救世主となった高校生
目が覚めたら異世界にいた。
白い光に包まれ、その眩さに瞼を閉じると、見慣れた景色は一掃されていた。僕が通っていた高校の教室は一瞬で道の場所へと変わる。
足元にはシワひとつなく敷かれたレッドカーペットが階段まで続いており、その上段には椅子に座る一人の男がいた。その横には藍色のローブを羽織った魔法使いのような立ち姿の人物。レッドカーペットの両脇には高価そうだが、日本では見慣れない服装の男女が立ち並んでいる。口元を扇子のようなもので隠し話す女性たち、驚いたという感情を隠さず表に出している男たち、期待と奇異の視線を向ける男。
説明されたところによると、人類種という人型の種族が滅亡の聞きにあり、最強の勇者を召喚する儀式を行ったそうだ。
そして、僕が召喚されてしまった。
周りの人が奇異の目を向けるのも仕方がない。なぜなら、僕は平和な世界で平凡に育った、至って普通の思春期の子供だったからだ。そのヤワな体格、覇気のなさを見て、期待と奇異の目は段々失望へと変わっていった。
この世界は争いが耐えず、比較的身体が軟弱な人類種は絶滅の危機に襲われている。世界の大半を自然が覆うという元の世界で見ることのなかった景色が広がっていた。
けれど、この世界には桜はなかった。
彼らは僕を頼るしかなく、そしてまた僕も彼らを頼るしか道はなかった。偶然なのか必然なのか、今まで備わっていなかった力が僕に発現し、その力を使って人類種を救うことが出来た。
そして、僕は元の世界に帰して貰ったのだ。
西日が教室の窓から差し込み臙脂色に染め上げている。教室内には誰もおらず、校庭の方からはどこか懐かしい掛け声が聞こえる。
そうだ、放課後、部活動の声、ここは。
「帰ってこれたんだ」
自分は遂にやり遂げ、帰ってきたのだと感傷に浸る。あの世界と違って太陽は赤く、建物は四角い、木々は冬らしくまばらな葉が付いているだけだ。そして人々は恐怖を感じず、目の前の目標に邁進している。
ふと、あの世界が本当にあったのかと疑念が湧く。
光に包まれた直前の光景と今は何も変わらない。あの世界を救った自分ではなく、元の平凡で無力な体だと自覚できる。
まるで夢から覚めただけ。
いつも布団から起き上がる憂鬱な気持ちと大差ない。
これが、あの世界を救ったことで得られた物なのか?
こんな感情のために僕はあんなにも頑張ったのか?
ここで味わうことが出来ないほどの痛みを乗り越えた。苦痛が全身を襲う度に、目標を思い出した。この世界に帰るという目標があったからこそあの世界を救うことが出来た。
あの世界で世継ぎを残させようと様々な誘惑が齎されても、頑なに断り、自分の居場所をこの世界だと言い張った。1度でも向こうに居場所を見つけてしまったら帰って来れないような気がしていたから。
「帰るか」
世界を救うと前に突き進んでいた頃の熱量は何だったのだろうか。今は虚無感しか残っていない。
何も無かったことになった日々。この世界もあの世界のように危機に陥れば再びあの熱量が生まれるのだろうか。
思春期の高校生の経験は、その後の人生に大きな影響が出る。
そんな父の言葉を思い出した。
自分はいい経験をしたのだろうか。何を得たというのだろうか。
あの努力を認めてくれる人はこの世界にはいない。
「あの」
帰り道、声をかけられたので振り向くと、クラスメイトの女子がいた。名前は思い出せなかった。けれど、あまり関わりがなかったように思える。
制服ではなく、ジーパンに半袖の白のTシャツをタックインしている。彼女の私服を見た事はなく、顔と名前が結びつかないのかもしれない。
「ねこ、見ませんでしたか?」
よく見ると彼女の顔には汗を拭ったあとがあり、表情も焦っているように見える。
「ねこ? 見てないけど。いなくなったの?」
彼女は僕の返答の内容に落胆した表情で応えたものの、すぐに切りかえて協力を求めてきた。僕も特に用事はなかったので猫探しの手伝いをすることにした。
写真を見せてもらうと、そこにはロシアンブルーの子猫がうつっていた。明らかに飼い猫の外見なので、すぐに見つかるだろうと本音を彼女に伝えると、それを励ましと受け取ったのか彼女は礼を言ってきた。
僕は必死に探したが、土地勘があまりなく、捜索に手をこまねいていた。
僕はいつしか登坂の前に来ていた。
坂の上には桜の木が咲いており、その枝の先に黄色い目を光らせたロシアンブルーがいた。
僕はあの世界で駆け回った感覚で坂道を一瞬で登った。
桜の枝に鎮座するロシアンブルーを見上げる。
『おつかれさま』
猫がそう言った。
坂の上から街を見下ろした。
平和な幻想が広がっている。
すでに僕は気づいていた。
冬、夏、春。
これこそが夢なのだと。
僕は…………
◇
平和になった世界。
しかし、今日は涙を流し、嗚咽が世界中の至る所から聞こえた。
今日は偉大なる救世主が死んでしまった日。
葬式は盛大に行われ、棺の横には藍色の魔法使いが立っている。
『おつかれさま』