弐 イケメン無罪
体感時間から考えて、すごい高さから自由落下したにもかかわらず、干し草の上に落ちたせいか、痛みはほとんどない。
しかし、これまでにないレベルで命の危機を感じている。
「お前、何者だ」
やわらかな木漏れ日をバックに、筋骨隆々の男が私に銃を突き付けている。
これはライフルだろうか。名前はわからないけれども、ごつい銃だ。逆光で男の顔は見えない。
着地してまだ五秒も経っていないというのに、この状況。夢だろうか。
しかし夢にしては感触があまりにリアルで、干し草の香りも、降り注ぐ木漏れ日の眩しさも、死の恐怖による体の震えも、虚構であるとは思い難い。
あらゆる全てが非現実的、非日常的で、さっと血の気が引いていく。
「聞いてんのか」
男が声を荒げる。銃が改めて構えなおされ、額に銃口がぴたりと当てられた。
何が起こっているのかよくわからない。しかし、私はここで死ぬらしいという、それだけはわかる。
結婚間近かというところで失恋し、逃げ帰った実家で黒歴史を発掘し、悶えた直後、よくわからないところで素性の知れない男にいきなり殺される。
散々な人生だったとは言わないけれど、せめて幸せな気持ちで最期を迎えたかった。
恐怖と惨めさとで泣けてくる。涙がぼろぼろと溢れては頬を濡らしてこぼれていく。銃を突きつけられて身動きが取れないので、拭うことはできない。
夢なら早く覚めてほしい。
本当に死ぬなら、最後にもう一度両親に会いたい。
そしてせめて、ノートを処分してから死にたかった。
私は諸々の後悔を胸にしまい込み、目を閉じて死を覚悟した。
「おい、ちょっと」
しかし、殺されるという予想に反し、男は狼狽え銃を下ろした。
思わず、私は目を開けた。目に溜まっていた涙が流れていき、視界が多少、クリアになった。
「泣くなよ、悪かったって」
男は私の目線に合わせて屈むと、戸惑った様子で私の顔を覗き込んだ。
すると、風で木々がさらりと揺れ、男の顔があらわになった。
短くツンツンとはねた硬そうな黒髪。褐色の肌。深い緑色をした切れ長の目。すっと鼻筋は通って、唇は程よく厚い。精悍な顔つきのイケメンだ。
イケメンはぼろ布を差し出し、「女に泣かれるのが一番苦手なんだよ」と呟いて、私から目を逸らした。
「ありがとうございます」
精一杯声を絞り出してお礼を言い、ぼろ布を受け取った。さすがにこんなぼろ布で目を拭くのは衛生的に不安なので、イケメンが向こうを向いている間に手と袖で涙を拭った。
どうやら私は助かったらしい。泣き落としをしたようで釈然としないけれども、殺されなかったのだから結果オーライということにしておく。
「まあ、これくらいで鼻水垂らして泣くような女が悪人だとは思えねえからな」
大きな銃を突き付けておいて、これくらい、とは聞き捨てならない。あんなの取り乱して当然だ。
しかし相当見苦しい姿を見せてしまったのは事実なので、口答えせずに鼻をすすった。
落ち着いてきたところで、改めて周囲を見回してみた。背の高い木々が生い茂り、鳥の鳴き声がかすかに聞こえる。林と呼ぶべきか、森と呼ぶべきか。とにかく緑が深い。
どうやら私は彼が御する馬車の荷台に落ちたらしい。二頭の馬がこちらを見ながら、大人しく主人を待っている。
馬車なんて生まれて初めて目にした。このご時世、馬車なんてものは観光地ですら見かけない。
やはり、何かがおかしい。何とも説明が難しいけれども、敢えて言うならば世界が違う。日本語で会話ができるのが、不幸中の幸いか。
あまりの異様さに思考が停滞する。おかしい、変だ、ここはどこだ。頭に疑問が浮かび上がっては、考える間もなく叩き落とされていく。
「その服、ラファールの学生か?」
私を一瞥すると、男は言った。
服、と言われて、思わず自分の格好を見やる。先程までパジャマを着ていたはずなのに、白いフリルのブラウスに装飾の施された黒いベスト、濃紺のハイウエストスカート、そして黒のニーハイソックスを履いている。足元は編み上げの黒いショートブーツだ。
少しコスプレのような感があるけれども、確かに学生の制服のようだ。二十五歳でこれは、なかなかキツいものがある。
やはり夢だろうか。
しかし、なんとなく既視感がある。
それにこの男の容姿、格好も、見たことがあるような気がする。
くすんだ赤いマントをまとい、裾がぼろぼろの白いタンクトップ、ダークブラウンのパンツはだぼっとして動きやすそうだ。ベルトがガチャガチャとついたブーツを履き、ブーツと同じ色のボディバッグを身に着けている。
「ついでに連れて行ってやるよ。立てるか?」
男は私が学生であるという前提で話を進めている。若く見られるのはあまり悪い気がしないけれど、今は喜ぶ余裕がない。
「しょうがねえな」
何も言えずに黙っていると、男は私の横につき、軽々と私を横抱きにした。
「え、あの、ちょっと!」
反射的に体に力が入る。がっしりとした男らしい体つき、その感触が服越しに伝わり、一気に心拍数が上がってしまう。私を持ち上げたまま、男は馬車の前方に回ると、先程の恐ろしい所業からは想像できないほどに優しく、私を地面に降ろした。
「干し草は家畜の餌だからな。自分が人間だと思うなら御者台に座れ」
言い方は厳しいけれども、声色は優しく、柔らかくなった。
二人御者台に並んで座ると、男は手綱を取り、馬車を進めた。馬車は草を踏み分け、道なき道を進んでいく。
心臓がどくどくとうるさい。男に言われるがまま馬車に乗ってしまったけれど、これでいいのだろうか。馬車なんて前時代的という言葉で言い表せないくらい、前時代的だ。車はないのだろうか。
「車じゃなくて、馬車なんですね」
あくまで世間話の風を装って聞いてみた。
声が震えるのは悪路のせいで、寒気がするのは日陰なせいで、涙が出そうなのは先程殺されかけたせい。きっと舗装された道に出れば、車が走っているのだろう。
そう思いたかったのだけれど。
「は? クルマ? 何だそれ」
男は何を言っているのかわからないといった様子で答え、淡々と馬車を走らせ続ける。本当に知らない言葉を聞いたという風で、彼が嘘をついているようには見えない。
冷水を浴びせかけられたように、一気に体が冷えていく。
嫌な予感はしていた。
しかし、簡単に認めることはできないし、認めたくはない。できることならば。
「どこに向かってるんですか?」
「ラファール学園だよ。そこから来たんだろ?」
男は何を当たり前のことを聞いているんだ、という顔をする。
「ここはどこなんですか?」
「クーバの森だけど」
「あなたは誰なんですか?」
「誰でもいいだろ」
次から次へと投げかける質問に、男は面倒くさそうに答える。
自分の置かれた、正確な状況を知りたい。しかし、何を聞いても一つもわからない。恐怖と不安と焦燥感で、本格的に体がガタガタ震えだす。これは悪路のせいではない。
ライフル。干し草。馬車。RPGの旅人のような服装。消えたパジャマと、いつの間にか着ていた制服。知らない地名と、車を知らない男。
比喩ではなく、文字通り、ここは異世界であるらしい。
「お前、何なんだよ」
矢継ぎ早に質問したのが悪かったのか、いきなり黙り込んだのが悪かったのか、男は手綱を緩めてこちらを向いた。
「木の上から降ってきたかと思えば、俺のことジロジロ見てるし、わかんねえ言葉使うし、ここがどこかもわかんねえときた」
馬車が完全に止まって、風が私たちの間を吹き抜けた。深い緑色の目が、その中心にガタガタ震える私を捉える。
「何者だ? どこから来た?」
鋭い視線に射貫かれて、私は既に死にそうだ。今度こそ、殺されるのかもしれない。
「宮城県、仙台市」
絞り出した声は、思いの外か細かった。
「何だそれ。どこの国だよ」
彼は怪訝そうに眉を顰めた。
宮城県を知らない。ということは、ここはやはり、日本ではないのだろう。
「日本」
絶望的な思いで答えると、案の定、「二ホンか。聞いたことのない国だな」と、男は答えた。
視線や仕草、一つ一つを見る限り、私をからかっているようには見えない。彼は本当に知らないのだ。思わず固く拳を握る。
「ここは、何という国ですか?」
「お前、頭でも打ったのか? フィリアフォーゼン王国だろう」
男は呆れたように言った。
私はというと、本当に頭を打たれたような衝撃が走った。
フィリアフォーゼン。私が書いた物語、先程発見したノートのタイトルだ。
まさか、あの世界に入ってしまったとでも言うのだろうか。魔法が存在する、あの世界に。
しかし仮にそうだとしたら、私が着ている制服やこの男の容姿、格好に既視感があるのも合点がいく。全て、私が生み出したものなのだから。詳細が思い出せないとはいえ、全く知らない世界ではなかったことに、私は少々安堵した。
「お前、悪魔でもとり憑いたのか?」
「どうなんでしょう」
状況が複雑すぎて、一から十まで説明できる気がしない。男の言う通り、憑かれたかのように見せかけて、状況を探った方がよさそうだ。
「とりあえず、学校に行ってみるか」
私の沈黙から何かを察したように、男は再び馬車を走らせた。
森を抜けても道は舗装されておらず、馬車は時折大きく揺れる。まるで田圃と田圃の間を走る砂利道のような道である。
できることなら昔の私に伝えたい。こんな道で馬車に乗るのは苦行だと。
とりあえず、物語の中に入り込んだらしいことはわかった。しかし、この男の名前や設定がどうしても思い出せない。名前さえ思い出せれば、属性くらいはわかる気がするのだけれど。
シャーマ、オルヴァー、ティエーラ、リュミエール、フィンスターニス。思い浮かんだ名前を当てはめては打ち消す。どれもどことなく違和感がある。
そして、こんな名前がポンポンと浮かんでくる私自身にも、若干引いてしまう。
「名前、何だっけ」
自分にドン引きしながらもあれこれ考えていると、つい思っていたことが声に出てしまった。
「俺か? まだ名乗ってねえよ」
しかもばっちり聞こえていて、羞恥心が込み上げる。
「フランメールだ。フランでいい」
しかし彼が素直に答えてくれて、少し心が救われた。
フランメール。すとんと腑に落ちるようにしっくりきた。確かにそんな名前を付けた気がする。彼はおそらく火属性だ。名前の由来は炎のドイツ語かイタリア語か、そのあたりだろう。
中二病当時の私の思考が、手に取るようにわかって辛い。
「お前は?」
内心でもだもだと悶えていると、不意に私のことを聞かれ、思わず心臓が跳ねる。
まあ彼に名乗らせたのだから、私も名乗らなければならないのは当然と言えば当然か。
フランメールはおそらくファーストネーム。ということは、私も下の名前を答えるべきなのだろう。普段通り「涼風です」と答えたい気持ちをぐっと抑えて、「夏です」と答えた。
最近は下の名前を自分から名乗ることはめっきり少なくなったので、なんだか新鮮で、緊張して、ドキドキする。
しかしそんな私のドキドキをよそに、フランは笑いながら、「夏か。暑そうな名前だな」と言った。
この世界に来て初めて、彼の笑顔を見た。その笑顔は思わず見とれてしまうほどに眩しく、大きく胸が高鳴る。
さすがは私が創り出したキャラクター。私好みのイケメンである。
「ひどーい」
胸の高鳴りを打ち消すように笑いながら文句を言うと、
「でも、風が吹き抜けるような爽やかさがあって、俺は嫌いじゃない」
フランはさらりとそう言ってのけた。
私はこっぱずかしくて赤面してしまい、彼の顔を見ることができなくなってしまった。確かにフランの見た目は好みである。しかし今の言葉はキザったらしくていただけない。
これに関しては、中二の私に物申したい気分である。
しばらく馬車を走らせていると、街が見えてきた。
街はこれまで見ていた景色とはまるで別世界で、石畳が敷かれ、花に彩られ、人の往来もある。建物は石造りで、いわゆるヨーロッパの綺麗な街並、といった印象。
そういえば街の風景は、参考資料を探してまで細かく描き込んでいたような気がする。その労力を少しでも、街の外に向けておけばよかったと今更ながら非常に後悔している。悪路のせいでお尻が痛い。
「あれが学校だと思うけど、どうだ? 何か思い出したか?」
そう言ってフランが指したのは、まるでお城のような建物。三角屋根のついた塔がすらりと雲を刺すように伸び、ステンドグラスが壁面を飾る、赤茶けた煉瓦造りのそれには見覚えが、いや、描き覚えがある。
「ちょっと思い出したかも」
私が誰として転移したのかはわからない。しかし制服を着ている以上、私は学校に行くべきなのだろう。
「そうか、よかったな」
フランは安心したように優しく微笑み、私の肩を軽く叩いた。
フランの手を借りながら馬車を降りていると、私と同じ服を着た女生徒が全速力で走ってきた。
「ちょっと、どこ行ってたの!」
そう言って彼女は、来るやいなや私の手を掴んだ。そして力強く私の手を引くと、「もう通達の儀式始まっちゃうよ!」と言って、元来た道をこれまた全速力で引き返す。
私はわけもわからず、手を引かれるままに走り出してしまう。
「夏! もう変なとこほっつき歩くんじゃねえぞ!」
「はい! ありがとうございました!」
粗暴で優しいフランの声を背に、戸惑いながらも私は、学校の中へ足を踏み入れた。