第8話「等級AA」
◆ユウゼイ◆
「ねえ。あなたは今、なにを考えているの?」
かすかな笑いを含んだ声が聞こえるのとほぼ同時、ユウゼイは全力で床面を踏み切る。
寸前までユウゼイの立っていた一帯が、一瞬にして黒色に真衣化する。
マグマを連想させるどろりとした流体がぐつぐつと泡立ち、突きでた十本近い同質の腕が虚空をかきむしった。
判断が一秒でも遅れていたら、間違いなくそれらに捕まっていただろう。直径二十センチメートルほどもある純粋真衣の太腕だ。装衣の身体であっても、たやすくねじ切られるに違いない。
超常的な瞬発力による後方への跳躍。等級A相手なら出方を見ることも可能な三十メートル超の距離。だがユウゼイは着地と同時に再び床を蹴る。
またしても間一髪。生じた黒腕が足裏をかすめた。
安堵する間もなく、空を翔るユウゼイの真衣感覚器が着地点の黒化を知覚する。
そうではない。即座に認識を修正。
サンクチュアリを中心とする五十メートルの空間、構成するすべての面という面がすでに闇色にぬれていた。
「はは」
乾いた笑いがもれる。
化け物だ。人の姿をこそしているが、サンクチュアリはユウゼイのようなマガイモノとは違う、正真正銘の化け物だ。
これまで相対した等級AAのなかでも、おそらくは最上級。ロクな装備もなしにこいつとやり合えというのは、冗談が過ぎる。
ならば中間衣を破棄するか。
論外だ。確かに可干渉真衣総量のいちじるしく劣るユウゼイにとって、無駄に体積を増やすだけの中間衣はお荷物でしかない。しかしそれでは本末転倒。時間稼ぎの意味すらなくなる。
最悪の事態に対する保険はある。後先さえ考えなければ、逃げのびることはだけはできるだろう。
刹那の思考。
答えは理灯の言葉の通りだ。
退けばただ失うだろう。積み上げてきたものすべては無駄になる。
ならばこれは千載一遇の好機なのだ。説明もなしに踊らされるのは気に入らないが、そういう人間と知って手を組んでいるのはユウゼイである。
舌打ちひとつで腹をくくる。
ユウゼイは第三、四の腕を繊維状に再構成、黒化した壁面へ向けて撃ち出した。
先端部が壁面へと喰らいつく。錨となった繊維状の真衣を形状変化、収縮力が落下軌道にあったユウゼイを宙へと引きもどす。
そして即座に、その手が有限であることをユウゼイは思い知らされる。
壁面と接触した真衣が、次の瞬間には黒化を始めたのだ。
ユウゼイに匹敵する干渉精度、加えて分類Dもかくやという干渉圧が、じりじりとユウゼイから制御を引きはがす。
サンクチュアリとはよく言ったものだ。
この黒化にユウゼイは感心をしめすとともに、繊維真衣をなかばから粒子分解、逆侵蝕に対し先手を打つ。
「力ある者がその力を振るえば、多くの人の道を歪めるわ」
サンクチュアリはその場から動くこともせず、言葉だけを投げかけてきた。
戯けた言葉だ。少なくとも、進んで戦いを求めた人間が口にする言葉ではない。
再び落下を始める身体を、これも再びのアンカー数本で繋ぎとめる。
黒化、破棄、射出。単調な繰り返しから、サンクチュアリの近傍で侵入角を急変更。すれ違いざまにミスリル刀の一太刀を浴びせる。
一歩。人本来の身体の動きだけで、サンクチュアリは刃をかわし、すずしげな表情で続ける。
「だからこそ力ある者にはその責任がつきまとうの。望むと望まざるとに関わらず、ね」
壁面から伸びた黒腕がユウゼイを襲うも、アンカーを数本犠牲に絶妙な間合いですり抜ける。
再び距離を詰めた二の太刀は、一歩踏み出したサンクチュアリに避けられる。
「あなたはそのことを理解しているのかしら」
サンクチュアリの一方的な物言いに、ユウゼイは反駁する。
「……己のために振るう力でなにが悪い」
低く、暗く。呪い殺さんと言わんばかりの沈んだ声が出た。
そこに、先の言葉との矛盾があることにも気づかない。
度重なる空襲も有効打とはならなかった。至近距離から撃ち出した真衣の槍すらも、優雅とも見える足捌きによりむなしく空を突く。
すでにユウゼイの真衣質量は、従来の三分の一を失っている。
「他人の善意に期待すれば、自分が使い潰されるのがおちだ。……冗談じゃない。そんなことで誰かを守れるものかよ」
込みあげる言葉を止めることは出来なかった。
己の生き死にですら手に余るのだ。ましてユウゼイには早苗を守るという誓いがある。
それを、見も知らぬ他人への責任だ? 笑わせてくれる。
己の行いが誰を生かし誰を殺すことになろうと、そんなものはユウゼイの知ったことではない。
サンクチュアリが口にしたのは、はるかに恵まれた者の語る理想論。しょせんは強者の道楽だ。
この舐めきった小娘に好き勝手を言わせるのは、ユウゼイが進んできた道すべてを否定されることと等しく思えた。
「己の力で足りないのなら、俺はどこまでも他人を利用してやる。それのどこが悪いッ」
言葉とともに、周囲へと放ったアンカーすべてを根元から破棄。自重を可能なかぎり削り、そのまま墨色の天井へと着地する。
サンクチュアリが気体真衣を媒介に、挙動のすべてを把握していることを、ユウゼイは見抜いていた。そしてそれを突破するためには、サンクチュアリの予測を乱し、実速度でもまたその反応を上回る必要があることも。
ユウゼイは三度目の接近に真衣で爪先を拡張、趾行を思わせる形状へと変化させ、四度目にはその足をフェイクとして攻撃にも使っていた。
アンカーの感触から予想した通り。黒化した天井は外観に比して十分な硬度を保っていた。
衝撃に沈み込む爪先を躊躇なく切断。サンクチュアリの侵蝕までのわずかなタイムラグに、ユウゼイは爪先だったモノを踏み台にして跳躍する。
アンカーの収縮では為せぬ爆発的な速力。湧きたち追いすがる黒腕を背に、サンクチュアリを間合いにおさめる。
一閃。ミスリルの銀光が奔った。
異形の腕部が繰りだす、音速を超える斬撃。切先はサンクチュアリの頭部を確かにとらえていた。
――だが浅い。
鼻から額にかけてを覆うゴーグルが、斜めに裂ける。
しかし、それだけだ。
ユウゼイは交錯の刹那、切り裂かれたゴーグルの隙間から覗く、サンクチュアリの眼を見てしまう。
それはこの状況を楽しむようにわずかにゆるんで見えて、けれどやはり殺意も敵意も宿してはおらず――。
胸中に入り込んだ不審と困惑が、次の挙動を遅らせた。
理性が働いていなかったわけではない。それでもやはり、身体を動かしていたのは激情だったのだ。
ユウゼイの両足が床を踏み、衝撃に黒の床が波打つ。
直後、頭上から降り注ぐ黒の奔流がユウゼイを打ちすえた。
取り囲むようにして吹き上がる数十の黒腕。全身を絡めとる黒液に最後の一手を考えるユウゼイへと、ゴーグルを真衣で覆ったサンクチュアリが放ったのは、死をもたらす一撃ではなくただの言葉であった。
「なにも悪いことなんてないわ。ただ、あなたはその意味を本当に理解できているのかしら」
さらりと、身体を拘束する黒色真衣が溶け落ちる。
「……何の、つもりだ」
片膝をついたままの体勢でユウゼイは問う。
「ふふふ、運が良かったわね。うちの子たちが後方の部隊と合流したみたい。今日のところは見逃してあげる」
壁面はいまだ黒化したままだが、言葉を裏づけるようにサンクチュアリから真衣の侵蝕はない。そしてそのままふわりと裾を翻し、退却の姿勢をしめす。
――なんだよ、それは。
自らの失態が招いた窮地。常であれば命が助かったことを喜ぶべきところだろう。
だが、ユウゼイは激昂に握りしめた手を震わせていた。
それは久しく忘れていた本物の屈辱だ。
プライドなんて、命に比べれば糞ほどの価値もない。利用できるものは利用する。それは己の自尊心すらも例外ではなかった。
ユウゼイは己すらも道具として扱ってきたのだ。扱ってきた、つもりだった。
渾身の一撃を避けられた。それはそこまでの戦いで、サンクチュアリが手を抜いていたからだ。しかしそれだけであれば己の不足と割り切れた。
サンクチュアリは散々理想論を垂れ流しておいて、ユウゼイの生き方を否定しなかったのだ。
馬鹿にしていると思った。弄ばれたのだと理解した。
ユウゼイの憤りすら無価値であると、サンクチュアリは嗤っているのだと。
「俺を見逃せばあんたの同胞が死ぬかもしれないぞ」
引き止めるように、言葉が口をついて出る。
一矢報いたいという思いがそうさせたのであろう。
自分の気紛れがもたらす結果に、おまえは責任を持てるのかと。ユウゼイはそう問いかけたのだ。
サンクチュアリは少し驚いた様子を見せ、そして再び小さく笑みを象る。
「わたし、あなたみたいなひと、嫌いじゃないわよ」
噛みあわぬ答え。
それだけを返し、サンクチュアリは都市の闇に消えていった。