最終話「次なる舞台へ」
◆ユウゼイ◆
久遠研究室の領域の一画にあるその部屋には、用途不明の大小様々な機器が犇めいていた。その片隅に、前面が透過性の素材で覆われた円筒形の装置がある。
多目的調整槽――半ばまで流体で満たされたその装置には今、重度の半症を負った早苗が身を横たえていた。
機材に繋がれ眠る早苗の傍らで寝台に腰掛け、ユウゼイは知覚を閉ざしたまま調律を続ける。
カーラの撤退から三日が過ぎようとしていた。
残された課題が山積するもその多くは手付かずで、いまだ復興の名を借りた富の争奪に終わりは見えない。
カーラという不条理が消えたところで、八束から不条理が消えてなくなるわけではない。むしろ武力という分かりやすい不条理を失ったことで、人の心に蠢く欲動が解き放たれ、混沌とした我執が人の手を離れた不条理を生み出しているようにも見える。
宮子の言葉通り、軍が八束に足を踏み入れることはなかった。
だが八束を目前にして軍が素直に引き下がったのには、カーラが撤退しただけではない、ほかの理由も大きかった。
稜江を除く大財閥、企業からの強固な反発。軍との結びつきの強い四峯ですら介入を認めない発言をした。
当然、防疫局もこの動きに同調する。軍の影響力が特区におよべば、防疫局はその存在意義を失う。ゆえに企業団の顔として軍との関係悪化も厭わず、矢面に立ち事態の収集に乗り出したのだ。
結びに生じた意識の揺らめきに、ユウゼイは知覚を外界へと向ける。
今まで薬で強制的に休眠状態に置かれていた早苗が、病状の改善により薬の影響域から脱し、眼を覚ましたのだ。
白化した調整液にたゆたう早苗の瞼が僅かに上がり、二度三度と瞬きを繰り返した。
そしてユウゼイの姿を認めると。
「おはようございます」
小さく呟いた。
ユウゼイの懸命の調律と投薬により最悪の状態を脱した早苗ではあるが、今なおその身を蝕み続ける半症は、重篤患者以上に危険域らしい。
「ごめんなさい、まだ身体が思うように動かなくて。着替えまで手伝わせてしまいました」
装衣とは根本からして真衣の在り方が異なるため、著しく自由は利かない。
調整槽から出るのがやっとの早苗の身体を拭き着替えさせ、寝台の上でユウゼイは座る早苗に背中を貸していた。
「なに、役得とでも思うことにするさ」
「妹の裸を見て欲情するとは、兄さんはとんだ変態さんですね」
「それは知らなかった、俺は変態だったのか」
「はい、気づくのが遅すぎます」
くすりと笑う早苗。冗談めかして口にした言葉は、その内容に比して重い。
「……お互い、酷い姿ですね」
本当に酷い有様だった。せめて顔だけでもと注力した甲斐あってか、早苗には生来の面影を見ることができる。
もっともそれも顔半分といったところだ。
全身いたるところに生じた半症は、隠しようのないほど、その姿を残酷に歪めていた。
先の軽口には、見る影もなくなった己への自虐が含まれているのだ。
そしてユウゼイはと言えば面影どころか眼も鼻も耳もすべてて失ったままだった。
早苗とは逆に遠目からであれば人間を装えているだろう。だが近づけばその身の異様さに気づくはずだ。
制服の袖口から覗く四肢は、真衣を隠すため治癒帯で隈なく覆われ、感覚器官を喪失した頭部はサイバーウェアの面を被って誤魔化している。
ユウゼイの命は換衣によって繋がれていた。
人としての身体を取り戻すには、草野で脳髄と変性部位を予備の肉体に移す必要がある。
そうしてさえ、乗り換えた肉体に重度の半症を伴うことだろう。
「まあ、そうだな。ともあれ俺たちは生きている。安心しろ。なにがあろうとおまえのそばには俺がいてやるさ」
「告白ですか?」
「ああ、俺は家族想いだからな」
「不服です。今の答えには大いに不満を表明します」
そんな言葉とは裏腹に、触れ合った心が温もりを伝えてくる。
本当の兄妹ではない。恋愛ごっこをするような世界にユウゼイたちは生きてもいない。だから、ふたりの関係は家族で正しいのだ。
これまでも、これからも。
「それで、和葉とは話はできたのか」
「はい。もうぼろ糞に言ってやりました。そしたら和葉さん、ありがとうって。本当に……ふざけていますよね。それから、自分が前だけを見て生きていられたのは、納得できる死が先に在ると分かったからだって」
人の死があふれ、失われる命に相対的な価値を見放したこんな時代であっても、そこから絶対的な意味までもが消え去ることはない。
上体を捻りユウゼイは早苗を抱き寄せる。
早苗は泣いてはいなかった。けれど和葉のことを口にするとき、結んだ心が寒さに震えるのを確かに感じていた。
「結局、私たちがあのふたりと出会ったのは偶然だったのでしょうか」
「いや。理灯は多くの条件を加味してあそこを選んだ。相手はカーラ、同じことを考える奴がいたって不思議ではない。どこまでも偶然に近い必然さ」
身を寄せ合うこと暫し、人の歩み来る気配とともに部屋の扉が開いた。
「起きられるようになったみたいね」
両の手を白衣のポケットに突っ込み、気だるげにやってきたのはユウゼイの飼い主であり共犯者、理灯だった。
早苗の覚醒に伴いユウゼイが連絡を入れておいたのだ。
「急に老け込んだな」
事件を経て、久遠研究室は防疫局内にゆるぎない地位を得ることとなった。
カーラの等級AAA――公証ではそう認識されている――を排し、特区の利権を維持した立役者。
発言権は増したが、久遠研究室の台頭を望まぬ者たちは多い。この三日、理灯はそうした諸々との調整に忙殺されていた。
「ユウちゃん、試してみたい実験が幾つも控えているんだけど」
「遠慮しておく」
ユウゼイたちのこうした軽口には、律されざるべき自己の確認という意味合いも含まれていた。
「サナちゃんが起きたら渡そうと思ってたものがあるのよ」
そう言って理灯は首輪から伸ばしたふたつの端子を差し出す。
受け取ったユウゼイたちは真衣を変質させて端子を繋ぎ、リクエストに許可を示す。
「兄さんっ!」
中身を確認した早苗が声を挙げた。
「世の中、捨てたもんじゃないのかもしれないな」
そこには八束で起きたカーラの一連の襲撃、その騒動で生死不明とされていた膨大な非登録罹患者の行方が記されていた。
特に眼を引いたのは最後の項。三日前の衝突で稜江の環京から消えた罹患者。全体のおよそ四割に及ぶ人数が、あの騒動の渦中に稜江の支配から免れていたのだ。
行き先の三割ほどを罹患者の権利主張を続ける組織『教団』が占め、もう三割が罹患者の待遇に一定の評があるシンセンが占めている。
防疫局により存在しないことを定められた者たち。
行方が分かったところで稜江には抗議する道理を持たない。ばかりか、防疫局に流れている一割を鑑みるに、防疫局とカーラの間でなんらかの取引があったと見るべきだ。
八束に再び訪れようとしている秩序は、しかし以前とは形を変えていくことだろう。
そしてそれは、和葉にとって己の命を賭けるに値する行いだったに違いない。
「未遂に終わったとは言え特区に軍を呼び込んだ責は重いわ。影響は特区の中だけに留まらない。稜江はもう終わりね」
理灯が冷徹に現状を見据える。
「極東の一翼が折れた。世界はこの好機を見逃さないでしょう。歴史は動くわ。八束での休暇はお仕舞い、あたしたちも草野へ帰るわよん」
共犯者の笑みがユウゼイ達に向けられる。
ふたりは一度顔を見合わせると、ユウゼイは真衣を歪め、早苗は自由になる唇の片端を持ち上げ、仕方がないと笑みを象るのだった。




