やすらぎの郷「ブレーメン」を目指して(前編)
人間は誰しも年を取る。今まで出来ていたことが出来なくなり、見えていたものが見えにくくなり、体力は衰え、噛む力も次第に衰えていく。超高齢化社会を迎える日本は、元気な老人が増えているものの、老いに逆らえずに弱っていく老人も依然として多い。
とある田舎町に住む炉畑勝雄もその一人だった。かつては建設業の一人親方として働いていたが、六五歳の頃に足を骨折して以来仕事を引退し、娘夫婦の家に同居させてもらっていた。骨折を機に歩くのに時間がかかるようになり、高いところに登ることも困難になった。生きがいを失った炉畑は精神的にもどんどんと弱っていった。
炉畑には過去に家庭を顧みなかったせいで妻が他の男性と駆け落ちした過去がある。そのため、娘との関係も決して良好とは言えなかった。娘はしぶしぶ炉畑との同居を承諾したものの、幼い子どもを抱え、多忙な夫との関係がうまくいっていなかったこともあり、かつての炉畑への恨みと日頃の鬱憤を晴らすかのように、夫が居ない間、しばしば炉畑に罵声を浴びせ、食事も家族のものとは違う出来合いの食事を買ってくるという、一種の精神的な虐待を炉畑に対して行っていた。
ある日、炉畑はとうとうこの生活に耐えられなくなった。このまま年老いて死ぬのは耐えられない。足腰は弱くなったが、まだ歩いて行くことは出来る。炉畑は、遠い昔に母親から伝え聞いた「ブレーメン」という山村へ旅に出ることにした。
ブレーメンは、この町の外れにある「桃源山」と言う山の中に存在すると言われている。桃源山と聞くと響きは良いが、この山にはかつて姥捨山だったという暗い過去があった。しかし、ある日山登りに出かけた村人が、置き去りにされた老人が楽しそうに暮らしている様子を見て、以来、その山は「桃源郷」にちなんで「桃源山」と呼ばれ、集落は「ブレーメンの音楽隊」にちなんで「ブレーメン」と呼ばれるようになった。しかし、その村人が一度見たきり、他にそのブレーメンを見たものは居ないと言う。
そんな伝承を信じるのも炉畑は馬鹿馬鹿しく思えたが、もう自分には守るべき家庭も、未来も無い。だったら、そのおとぎ話に賭けて、無ければそこで野垂れ死ねば良い、そんな投げやりな気持ちになっていたのだった。
そして、炉畑は娘に遺書とも取れる簡単なメモ書きを残し、必要な道具と数日分の食材をスーパーで買い込んで、リュックに詰めてブレーメンへと旅立った。
桃源山に向かうには、数少ないバスを経由して行くしか無い。炉畑が住む田舎町は、一つのバス停に行くにも数十分かかる。中心部から続く長い一本道を時間をかけて歩き、何とかバス停へと着くと、そこには一人の老人が疲れ果てた様子でベンチに腰掛けていた。時刻表を見ると、バスが来る気配はまだ無い。炉畑はあまり世間話が得意ではなかったが、無言のままこの空間を過ごすのも気まずく、老人に話しかけることにした。
「……こんにちは。バス、来ませんね」
するとベンチに腰掛けた老人は疲れた表情を炉畑に向けて、虚ろに微笑んだ。
「そうですねぇ……」
炉畑はその老人の虚ろな微笑みに、何故か人ごととは思えない心地になった。
「失礼ながら、何かおありになったんですか」
「私ね、バスを待っている訳じゃないんですよ」
老人は炉畑から目の前の畑に視線を移し、遠い目をした。そして、一言、
「ただ、時間を潰しているんです」
と言った。炉畑にはその老人の言葉が胸に刺さった。ただ時間を潰すために、乗らないバスを待っている老人。この老人も孤独を抱えているに違いない。
「私は炉畑勝雄と言います。差し支えなければ、あなたのお名前は?」
「犬崎靖と言います。農家をやっておりますがね、跡継ぎの息子と意見が合わんもんで、私は追い出されてしまいました。本当はバスに乗ってどこか遠くへ行こうと思っているのですが、昔自分が築いたこの楽園を眺めていると決心が付かないのです」
炉畑は犬崎の視線の先を見つめた。この広大な畑は、どうやら犬崎のもののようだった。
「そう、ですか……。お辛いですね」
「炉畑さんはこれからどちらへ?」
「……お恥ずかしい話ですが、ブレーメンへ行こうと思っています」
ブレーメン、という言葉を聞いた瞬間、再び犬崎は炉畑を見た。犬崎はかすかに目を細め、懐かしむように何度か瞬きを繰り返した。
「ああ、ブレーメン……懐かしい響きですな」
「そんなものあるとは思えませんがね、私もあなたと同じような境遇なもので、この世界を抜け出して桃源郷へ行ってみようかと思うのです」
「ああ……、いつか私も、ぜひ行ってみたいものですな」
「それなら、どうですか、今、私と行きませんか」
犬崎は思いがけない提案に目を丸くし、膝の上に置いていた手を握りしめた。
「いえいえ、私は何のお役にも立てません、きっとあなたのご迷惑になるかと……」
「どのみちここに居ても何も変わらないのではないのですか。それはあなたが一番おわかりになっているはずだ。それに、一人より二人の方が、見つけやすいと思いませんか?」
炉畑は犬崎の横に座り、バスが来るのを待った。炉畑は犬崎が来なくても一人で行くつもりだった。犬崎は炉畑の提案に少し迷っているようだったが、バスが見えてくると、決心が付いたのか、「私も一緒に行きます」と行って、今まで見送ってきたバスに炉畑と一緒に乗り込んだのだった。
長い間バスに揺られ、終点まで到着すると、すでに辺りは暗くなっていた。今日は桃源山には行くことが出来そうに無い。遠い記憶では民宿がいくつかあったはずだが、ほとんど潰れて無くなっており、唯一、一軒の民宿が明かりをともしているだけだった。その民宿はとても人が入りそうに無い、あまり綺麗とは言えない外観だった。しかしここで野宿する訳にも行かず、炉畑と犬崎はその民宿ののれんをくぐった。
「いらっしゃいまし」
出てきたのは一人の老婆だった。民宿の受付は質素で、室内は薄汚れた赤い絨毯に所々剥がれ掛けた壁紙、茶色の革の椅子も少し埃が溜まっており、想像以上に古い雰囲気を醸し出していた。しかし、それは炉畑と犬崎にとって、かえって昔にタイムスリップした気分にさせるのだった。
「二人なんですが、泊まれますか?」
炉畑の問いかけに対し、老婆は玄関に立つ二人の前まで歩いて頭を下げた。
「ええ、もちろんでございます。今日のお客様はお二人が初めてです。昔は桃源山に登る人が中継地点の宿として利用されておりましたが、今はそのような方もほとんどおりません。それに、この通り、もう私も民宿も年老いておりましてね、実は今日でこの宿を閉めようかと考えていたところなのです」
炉畑と犬崎は老婆の告白に顔を見合わせた。
「……そうだったんですか、申し訳ありません。」
「ああ、どうか暗い顔をなさらないでください。温泉も料理もありますから、どうぞごゆっくりおくつろぎください」
老婆はそう言うと、跪き、靴を脱ぐように勧めた。二人は老婆の言葉に甘えることにし、靴を脱ぎ、そして簡単な記帳を済ませた。老婆に案内された和室は質素だったが、ブラウン管のテレビと、ちゃぶ台、簡単な冷蔵庫は完備されていた。
「お食事はいかがなさいますか」
「出来ればすぐに持ってきていただけますか」
「ええ、かしこまりました。その間、温泉をお楽しみください」
老婆の提案に従い、炉畑と犬崎は離れの温泉に入ることにした。桃源山の近くには、数少ない温泉が湧き出る場所があり、この民宿はその温泉を引き当てた運の良い宿であったようだった。
炉畑と犬崎は他愛の無い会話、何より昔の自分達の話をして盛り上がり、温泉を存分に楽しんだ。それは、もしかしたらこれから死ぬかも知れないという恐怖を打ち消すためでもあった。
温泉から上がり、二人が部屋へ戻ると老婆がすでにちゃぶ台の上に夕食を用意して待っていた。豪華とは言えないものの、白米に味噌汁、そして近辺で採れたと思われる魚の煮付け、お新香、ビールが用意されており、二人の食欲をそそった。
「質素で申し訳ありませんが、何せ今日で宿を閉めるものですから」
老婆はちゃぶ台の横で正座になり、深々と頭を下げた。
「いえいえ、とんでもない。料理を用意してくださっただけで感謝しております。ありがとうございます」
犬崎が恐縮したようにお辞儀すると、炉畑が、
「良かったら、食事をご一緒しませんか?」
と老婆に提案した。
「いえいえ、そんなお客様のおくつろぎの時間を邪魔する訳には……」
「良いんです。私達、これからブレーメンに行く予定なんですが、到底一日でたどり着けるところではありません。まさか民宿がこんなに無くなっているとは思わなかった。でも、あなたの宿があって本当に助かりました。ぜひ、一緒に食べてもらえませんか」
炉畑の提案に、犬崎も頷いた。
「そうしましょう、ぜひ一緒に」
そう言うと、老婆は皺だらけの顔をゆるめて微笑んだ。
「……ありがとうございます。では、そうさせていただきます」
それから、老婆は自分の分の食事も持ってきて、三人で食事を取った。老婆の名前は、猫屋田タエ(ねこやだ たえ)と言い、五十年以上前からこの民宿を経営していると言う。昔は母親や父親、姉も居たが、三人とも自分より先に逝ってしまい、それからは一人で何とか細々と暮らしてきた。しかし、かつてはそれなりの登山客が居た桃源山も、観光客は減る一方で、周りの民宿は軒並み店を閉め、そしてタエの民宿も経営難に陥った。タエは、これからどうしようか、途方に暮れているという。
その話を聞いた炉畑は、タエに自分達と一緒にブレーメンを目指すことを提案した。犬崎同様、最初は戸惑っていたタエも、どうせこのまま孤独に過ごすのなら、とその提案を受け入れ、民宿に残っている食料を手分けして三人で持って行くことにした。
次の日、タエは「長い間ありがとうございました」と民宿に札を立て、三人は桃源山へ向かって歩き出した。そしてそれは、長い一日の始まりだった。