知られぬように、ただ届け
青年医師のスルギは住まいを掃除している折、先頃まで客人が滞在していた部屋で、机の抽斗に入れられたままの忘れ物を見付けた。
「これは……」
つぶやきながら手に取る。丁寧に綴られた紙の束だ。そういえば彼女が来てしばらくしたある日、備忘録をつけたいから紙と筆記具をいただけませんか、と頼まれたのだった。
記される内容に興味はあったが、机に向かって筆を動かす姿はいつも真剣で、他人が邪魔してはいけない気がして、何も聞かずじまいだった。日記のようなものであれば、おいそれと読むべきではない。といって、このまま捨てるには忍びない。
スルギは遠慮しながらも、表紙の文字に目を落とした。墨で書かれたその一行を読み取った瞬間、ぎくりと身体がこわばる。
――北西辺境における『虎狼族』に関する調査報告書――
まさか、と彼は急いで表紙をめくった。
確かに彼女は役人だと言った。虎狼族について調べるよう命じられたとも。だがそれは、汚職の内情を知ってしまった者を追放し抹殺する名目に過ぎず、もはや故郷には帰れないからここに置いてくれ、と彼女自身の口から説明されたのだ。
それなのにまだ彼女は、かつての上司に送る報告書をしたためていたのだろうか。
混乱しながら読み始めたスルギは、はじめの数行でほっと息をついた。
《私こと、ラク市白綬ミオ=フォイネンが記す。ゆえあって調査行の途上で『牙の門』たる断崖から転落し、幸いにも当の調査対象である『虎狼族』の里に保護されたものの、帰還はかなわなくなった。この報告書を本国に届ける意図はないが、部外者の観察眼が何らかの役に立つこともあろうかと思い記録する。》
書き出しは堅苦しい文体で、いかにも役人然としている。恐らく彼女自身、今までの習慣でただ書き留めずにはいられなかったのだろう。スルギは少し気を楽にし、さてどんな風に自分たちのことが書かれているのだろうか、と読み進めた。
※
一、実在の虎狼族
本国側で聞き取りをおこなった民話伝承については記録が散逸したため、不確かな記憶で再録することは差し控える。
姿形は虎狼族の呼び名に相応の、獣と人の特徴を併せ持つ身体である。現状では数人を見ただけであるが、狼あるいは虎の頭部を持ち、簡素な衣服を纏っているが恐らく全身が毛皮に覆われている。四つ足ではなく二足で立って歩き、手も人間と同様に五本指が長く自由に動く。牙があり、爪は人間より遙かに丈夫で鋭い(丸く削っている者もいる)。
これらの特徴は本国における伝承と同様だが、いくつかの物語のように完全な獣に変化するということはない。
唸る、吠える、といった発声もするが、我々と共通の言語を使うところは不思議である。ただし彼らのほうには我々の知らない古語が存在する模様。虎狼族とは我々平原に住む人間側からの呼称であり、彼らは自身を『ジルヴァスツ』と呼ぶ。「関の守人」を意味するとの説明。里の名はヴァストゥシャ。
私を保護したスルギ医師(姓はない)とその周辺の人々は概ね温和で親切な気性のようである。本国で巷間に流布している「虎狼族とは獰猛で危険な存在」という言説はまったく当たらない。
※
淡々と事実を列挙していく文章は、保護したばかりの頃のミオを思い出させた。スルギは懐かしさに胸が締め付けられ、いったん読むのをやめて天を仰いだ。
ぱちぱちと瞬きして涙を堪え、再び目を落とす。無味乾燥にも見える文章の行間から彼女の感情を丁寧に掬い取るように、一文字一文字ゆっくりと読み進めていく。
スルギがミオを保護した時は、足と腕を骨折していて自力で起き上がるのも難しいありさまだった。書き物ができるまでに回復した後も、足は元通りとはゆかず外出は不自由で、そのためか、記される内容は室内で観察した事柄が中心になっていた。
第二の項目は「生活」と題されていた。食器の種類、箸や匙があること。木や樹皮、石の細工物が多いこと。柱や梁は太い木材で床は板張りであること。食事の内容は意外に雑食で人間に近いが、味付けや香りはどれも薄く単純なものであること……
ありふれた物事をあれもこれも詳細に記す丁寧な仕事ぶりに、こんなことまで、とスルギはいささか当惑する。同時に、彼女がどれほど細やかに自分たちの暮らしを見つめていたのかが窺えて、少々むず痒くもなった。
墨の濃淡のわずかな違いが、書かれた時期の経過を示している。誤った内容を記さないよう、事実のみを慎重に吟味していたのだろう。
だがそんな筆致が、第三の項目に入ると様相を変えた。
※
三、虎狼族の社会と信条
第一項では数人を観察した限りにおいて虎狼族ことジルヴァスツの特徴を記した。その後さらに多くの住人を知ったうえで、改めて彼らの姿形や行動、またその根底にある彼らの価値観ないし信条の類(宗教と言えるのか否か判断は保留する)について整理してみる。
私を保護したスルギ医師は灰銀毛の狼である。そのほか、虎、豹、山猫、狐とそれぞれ推測される例を目にした。尋ねてみたところジルヴァスツは皆、そうした狩りをする猛々しい獣の特徴を備えており、兎や羊のように草を食む生き物はいないとのこと。
それは彼らがジルヴァスツの名の通り、この『牙の門』にあって邪悪な生き物を撃退しているからだ、と聞かされた。そういう言い伝えがある、という話ではなく、実際にあらゆるものを食らう『邪鬼』が西の森から時折現れるという。どのような生き物であるか具体的な説明は聞けなかったが、大人でさえ囲まれると逃げ切れないというので、相当に獰猛かつ貪欲であるらしい。
その話を私に告げた者は、邪鬼狩りがおこなわれる間は里の西側に近付いてはならないと警告した。万一の危険を避けるために。私は平原に住む『弱きもの』であり、彼らにとっては庇護すべき対象であると、何の疑問もなく信じている様子であった。彼らにとって、邪鬼を退け平原の弱き者を守ることは、霊峰に宿る女神から託された使命なのだ。我々の側はそのような戦いが牙の門でおこなわれているとは全く知らず、虎狼族さえ空想の存在のように考えているというのに。
断崖によって往来が阻まれているとはいえ、これほど重要な事柄が伝わっていないのは何故なのか。それを考えると心苦しい。
※
伝聞と推測、それに本人の率直な思い。報告書というよりは覚書に近い。肉声も同然に、当時の彼女の生々しい感情の動きが伝わってくる。スルギは文字を指でなぞり、そっとため息をついた。
(そうだよ、ミオ。君を守りたかったのに)
つぶやいたつもりが声にはならなかった。
※
三項の二
親しくなった二人が婚姻の儀式を挙げた。
ジルヴァスツの婚姻は我々人間と異なり『家』というものは関係しないので、儀式も皆の前でこの二人が夫婦となったことを示し、新たな子を育めるように願うものであるようだ。
板戸を外して霊峰まで見通せるようにした広間で、里の者が集まれるだけ集まり、神子の前で夫婦の誓いを立て、皆で歌い踊り、祝いのご馳走を食べる(ただし酒はこの里には無い)。
姓を持たず、家や氏族血族といった考えにも縛られない彼らの間では、配偶者を決めるのは両者の意志のみに基づくらしい。嫁ぐ、嫁する、といった言葉も使わない。
婚姻に限らず、ジルヴァスツの社会はあらゆる面で、制約や規則や区別区分が少なく、それでいて調和が取れている印象である。
まず貨幣による売買がなく、その他の財産もほぼ共有だ。むろん個人の所有物(衣服や生活用品、仕事道具)という認識はあるが、必要に応じて誰もが融通し合っている。甲の織る布は乙の作る器の何倍の価値があるから云々、といった『取引』もない。だから貧富の差などというものも存在しない。よって権力の構造も生じない。里長や区長といった役割はあるが、あくまで情報の取りまとめや『邪鬼狩り』の指揮などをおこなうものであり、その者に常時なんらかの優位が付与されるものではない。
我々には到底真似のできないやり方で、彼らは互いに助け合って生きている。
もしもこの里に産まれていたなら、私でも何ら問題なく生きられただろうか。何かにつけ上手く立ち回れず、求められる『ふさわしい言動』をこなせなくて、どうにか就いた役人の仕事からも追われてしまった、そんな不適切な人間でも。
※
最後に付け足されていた個人的な感想の段落は、これもまた『不適切な』ものであると恐縮するように、小さな文字で隅に寄せて記されていた。誰に見せる当てもない報告書なのだから、体裁など気にする必要もないだろうに、やはり長年のならいから外れることは難しいらしい。
「どうだったろうなぁ」
スルギは無意識に声を漏らした。鋭い牙も硬く丈夫な爪も無い、弱い生き物であったミオ。彼女がもしこの里に同じ仲間として生まれていたら、どんなだったろうか。彼女自身が記したように、ジルヴァスツは皆、基本的に勇猛だ。むろん個人差はあって、大人しい気性の者や臆病な者、一度も狩りに出ないまま生涯を終える者もいるから、ミオもそんなひとりとして生まれ得たかもしれない。けれど。
「……想像がつかないよ」
ミオはミオだ。あの在り方こそが彼女という人間だった。
(でも、君が君のまま、里で暮らせたら良かったのに)
共に生まれ育ち、弱い彼女を皆で守りながら、何年も何年も暮らせたら。ジルヴァスツだけの里よりも、そこには豊かな彩りがあったのではないだろうか。
つかのま夢想したスルギは、次の項目に目を移して現実に引き戻された。
そんな夢を思い描くまでもなく、この里にも人間は訪れていたではないか。平原の『弱きもの』ではないが、ジルヴァスツでもない、強い人間たちが。
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四、馬賊またはイウォルとの関係
ヴァストゥシャの西は邪鬼が現れる『禁忌の森』であり、ジルヴァスツも踏み込めないため、果たしてどれほどの広さなのか、抜けられるものであるのか、その向こうがどうなっているのかは不明だという。我々陽帝国の人間が、『牙の門』より西の世界を知らないのと同様である。
森の東側、帝国との狭間にあたる地域は北部が『牙の門』すなわち峻険な断崖によって閉ざされており、その南には荒地が多いものの遊牧が可能な丘陵が広がっている。我々が馬賊と呼ぶ久々が住み暮らしており、彼らは長城によって帝国への侵入を阻まれていることは周知のとおりである。
平原から牙の門を抜けることはほとんど(私が転落した後、川に流されて辿り着いたような例を除けば)不可能であるが、丘陵側からヴァストゥシャへは往来が可能であり、昔から交易がおこなわれていたらしい。虎狼族がジルヴァスツという名であったように、馬賊も『イウォル』と名乗っていると教わった。「警戒するもの」の意味をもつ古語だという。
ジルヴァスツは大型の家畜を飼わないので(理由は不明。推測だが、小型の家禽よりもジルヴァスツを恐れるのかもしれない)馬賊すなわちイウォルの人々から皮革や毛織物や乳製品を手に入れるのだという。里のほうからは石や木で作った日用品、あるいは薬などを渡すという話だったが、残念ながらそうした交易の現場を見ることはかなわなかった。
ジルヴァスツとイウォルの関わりは、単に物々交換が理由ではない。私が初めて目にした彼らの訪問は、交易が目的ではなかった。彼らもまた西の森から這い出る『邪鬼』を警戒しており、まれに里から離れた地に現れた場合は、彼らがそれを捕らえて里まで連れてくるのだ。
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次第に、形や位置の崩れた文字が増えてきた。線が震えたり、手が止まってしまって墨が滲んだりしている。
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邪鬼と呼ばれる生き物は、人間に似た姿をしていたが、明らかに人間ではなかった。非常に生命力が強く、ジルヴァスツの爪や牙でとどめを刺さないと、殺すのは難しいらしい。なぜジルヴァスツなら殺せるのか、理由は誰にもわからないようだ。
この事情によって、イウォルはジルヴァスツと共通の神話あるいは伝承に基づき生活している。すなわち、里の北にある霊峰に女神が宿っており、その力によって邪鬼は四方八方へ散ることなく北へと引き寄せられ、結果ジルヴァスツによって退治され平原の安全が保たれている、という世界。
なぜ我々平原の人間にそれを知らせないのか、という疑問に対しては、里を訪れたイウォルの一人が答えてくれた。ジルヴァスツのような屈強な獣人の存在を知れば、平原の人間は必ずそれを欲するからだ、と。邪鬼に対する守りだとか、女神の使命だとか、そういった世界のなりたちさえ無視して、自分たちの戦や見栄や権勢のためにジルヴァスツを利用する。だから決して知らせてはならないのだと言われて、何ら反論ができなかった。
私は人の世のならいに疎く、そこから弾き出された一人だが、それでも容易にそうなるだろうと理解できる。この里の親切で優しい皆が、そんな目に遭ってほしくない。
平原の者が何も知らないまま、邪鬼との戦いをジルヴァスツに任せきりにして、自分たちは安寧を貪っているとしても、そのほうがジルヴァスツにとってはむしろ安全かつ平穏でさえあるかもしれない。
私は彼らを守りたい。沈黙によって。
※
最後の一文はくっきりと力強く、震えも滲みもなかった。スルギはつかのま息をすることも忘れ、それを見つめていた。
守りたいと思っていた。彼女は弱いから。守るべき存在だから。
まさかその相手が、こんな形で逆に自分たちを守ろうとしていたなんて。
※
恐らく今ここを読んでいるのはジルヴァスツの誰かだろう。だがもしも、万が一、平原の民であったなら、どうか黙っていて欲しい。この報告書のことは忘れてしまうか、焼き捨ててもかまわない。
自分で燃やしてしまうのは、少し心残りだから。私が里の皆をどんな風に見て、どう思っていたかを、できれば知って欲しい。
私は行かなければならない。霊峰の女神の力は長い年月の間に少しずつ衰え、新しい依り代を必要とするのだそうだ。時が来れば、器となる者が現れる。それがどうやら私であったらしい。
思えば、普通の人々の間でうまくやっていけなかったのも、生まれつき器となるさだめだったからだろうか。辺境調査に飛ばされることが決まった時、はるか南の赤海か、北西の『牙の門』か、どちらか選べと言われて迷わず北西と答えたのも、女神に引き寄せられたのかもしれない。
さだめであったにせよ、そうでないにせよ、女神の力を蘇らせることが私にできるのなら、そうするだけだ。私の身に何が起きるにしても、うまくいくよう願っている。
どうかこれからも、この里が秘されたままであり、かつ平原が脅かされることのないように。
※
束ねた紙に記された内容は、そこで終わっていた。ただ、最後に小さな紙片が挟み込まれていて、そこには二行だけ、本文とは異なる柔らかい筆致で伝言が残されていた。
《スルギさん。この報告書は置いていきます。あなたが読んでくれたら嬉しい。
あなたに出会えて良かった。ありがとうございます。》
丸く澄んだ狼の目から、ぽろりと滴がこぼれ落ちる。大事な伝言を濡らしそうになって、スルギは慌てて紙の束を高く掲げた。そのまま彼は、何度もぱちぱち瞬きして鼻をスンスン鳴らした。
「ミオ」
かすかな呼びかけが喉を震わせる。
「こんなの、どうしたらいいんだ」
記した者はもういない。世に出すものでもない。ただ、思いを残されただけ。一人で受け止めて胸に抱きしめるには、あまりにも大きくて深い思いを。
「困ったなぁ」
つぶやきが震えて涙に飲まれる。しばらくそうして持て余した後、彼は報告書を元あった抽斗にそっとしまい込んだ。
逃げるように立ち上がり、表に出て山並みを振り仰ぐ。瑠璃の空を切り裂く、ひときわ高く白い霊峰の頂を見つめて、彼は長い間じっと立ち尽くしていた。
――返るはずのない応えを待ち続けるように。
2022.8.13
綿野明様(https://kakuyomu.jp/users/aki_wata)から頂いた、霊峰を仰いで立ち尽くすスルギ……切ないぃぃ(嗚咽)
赤い花が咲き乱れている理由は本編をお読み頂けたら分かりますが何はともあれ心の遠吠えがこもった一枚、誠にありがとうございます……!!
出典は彩詠譚のうち『女神の柩』(現在リメイク中、来春あたりに削除予定)