第4話「吾破特別地区」
◆ユウゼイ◆
吾破特別地区。
正式名称を吾破病罹患者特別治療地区と言う。
だが実態は、そんな大層なものではない。
特区とは、吾破病罹患者の強制居住地区に過ぎないのだ。
賛否の声高い吾破特地法。
定められた法により、特区は国法の適用範囲外に置かれている。
特区憲法たる諸法は罹患者を助けない。
この地では、人を人としない秩序が作り出されていた。治療とは名ばかりの人体実験が公然と行われ、異を唱える者は富の名を冠する正義によって押し潰されるのが常なのである。
『にしては、随分と活気があるな』
ユウゼイは傍らの早苗に無声通信を飛ばす。
おびただしい数の人。草野では見られなくなって久しい人混みに、ユウゼイは辟易していた。
『ありますねー』
返ってくる声も、どこか上の空。
二人が居るのは、第十環構にある商業エリア。五十メートル級のビルディングが丸ごと収まる大空間だ。
そびえ立つ円筒形の支柱をとり囲む、吹き抜け状の建築様式。
二重の曲面には無数の店舗が軒をつらね、渡された数多の梁が天井の主照明の光をさえぎり、床面に曖昧で複雑な文様を描いている。
有機電脳内の電識覚を介して、視界に付加される半透明の情報体――識飾が、華やかに景観を彩っている。
もっとも、眼にうるさいので早々に参照情報を非展開したユウゼイには、装飾にとぼしい簡素な建築物が映るばかりだ。
国民皆電脳化の施策により、日本は世界に類を見ない電脳大国となっている。
ただ、西側で主流の機械的電脳ではなく、有機的生体電脳の先鋒として発展を遂げた経緯があり、ミュータントの国などと侮蔑と嫌悪の対象になっていたりもするのだが。
行きかう人々の外見も多種多様。
機械式の装飾は当たり前。
専用の調整を必要とされる生体式も、ここ数年で随分と安価に買えるようになった。
『罹患者は全くと言っていいほど見かけませんけど』
皮肉げに早苗が続ける。
入都審査を終え、八束を歩くこと二時間。防疫局関係者を除けば、公式に登録された罹患者をまだひとりも見ていない。
『人口が草野に比べ桁ひとつ違うからな』
説得力の「せ」の字すらない言葉で皮肉を返す。
『面白い冗談です。まあ、地が違いますから当然と言えば当然ではあるんですが……やっぱり――』
『縛りも草野の比じゃないだろう』
罹患者が金の卵を産む鶏だとしても、企業にとっては所詮道具に過ぎない。
そして、道具に自由は必要ないのだ。
『すっかり忘れていましたけど、これが在るべき人の日常、なんですよね』
ユウゼイの腕を掴む手に、力が篭る。
そう。人の日常だ。そして罹患者は、人とは呼ばれない。
五年前に起きた蝕災テロで、草野を取り巻く環境は何もかもが変わってしまった。
草野大学を中心に栄えた電脳研究の最先端。
百万都市の面影は、基部構造体のインフラ設備に見えるだけ。
草野は第二次サーフェナイリス・ハザード《歌声事件》以降、最悪の被害をもたらした事件の舞台として歴史に名を刻んでいた。
早期の脱出に成功した一部を除けば、都市人口の九割以上が、サーフェナイリスの核破壊までの三日で失われた。
大部分は、感染による二次災害・三次災害を抑えるために行われた軍の爆撃によるものだった。
それでも、隔離された都市内で生じたサーフェナイリス・パンデミックが、万単位の人間の命を奪い去ったのも事実だ。
国内外からの批判の声は小さかった。
十年前に起きた歌声事件の爪痕が、人々の心に深々と恐怖を残していたのだ。
草野で事件を生き延びた者はわずかだ。
まして罹患しなかった者はなお少ない。
発言権など、最初から用意されてはいなかった。
二人も、この大惨禍によって養父を含む知人すべてを失っている。
残されたのは、荒廃した都市の残骸に隠れての、非登録市民にもおよばぬ劣悪な生活。
吾破収容所に入れられてからは、罹患者としての日常がそれに取って代わった。
永山という等級AAAの存在が、二人の自由を保障してはいたものの、かつての日々は返ってこない。
ユウゼイにとって残された過去は、傍らの早苗を除いてほかにない。
それは、早苗にとっても同じであった。
「っと」
早苗がすれ違う通行人とぶつかりそうになり、ユウゼイは軽く引き寄せる。
「あ……」
不意の密着。視線が絡み、戸惑うように早苗がそらす。
そんな反応を返されては、ユウゼイとしても心中穏やかではない。言いわけじみたぶっきらぼうな言葉がついて出る。
『辺りに気を取られ過ぎるなよ。余所者とバレると面倒だ』
『気をつけます』
音声再現された返答に、情報誤差がにじむ。
見上げる表情も幾分ゆるい。若干頬が紅潮して見えるのは、錯覚と言い聞かせ意識の外へと追いやった。
ユウゼイとて、これが張りぼての安寧だと知っている。だが、今くらいは気楽に過ごすのも悪くないのではないか。そんな誘惑の声を胸の内に聞く。
理灯も、この都市の権力闘争に積極的不介入を貫くと、常にも増して冷めた語調で口にしていたではないか。
社会に弾かれた自分たちに訪れる休息が、次はいつになるかも分からない。
馬鹿馬鹿しい。
腑抜けた思考を鼻で笑う。
そんな仮初で満足できるなら、とうの昔に足を止めている。できないからこそ、ユウゼイも早苗も今ここにいるのだ。
そうして何気なく上げた視線の先、梁の網の奥にユウゼイはそれを見とめた。
ツールを起動。
わずかなタイムラグの後、こめかみに仕込んだ有機端子を介して、眼鏡に搭載された各種観測器が結果を電視野に表示する。隣には人工知能が分析し、導き出したそれの正体。
ユウゼイはたまらず苦笑をもらす。
『早苗、こいつを見てみろよ』
言葉とともに|データを転送。受け取ったデータを確認し、呆れを浮かべる早苗の横顔。
それを見て、ユウゼイは苦笑を深める。
『……え、これって対分類A用の高出力レーザー照射装置ですよね。蝕災なんてテロ以外じゃまず起こらないのに。カーラの浸透は許しているし、前提を間違えていませんか、この都市』
『あの女風に言えば、それが心の安寧ってものなのさ、だ』
ユウゼイは苦笑を噛み潰し、おどけた調子で言う。
カーラ。
正式名称をシャマシャナ総合警備保障と言う。
アウトソーシング事業を基本とする民間軍事会社で、その業務はテロの代行、技術供与、軍事教練を含んでいる。
存在自体がテロリズムと言える正真正銘のテロ支援企業。
構成員を、マハーカーラの代行者を標榜し「カーラ」と呼称していることから、一般にはカーラの名で呼びあらわされることが多い。
世界を意のままに動かす超大陸企業体ルイオラ・インダストリィさえ手を出せぬ、総代カーラ・ミトラエイユに率いらた力の象徴。
ここ八束では、都市の支配者にして国内最大資本である稜江代府と、そのカーラとの間で、しばらく前から一触即発の緊張状態が続いていた。
『確かに、理灯さんならもう少し上手いい言い回しでそんな感じのことを口にしそうです』
『妹様は手厳しいな。ま、罹患者の姿が見えないのも当然だ。遠くの核より近くの鋏ってね。企業が囲っているか、学院で防疫局に囲われているか。違いといえばその程度だろう』
『監獄ですねー。あとそんな慣用句ありません』
ばっさりと切り捨てられた。
流石に分かっているよと表情で物語るユウゼイ。早苗は半眼で疑惑の視線を飛ばしてくるが、心の中では理解してくれているに違いない。
『草野も大差ないけどな、監獄って意味では。で、俺はこう考えるわけだ。囲われていない連中を見つけやすくて大変結構』
『ふふ。兄さん、私それっぽいの見つけましたよ』
見て見てとせがむ早苗から、視覚情報を受け取る。
実況映像だった。
赤で縁取りされた男の像、その各所に線が引かれ、論拠が文字表記されている。
『構成員ですよね』
断定寄りの疑問系。
褒めてと、直後に大量の情報誤差がついてくる。
顔面を覆うゴーグル状の感覚器。
鼻から首までを占める複合カーボン素材のサイバーウェアは、いずれも内臓式を偽装した外部端末だった。
罹患者は、真衣による機能障害を起こしやすい機械式インプラントを嫌う。
服に浮き出た腕部の凹凸。
軍用の義手を模してはいるが、抗侵蝕中間財の一種とする早苗の推察は、ユウゼイから見てもそう外れていないと思える。
『衣類にもムーラダーラ経済域の特色が見えるが、臭過ぎるな。この手の輩は思想を手段じゃなく目的にしているもんだ。黒というよりも赤じゃないか?』
『新人類主義者ですか』
『教団のシンパ、ついでに今は亡きアラクシアの信奉者ってのが俺の見解』
『むぅ。はっきりしないのは気持ち悪いですね。ちょっと行って確かめてきてくださいよ、兄さん』
『面が割れるので勘弁してください』
不機嫌で飾る早苗に、ユウゼイは土下座の体で応じる。
当然、無声会話上の表現での話だ。
『そこは死人が出るとか、何処かに残っているかもしれない兄さんの良識を披露する、いい機会だったのではないでしょうか』
取り留めのない会話を続ける二人。
話題にされいるとは露と知らず、能天気な罹患者の男は側道へとそれ、人の流れに埋もれ視界から消えていった。
『見知らぬ他人を気遣うとか、そんな良識は鼠にでも食わせちまえ』
群衆の観察はおこたらず、吐き捨てるように言葉を投げる。
ユウゼイにとって守るべきは、己と早苗だけ。
一年前はそうではなかった。
いや、一年前もそうだっただろうか。
少なくとも、気づいたのは多くを失った後のことだ。
『……まあ、カーラが本格的に動き出せば、どうせ大勢死んじゃいますからね。十人や百人誤差の範囲ですけど。ってそういう話でもないと思いますが』
『そういう話なんだよ。無駄な労力は極力省きましょう。色んな意味で、さ。……お、皇道派発見』
ユウゼイの送った視覚情報に眼を通し、早苗が溜息をこぼす。
『はぁ。私なんだか学院に引き篭もっていた方が安全な気がしてきました』
こうして繁華街を歩いているのは敵情視察に近い。実態の把握と言えばそれっぽいが、やっているのは事前情報の裏取りだ。
人ごみに紛れた罹患者を探すのも、その一環と言っていい。
『入都審査は甘いからな。不都合な人間は内々に処理してしまえばいい。感染させれば素体も増えて一石二鳥だ』
綺麗事なんて無意味。
打算と勘定。現実はそんなもの。
ものなのだが、世の中にはそれだけではすまない者たちがいて、結果こんな事態に陥っているわけである。
『それはそれとして、学院の方が安全というのには同意だ』
少し前の早苗の呟きに、ユウゼイは答える。
『資料を読んだ限り、稜江の危機を望む連中は多い。カーラが裏でどんな取引を行い、各勢力がそれに対しどんな決定を下すか。稜江の駒として売られてきた俺たちにしたって、理灯ははなから稜江のために動く気なんてないだろうからな。誰が誰の味方をするのか、蓋を開けるまでは分からないのさ。難儀なことだよまったく』
ユウゼイの目的はただひとつ。早苗が安寧に過ごせる居場所を作ること。
安く生きる。それだけのことがこの世界では酷く難しい。
『さっさと見るべき所を見て引き上げるとするか』
『……政治は面倒くさくて嫌いです』
話そのものにというよりは、そうした巨大な人の集合が持つ意思に拒否感を示す早苗。まして、そんな思惑に押し潰されるのは御免だと。
それは、ユウゼイにも共通する思いであった。だからこそ、呑まれぬために足掻き続けているのだ。
ユウゼイは空いた手をその頭に伸ばし、断言する。
『安心しろ。俺も政治が大嫌いだ』
『私、その言葉の何処に安心すればいいんでしょう!』
無駄に凝った大容量の合いの手。
早苗の余裕に安堵し、ユウゼイは少しだけ歩みを早める。
まだまだやっておくべきことは山と残されいた。
◆◆◆
第十一、十二環構と足早にめぐり、理灯にあてがわれた避難場所の確認もすませた二人は、学院のある第十三環構へと向かうべく、駅を目指し歩いていた。
ユウゼイの両手は、待ち合わせにはまだ時間があるからと、早苗に引きまわされた戦利品で埋まっている。
すれ違う人々の視線が痛い。
『馬鹿みたいに注目を集めているんだが』
『大丈夫です! お店では、女との約束をすっぽかしたダメダメな男へのオシオキ、って設定で手を打ってありますから!』
果たして大丈夫とは何なのだろうか。湧きあがる哲学的な疑問を呑み込む。
早苗は上機嫌だった。
家への送付が当たり前の世の中。店舗でのじかの受け取りですら趣味の領域だというのに、これでは……いや、だからこそ、そう見せたい早苗なりの我儘なのだろう。
先導する小さな背中との距離を、一歩だけ詰める。
気配を察し、早苗がちらりと振り返った。
「あれ?」
しかしその瞳に宿ったのは困惑。
視線が虚空を彷徨う。
それは世界にあまねく広がる情報ネットワーク――サガラを見つめる眼差し。
『兄さん、行き先を高所道路に変えた方がいいかもしれません』
ポツリと。
呟くような無声通信が届く。
長年の付き合いから、それだけでユウゼイの意識は戦闘時のそれへと切り替わる。
『何か見つけたのか』
『見つけたというか。兄さんの言いつけ通り浅い階層しか潜っていないので断言できないんですけど、流れる情報量に不自然な箇所が出来ていて。これ、多分特級ハッカーの都市電脳網に対する攻撃です』
早苗のハッカーとしての腕は確かだった。ハッキングの技術を叩き込んだ二人が二人とも、その実力を認めている。すでに特級の域に達しているとさえ聞く。
ユウゼイ自身、早苗の技量を疑っているわけではない。
ただ、カーラを相手取るには特級程度では足りないのだ。それに、直接データを弄るだけが電脳戦ではない。
『対象は?』
『第九環境構造体。そこから先は諸々からの推察になりますけど、私はガトウ・サーフェニクス本社と見ました!』
『稜江の系列とは違うが、確か私兵が出入りしているって資料があったな。いい読みだ』
淀みない早苗の声に、にやりと口角があがる。
ユウゼイにとって早苗は護るべき相手だ。だが同時に、ユウゼイの実力を遺憾なく発揮させてくれる、このうえない相棒でもあった。
緊急用の経路で手早く理灯に合流地点を送付すると、早苗の手を取って歩き出す。
『兄さん。邪魔なら捨てちゃっていいんですよ?』
ほどなくして、そんな無声通信が送られてくる。
抱える荷物を指していることはすぐに分かった。
早苗を見れば、眼を合わせず揺れる視線。隠そうとする内心をうかがわせる。
まったく、普段はこれでもかと甘えてくるくせに、妙なところで自制がきく。
ユウゼイの胸に悪戯心が湧いた。
『なんだ、手を離して欲しいのか?』
『捨てられちゃうの私の方ですか!』
『他になにかあったかな』
『酷過ぎます! 妹の心を弄ぶなんて、兄さんはやっぱり最低の塵屑野郎ですっ』
叫びを彩る憤怒の言葉に比して、早苗が浮かべるのは笑いをこらえるような膨れ面。
もとよりユウゼイに危機感は見られない。
そう。こんなものは、二人が乗り越えてきた日常の一コマに過ぎないのだ。
◆◆◆
二人が高所道路へ移動して間もなく、爆発により生じた振動が都市を駆け抜けた。
発せられた緊急警報に、都市を種類の異なる震えが襲う。
誰もが楽観していた。
たとえ腹の内にカーラを抱え込もうと、国内最大資本である稜江に、金で解決できないものはないのだと。
それこそが、稜江の歴史にほかならなかったのだから。