第7話「サンクチュアリ」
◆ユウゼイ◆
その少女はふらり、と。そんな表現のはまる気安さで現れた。
肩の上でゆれる少し癖の入った黒髪。
小柄で華奢な身体を包むのは、黒地に白で装飾をほどこしたワンピース。簡素だが優美な造りで嫌味を感じさせない。
コツ、コツと、ダークブラウンの長靴が足もとで音を刻む。
面を覆うゴーグル状の電装は機能性を優先させた造形だが、そういうものと思えば気にもならない。
ユウゼイは初め、それが等級AAであると気づけなかった。
圧倒的ななにかがそこに存在している、そのことを理解していたにもかかわらず、だ。
あるいは、ほかの等級AAや等級AAAを見知っていたからこそ、その異質さに納得ができなかったのかもしれない。
いや。すべては言いわけか。
ただただ魅入っていたのだ。恐怖ではないなにかに心を縛られながら。
一定のリズムを刻んでいた靴音が、ピタリと止まる。
「――二人は、死を前にして何を考えたのかしら」
言葉はすぐ近くで発せられた。幼さを残す声音が、いやに大人びた語調でつむぐ。
ユウゼイは、無意識に一歩後ずさっていた。
この段におよんでようやく、この少女が等級AAであることに納得がいったのだった。
少女が口にしたのは、問いというよりも独白だ。けれどその言葉には力があった。力を持つ者だけにゆるされた、傲岸が潜んでいた。
戦慄が胸中を荒れ狂う。
そんなユウゼイの動揺を知ってか知らずか、少女は開いた一歩分の距離を詰め、頭ひとつ低い位置から覗き込むようにして続ける。
「あなたなら、死を前に何を考える?」
死刑宣告ともとれる問い。しかし少女から殺意は感じない。あまつさえ敵意すらも。
ユウゼイのまえにあるのは、両の手を後ろで組んだあまりにも無防備な姿。
だが、ユウゼイは動けない。
侵されざる純潔は詰めたわずか一歩の刹那に、周囲数十メートルの大気すべてを真衣化してみせたのだ。
気化物質は真衣干渉を最も受けづらい。本来的に人がそれを知覚出来ないからだと言われている。
さもなくば、地球はとうにサーフェナイリスで埋めつくされていたであろう。
しかし受けづらいというだけで、不可能というわけではない。
事実、ユウゼイにも気体を真衣化することはできた。けれどそれはあまりにも非効率で、ユウゼイには到底意義など見いだせない代物であった。
だが、この呆れるほどに途方もない可干渉真衣総量の格差を見せられてなお、意義などないと言い張れるほど、ユウゼイは己を過信してはいなかった。
等級AAゆえの高慢がなせるわざか。サンクチュアリはユウゼイから離れると、その存在を歯牙にもかけず、真衣の残骸の傍らに膝をついた。
ゴーグルの向く先で、散らばった残骸が墨色に染まる。
そして泡立ったかと思えば、初めからそんなものは存在していなかったとでも言うように、影形もなく床面に消えていった。
抗侵蝕コンクリートには、真衣化の痕跡すら見当たらない。
「同胞をその手にかけて、あなたはなにを思うのかしら。それとも、なにも思わないのかしら」
そのままの体勢で、サンクチュアリが小首を傾げる。
ふと、ユウゼイはそれが肉声ではないことに気づいた。
声紋からの個人特定への警戒。
当然と言えば当然の対策。そんなささいな気配りが、ユウゼイに眼前の少女もまた人間であることを思い出させる。
『兄さん、何かあったんですか? 兄さん!』
あろうことか、早苗からの呼ぶ声が溜まっていた。
思わず疑似聴覚の再生機能を確認してしまう。
すべて正常作動。早苗の声を聞き逃すとは、どうやら壊れていたのは肝心の頭の方らしい。
『いい、無理に戦う必要はないからね。つい今しがた、稜江派の別働隊が完全に突破されたとの通信を拾ったわ。即座に防疫局派の部隊に追撃指令が下されたんだけど、侵蝕過多で撤退が決定』
遅ればせながら理灯のレスにも意識がおよぶ。
『部隊の撤退完了までの時間稼ぎがユウちゃんのお仕事。……聞こえている、ユウゼイ? 分かったなら返事をしなさい』
『――聞こえているよ』
本当は今の今まで聞こえていなかった。
生じた時間的空白を、つとめて落ち着いた情報誤差で誤魔化す。
だが、早苗を安心させるための言葉ひとつ送ってやれない現状こそが真実。
そのことが、酷くユウゼイの心をざわつかせる。
「都合のいい仲間意識をどうも」
飛び出した皮肉に、誰でないユウゼイ自身が驚いていた。
口は思考よりも早く、饒舌に回る。
「だが生憎と、俺は新人類主義者じゃあないんでね。罹患者だからどうだ、なんて考えたこともない」
見せ付けるように肩をすくめる。
力量の差に固まっていた身体も、どうやら思うように動いてくれるらしい。
「等級AAのあんたが、人類に対し優越感を抱くのは理解できる。が、お仲間をよく見てみるといい。臆病で狡猾でむしずが走る。だが、そんなのはどこにでもいる人間だ。糞は糞、違いもなにもあるものかよ」
サンクチュアリの余裕が、今はありがたい。
挑発的な言葉で己を鼓舞することで、ユウゼイは徐々に自分をとり戻しつつあった。
『理灯、中間衣の真衣化――』
『却下。調子が戻ってきたみたいじゃない、本当に死にそうな状況まで我慢しなさい』
上書きするような通信の割り込み。出力途中の言葉を最後まで言わせてくれない。
まったく、無理難題を押しつけるのが好きな奴だ。
これが死にそうな状況でないのなら、等級審査の再申請が必要になるレベルだというのに。
「ひとつ」
あなたは誤解しているようだけれど、と。
穏やかな声が、ユウゼイの心に再びくさびを打ち込む。
「わたしが新人類主義者だなんて、あなたの勝手な思い込みよ?」
ゆっくりと立ち上がったサンクチュアリが、ユウゼイを真正面にとらえる。
「だってわたし、サフェルに期待なんてしていないもの」
ぞっとした。言葉に乗る感情はどこまでも冷めている。それなのにどこか楽しげで。
――気味が悪い。
ゴーグルに隠れているというのに、探るようなサンクチュアリの視線を強く感じる。
好都合と感じた問答が、途端に忌々しいもののように思えてくる。
この覆しようのない圧倒的な戦力差。ユウゼイにはサンクチュアリの会話の意図が読めない。
「俺の、答えは変わらない」
じわりと広がる理解できないモノへの恐怖。
それでも引くことは出来ない。
早苗のため、死ぬことも逃げることもゆるされないのだ。
「たとえ胸のうちでなにを考えようと、どうせサフェルを殺すんだろ。ならそれだけが事実だ。同じなんだよ。俺も、あんたも。……仕事、以上でも以下でもない。違うか?」
「あなたは分かりやすいわね。いいわ、その答えで納得しておいてあげる」
含むような言い回しに、継ぐべき言葉を見失う。
眼前の少女に対し、自分はなんの話をしていたのか。少女はなにを納得したというのか。
記憶情報を見れば、己の口走った言葉、その内容は分かる。
ただそれが、いったい自身のどこから出た言葉なのかが分からなかった。
黒髪がふわりと舞い、無防備にユウゼイへと背を晒す。
一歩、二歩とその小さな背中が遠ざかっていく。
見逃されたのか? 湧きあがる安堵をユウゼイはねじ伏せる。
「――でも」
きたか、と。予感の的中した安心感と、戦いの臭いがもたらす絶望感がない交ぜとなる。
足を止めたサンクチュアリが、首を傾けユウゼイをわずかに振り返る。
愛らしい少女の唇が薄く弧を描いた。
「あなたみたいに力あるサフェルが、組織間の思惑に振りまわされて同胞を殺めなければならないなんて、とてもとても悲しいことだと思うの」
なにが変わったというわけではない。
サンクチュアリのほっそりとした指先が、その唇に添えられる。
「そんな不幸の芽は、早めに摘みとってしまわないと」
等級AAAと対峙した時をすら上回る畏れが、真衣の装甲を貫く冷気となって全身を刺した。
「ねえ。あなたは今、なにを考えているの?」