平和の歌
夜は深かった。ベッドから這い出ると冷たい空気は、布団の中よりも私を優しく受け止めてくれた。そんなんだったら、早く起きてしまえばよかった。深い闇は、柔らかくて私が動く形に私を包んだ。まるで、限りなく柔らかい水の中にいるようだった。黒くて透明な水。包まれていながら、私は軽い浮力で日常にはない自由を得る。
音を立てないように、階下に降りると台所からほのかに明かりが漏れていた。私は、胸がたかまって一層音を立てないようにドアに近づいた。物音はしなかった。誰かがいたら、驚かせてしまう。騒ぎになったらほかの住民を起こしてしまう。森の中で熊にであったときの気分だ。私は自分を守るために、あえて自分の存在を驚かせないように示さなくてはならない。
「はーあ。」
大きな声であくびをする振りをしたけど、なにも起こらなかった。むしろ、いつもの自分とは違う声がして、不気味なぐらいだった。ドアの向こうはなにも反応しない。なにか本格的な作業をしてしまっているのか、それとも誰かが消し忘れただけで誰もいないのか。
私は意を決して台所のドアをあける。すると人影が私を見た。姉だった。
「あ、こんばんわ。」
「こんばんわ」
お互いなにをしているのかは触れない。私は、突っ立っている姉を回避して、コップをとり水道の水を注いだ。緊張が一転、恥ずかしさに変わった。コップに水がたまると私はさっさと飲み干して流しに置くと、自分の部屋に退散した。
布団の中で浮かんだのは、新しい絵のアイデアだった。私の中のモチーフは常に、何かを創作していて、自分の中の表現を探している。必死に歌を歌う少女の目が思い浮かんだ。彼女は歌を誰かのために歌っている。目にはなぜか涙を浮かべている。想像すればするほど、目がさえた。私は勉強机のスタンドライトをつけて、スケッチブックを取り出した。
そして自分の想像の世界を、描き始める。暗い部屋で、私の意識は白く浮かび上がる紙と同化した。線が書かれるとそれは私の意識に直接つきささるようにはっきりと刻みこまれた。人が浮かびあがってくると、それは私の目の前で息をしていた。まるで私は、一人の少女の肌を直に触れているかのような感覚になった。肌の温かみも、髪にふれる感触もすべて想像できた。そんな風に絵が描けたのは初めてだ。私は描きながらそう思った。絵は正直だ。下手な絵は自分で見てわかる。うまい絵もそうだ。しかし、見ることができるのは描かれてからの話だ。描かれる前にその姿を、自分の理想をいかにはっきりと思い描くことができるか。あるいは、描きながら理想をつかむことができるか。それにかかっている。
気がつけば、空が白くなりはじめた。私は、まぶたが重くなってくるのを感じる。スケッチブックの少女は、まっすぐに私を見つめて唇をすこし開いている。私のどこに彼女がいたのだろう。その存在は、あまりにも写実的で現実にこのような人がいるのではないかと思われた。名前もあり、学校にも通っていて、母も友達も、思春期の悩みもあるごく普通の少女だった。私はなぜ彼女を描いたのか、そして描くことができたのか不思議だった。しかし、今はそれよりも疲れとともにやってくる達成感が体を満たした。まどから差しこむわずかな光が私のまぶたをそっと押さえるように重くした。
机からたちあがると、倒れるように布団に潜り込んだ。
つぎの日の大学には当然遅れることになる。しかし、遅れたところで誰も怒らなかった。経済学の授業では学生たちがだるそうに、そしてまばらに教室の椅子にすわってうつむいていた。私はその倦怠感に紛れるように、開いている堅い椅子に座る。そのただ憂鬱な空気には、諦めのような醜い、しかしそれがのさばってしまえば誰も取り払うことができないたちの悪い共通認識が含まれていた。私もそれに抵抗できないで、理解するつもりもなく板書を書き写す。教員の覇気のない声を聞いて、なぜ私たちはここにいるのだろうと思う。そしてなぜそれを誰も問いかけないのだろう。誰かが犠牲になってそれを問いかければいいのにと思った。しかし、私はその一人になれずにノートに文字を書き写していた。
昼休み、私は午後の授業を受ける気がなくなってしまった。どうせ寝てないから、授業を集中して聞くこともできないだろう。私は、コンビニのサンドイッチを食べながら考えていた。いつもの休憩所は男子学生の横柄な笑い声が響いた。女子学生の意義のなさそうな集会が、不快そうに顔をひそめる。私は、そのどちらも不快になってそしてそのどちらにも属することができない自分が心許なくて、食べたらすぐに立ち上がってしまう。そして、昼休みを当てもなく大学の構内を散歩することに使ってしまう。
授業にでないと決めたところで、私はそれにかわる有効な選択肢を提案することができなかった。だから、私は惰性で教室に向かい、その他大勢の学生と同化するための目立たない席に座る。
授業がはじまった。薄ぐらい教室の全面には、美的感覚もデザイン性もないパワーポイントのスライドが照射される。それはそれで、教員の無神経さとそれにたいしてなにも言うことができない学生のいい加減さがよく現れている気がした。私は、眠い目を無理矢理開けるのを我慢することをやめた。
私は、大学という場所と空気と人の九割が嫌いだ。
私は、すべての授業が終わったあとの残りの一割に学生生活の楽しみのすべてを賭けている。金銭欲、性欲、食欲、睡眠欲。私は、大学生のもちうるすべての欲望を馬鹿にしてまっすぐに校舎のだれも寄りつかない部室ボックスに向かう。
「芸術部」
これ以上ないシンプルな名前はむしろ反抗的であった。大学創設時以来変わらない名前は、次々と乱立し消えていくサークルの名前の中でじっと本質的な存在理由を主張し続けていた。
私は、壊れかけてぐらぐらしたドアノブをひねって開けた。
そこには、それ以上なく整理された狭い空間があった。乱雑な部室棟のエントロピーに即座に圧殺されてしまいそうなほど、ここには物がなかった。
「こんにちは」
めがねの青年がスケッチブックから顔を上げた。そしてまた、紙に目を戻す。私は、彼の描いている絵を一瞥すると開いている彼の向かいの席に着いた。部室には大きな作業机と、新品のスケッチブックのストックしかない。
私は、スケッチブックをひらいて昨日であった少女を探す。探すまでもなく、スケッチブックがひとりでにページを開いた。
少女の透き通った肌は、白い紙と同じ色をしていた。それは、何かを描いてしまったとたんに失われる白さであった。彼女の外側に描いても、彼女の内側に描いてもその切ないバランスは崩れてしまう。私は、ただ彼女と見つめ合ってどうしたものか考えていた。
絵の中の少女の視線は、私の体を貫通して果てしなく遠い場所を見ていた。私は、私の背後に広がる宇宙を想像した。星々がきらめく宇宙を。あるいは、太平洋を。大草原を。彼女が見ているのは本質的に果てがないものだった。私はついに、彼女の目に引き寄せられた。限りなく鋭く鉛筆を削った。私は少女の目にそっと一本線を引いた。まるで粘膜に触れるかのように私は繊細に線を引いた。
それからというもの私は、彼女の光彩をいかに繊細に描くかということだけに集中していた。何人かの部員が、入ってきて挨拶したけども私は応えなかった。応えてしまったら、絵の少女は私から目を背けてしまうに違いない。そこに息をしている目の前の人。それが私にとって一番大切な人に違いなかった。
彼女の右目の光彩は、細い線によって構成され一層輝いた。その眼光の光は、やはり無限大に届く光だった。なにを見ているのではなく、目を開けたまま瞑想していた。私はその透明な視線にどこまでも憧れていた。絵の中の時間は少女とともに静止していた。しかし、彼女の精神は何よりも活動していた。静止の中の活動。私はそこに永遠を知った。
「八時になったので、モヨウをつくりはじめます。」
部長の号令で私は我に返った。ほかの部員たちも顔を上げる。私は未だ絵の世界の時間の密度が抜けきれなくて、すべての人々の動きがきめ細やかに見えた。部員たちは、おのおのスケッチブックを片付け始めた。それから机の下にある大きなロール紙を机に広げる。私は急いで、自分のスケッチブックを閉じて鞄に戻した。パタンと言う音を聞いて私はやっと、絵の世界から戻ってきた。 ロール紙には、様々な形が結晶を作り一つの構造になろうとしていた。黒鉛の柔らかに輝く粒子で作られたモザイク画だった。曲線が絡まり合い、直線が交差しあい音のないリズムを奏でていた。奔放に広がる四角や三角、丸と言った図形はメロディーで幾層にも重なり合って一つのハーモニーを作り出していた。余白は、真空の時間だった。 部員たちはそれぞれ、思い描いた抽象をそのまま一つの紙にそれぞれ描いていく。
現実世界では最もはかない、そして伝達不可能な存在は、人の手によって執拗に丁寧に描かれることによって人間の最も確かな感覚によって認知可能な存在へと生まれ変わっていく。部員たちは自分が生み出してしまったその、言語化不可能な実在におののきながらまた、そのおののきまでもを実在に変えてゆく。そうして、私たちは自分の現実と感覚を絵の中の現実と直交させ新しい現実を織りなしてゆく。
私は、自分が描いた図形が次の図形の形を誘発していることに気がついた。雪の結晶がフラクタル状に自己を絶えず複製するように、図形も自己を自己によって新しい形を得ようとしていた。それが、自然の法則の泰然自若としたあるがままの余裕よりも、そうあるしかないもがきとして私の目に映った。まるで、自分が描いた絵からしか新しい何かを発見することができない自分のようだった。それは、苦しみながら自分を絶えず分裂させ揺らすことでしか自分の存在を確かめることができない切なさがあった。
部員は、もくもくとそれぞれのモヨウを描き続けた。それぞれの心から漏れ出した血が、紙に流れ出ているようだった。紙にしがみついて、胸か流れでる精神の血を吐き出しているようだった。わたしたちの血はそれぞれ違う色をして、紙の上で混じり合った。混じっても形を変えることなく、透過しあった。干渉しあうことなく、寄りかかり会うことができずに紙の上を滑っていった。
九時になった。モヨウは少し姿を変えた。私たちは排泄を終えたようなすがすがしさをあじわって部の集会は終わった。
私は終わったあとの食事にも行かずにまっすぐ家に向かった。
「先輩」
駅のホームで声をかけられた。芸術部の部員のようだった。すこし恥じらいながら彼女は私を見た。私は去年の私を思い出した。
私たちは、向かい合ってしばらく言葉を探し始めた。
「あの、名前は。」
私は主導権が勝手に自分に押しつけられている気がして、適当な言葉を言わなくてはならなかった。
「杉といいます。」
杉は、お辞儀をして
「お名前は?」
と私に手のひらを差し出した。
「花です。」
「名前ですか。」
「いや、なまえは、美紀。」
「美紀先輩ですね」
杉はいかにも、年上に甘えるのが好きそうな愛嬌があった。しかし、会話はそこで途絶えてしまった。残酷にも電車が到着して私たちは、それに乗らねばならなくなった。
電車の中は人がまばらで、座ろうと思えば座れた。杉が遠慮して座らなかったため、私はその通りに座らないまま彼女のそばのつり革をつかんだ。 「先輩の絵、すごいですよね。」
杉は、地下鉄の窓の外をみて言った。
「ありがとう。」
私はそう言っておいた。
「高校のとき美術部だったりしました?」
「いや、サッカー部だった。」
「え、意外。でもなんでそんなに絵がうまいんですか。」
「うまいか? 私は精密に描いているだけだと思うんだけど。」
「うまいです。才能です」
杉は、すこし目を大きくして私に言った。私はなぜ彼女が他人の絵にそんなに興味があるのかわからなかった。私は、スマートフォンにうつろに没頭する社会人たちよりかは、杉の興奮した目に生気を感じて、すこし好感を持てた。
「どう思った。」
私は聞いてみることにした。杉はすこし考えて、とてもシンプルでまっすぐな絵だと言った。私はそれだけだと自分の絵について言っているのかわからなかった。
「あの、歌っている少女の絵だよ」
「はい。歌っているんですね」
「うん。多分。何の歌かは知らないけど。」
「多分、とってもきれいな歌。世界の平和を願う歌だとおもいます。」
杉は、言った。私は、世界の平和ときいて確かにあの美しい少女ならそういう風に願いかねないと思った。その、手垢にまみれた美しすぎる夢を少女ならまっすぐにその美しさだけを見るかも知れなかった。どれだけ曇っていても彼女は彼女のなかの一番美しい夢をみるに違いなかった。
「杉のおかげで、すこしあの絵がわかった。」
私は杉をみて、ありがとうと言った。杉は照れくさそうにお辞儀をした。私はそんな風にへりくだってしまう杉が少しかわいそうな気がした。明るそうで、高校生のときは後輩の面倒をみるいい先輩だったと思う。それが大学生になると突然また誰かにペコペコと頭を下げなくてはいけない。その上下関係の奇妙なルールの不自然さが、人間をおかしくしていると私は思う。
杉は、私よりはやく電車を降りた。私は杉が手を振ったので軽く手を上げて見送った。それから一人になった杉は、私といたときよりも堂々として歩き出した。
家につくと、母が夕ご飯を残してくれていた。私はそれを電子レンジで温め直してたべた。肉じゃがとサラダだった。電子レンジは時間を巻き戻したように、それが作り出された直後の温度に調整してくれた。そして私も一緒にそのちいさな異次元にとりのこされて、一人夕食を食べた。今では、父が野球を見ながら寝そべっていた。ビールをちゃぶ台においてスマホを床に置きながら野球を見ていた。母は、そのとなりで洗濯物をたたんでいた。
高校生のとき、キリスト教の宣教師にあったことがある。彼は、私を馬鹿にしたように「なぜ生きているのか考えたことがありますか?」と聞いたことを覚えている。彼は、少し考えれば思いつく大切な問いを、全く考えていない「普通」の人々にすこしいらだちと哀れみを覚えているようだった。私は、そのときちょうど生きていることについて考えていたから、彼にその話をした。
彼は、新潟からわざわざ都会にきて宣教のために働いているようだった。私は彼にたくさんのキリスト教の教えを聞いた。私は、宗教を学んだ人はこのように柔和でそして本質的に社会の大半の人が考えていることとは違うことを考えてしまうのだとわかった。しかし、彼から感じたのはキリスト教を信じる前と信じたあとの違いによる感動だった。
彼は、神様がいるとわかったときの光がとてもうれしかったのだといった。
私は、神様がいるかどうかわからないが、しぜんと生きることとはなんだろうと考えていた。だから、そこに救いは前提とされてないしまた考えることで何かいいことがあるとは思っていない。ただ、なぜか考えてしまうのだった。
父と母をみるとなぜだか、「生きるとはなにか」なんて考えていないことがわかる。でもそうだからといって彼らを責める気は起こらなかった。それでいい気がした。
宣教師の彼とあった次の日、私はサッカー部を無断で退部した。そのときの人間関係をすべて断ち切って、自分一人になろうと思った。もののみごとに友達がいなくなった。残りの高校生活は、私は何者にもならなかった。自分の夢も、志望校もなにも定めなかった。自分が自分のまま生きたらどうなるのか。それだけに興味があった。
面白いことに、そうすると人生はやっと動き出したように思う。私は、やっと私自身がなっとくして自分の明日を決めることができるようになった。寝る前にどんなことを考えるのかを自分で決めることができるようになった。ストレスフリーの状態でも、人間は働くばかりではなくサボるのだという堕落論を自分の中で発見した。
気がつけば、私は誰に教えられたのかもしらずにスケッチブックに絵を描き始めていた。それは美しい模様や、人や意味のない記号を描いては私はその不思議さに引き込まれていった。
なぜ私の中のインスピレーションが私を凌駕してゆくことができるのか。なぜ私は見たことのないもの、言い得ぬものを実際に描くことができるのか。それが不思議でたまらなかった。
気がつけば「そこそこ」の大学に入学していた。私は「そこそこ」であるからこその自由に気がついた。つまり、「そこそこ」やっていさえすればあとは自由なのだというロジックに気がついた。私は四六時中、私の脳内のイメージを紙に書き起こすことに集中した。おかげで、一年生のときにスケッチブックが三十冊積み上がった。
今日の夜も、私は絵の中の彼女と見つめ合っていた。もはや見つめ合うという表現は正しくなかった。彼女の目は私を貫いて私と同化していた。私は彼女の視線の先を想像するたびに、彼女と自分との距離がなくなっていくのを実感していた。 杉が言ったように、彼女は平和を祈る歌を歌っている。私は、彼女が具体的にどのような歌を歌っているのか、どこに立って歌っているのかを考え始めた。それはもう、「絵を描く」という行為にとどまらないことだった。
私は、彼女が海にむかって歌っていると思った。穏やかに広がる海に向かって彼女は歌をうたっている。光があふれ出る水平線の美しい曲線は、彼女がいま地球に立っていること、生きていることを証明していた。海の波は柔らかに揺れ、心のさざめきのままに波が輝いた。空は、青い。そして果てしなく高い。
私のインスピレーションは、私がかつて行ったことのある場所に基づいている。高校生の時にいった沖縄の景色だった。そこは、かつて戦争があってたくさんの人の血と砲弾の荒らしで染まった海だった。私は、一人そこに立っていたのだった。とても穏やかな時間だった。
私は、もう一度沖縄に行こうと思った。そしてそう決めると、早く実行したくてたまらない気持ちになった。私は大学生活に支障がない程度に時間をみつけてアルバイトをし、飛行機代を稼がなくてはいけないと思った。くしくも、大多数の大学生が行っている思考回路を私の脳内に再現してしまった。私は違う方法でなんとかお金を稼ぎたいと思った。
次の日、私は芸術部にいった帰り駅まえで自分が描いた絵を販売しようと思い立った。一枚五百円で二十枚ぐらい売れればいけるだろう。私はそう考えて、ブルーシートの上に自分のスケッチブックを並べて絵を売り始めた。駅前を通り過ぎる人はみな私を一瞬みて目を背けた。都会の夜だった。待ち合わせする若者たちの下品な笑い声がとても耳障りに感じて私は駅を選んだのは間違いだと気がついた。こうして、座りながら人々が駅から出て、入っていくのを眺めていると私は少し落ち着いた気分になってきた。これをみながら私は絵を描こうと思った。
その次の日、私はスタンドライトをもってきてスケッチブックを照らしながら絵を描いた。並べている絵がどんなものか見られるようにスタンドライトでまた照らした。ライトが目立ったのか制服姿の男性が駅の方から歩み寄ってきた私に声をかけた。
「ここでなにをしているんですか。」
怒られるかと思ったが、自然な声のかけ方だった。
「絵の販売です」
「無許可で駅の前でものを売ることはできません。」
私は、返答に困った。制服の彼はポケットからメモ帳をだした。
「名前は。」
私は言いたくなかった。名前を答えたところでものが売れるようになるとは思えなかった。
「ものはどうしたら売れるようになりますか。」
私は質問を返した。
彼は、メモから顔をあげずに申請書類が必要です。と言った。
「それを書いたらいいですか。」
「はい。」
私は駅の事務室に書類を書くために向かうことになった。私は、破滅の予感を感じながらそれをあえて無視していけるところまで行ってみようと思った。そのときは自信があった。書類をかくだけだと高をくくっていた。
しかし、駅の事務室につれられて書くべき書類に押す印鑑も、許可証のようなものもよくわからなかった。私は説明を聞く気分にもならずやめますと言った。駅員の説明は、親切でも乱暴でもなくただ言葉を並べただけだった。
私は悔しくなって、家に帰った。ひさしぶりに悔しかったから私は悔しがり方が高校生のころと変わっていないことに気がついた。よく私は泣きながら自分をせめて、悲しさを味わっていた。それはそれでかわいそうな自分を見つけることができて楽しかった。
その日は家に帰ってじっと歌う少女の絵を見つめていた。見るたびにどうしてもこの子を沖縄に連れて行ってあげたいと思う。彼女が海を見たとき、この絵は完成すると私は確信した。
日雇いのバイトを探した。荷物運びから会場整備までいろいろあった。どれもやる気が起きなかった。私はなんとかして、自分がしたいことでお金が発生することはないだろうかと思った。私がそんな非現実的な考えを持っていたのは、やはりあの絵の少女に自信があったからだ。彼女はどうしても沖縄にたどり着くはずだ。私はそれを運命的なものだと考えた。運命なのだから自然になされないといけない。私がバイトをして彼女が行くためのお金を稼ぐのは自然ではない。彼女は彼女の力で行くべきところに行くのだと私は思った。 私は、絵を描きながら虎視眈々と彼女がどうにかして沖縄に行く方法を探していた。絵はいつか売って資金になるかも知れないから続けていた。彼女の絵は、次第に生気をまして写実的になっていった。それ以外にも、日々生まれ出るインスピレーションを私は絵にして描き続けた。
質はどうでもよかった。とにかく作品が作りたかった。私は質にこだわる以前に、描いてきた量が不足しているとわかっていた。自分の絵がなにを伝えているのか、私がなにを考えているのかそれを自分で確かめるために、私は私の絵を描いて私を見る必要があった。
大学生活は、しずかに充実した。話すといえば杉とぐらいで日常会話を少しした。私はそれ以上の話を一切しなかったし、杉も踏み込むことはなかった。学業もとくにいつも通りだった。しかし、その背後で膨大な量のスケッチブックと鉛筆を私は消費した。描いても描いても、自分の中の泉はつきなかった。私は、同じものを描いているような気がしてもかまわなかった。そのたびに自分が空転している気がした。しかし、その空転を加速させるたびに、熱く加熱して次第には回るのをやめて燃焼し始めた。私の絵は、私にしかかけないそしてそれ以外の方法で描こうとすると意味がなくなっていく限界まで進もうとしていた。私が絵をきわめた訳ではない。
完成した絵を評価するのは私ではないから、巧拙はわからない。しかし、私は私の才能の限界を知りたかった。私の中にあるイメージをすべて出し切ったところにそれがあると信じていた。インプットもうまい人のまねも一切しなかった。私は手を動かし続けた。私の心の中には常に空転する歯車が熱く燃え続けていた。きしみが、頭痛となって常に鳴り響いていた。
「花さん」
帰り際、杉が私にふと提案した。
「絵のコンクールに出品してみては」
私はまた、杉の考えが理解できなかった。私はコンクールの類いで他人に評価されたいとは思っていなかったからだ。ただ、絵が売れればそれでいいと思ってた。
「なんで」
「花さん、お金が欲しいっていってたじゃないですか。コンクールで稼げないかなって思って」
「いくらもらえるのか。」
「優勝十万円です。準優勝でも五万円」
私は一転、杉のアイデアに合点がいった。私は杉を見つめて話の詳細を聞いた。杉がスマートフォンを見せてくれた。そこには鉛筆画新人賞というコンクールらしきものの説明が書いてあった。スマートフォンをもっていない私は、杉に申請を頼んでもらって締め切りまでに絵を会場に提出という形になった。
それからと言うもの、私は一層絵を描くことに打ち込んだ。私の中で、形というものへの理解はかなり明確になった。私の脳内で描かれたイメージは限りなく鮮明に紙の上に表現されるようになった。私は、迷いなくただ描いているだけであった。紙という平面には、美の幾何学の美しい法則があるに違いない。私はそう思っていた。私がいかに工夫しようが、悩もうが悟ろうがその幾何学の法則は絶えず白紙の宇宙を貫いている。私はそれを自分の手で体現することだけを目指した。
コンクール用の絵が完成した。私はマシンガンのように絵を描き続けた。たった一枚の絵に向き合うということはしなかった。私はそのようにして描きなぐった中から一枚を選んでコンクールに出品した。杉は、「優勝できるといいですね」と言った。
「できたらいいが。わからないな。」
私は言った。しかし、コンクールで優勝できないとなるとほかの方法で金を稼がなくてはいけなくなり、それを考えるのがめんどくさいと私は考えていた。
結果私は佳作という賞に当選し、三万円を獲得した。杉はよろこんで、すごいすごいと拍手をした。私は、三万円で沖縄に行けるかどうか心配になって杉に聞いた。多分いけます、という返事だった。杉はそのスマートフォンで調べてくれた。 調べながら、杉は私に提案した。
「先輩が一人で行くのは心配なので、私もついてきていいですか。」
私は少し考えて、賛成した。杉はそれを聞いてまたよろこんだ。私は少し安心したのと同時に杉はやはり面倒見のいい人だと思った。今となっては、上下関係はどうでもよくなっていた。
飛行機に無事乗り込むと杉は、子供のようにはしゃいで窓の外をみた。私も窓の外から海をみるとその美しさに目を奪われた。地球の肌は、水という最もなめらかな物質で覆われていた。私は、スケッチブックの中にいる歌う少女に、やはり海はふさわしいと思った。沖縄を選んだことに確信を持つことができた。
窓の外を見ることに飽きると、私は座席で絵を描き始めた。私は、佳作というもののすごさがよくわからなかったが、優勝でないことだけは確かだと知っていた。私は、それでまだ自分が描くべき理由が与えられたと思った。杉は私のとなりでただ、絵を描いているのを見ていた。
「楽しいか」
「はい」
「自分で描いた方が楽しくないか。」
「いえ、先輩の絵を見ると勉強になります。」
杉はなぜか私の絵を評価しているようだった。
そういえば、私は絵を彼女に売りつければよかったと後悔した。
「杉は私の絵を買うとしたらいくらで買う?」 そう聞くと杉は、優しそうに微笑みながら困ったように考え込んだ。考えれば考えるほど困っていく。
「んー。難しい。」
私は、また杉がなぜそんなに考えるのか不思議に思ってしまった。彼女は私の考えとは全く違うものを持っている。
「芸術とお金の問題は難しいですよ。」
杉は言った。
「価値を決めるのは私にはできません。」
私はそれを聞いて、少し考えていた。私が提出したコンクールで私の絵は三万円の価値になった。それは、絵の価値として三万円の絵と言ってもいいのではないか。
「それは違います。三万円は副賞で絵の価値ではありません。」
「そういうものか。」
私はずっと解せないまま絵を描き続けていた。じゃあ、私の絵は何の価値があるのだろう。今描いている絵はどんな意味があるのだろう。そう思った。しかし、同時に他人に価値づけられたところで私の絵が変わるわけではない。そう考えると他者の評価などどうでもいい気がした。
空港につくと、空港の中から東京とは違う空気が充満していた。植物の香りと豊かな水分が暑さとともに体を包んだ。それが私の胸に感情を湧き上がらせた。日差しはつよく、空は晴れていた。まさに私たちの過ごす場所とは違う世界だった。 那覇空港でタクシーを拾って、私たちは望みの場所まで向かう。タクシーの運転手はなにしに行くのときいた。杉は答えなかった。私は、海を見せたい人がいるんです。と答えた。
「だれだい」
「私が描いた絵のなかの少女です。」
「ほう。」
運転手は楽しげにハンドルを切った。郊外にある丘は道がすこし荒く車がところどろこガタガタ鳴った。べったりとした汗がおでこを伝ってくる。空はひたすらに明るかった。私たちがかんじる疎外感を何度も払拭してくれたのは、絵の中の少女だった。私は、彼女のおかげでいまこうして想像もつかない場所に向かって導かれているのだ。
独特な形の民家と、サトウキビ畑を通り過ぎると、運転手はついたよ。と言った。メーターは意外なほど上がっていた。
タクシーから降りると潮風が優しく吹いた。暑さは変わらないが、体になじんできた。ここに住んでいるひとも、こうやって暑さに体をなじませているのだろう。
歩くとすぐに、視界の下半分が開けて崖になった。そして、海洋が青く遠くまで広がっていた。 「ここ」
杉は私につぶやいた。私はうなずいてバッグの中のスケッチブックの感触を確かめた。丘のてっぺんは公園になっていて、展望するために整理されていた。私は柵ギリギリまであるいて海を眺めた。それはまるで私を飲み込むような広い海だった。私がそこにいるのではなく、海がそこにあって私たちはちっぽけにそれを眺めている。そんな広い海だった。地球の美しい体の曲線を、なににも邪魔されずに眺めることができた。しばらく私と杉はそれを見つめた。
風がふいて、私は私のちっぽけな現実に引き戻される。私は柵のそばに腰を下ろしてバッグかららスケッチブックを取り出した。そして、歌う少女の絵のページを開いた。少女はいつもどおり私を見つめていた。杉もしゃがみ込んでその絵を見た。
「平和の歌。」
杉は言った。
「杉がそういったから、ここに彼女を連れて行きたいと思った。」
私は初めて彼女に、ここに来た訳を話した。
杉は打たれたように立ち上がってもう一度海の果てのほうを見た。それには果てがないように思えた。私たちが見ているのは、太平洋の先にある陸ではない。私たちがみているのは、空と海がぶつかったあの、果てしない空間なのだ。私たちがどうやっても行くことができない無限の空間なのだ。
「こうやって彼女は歌ってる」
私は、スケッチブックを優しく膝のに乗せて彼女の目が、どこまでも遠くを見られるようにした。 「よかったね。たどり着く場所につけて」
杉が言った。
私は、もうここから動かなくてもいいのではないかと思った。日が暮れるまで座っていようと思った。杉は許してくれるだろうか。
「いい天気だねえ」
後ろから誰かが言った。年老いた女性がよぼよぼと歩いてきて、柵につかまった。若い女性も彼女の付き添いとしてすこし離れて見守っていた。
腰を下ろしていた私は、思いのほかそのおばあちゃんと近くにいた。
「絵をかいてるのかい」
「いえ。」
私は言った。
「描いた絵をここにつれてきたくて」
私はスケッチブックをおばあちゃんに見せた。
彼女はじっとその絵を見た。
「誰を描いたんだい。」
「わかりません。」
私は、そればかりは答えられなくて笑った。
「似てるよ。私の友達に。」
おばあちゃんはそう言った。
「見に来たんだねぇ」
そしておばあちゃんは遠い柵の向こうを見た。
2020/03/31 16:49