きっと、キャット
夜中、親戚がみんな寝静まった頃に、僕は祖母のママチャリをこいで、近所にある「ネバーランド」というバーへ向かった。
店に入ると、年配のお客が数人と、グラス磨きに精を出すマスターの姿があった。
長身で筋骨隆々のマスターがバーの制服に身を包んでいるのは、アメリカンコメディのワンシーンのようだ。
僕がカウンターにつくと、マスターがこっちを向いて、白い歯を覗かせた。まるでイタズラ盛りのこどもみたいで、思わず顔がほころんでくる。
「久しぶりじゃないか、E.T.」
「クマさんも元気そうでなにより」
映画好きのマスターは、いつも僕のことを名前ではなくイニシャルで呼ぶ。
だから僕も、心優しく、体格がよく、オマケにハチミツが好きなマスターのことを、揶揄するようにクマさんと呼んでいた。
「おいおい、店の看板を見たか? ここはネバーランド。店主である私は、さしずめピーターパン、ってところだ」
クマさんは帽子のつばを押し上げるように、人差し指を顔の前で突き上げた。
「こどもの楽園でお酒売っちゃ駄目でしょ」
僕がからかうと、クマさんは右の眉を吊り上げ、ミルクを入れたグラスをよこしてきた。ほのかに甘い匂いがする。
「ハチミツ入り?」
「疲れているときは、美味しいもの、特に甘い物をとるか、睡眠をとるのが一番だからな」
「クマさんはいつも寝てばかりだろ」
僕は人差し指をクマさんに向ける。
「冬に長期間泊まりにきたときなんか、仕事しているとき以外はずっと寝ていたぐらいだし」
「私はクマだからな、冬眠ぐらいするさ」
クマさんが肩をすくめる。
「それに、大人の世界は世知辛い。夢でも見てないとやってられないよ」
「だね」
僕も頷く。
「世知辛いといえば、オバタリアン連中との会合はどうだった?」
「オバタリアン? ああ、おばさん達のことか」
今日の叔母や祖母とのやりとりを思い出した僕は、思わず顔を歪ませた。
「どうもこうもないよ、あれは。彼女達が一方的に喋っていたのを、僕が無理やり聞かされていただけだし」
「会合に出かけて迎合してたと」
「オマケに、話の内容も愚痴だとか陰口だとか、そういう下世話な話ばっかりでさ。本当、酒でも飲まないとやってられないよ」
僕はグラスに口をつけ、中のミルクを一気に飲み干し、クマさんの方に差し出す。クマさんはそれを受け取ると、再びミルクを注いで僕によこしてきた。
「そういえば、前にニュースで食品の産地偽装が問題になっていたな。よくよく考えると、我々大人の世界は偽装ばかりだ。表じゃいい顔してるけど、裏はドロドロ」
「本音と建前を使い分けたり、空気を読むのも大事だけどね」
僕が模範的解答を返すと、クマさんはため息をついた。
「空気は読むもんじゃない、吸うもんだ。お口ミッフィーちゃんなんて、窮屈でゴメンだね」
「大人がカッコ悪いから、幻滅したこどもが非行に走るんだ」
僕は揶揄するように、クマさんを指をさした。すると、クマさんは急に真顔になって、僕を射抜くように見つめてくる。
「だけどな、何事も偽装されていることを知らなければ、世の中みんなハッピーでいられるんだ」
クマさんが人差し指を立てる。
「シュレーディンガーの猫って知ってるか?」
僕は首を横に振る。
「思想実験の名称でな。簡単に説明すると、一匹の猫が入った箱がここにあるとする。箱は透明じゃないから外から中身を確認することはできないし、鍵がかかっているから開けることもできない。つまり、観測者は箱の中の猫が生きているか死んでいるかわからないから、この時点において、箱の中の猫が生きている世界と、箱の中の猫が死んでいる世界、二つの世界が同時に存在しているってことなんだ」
「それとさっきの話がどう繋がるの?」
僕は首をかしげる。
「物事は考えようだってことさ」
クマさんがウインクする。
さっきまでの真摯な表情はどこに行ったのやら、顔をくしゃくしゃにして、こどものように笑っている。
「要は、物事の真偽を確かめなければいいんだ。閉じている箱を開けなければ、観測者は中身を好きなように想像できる。人が褒め言葉を言ってくれたら、それがお世辞か本音か探らずに、素直に本音だと思い込んでいればいい。事と次第によっては、きぐるみに中の人なんていないし、サンタクロースは実在する。夢の国はどこかにあって、ピンチの時にはスーパーヒーローが助けてくれるさ」
「僕のグラスに注がれている白い液体も、ミルクに見えるだけでお酒だったりするのかな」
「かもしれない」
クマさんが頷く。
「私から見たE.T.が、本物の宇宙人だって可能性もある」
「それはないよ」
僕は首を横に振った。
「オバタリアンがわざわざ会合しにやってきているぐらいだからな。君は宇宙人に違いない。そのうち、プレデターだって君に会いにやってくるさ」
「オバタリアンはエイリアンの仲間じゃないって」
「オバタリアンやプレデターに板挟みにされた君はこう言うだろう。『E.T.おうちに帰りたい!』」
クマさんが芝居のかかった声で高らかに言うので、僕は笑った。
ネバーランドは今日も平和だ。
祖母の家に帰る途中、僕は不思議な光景に出くわした。
自転車で走っていると、背後から呼び止められたので、ブレーキをかけて後ろに振り向くと、青いネコのきぐるみが立っていたのだ。
きぐるみはきぐるみらしからぬ身軽さで駆け寄ってくると、僕に右手を差し出してくる。見覚えのある財布が握られていた。
「これ、落としましたよ」
ネコは張りのある低い声でゆったりと喋った。どうやらオスネコらしい。
彼は、突然の事態を上手く飲み込めず、目を丸くしたまま立ち尽くしている僕の手に、持っていた財布を握らせた。
しかし、渡された財布があまりにもパンパンに膨れていたので、不信感を覚えた僕は、「これは本当に僕が落とした財布なんですか?」と彼に尋ねた。
「自分の財布も見分けがつかないの?」
彼は丸々とした目を僕の方に向けた。
「でも、君がこれを落としたのは間違いないよ。ちゃんと後ろから見てたもの」
「そうですか」
フランクな口調で、旧友のように話しかけてくる彼に、僕は妙な懐かしさを覚えた。
財布が膨れ上がっているのは腑に落ちないが、彼が嘘をついているとも思えない。僕はひとまず、財布をポケットにしまうことにした。
「ところで、少し聞きたいんだけど、どこか小さなお子さんがいる家を知らないかい?」
「こどもがいる家?」
僕が首をかしげると、彼はサンタクロースが背負っているような白く大きな袋をどこからともなく取り出した。
「僕は、こどもに夢を配っているのさ。大人は、こどもに夢を見せるのが仕事だからね」
彼はもこもことしたきぐるみ特有の手で、袋を指差して、この中には夢が詰まっているのだ、と僕に教えてくれた。今にも破裂しそうなくらいぱんぱんに膨れていて、ずいぶん重たそうに見える。
「君はひょっとすると、僕に対して不信感を抱いているのかな? でも、それを言わないのはいい判断だよ。みんなが好き勝手喋るから、世界中で争いが絶えないんだ。誰もが思っているだけなら、世界は平和になるはずさ」
きぐるみ越しに、彼が微笑みかけてきた。
勿論、きぐるみに表情なんてない。目の前にあるのは、青いネコを模したらしい、能面みたいな顔だけだ。
でも、中に人がいるのだとしたら、きっと微笑んでいるだろう。
何故か、そう思えてしまったのだ。
気がつくと、僕は祖母の家の住所を喋っていた。
彼はお礼を言うと、私の前から姿を消した。一人その場に取り残された僕は、赤みが指し始めた空を見つめ、UFOが飛んでいないか探し始めた。
数時間後の昼、祖母の家の近くの銀行が強盗にあったというニュースが報じられた。