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壱 黒歴史ボックス

 咄嗟に浮気男の頬を引っ叩けるほど、私は強くなかったらしい。

 在学中から付き合って四年。そろそろ結婚の話でも出るだろうかと思っていた矢先のことであった。


 今年のクリスマスはイルミネーションを見に行こうと約束していた。当時の私は、おそらくそこでプロポーズされるだろうとあさましくも踏んでおり、最近の恋人のよそよそしさも、連絡がつきにくいのも、私に内緒で指輪でも用意しているのだろうと、呆れるくらい前向きに考えていた。


 三日前。彼へのクリスマスプレゼントを買いに一人、丸の内へと出かけた。三年前にプレゼントした財布がそろそろボロボロになってきたので、新しいものをと思ったのだった。彼を信じ切って幸せな未来を思っていたこのときが、幸福の絶頂だったのかもしれない。クリスマスの装飾に溢れる街が私を祝福しているように感じて、足取りは非常に軽やかであった。


 何時間もかかって納得のいく財布を選んだ私は、達成感と幸福感で鼻歌でも歌わんばかりの上機嫌だった。今思えばここで帰っておけばよかったものを、完全に浮かれきっていた私はイルミネーションの中をスキップでもするように歩いていた。すると人ごみの中に、恋人の姿が見えた。

「良樹!」

 四年付き合った、後ろ姿でも見間違えるはずのない愛しい人。何の気なしに声をかけ、そのまま駆け寄ると、人ごみのせいで見えていなかった「お連れ様」が目に入った。そのお連れ様は、彼と仲睦まじく手を繋いでいた。


 金髪に近い茶髪。カラコン入りであろう黒目がちの目。赤いリップ。ふわふわのピンクのファーコート。私より若そうな女の子であった。そして彼と繋がっていない左手には、アクセサリーショップのショップバッグが私を見下すようにぶら下がっていた。

「誰? お友達?」

 ばっちりメイクの女は猫なで声で言った。彼は何も答えない。

 乾いた空虚な時間が流れ、冷たい空気が重くのしかかってきた。

「ええ」

 重苦しい沈黙を破ったのは、彼ではなく私だった。

「大学の同級生ですー、初めましてー。彼女さんですか? っていうかそれ指輪? プロポーズ? まじで? うわ、すっごーい!」

 矢継ぎ早に言葉を繰り出し、どちらにも何も言わせなかった。瞬き一つせず捲し立てる私は傍から見ても異様だったのだろう、通行人がちらちらとこちらを見ていたのがわかった。

「お幸せに!」

 そう言って最後に彼の顔を見たけれど、視界がゆらりとぼやけて人の形には見えなかった。


 イルミネーションのオレンジの光が眩しすぎて目に痛く、かといってヒールで走ることもできず、私は下を向いてとぼとぼと歩くほかなかった。つい先程まで祝福してくれていた街中のデコレーションもすっかり他人の顔をして、どん底まで落ちた私の心を刺々しくはねのけていた。


 彼は追いかけるどころか電話やメールの一本も寄越すことはなく、四年という月日がまるで夢であったかのように呆気なく、私たちは終わった。


 次の日は泣き腫らした目とぼうっとした意識のせいでまるで仕事にならなかった。同僚や上司から大層心配され、この忙しい時期だというのに有給を取ることを勧められたので、お言葉に甘えてその日のうちに実家に逃げ帰った。


「よかったね、そんな人と結婚しなくて」

 泣きながら洗いざらいぶちまけると、母は静かにそう言った。しかし、この怒りなのか悲しみなのかどちらともつかない胸の苦しみ、喪失感、絶望感。これらはどう落とし込めばいいものか。

 布団にもぐって感情のままに涙を流し続け、なぜ泣いているのかわからなくなってきた頃、やっと私は眠りについた。


 翌日。起きた頃には昼はとうに過ぎていた。

 のそのそとリビングに向かうと朝食が用意されており、その横に母の置手紙があった。

「寝てても遊びに行っててもいいけど、年末までに自分の部屋の掃除はすること」


 美容部員として働き始めてからというもの、大型連休は繁忙期、土日の休みはほとんどなく、年末年始も帰って来られない状態だった。学生の頃も遊び歩いてばかりだったので、まともな大掃除など何年ぶりだろうかというところだ。

 どうせやるなら心機一転、捨てられるものは全部捨てて、未練も悲しみも一緒に捨ててしまおう。硬くなった焼き鮭と卵焼きを頬張りながら私は、この有休をフルに使った掃除計画を立てた。


 朝食を平らげ部屋に戻ると、まず手始めに何年もろくに開けていなかったクローゼットを開けた。

 クローゼットの中身はまさに魔窟と言って差し支えない惨状で、小学生の頃の服や高校までの教科書、幼稚園の頃に遊んだリカちゃん人形なんかが雑多に詰め込まれている。これらを全部出して選別すると思うと気が遠くなりそうだ。

 しかし時間はたっぷりあるのだから、今のうちにやっておかなくては。そう自分に言い聞かせながら、手前のあれこれを引っ張り出した。


 服や教科書をあらかた出し終えると、奥の方に小さな段ボール箱が見えてきた。気になって引っ張り出してみると、何が入っているのかは特に書かれておらず、隙間なくぴっちりとガムテープで閉じられている。そしてやたらと重い。中身は本だろうか。

 いつ、何をこの中に封じ込めたのか、まるで記憶にない。そもそも私がしまったのだろうか。全く覚えがないけれどもこのままでは捨てていいものなのか判断がつかないので、開けてみることにした。


 何年モノなのだろう、粘着部分がベタベタしていてテープが剝がしづらい。それによく考えれば何年も開封していなかったわけで、そんなものが今後必要になるとは思えない。中身を見ずに捨てればよかったと半ば後悔しながら、しかし中途半端に開けるのはなんとなく癪に思い、無理やりに開封した。


 箱の中身はたくさんのノートであった。段ボールいっぱいにぎっちりと詰め込まれている様は圧巻、規格外の重さにも納得できる。何のノートだっただろうかと手を伸ばしたその瞬間、忌まわしい記憶が蘇った。

 これは確か、中学生の頃にせっせと書き溜めていた、漫画と、小説と、その設定資料集。


 あの頃、私は少年漫画にハマっていた。中でも能力バトルものが好きで、自分もある日いきなり何かしらの能力に目覚めないだろうかと思っていたものだった。

 そしてその願望を、こうしてノートに書き綴っていた。

 そのうち二次創作では飽き足らず、一時創作まで始めてしまったものだから、ノートの冊数は次から次へと増えていき、段ボール一箱分にまで成長してしまったのだった。


 奇声を上げたくなるのをぐっと堪えつつ、やり場のない羞恥心をベッドを殴って解消する。顔が熱い。きっとリンゴのように真っ赤になっているだろう。


 黒歴史段ボールの中から一冊、手に取ってみた。表紙には気合の入った謎の書体で「フィリアフォーゼン叙事詩」と書かれている。

 開くのが怖い。しかし、開かずとも段々思い出してきた。


 書いていたのはファンタジー系の話で、登場人物たちは皆、魔法が使える。王国を救うために旅をしていて、主人公は魔法使いの紅一点、周りは全員イケメンという、いわゆる逆ハーレム。それでもって主人公に私自身を投影していた。

 ノートを掴んだ手が小刻みに震える。

 恥ずかしい。これは恥ずかしい。恥ずかしすぎて開けない。誰にも見つからないように処分しなくては。


 可燃ごみの袋を取りに行こうとした、その時。玄関から鍵の音が聞こえた。母が帰宅したのだ。

「ただいまー。夏、どこいるー?」

 母はどさりと荷物を置くと、そのまま階段を上り始めた。

 私の部屋は階段を上がってすぐだ。

 このまま来られては、ノートが見られてしまう。

 私は部屋に駆け込み、床に放っていたノートを段ボールに押し込んだ。

 押し込んだ、はずだったのだけれど。

 ノートが詰まっていたはずの段ボールの中は真っ暗闇で手ごたえがなく、押し込んだ勢いそのままに、私は段ボールの中へと吸い込まれ、重力に従い落ちていった。

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