた席に腰を下ろした。ふと気づけば、店内には、彼女たちと同じくらいの年齢の女性たちが楽しそうに食事をしている。それぞれに違う人生を歩んできたのだろうが、このテーブルの4人ほど、お互いのことを深く知りながら、それでいて遠くなってしまった関係もないだろう。
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ウェイターが水を置き、ワインの注文を取る。玲子は「シャルドネで」と言い、奈緒は「赤がいいな」と迷いなく選ぶ。亜紀は「ハイボールがいい」と言い、由紀は「お酒は控えるよ」と微笑む。
「さすが由紀、3児の母ね」
玲子が軽く笑う。どこか、揶揄するような響きがあった。
「いやいや、最近はちょっと飲むとすぐに眠くなっちゃって……」
由紀は言い訳のように笑いながら、メニューを開いた。本当は飲みたい気持ちもあった。酔ってしまえば、少しは肩の力を抜いて、この場を楽しめるのではないかと思ったからだ。しかし、家に帰れば現実が待っている。夫と、子どもたちと、家事と、明日の弁当作り。
「それにしても、4人でこうやって集まるの、いつぶり?」
亜紀が、口元に水を含みながら尋ねた。
「……5年ぶり?」
「いや、もっとかも。奈緒の離婚のとき、一度集まったような……」
奈緒がグラスをくるくると回しながら、自嘲気味に笑う。
「そうね、離婚のときね。でも、あのときは私の愚痴を聞いてもらっただけで、こんなにちゃんと飲む感じじゃなかった」
その言葉に、一瞬だけ沈黙が落ちる。
由紀は、奈緒の離婚が決まったときのことを思い出した。夫の浮気が原因だった。彼女は「男なんて信じられない」と泣き、強がり、そして結局は、シングルマザーとして生きる道を選んだ。それから彼女の口から「恋愛」の話を聞くことはほとんどなくなった。
「でも、こうしてみんな変わらずに会えるっていいことだよね」
由紀は、努めて明るく言った。
「そうね。……変わってないと思う?」
玲子が、ふとワイングラスを傾けながら言う。
その目には、何か含みのある光があった。
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それぞれの思いが交錯する中で、ウェイターが料理を運んでくる。
由紀は、ナイフを手に取りながら、ふと考える。
──本当に、変わってないの?
自分の人生は、あの頃と違いすぎるほど違ってしまった。
奈緒の人生も、玲子の人生も、亜紀の人生も、きっと同じだろう。
それでも、こうして並んで座れば、まるで学生時代の延長のように振る舞うことができる。
「じゃあ、乾杯しようか」
玲子がグラスを掲げた。
「久しぶりの再会に!」
「そして、これからもよろしく!」
グラスがぶつかる音が軽やかに響いたが、その直後、静かな緊張がテーブルの上に流れた。由紀は、笑顔を作りながら思う。
──私たち、本当にこれからもよろしくできるの
?
乾杯のあとに続くべきは、和やかな談笑のはずだったが、誰もが言葉を探すように視線を彷徨わせている。
由紀は、手元の水のグラスをじっと見つめた。氷が溶けて、表面にうっすらと曇りが広がっている。
「ねえ、せっかくだし、昔話でもしない?」
奈緒が提案する。赤ワインのグラスを手に取りながら、笑顔を作った。けれど、その口元は少しひきつっているように見えた。
「そうね、懐かしい話でもしようか」
玲子が同調する。彼女の声は、落ち着いていて、どこか他人事のように響いた。
亜紀は、ハイボールのグラスを持ち上げながら、「懐かしい話か……」とぼそりと呟く。その横顔は、少しだけ寂しげだった。
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「大学の頃、よくオールでカラオケしてたよね」
奈緒が思い出したように笑う。
「したした。終電逃して、そのまま朝まで歌って、結局、朝マックに流れるやつ」
由紀も微笑む。その記憶は確かに楽しかった。だが、あの頃と今とでは、あまりにも状況が違いすぎる。
当時は、夜通し遊んでも翌日のことを何も気にしなくてよかった。時間は無限にあると思っていたし、未来に対する不安よりも、今を楽しむことの方がずっと大事だった。
「私、あの頃、何も考えずに笑えてたな」
由紀は、ふと漏らす。
「今も笑えてるでしょ?」
玲子が、意味深な目で由紀を見る。
由紀は、一瞬、答えに詰まった。
「もちろん、笑ってるよ」
そう言いながら、心の奥底に微かな違和感が広がる。
──今の私は、本当に心から笑えているんだろうか?
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「由紀って、本当に変わらないよね。結婚して、お母さんになっても、ちゃんとしてるし」
奈緒が、そう言ってワインを口にする。その言葉は、一見すると褒め言葉のようだったが、どこか棘があった。
「そう? 私なんて、毎日バタバタよ。子どもたちの世話で一日が終わるし、自由な時間なんて全然ないし」
由紀は、苦笑いを浮かべながら答えた。
それを聞いて、玲子がふとグラスを置いた。
「でも、それって幸せなんでしょ?」
その問いかけに、由紀の心が揺れた。
「……もちろん」
笑顔で答えたが、喉の奥が詰まるような感覚があった。
本当に、私は幸せなんだろうか?
確かに、子どもたちは可愛い。夫だって、そこまで悪い人間ではない。経済的に困っているわけでもない。だけど──
──私は、ひとりの人間としての自分を、どこかに置き去りにしている気がする。
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一方で、玲子はそんな由紀の表情を冷静に観察していた。
「幸せなんでしょ?」と尋ねたときの、あの一瞬の間。
それが、玲子には引っかかっていた。
「……そっか。でも、すごいよね。私にはそんな生活、絶対できない」
玲子は、淡々と言った。
「私は仕事してる方が楽しいし、家庭のことを考える暇もない。そもそも、結婚しても、夫と2人だけだと、そんなに変化もないし」
それを聞いて、由紀は思う。
──それって、本当に楽しいの?
けれど、それを口にはしなかった。
「玲子は、相変わらずバリキャリって感じだね」
亜紀が、グラスを揺らしながら言う。
「バリキャリ、ね……。まあ、そういうふうに見えるなら、それでいいけど」
玲子は、どこか投げやりに笑う。
──結局、私たちは皆、それぞれの“役割”を演じているだけなんじゃないだろうか。
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「でも、こうしてみんなで集まれるって、やっぱりいいよね」
奈緒が、少しだけ声を弾ませる。
「まあね。……でもさ、本当に、みんな変わってないのかな?」
玲子が、ぽつりと呟く。
その言葉に、誰もが一瞬だけ息を詰める。
「変わってるに決まってるでしょ」
亜紀が、ハイボールを飲み干しながら言う。
「大学生の頃みたいに、馬鹿みたいに遊べるわけじゃないし、責任だって増えたし。でも──だからこそ、こうやって会えるとホッとするよ」
その言葉には、少しだけ本音が混じっていた。
「うん、確かにね」
由紀も、少しだけ気持ちを緩めた。
だけど、それでも──
──何かが違う。
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氷が溶けてグラスが音を立てた、このテーブルの上には目に見えない壁ができつつあった。それは、互いの「今」の違いが、あまりにも鮮明で、学生時代の共通点では覆い隠せないことを悟り始めたからだった。
「ねえ、昔の話ばっかりじゃなくて、今の話もしようよ」
奈緒が、ワインを片手に言った。どこか挑むような口調だった。
「由紀は、毎日子どもと過ごしてるんでしょ? 忙しそうだけど、楽しい?」
その問いに、由紀は少しだけ間を置いて、笑顔を作った。
「うん、まあね。やっぱり子どもは可愛いし、成長していくのを見るのは嬉しいよ」
しかし、玲子はその言葉にわずかに眉を寄せた。
「“まあね”って、あんまり楽しそうに聞こえないけど?」
その言葉に、一瞬だけ由紀の表情が強張った。
「そんなことないよ。毎日大変だけど、やっぱり家族がいるって幸せなことだし……」
その答えを聞いて、玲子はワインを一口飲んだ。
「……私には想像もつかない世界ね」
「玲子は子どもほしくないの?」
亜紀が、何気なく尋ねた。
「今のところは、特に考えてないかな」
玲子は軽く肩をすくめる。その言葉は嘘ではなかった。少なくとも、長い間そう思っていた。けれど、最近、夫が夜遅くまで帰らないことが増え、静まり返った家の中で、ふと考えることがある。
──もし、このまま年を取ったら?
その時、自分は何を感じるのだろう?
「それに、今さら子どもを持つなんて、仕事を辞めろってこと?」
玲子は冗談めかして言った。
「まあね、私もシングルで育ててると、子どもがいる幸せって何だろうって考えるよ」
奈緒が、ため息混じりに言う。
「可愛いけど、それだけじゃない。未来のことを考えれば、経済的な不安もつきまとうし……私が男を見る目なかったのが悪いんだけどさ」
「……元旦那とは、もう完全に連絡とってないの?」
由紀が、少し心配そうに尋ねる。
「養育費の件で必要なときはね。でも、それだけ。向こうも新しい家庭持ってるし」
奈緒の声には、僅かな悔しさが滲んでいた。
「そっか……大変だよね」
「でもね」
奈緒はワインを飲み干し、グラスを置くと、少しだけ笑った。
「自由になれたのは、よかったかな」
その言葉には、自分に言い聞かせるような響きがあった。
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一方、亜紀は黙って2人の会話を聞いていた。彼女には結婚も、子どもも、離婚の経験もない。ただ、自由でいることだけが、自分の選んだ道だと信じてきた。
しかし、今ここにいる3人の話を聞いていると、それぞれが「選んだ道」に満足していないように思えた。
「ねえ、みんなさ、本当に今の人生に満足してるの?」
亜紀は、何気なく言葉をこぼした。
その瞬間、空気が凍りつく。
「何、それ?」
奈緒が苦笑する。
「いや、ちょっと気になっただけ。みんな、それなりに幸せそうに見えるけど……本当にそうなのかなって」
玲子が、ふっと笑った。
「面白いこと言うのね、亜紀。でも、そんなの誰にもわからないわよ。他人の人生なんて、表面しか見えないもの」
「じゃあ、玲子は?」
「……私?」
「仕事は順調そうだけど、本当に満足してる?」
玲子はグラスを傾け、じっと中の液体を見つめた。
「……それなりにね」
「それなりって……」
「さっきの由紀と一緒よ。完璧な幸せなんて、どこにもないんじゃない?」
玲子は淡々と言ったが、その言葉の奥には、何か冷えたものがあった。
「……まあね」
亜紀は、それ以上は突っ込まなかった。
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由紀は、玲子の言葉を聞きながら、心の中で何かが引っかかるのを感じていた。
──完璧な幸せなんて、どこにもない。
その言葉は、彼女の胸に深く突き刺さるものがあった。
確かに、自分の生活は平凡だ。夫は家にいる時間が少なく、子どもたちの世話は全部自分にのしかかっている。愛されていると感じることは少なくなった。
けれど、だからといって、それが「不幸」なのだろうか?
「……みんな、難しいこと考えすぎじゃない?」
由紀は、軽く笑って言った。
「今がどうであれ、またこうやって集まれるってだけで、私は嬉しいよ」
「由紀は、昔からそういうところがあるよね」
玲子が、微笑んだ。その笑顔の奥には、何か含みがあった。
──何かが、違う。
けれど、それが何なのか、由紀にはまだわからなかった。
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店の空調が少し効きすぎているのか、由紀は腕を擦った。微かに肌寒さを感じながら、周囲のテーブルを見渡すと、楽しげな声が響いている。隣の席では、二十代前半の女性たちがスマホを片手に笑い合い、向かいのテーブルでは、子連れの夫婦が小さな男の子をあやしている。
その光景を見て、由紀は思った。
──私は、どっちの側にも完全には属していない。
かつての彼女は、隣のテーブルの若い女性たちと同じように未来に夢を抱き、自由な時間を謳歌していた。だが今、彼女は子連れの夫婦の側にいるはずなのに、その場にいるはずの夫の姿はなかった。
「由紀、どうしたの?」
奈緒の声に、由紀は我に返った。
「あ、ごめん。ちょっと考え事してた」
そう言いながら、目の前の料理に手を伸ばした。フォークを握る指が、妙に力が入っていることに気づく。
「何を考えてたの?」
亜紀が、ハイボールを少しずつ揺らしながら尋ねた。その瞳は、無関心を装っているが、どこか由紀の奥にあるものを見透かそうとしているようだった。
「……なんでもないよ」
由紀は笑顔を作った。
けれど、その笑顔が嘘だと、彼女自身が一番よく分かっていた。
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玲子は、そんな由紀を横目で見ながら、静かにグラスを傾けた。
彼女は、人の些細な表情の変化をよく観察する癖がある。それは、仕事の場でも役立つ能力だった。商談相手のわずかな表情の揺れから、相手の本音を見抜くことができる。
そして今、玲子の目には、由紀の心の揺れがはっきりと映っていた。
「ねえ、由紀」
玲子は、少しだけ声を落として尋ねた。
「本当に、幸せ?」
その言葉に、テーブルの上の空気が一瞬張り詰めた。
「……どういう意味?」
「いや、ただの興味本位。だって、由紀って昔から、誰かのために生きることが好きなタイプだったから。でも、そういう生き方って、本当に幸せなのかなって」
「……私は、幸せだよ」
由紀は、少しだけ間を置いてから答えた。
「家族がいるって、素敵なことだから」
「家族がいるだけで、幸せになれるの?」
「……玲子、何が言いたいの?」
玲子は、ゆっくりとワイングラスを回しながら、少しだけ笑った。
「別に。ただ、私は結婚してるけど、夫と2人の生活が“幸せ”かって聞かれたら、正直、よく分からないわ」
「玲子……」
「私は結婚したけど、だからって人生が劇的に変わるわけじゃなかった。むしろ、仕事がある分、独身のときと何も変わらない気がする。毎日帰る家は、ただの寝る場所。夫とは他人ではないけど、かといって、何か深い絆があるとも思えない」
「それって……夫婦としては、どうなの?」
由紀が思わず口を挟む。玲子は少しだけ肩をすくめた。
「さあね。でも、結婚したからって、それが“正解”ってわけじゃないでしょ?」
その言葉に、奈緒が皮肉っぽく笑う。
「正解なんて、どこにもないのかもね。私も結婚したけど、結局、幸せになれなかったし」
「離婚したこと、後悔してる?」
亜紀が尋ねる。奈緒は、一瞬だけグラスを見つめた後、ゆっくりと首を振った。
「後悔はしてないよ。でも、理想とは違ったかな」
「……理想?」
「結婚すれば、幸せになれると思ってた。でも、現実はそうじゃなかった。夫は浮気するし、私のことなんて全然見てくれなかったし。結局、“家族”っていう言葉だけが空回りしてた」
奈緒は、少しだけ乾いた笑いを漏らす。
「結局ね、結婚しても、しなくても、誰もが満たされてるわけじゃないってこと」
「そうかもしれないわね」
玲子も静かに呟く。
由紀は、その2人の会話を聞きながら、胸の奥に奇妙な感覚を抱いていた。
──私は、どうなんだろう?
確かに、私は家族を持ち、子どもたちに囲まれている。でも、それが「幸せ」かと問われたら、玲子や奈緒の言葉に、一瞬返答を詰まってしまった。
「でもさ、だったら何を求めればいいの?」
亜紀が、少し投げやりに言う。
「結婚しても、しなくても、誰も満足してないなら、いったい何が“正解”なの?」
その問いに、誰もすぐには答えられなかった。
店の中には、相変わらず楽しそうな笑い声が響いている。隣のテーブルでは、若い女性たちが恋愛話で盛り上がり、向かいの席では、子どもをあやす母親が優しく微笑んでいる。
けれど、このテーブルの上には、何か重たいものが横たわっていた。
「……さあね」
玲子が、小さく呟いた。
「そんなの、誰にも分からないわよ」
その言葉は、妙に現実的で、そして残酷だった。
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会話が途切れ、沈黙が落ちる。レストランのざわめきの中で、グラスに触れる指先の音だけが妙に響く。気まずい空気を振り払うように、由紀は微笑んで、話題を変えようとした。
「ねえ、久しぶりにこうやって会えたんだし、もっと楽しい話しようよ」
けれど、その言葉が自分自身に向けられた“逃げ”のように感じられた。
「楽しい話ね……」
玲子がグラスを傾ける。白ワインの透き通った液体が光を反射し、彼女の冷たい瞳に映り込んでいる。
「でも、楽しいことって何かしら?」
それは、本当に純粋な問いだった。玲子は常に合理的に物事を考える。楽しいと感じる瞬間がないわけではない。仕事で成果を出し、部下に慕われ、取引先に評価されること。ブランドのバッグを買ったり、美味しいワインを飲んだりすること。けれど、それは“楽しい”のか、それともただの“満足”なのか、最近はよく分からなくなっていた。
「玲子……本当に、何も楽しくないの?」
亜紀が、やや真剣な顔で尋ねる。
「楽しい瞬間はあるわよ。でも、それが続くわけじゃない」
「それは、誰だってそうじゃない?」
「そうね。でも、昔みたいに無邪気に笑えた時間が、今はもうどこにもないのよ」
玲子の言葉は、まるで何かを悟りきった人間のものだった。由紀は、それを聞いて、胸の奥がざわつくのを感じた。
──本当にそうなの?
結婚して、子どもを持ち、家庭を築いた。大変なことは山ほどあるけど、それでも私は「幸せ」なはず。だけど、なぜか玲子の言葉が、心に深く刺さる。
「由紀はどうなの? 今の生活に満足してる?」
玲子が、真正面から問いかける。
「……満足、してると思うよ」
言いながら、口の中が少しだけ渇くのを感じた。
「してる“と思う”?」
その言葉の揺らぎを玲子は見逃さなかった。
「本当に?」
由紀は、一瞬言葉に詰まった。けれど、すぐに微笑んで誤魔化す。
「だって、家族がいるし、子どももいるし。確かに忙しいけど、でも、それが私の役割だから」
「“役割”って言うけど、それってつまり、由紀は“自分の人生”を生きてるの?」
玲子の声は冷静だった。
「私は……」
由紀は言葉を詰まらせた。玲子の問いは、今まで自分が意識してこなかった部分をえぐり取るものだった。
──私は、本当に“自分の人生”を生きてる?
毎朝早く起きて、朝食を作り、子どもを送り出し、掃除や洗濯をし、夕飯を作り、夫の帰りを待つ。子どもたちの世話をし、夫の話を聞き、寝る。翌日も、また同じことの繰り返し。
その中に、「私」という存在は、どれだけあるのだろう?
子どもたちが巣立ったら、私はどうなるの?
夫は、私のことを本当に“ひとりの女性”として見ているの?
「……そんなこと、考えたことなかった」
由紀は、ぼそりと呟いた。
「でも、考えなくていいことなんじゃない? みんな、自分の選んだ道を生きてるだけでしょ」
奈緒が、少しだけ鋭く言った。
「そりゃあ、私だっていろいろ思うことはあるよ。でも、結局はどうすることもできない。自分で選んだんだから」
「それって、本当?」
「何が?」
「“自分で選んだ”って言うけど、本当に心からそう思ってる?」
玲子が、奈緒を見つめる。
「奈緒は、結婚したとき、“幸せになれる”って思ったでしょ?」
「……思ったわよ。でも、結果は違った。それだけの話」
「でも、それって“選択ミス”だったんじゃなくて、そもそも“選ばされてた”のかもしれないわよ」
「どういう意味?」
「私たちって、結局、何かに縛られてるのよ。世間の目とか、周りの期待とか、“こうあるべき”っていう見えないルールとか。でも、本当にそれが正しい選択なのかは、誰にも分からないのよ」
「……だから、何?」
「だから、みんなが“自分の選択”に自信を持てないんじゃない?」
玲子の言葉に、テーブルの上の空気がまた重くなった。
由紀は、自分の手元を見つめる。フォークとナイフを持つ手が、わずかに震えていた。
「でも、もう選んじゃったじゃない」
亜紀が、ぽつりと呟く。
「選んじゃったなら、後戻りなんてできない」
その言葉は、誰の胸にも重く響いた。
玲子は、ゆっくりとワインを飲み干した。
「……そうね。私たちは、もう選んじゃった」
そして、選んだ先で、何をどう思おうと、もう戻ることはできない。
「でも、本当にこれでよかったのかな?」
その問いかけに、誰も答えなかった。
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レストランの時計が、すでに十時を指していた。
グラスの中のワインも、水も、ほとんど空になっている。食事も終わり、デザートが運ばれてきた。
由紀は、ふとスマホを見る。夫からの連絡は、ひとつもなかった。
「そろそろ、お開きにする?」
奈緒が言った。
「そうね……」
「また、集まれるといいね」
「……そうね」
けれど、その言葉には、誰も本気で頷くことができなかった。
帰り道、それぞれが違う方向へと歩き出す。
誰もが何かを抱えながら、夜の街へと消えていった。