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「泉の水を浴びておりましたら。チリンチリンと、可愛らしい鐘の音が聞こえたのです」
湯浴みを終えた巫女エルティナは、温かいお茶を飲みながら、鐘の音がどのように聞こえたのか教えてくださった。
私が一角の魔獣と対峙したときに聞こえた音は、もっと乾いた重い感じがしていたから彼女が聞いた鐘の音とは違うのだろうか。
「重畳でございます。ほんの数刻で豊穣の巫女に足る資格を得られるとは、今年は良い年になりそうですね」
男性を恐怖する彼女を慮って、離れた場所に座っている神官が、頬をほころばせる。
時間が短いほど適性が高いということなのだろうか。正直に言えば、私は神祭における豊穣の巫女の役割はよくわかっていない、いや、もちろん一般的にいわれているものについてはわかっている。
豊穣の巫女という大役をまっとうした女性は、幸いを呼ぶと言われていて、結婚相手に事欠かないというのは知っている。それは縁起がよいとか名誉であるとか、その程度のものだと思っていたのだが。
神官の喜びぶりを見ていると、それだけではないように思える。
のんびりとした空気を裂くように、部屋のドアがノックされ、神官が応対に出た。
「申し訳ありません。巫女エルティナにどうしても会いたいとおっしゃる方が、お見えになっておりまして」
神官の肩越しに小柄な男性が、申し訳なさそうにへこへこと頭を下げているのが見えた。嫌な予感に、ドアと巫女エルティナの間に立つ。
なぜこの儀式のときに来訪がある? あったとしても、こんな所まで通されるものだろうか。とすれば、火急の用件なのだろう。そうでなければ、廊下を守っているはずの第一騎士団の騎士が通すはずもない。
「豊穣の巫女であるエルティナに御用とは、一体どなたですか」
「豊穣の、巫女、ですって? 本当に巫女になるべきなのは、わたくしですわ! お退きなさい!」
神官の問いかけに、キンと耳に痛い女の声があがった。異常事態に、腰に下げている剣に手を掛けて、いつでも抜刀できる構えをとる。
火急の用件、ではないようだな。
「あなたは……。候補を早々に外されたあなたが、どのような了見でこちらへ?」
神官の静かな問いかけは、口調の割りに厳しい内容だ。
「あんな、魔法の審査ひとつで落とされるなど、到底納得できるものではありませんわ! 再度、やり直すことを要求します!」
魔法? 候補者の選定に魔法が使われるのか。新しい情報を頭の片隅に留めながら、巫女候補だったという女性から目を外さない。
「そもそも、そこの彼女は一度婚姻した身ではありませんか。白い結婚などと嘯いてはいても、それが本当かなどわかったものではありませんわ。現に、ご主人は白い結婚だと認めていらっしゃらな――」
「お黙りなさい」
厳しい神官の声に、彼女の声が遮られる。
「最初に行われる魔法は、神殿に伝わる秘技。決して違えることのない、処女性を判ずる魔法なのですよ。大地の神は無垢なる者を尊びます。他者と深く交わりし者を巫女とすることは、大地の神の悋気に触れる。過去に大枚を積み、豊穣の巫女の座を手にした女性がおりましたが、その年は飢饉と災害が続き、国が傾くほどとなりました。当時、巫女の裁定に関わった神官は全員罷免され、それ以降、巫女を選ぶには厳正さを――」
「わたくしが、無垢ではないと、そうおっしゃるの?」
彼女の声音が変わった。
低く、絞り出すようなその声に、肌が震える。
血走った目が、こちらを睨む。
いや、私のうしろにいる巫女エルティナを、だろうか。
「あなたは無垢ではない、そう断言いたしましょう。速やかにここから立ち去りなさい」
神官の厳しい声に、彼女の目がギリとつり上がった。
次の瞬間、神官を押しのけてこようとした彼女に、私は素早く近づいて腕を掴み、後ろ手に捻り上げる。
「痛いっ! 離しなさいっ! ひぃっ!」
「何事かっ!」
悲鳴をあげた声に、廊下の警備をしていた騎士がやってきた。その時にはもう、私は彼女を床に引き倒していた。
「暴漢が侵入しました、そこにいる男を確保してください」
私が女を連れて来た小柄な男を捕まえてくれと第一騎士団の騎士に伝えるが、彼は私の言葉には従わず、そればかりか女を腕を捻り膝で押さえつけている私の肩を掴んで退けようとした。
「さっさと退かないか、第五の。貴様が触れることの叶わぬ身分のお方だぞ」
『第五の』――侮蔑が込められたその言葉と視線で、この男が敢えてこの女をここまで通したと理解できた。まさか、第一騎士団として、私の実力を見る為に試したのか……いや、豊穣の巫女が居るこの場でそれをするのは、騎士としてあるまじき行為だ。
じくりと頭のうしろが怒りで熱くなるものの、努めて怒りを表さぬようにゆっくりとひと呼吸し、騎士を見上げた。
「これは、あなたの差し金か? 第一騎士団所属、騎士ピルケス・オルドー」
「ふん、さすがに、私の名くらいは知っていたか」
本来であれば、豊穣の巫女の騎士を務めると目されていたのが彼だ。だが、私を見おろす侮蔑の表情を見てしまえば、彼が本当に巫女の騎士たり得るとは到底思えなかった。
「アーバイツ殿、気を失っているようです」
そっと近づいてきた神官に掛けられた言葉で手元に視線を戻せば、確かに膝の下で白目を剥いた女がいた。
さすがにやり過ぎたかと思い、横たわる女性をふわりと横抱きに抱き上げる。
無論、付与魔法の補助を使ってだ。
ふわりとしたスカートは嵩張り、彼女を支える手には、固いペチコートの感触がある。
盛り上げられた胸元はきわどい露出で、てんで巫女には見えやしない。
「ジェンド団長には、こちらからも報告をあげさせていただきますが、よろしいですね?」
女性を差し出しながらそう尋ねれば、騎士ピルケスは口元を愉快そうに歪める。
「団長が第五の言を、真に受けるとは思えんがな」
女性を受け止めようと差し出された腕に彼女を乗せれば、ガクリと彼の体が傾いだ。
騎士だけあって咄嗟に足を踏み出して堪えた彼だが、僅かに瞠った目で私を見た。
騎士が、女性を抱いて重いとは言えまい。
「なぜ私が巫女の護衛に付いたか、よもやご存じないとは思いませんでした。ジェンド団長には、通達不足をご報告させていただきます」
「知らされていないわけがなかろうっ。だが、私は――」
「知らされたうえでの、この体たらくだと? 栄えある、第一騎士団が?」
コレが、この国の王宮警護の要である第一線に配された人間なのか?
怒りで、目の前がくらりと歪み、ふらつかぬように両足に力を込め、怒気をそのまま目の前の男に向ける。
「ア、アーバイツ様……?」
か弱い女性の声に、意識が怒りから引き剥がされた。
そうだ、私がいま守るべき人は、背後に居る豊穣の巫女エルティナだった。なによりも彼女の心の安寧を優先せねばならない。
「エルティナ様、お騒がせして申し訳ありません。そういうことですので、騎士ピルケス、そちらの女性をよろしくお願いいたします」
「あ、おいっ」
女性を抱えたままの彼を部屋から押し出し、廊下で小さくなっている小柄な男を睨み付ける。
こっちの男は自分がやった罪を理解しているから、神殿に任せればいいだろう。
「二度目はありません」
騎士ピルケスが反論するまえにドアを閉める。
本当はもっと言いたいことがあったし、拳のひとつもくれてやりたかったが。
腐っても第一騎士団の騎士だ、容易に果たせそうにもないし、巫女エルティナがこれ以上怯えてしまってはいけないので堪えた。
どう取り繕ったものかと、振り向けば、神官が一歩前に出て深く頭をさげた。
「巫女エルティナ、騒がせて申し訳ありません。夕飯をご用意いたします、夕飯を取ったらすぐにお休み下さい。明日は朝から禊ぎがあり、その後、パレードがありますので」
「はい、承知しております」
神官の言葉に頷く彼女に、神官は頭をあげて微笑んだ。
「巫女エルティナが、歴代の豊穣の巫女でもかなりの早さで、豊穣の巫女としての資質を開花なさったお陰で、準備する時間に余裕があってありがたいことです。それでは、少々失礼をいたします」
神官はそう言うと、食事を用意しに部屋を出て行った。
いや、先程の小柄な男について、なんらかの処置をするために離席したのかもしれないな。
私も騎士ピルケスについて、話し合いたいところではあるが。
ここに彼女を一人きりにするわけにもいくまい。
「巫女エルティナ、温かいお茶をいれましょう」
「はい。あの、アーバイツ様も、ご一緒に……」
心細げな声に胸が痛くなり、固くなりそうな表情を努めて和らげ、微笑みを向ける。
「ではご相伴に預かります」
茶葉を入れ替え、魔法でお湯を温め直してゆっくりとお茶をいれる。彼女の前にカップを置き、その横に私も自分の分のお茶を用意して座った。
「ありがとうございます」
ぎこちない微笑みでカップを取り上げようとした彼女の手は震えていて、彼女は躊躇った末にカップを持つのを諦めた。
「駄目ですね、情けなくって。わたくし――」
自嘲気味に呟いて指先を温めるように自らの手を握る彼女の手に手を伸ばし、逃げぬその手をそっと両手で包み込んだ。
ああ、こんなに冷えて。どれ程恐ろしかったのだろう。
「駄目なことなど、なにもありませんよ。あなたは、素敵な女性だ」
自分の熱を移すように、彼女のちいさな手をさすりながら、彼女の潤んだ目を見つめる。
彼女の冷えてしまった指先を温めるように、冷えてしまったであろう心を温めるように。
「自信をお持ちください。神官殿も言っていたでしょう? あなたは豊穣の巫女の資格を得るのに、とても早くあられた。繁栄と豊穣を司る神が、あなたをお認めになったのですよ」
だから、どうかそんなに心を弱くしないでほしい。
冷たい頬に手のひらを滑らせ、もう片方の手で彼女の細い肩を抱き寄せる。
平均的な男性の身長程はある私の腕に、すっぽりと納まる小柄な体は、最初強張っていたものの、すぐに緊張を解いて私に凭れてくれた。
「わたくしの中に、もう自信などはないのです。だって、本当に、駄目なんですもの。父にも、夫にも必要とされず。一度結婚した身ではあるのに、こうして父の命令で、豊穣の巫女に名乗りをあげ……本来ならば、最初に落とされてしかるべきですのに、ここまで来てしまって……っ。きっと、父が無理やり--」
「それはありませんよ。貴族の権力は、神殿の深部には及びませんから」
いつの間に戻ってきたのか、食事の乗ったワゴンを押した神官が、穏やかな声で彼女の訴えをきっぱりと否定した。
「あなたが自分を疑うことは、神を疑うことです。心の傷が癒えるには時がかかりますが、どうか巫女でいる間だけでも、強くあっていただきたい」
「神官様」
神官の切実な声に、私の腕の中から顔をあげた巫女エルティナは、戸惑いに揺れる瞳で神官を見上げた。
その儚い様子は、同性であっても庇護欲がそそられるものだった。




