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第十六話

「ミュラー商会に依頼しなくて正解だったわ」


 マリアンナは床に叩き付けられ、靴底で汚された濃紺のドレスの前に膝を着いた。


「マリアンナ様、私が拾います」


 慌ててエルテが腰をかがめる。


「いいのよ。元は私が依頼したドレスなんですもの。本当に綺麗な布、それに刺繍も素敵だわ。ミュラー商会も良い腕をしているのだから、技術を売りにすればいいのに」

「そしたら、そちらを選ばれましたか?」

「まさか」


 エルテの問いにマリアンナは一笑した。


「エルテさん、マリアンナ様」


 ラトは二人の元に駆け寄った。


「ラト、起きたのね」

「はい。出遅れて申し訳ありません」

「いいのよ。あいつらいきなり来て、本当に無礼だわ。でもさっさと帰ってくれて良かった」


 マリアンナは濃紺のドレスを拾うと、軽く叩いてなすりつけられた泥や砂をはたいた。

 そのドレスはラトたちが縫っていたときより刺繍が増えており、明らかに手が加えられていた。


「私たちが縫ったものを、ミュラー商会が完成させたんでしょうか」

「いいえ、そうじゃないわ」


 ラトの疑問をエルテは否定した。


「少し使われている色が違うから、私たちが作りかけたものを参考に、新しく仕立てたのよ。どうせなら全く新しいものを作れば良かったのに」

「私がその意匠を気に入ったと思ったのね」


 マリアンナが呆れたように笑う。


「このドレス、どうしましょう」

「彼女たちが置いていったとはいえ、もらうのは嫌ですね」

「送り返しましょう。送料はあっちが持つべきね」


 確かに送料をこっちが持つのはおかしな話だ。しかし床に叩き付け、足蹴にしたドレスを送り返されるなんて。ミュラー商会にとっては屈辱だろう。


「さて、ラト。染めた糸も今朝届いたらしいから、すぐに作業に取りかかりましょう」


 ラトが返事をする前に、腹の虫が騒いだ。


「っ、そうね。まだ起きたばかりで、ご飯食べていないのだったわね」


 思わずエルテは吹き出し、マリアンナもつられて笑う。恥ずかしさにラトは顔が赤くなった。





    ○  ●  ○





 ミュラー商会はそれからマリアンナの元を訪れることはなかった。

 しかし使用人たちの話を聞くと、巷ではある噂が流れているという。

 王太子の婚約者マリアンナは、王国に破滅をもたらすだろう。なぜなら魔女の呪いを受け入れた、忌まわしい女だからだ、というもので、おそらくミュラー商会が依頼を断られた腹いせに広めているのだろう。


「あの噂、大丈夫でしょうか?」

「ああ、マリアンナ様の?」

「はい。今さら気にしても仕方ないと思うのですが、やっぱり心配で」


 夜光虫の白っぽい光の元、ラトは濃紺の色を亜麻の白布に縫い込んでいた。ふとその手を止め、不安を口にする。


「気にするなって言っても無理でしょうけど、相手が王太子だから、どうしてもそういう噂が流れるわよ」


 王太子の婚約者がマリアンナでなくても、自分の娘や、身内を嫁がせたかった者はいくらでもいる。だからどんな噂も平気で流されるのだ、と。


「王太子様って、エルテさんのドレスの事、どう思っていらっしゃるんでしょう?」

「さぁてね。私はマリアンナ様に依頼されただけだから、王太子のことは分からないわ。でも王妃様が受け入れられたなら、大丈夫よ」

「そうでしょうか?」

「ええ、男って母親の言うことにはなかなか逆らえないもの」

「そうなんですか?」

「そうなのよ」


 孤児院で育ったラトにはそれが分からなかった。五歳の頃からエルテの工房で働いていたが、周りは女ばかり。さらにたいていは未婚だから、エルテの言うことがいまいち分からなかった。

 分からなくともラトは針子だった。

 針子にできることは、今はただ、エルテが描いた意匠通りに布に色を縫い付けるだけだった。


 そうして、日夜ラトとエルテはドレスに糸を縫い付け、結婚式の一月前にドレスを仕上げ終えた。


「すごいわ。失彩だからこそ、描けた意匠ね」


 出来上がったドレスを前に、マリアンナは顔をほころばせる。


「何度も調整されておりますが、着てみませんか?」

「もちろんよ。完成されたのを一日も早く着てみたかったもの」


 マリアンナはメイドを何人も呼び、本番さながらの化粧をし、髪を結い上げ、そしてドレスを身につけた。


「わぁ……」


 ラトはエルテと共に、マリアンナの背後からその姿を見つめた。

 その華奢な背中に王国のこれからが背負わされるとはとても信じられない。乗せた途端に崩れ去ってしまうのではないか、重すぎやしないかと心配になった。

 しかし彼女のために仕立てられ、彼女のこれからの幸せ、王国の幸せを願って縫い付けられた数多の花は、誇らしげに咲き誇り、そして花嫁を輝かせていた。


 失彩のエルテが新たに作り出したドレスは、それまでのドレスとは異なる意匠だった。

 布地は真っ白な麻。柔らかく素朴な素材でありつつ、ふんだんに使ったことでマリアンナの健康的な体を強調させた。

 王族に嫁ぐ者はこれまで紺色の布地を必ず使っていたが、このドレスはそれを打ち破るものとなった。しかし紺色が使われていないわけではない。むしろ布地の白を覆い隠さんばかりに使われている。

 エルテはドレスに施される花の刺繍をすべて紺色にし、その刺繍に濃淡を付けることで陰影を描き出した。

 彩りは確かに無くなったかもしれない。しかし単色ながら迫力ある仕上がりとなっていた。


 姿見で全身を見つめるマリアンナ。

 その瞳は真剣そのもので、彼女越しに見つめるラトも彼女の言葉を、固唾を飲んで待つ。


「素晴らしいわ。エルテ、それにラト。あなたたちにドレスを頼んで本当に良かったわ。ありがとう」


 マリアンナは輝かしい笑顔と共に振り返る。


 そのとき、ラトはあの答えが分かった。

 その答えが今、目の前にあったのだから。

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