やすらぎの郷「ブレーメン」を目指して(中編)
ブレーメンに向かって歩き出した炉畑勝雄、犬崎靖、猫屋田タエだったが、桃源山への道のりは想像以上に長かった。普通の登山客でも桃源山の麓に着くだけで最低徒歩一時間はかかる道のりだが、老人ともなればその二倍はかかる。それでも三人は車一台通れるかという細い道を黙々と歩き続けた。ここで諦めたところで、今更引き返す道など無いとわかっているからだ。
タエの民宿を出発してから二時間半ほど経った頃、やっと桃源山の麓が見えてきた。桃源山を登るルートはいくつかあるが、まずは、昔登山客が使っていた一番登りやすいルートを目指すことに決めた。
そして、そろそろ昼食を取ろうか、というタイミングで、運良く小さな小屋が見えてきた。遠目から見ても人が住んでいる気配はなさそうな程、朽ち果ててトタン屋根がボロボロに剥がれ落ちている。念のため、三人の中で一番腕っ節に自信のある炉畑が先頭を歩き、その小屋の様子を割れた窓からそっと伺った。
「……誰もいなさそうだ。ここで少し休みを取りましょうか」
所々で少し休憩は取ったものの、昔よりもすっかり体力が衰えていた三人は、やっと腰を据えて休める場所を見つけられたことに安堵した。引き戸の扉はかろうじて体裁を保っていたものの、炉畑が左にスライドさせると、鈍く重たい金属音が響いた。
中は埃っぽく、薄暗いが、机が一つと椅子が四つ並んでいる。犬崎が水場にある蛇口を試しにひねってみたが、水道が出る気配は無い。
「ある程度タエさんの民宿から飲み物は持ってきましたが、もって一、二日でしょう。早く水を飲める場所を見つけないといけませんね」
犬崎は小さくため息をついた。タエはリュックから握ってきたおにぎりを炉畑と犬崎に渡し、三人は疲労感からかほとんど無言で昼食を取った。
その時だった。
「はーるをーあいする、ひぃーとぉーはぁ~」
と、男が大声で歌を歌うことが聞こえてきた。その声を聞くなり、三人に緊張が走った。こんなところで不審者に出くわしたら堪ったものではない。
しかも、その男の声は確実にこの小屋に近づいてくる。しかし、この小さな小屋には机と小さな水場があるだけで、ほとんど何も置かれておらず、隠れられそうなところも無い。
炉畑は何かあったら自分の責任だと、自分からその声の主に近づくことにした。恐る恐る、扉の方へと歩み寄って行く。犬崎とタエは、その様子をじっと後ろから見つめていた。
「こーころーきよきひーと~っ、……うわ!誰だお前!」
炉畑が扉から出るとの、男が小屋に入ろうとしたタイミングはほとんど同じだった。まさに鉢合わせという表現がぴったりの状況で、炉畑も男も驚いてその場で腰を抜かしてしまった。
「だ、誰だお前!」
男の声は恐怖で震えている。年齢は三人と大して変わらず、白髪交じりの老人で、作業服を着ていたが、その身なりはあまり綺麗とは言えなかった。
「す、すみません、私達、桃源山を目指しているものでして、この小屋に人が住んでいるとは思わなかったものですから、勝手に休憩をさせていただきました」
炉畑は震えそうな声を必死に堪えて冷静に状況を説明した。男は炉畑の言葉に、後ろの二人にも気付いたようだった。
「な、なんだ……そういうことか。驚いた」
男は立ち上がり、炉畑に手を差し伸べた。炉畑は一瞬警戒したが、悪い男ではなさそうな雰囲気だったので、素直に男の手を取り、立ち上がった。
「いや、珍客だ。まさか死ぬ前に人間に出会うなんて驚いた」
男は発言の内容と似つかわしくない明るい口調で大げさに手を挙げてみせた。
「……死ぬ?」
犬崎がその言葉に反応して思わず男に聞き返すと、男は、
「ああ、そうですよ、俺はここで死ぬつもりだったんです。ほら、机の上に、ロープ、置いてあるでしょう」
と言った。三人が一斉に机の上を見ると、犬崎の傍に確かにロープが置いてある。
「突然出会ったのに、失礼ですが、何故、死のうと……?」
犬崎は再び男に視線を戻して言った。
「事業に失敗したんですよ。老人がビジネスに首を突っ込みすぎたんです。詳しいことは聞かないでください。まあ、ここまで何も持たずに歩いてきて、それで最後に大声で歌ってやろうとその辺を歩きながら歌っていた訳です。特にここの住人でもありません。驚かせてすみませんでした」
そう言った男の腹の辺りが、大きく鳴った。男は恥ずかしそうに頬を掻いてうつむいた。
「いやー人間、死のうと思う時も腹は減るもんですね。恥ずかしい」
するとタエが、リュックからおにぎりを一つ差し出して、男のところまで持って行った。
「良かったら、食べませんか」
男はその手作りのおにぎりを見て、思わず瞳を潤ませた。そして鼻声で、
「いや、俺は、今から、もう死ぬんですよ」
と言った。しかしタエは男の手におにぎりを握らせた。
「食べてください。おにぎりが喜びますよ」
そう言うと、男は瞳から涙をこぼし、無言で頷いておにぎりのラップをほどき、思い切り一口を頬張った。
「……うめぇ……」
その様子を見ていた炉畑が、タエの横に並び、こう言った。
「私達はブレーメンを目指しています。どうせ死ぬなら、ブレーメンまで一緒に行ってみませんか?」
男は「ブレーメン」という言葉を聞いて目を丸くした。
「あの、ブレーメンですか?伝承の?」
「そうです。私達は本気で探しているんです。もしあなたにその気があれば、ですが。一人で死ぬか、成功して四人で暮らすか、それとも、四人で死ぬか、です」
男は立ち尽くして、炉畑の提案について真剣に考え始めた。
一人で死ぬか、成功して四人で暮らすか、それとも、四人で死ぬか……。
時間にして、一分くらいの沈黙が流れた後、男は、
「……それでは、俺も、一緒に連れて行ってください。お願いします」
男はおにぎりを持ったまま、頭を下げた。緊張感のある空気が解け、三人はホッとして心の中で息を吐いた。
「俺の名前は、丹羽酉夫と言います。こんな名前なんで、昔からニワトリって呼ばれてました」
「それでは、ニワトリさん、これからよろしくお願いしますね」
タエが微笑むと、男はありがたそうに何度も頭を下げて、残りのおにぎりを頬張った。
そして四人は、桃源山に向かって再び歩き出した。
*
桃源山の最もメジャーな登山コースに着いたのは、午後二時を回った頃だった。メジャーと言っても、朽ち果てた「登山コース」と書かれている看板が立っているだけで、後は手入れが行き届いていない道が上に向かって続いている。
「さて、これからどうしましょうか」
犬崎が言うと、炉畑は、
「ふと思ったんだが、普通の登山客が使うコースに果たしてブレーメンはあるだろうか?」
と神妙な面持ちで言葉を返した。
「そもそも桃源山は姥捨て山でしたから、簡単に人が降りられないようなとこにあるんじゃないでしょうか」
タエが言うと、三人は確かに、と頷いた。すると、タエの言葉に何かを思い出したように丹羽が、
「俺が小さい頃、ばあちゃんから、幻の集落を見つけた村人は、北から登って行ったって聞いたことがあるような気がする」
と呟いた。
「北、ですか。ここは方角的にはどこなんでしょうね」
犬塚は晴れた空を途方もなさそうに見上げた。
「確かこの登山ルートは、北北西だったはずだ。冬場は北側は雪が積もって閉山するくらいだから、あながち北から登って行ったっていうのも間違いないかもしれない」
炉畑は過去の小さな記憶を何とかたぐり寄せて答えをひねり出そうとしていた。
「炉畑さんの記憶どおりですよ、ほら、ここにうっすら『北北西』って書いてあります」
タエが登山ルートの看板の下に書かれている消えかかった文字を見つけて呟いた。
「それじゃあ、ここから北に向かって迂回して行って、それらしき道があればブレーメンにたどり着ける可能性があるっていうことか」
ブレーメンの手がかりが見つかり、四人の顔が明るくなった。
しかし、すぐに犬崎は悲観的に、
「いくら近くとは言え、今日着くのはさすがに無理そうですね。野宿はできるだけさけたいところです」と呟いた。
「そうですね。また小屋があれば良いのですが……」とタエも続いて不安を口にする。
「とりあえず、行かなければ何も始まらないですよ」
そう言って、炉畑は歩き出し、一縷の望みにかけて残りの三人も歩き出した。