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第35話「存在理由」

◆和葉◆


 まどろみにたゆたう和葉の耳朶を、聴き慣れた声がかすめていく。それは何者をも寄せつけない、あたかも真冬のシベリアを駆ける寒風を思わせる、冷徹な響きを伴っていた。

 生者を拒み進む意思を凍てつかせ、そして光明を砕こうと、絶えず心の隙間をうかがうような。声は聞く者にそうと危機感を煽らずにはおかない類の、害意が込められている。


 けれど和葉の心を満たしていくのは、声の主の思惑とは正反対の感情。安堵をさらに煮詰めた、穏やかな気持ちだった。

 暗闇のなか、和葉はその声に意識をそわせる。

 そして誘われるように、ゆっくりと瞼を持ち上げた。


 瞳に映る世界もまた、闇を孕んでいる。

 それでも薄闇の先、天井に備えられた照明、今は待機状態に光量を抑えられたそれに、和葉は見覚えがあった。


 ――ジオテク社の極秘研究施設。


 ここは八束という都市の大動脈、基部資源循環(アーコロジー)構造体に存在する、物理・情報の双方で隔絶された領域。ジオテク八束支部のトップですら与り知らぬ、秘匿されたジオテクの抱える闇そのもの。


 ひとつピースがはると連なる記憶が呼び起こされる。

 そのなかには、和葉の置かれた状況にまつわるものも含まれていた。

 和葉はこの場所で、決戦に備えての最終調整を受けていたのだ。


 覚醒にともない身体の感覚が常と異なることを意識する。

 胸より下、歪に広がる熱は、電脳にインストールされたプログラムがもたらす擬似感覚。義体のような身体の延長としての配慮すら切り捨てられ、繋がれた機器の状態を転化させただけの体認知。


「ん? ……どうやら、カーラ・カズハがお目覚めのようだ」


 声とともにあたりの闇が揺れた。


「どうでもいいわ。それより話の続きを」


 辛うじて自由になる首を巡らせれば、さほど遠くない位置に佇む人影がふたつ。空間投影の淡い光を前に言葉を交わしているのが見えた。

 後姿でも分かる。いずれも和葉には見知った人物だ。


「おやおや、行ってやらんでいいのかね?」


 呆れ気味に声を震わせる初老の男。アザミも研究者達もシズロと呼んでいるので、和葉もその名で記憶している。

 本名は知らない。そもそも知っている者などいないのかもしれない。あるいは、当人でさえも。

 カーラにはそういった人々が多く身を寄せていることを、和葉はこのひと月で知った。


 モニタの照り返しに陰影となって浮かぶのは、シズロの己への無関心を示すかのような姿。ろくに手入れも成されぬままの頭髪が、無造作に背中に垂れている。


「行ってどうしろというのかしら」


 くすり、と。アザミの笑みの気配。


「化け物に成り下がった気分でも訊いてみる? どうせ返ってくるのは分かりきったつまらない答えだわ」


 冷淡としかとらえようのない言葉の連なり。

 けれど口ぶりとは裏腹に、自我結接(ダイレクトリンク)を介し身体の状態(コンディション)を確かめるアザミの意識(眼差し)は繊細で、和葉に労わりや気遣いを感じさせるに足る穏やかさを湛えていた。


 日頃から調律(オペレート)を受けている和葉である。アザミが表に見せる苛烈さとの間に生じるそうした落差を、意識する機会は少なくなかった。

 だから、和葉はアザミの優しさを疑わない。

 ゆえに続くシズロの言葉は見当違いもはなはだしい。けれど、和葉にはその認識を覆すに足る言葉を持ち合わせてはいなかった。


「くくく、その通りだがカーラ・アザミ。時には聴くという行為そのものが意味を持つこともあるのだよ」

「人を科学現象の集合物としか見ていないあなたには、過ぎた言葉に思えるけれど」


 アザミのこうした皮肉が、和葉の想像の上に成り立つものだと、和葉は信じている。それほどまでに和葉のアザミへの信頼は厚い。

 それでも、和葉は出会ってから一度たりともアザミを善人などとは思ったことはなかった。

 多大な恩義を感じてなお、その行いは鬼畜外道と謗られて然るべきものだと。物心ついてより十数年、人として生きた理性が主張してやまないのだ。


「私の研究はこれでも、人の意識や心とは不可分でね」

「理解がおよばなかったかしら。だから言っているのよ」


 他人(ひと)に言えば正すべきと答えるだろう。小奇麗な言葉を借りれば、その者を想うなら、と。

 だが和葉は、そんな血に塗れたアザミの生き方を受け入れてしまった。

 気づいてしまったのだ。アザミという少女は、抑圧することでしか外界との繋がりを保てないのだということに。


「相変わらず辛辣だねえ、君も」


 和葉にはアザミの歩む道の先に光明が見えなかった。

 生きることへの機会を与えてくれたアザミが、世界の善意に無残に押し潰される未来は悲しい。

 自分が寄りそうことで、そんな結末を変えられるのではと思ったこともある。けれど、アザミはそんなことを望みはしないだろう。

 同情なんてしない。それはアザミの存在を否定することだと、和葉は思うからだ。


「あなたの駄弁もね。舌を引き千切ってあげましょうか。別段仕事に支障が出るわけでもないのでしょう。あなたの頭脳は買っているけれど、面倒な人となりまでは求めていないの」

「なんだかんだ言いつつも年寄りのお喋りにつき合ってくれる君を、私は存外気に入っているんだが」

「カーラ・シズロ」


 ため息を思わせる呼びかけ。

 その小さな独白にも似たひと言が、シズロからそれまでのふざけた雰囲気を消し去った。

 肩をすくめる所作にこそ寸前の名残が見えるものの、あくまでもそう見えるだけのこと。

 相手はアザミ、本当に面倒と感じたならば、冗談で舌どころか下顎ごと千切りかねない。己の価値観にそぐわぬ相手であれば、戯れで命を奪うことでさえアザミにはなんら痛痒を与えはしないだろう。

 短く言葉にしたのも、協力者という立場があればこそ。シズロもそれを分かっているのだ。


「君の選んだ十五の(プジャナ)は十分にカーラ・カズハ(素体)の変性部位と馴染んでいるよ。ラクトハイル機関との接続試験もすべての項目で規定値以上を計測した。危惧していた(プジャナ)同士の不協和も起こってはいない」


 一転して真剣な語り口で示したのは、投影された立体画像(ウインドウ)の数々。

 情報ネットワーク(サガラ)から切り離されたこの研究所では、秘匿のための様々な処置に加え、域内での無線通信を禁じている。

 それゆえ、従来は電視野や仮想現実空間(SRS)上でやり取りされる情報が、こうしたアナクロな方法で取り交わされている。


 ここへ連れてこられた当初は驚かされた光景も、今では当たり前のものとして眼に映る。あまつさえ、もう何度も見れるものではないと思うと、途端に和葉の胸を郷愁の念として過ぎるほどに。

 そんな和葉の緩んだ意識をアザミの声が引き戻す。


「なら、なにが問題だと言うのかしら」

「数値だけ見ればこの上ない仕上がりだ。等級Aではここまでのものは望むべくもない。いや、等級AAの中にもどれだけいるものか。だがね、カーラ・アザミ。間接真衣制御(オペレート)の同調率が高過ぎやしないかい。より踏み込んだ実験ができるのは私としても願ったり適ったりではあるんだが、逆流で君に蝕災となられてもそれはそれで困るんだよ」


 ――同調率。

 シズロの述べた懸念の言葉は、しかし和葉たちにとってなんら否定の意味を持ってはいなかった。むしろ、和葉がアザミへと向ける信頼の裏打ちに等しい。

 けれど起こりうる事象はシズロに危惧を抱かせるに足る、想定外(イレギュラー)を生じさせる代物であることもまた偽りようのない事実だった。


 それでも和葉が一抹の不安も抱かずにいるのは、アザミが感情だけで先走るほど愚かではないことを知っているからだ。

 感情論ではない。

 生まれてよりこの方の、アザミが駆け抜けてきた戦場の記録を垣間見たがゆえ。

 そこには必ず見合うだけの手段が伴われてきた。


 だからと言って、アザミの行いを理性だけで語ることもできない。

 今回は、合理と呼ぶにはあまりにもその範囲を大きく踏み越えた助力。結論ありきで手段を模索するその姿勢に、いったいどんな理屈を補えば合理へと変わるものだろうか。


「あら驚いた。カーラ・シズロにも社の一員という自覚があったなんて」


 和葉には論点をずらしたアザミの言葉が答えに思える。

 当然、それだけが答えではないと知ってはいるが。


「君も私も同じ穴の狢だ。社を私欲のための道具としか見ていない」

「それゆえに。代替の利かぬ道具の価値を、正しく理解できている?」

「くく。話の分かる等級AAを見つけるのは、新たな理論を一から構築するよりはるかに手間なのさ」

「なら。その貴重な協力者を失望させないで欲しいわ」


 アザミの声には迷いがない。未知に飢えた眼前の男が、求める解答に辿りつかぬ筈はないと。微塵の疑いも持っていないのだ。

 欺瞞と謀略に揉まれ培われた観察眼が、アザミを他者に使われる立場から他者を使う立場へと引き上げた。それは揺ぎ無い強者としての顔を作り、アザミを支えている。


「やはり件のオペレーターを使うつもりかね」


 アザミと繋がってひと月。和葉が生きてきた時間からしてみると、ほんのわずかな期間でしかない。

 短くも長い、とても満たされた時間だった。


 今では和葉にもアザミの思考を手がかりに、ふたりの会話の先の先が読めるようになっていた。

 切り与えた自分という像を共通の文脈として、アザミは結論だけを望む形で与える。他人の眼に映る自身を熟知しているからこその芸当。

 けれど、そんなアザミを見る度に和葉は心を痛めていた。


「博打は趣味じゃないわ。それに、たかだか実験ひとつに命をかけられるほど、わたしも酔狂ではないの。……で、試算はすんでいるのでしょう?」

「臨界から百十七分。素体の意識(自己同一性)を保障できるのはそこまでだよ」


 手が口もとに添えられ視線が落ちる。

 薄闇に浮かぶアザミの横顔は、時折見せる思案の姿。


「そう」


 呟いたアザミが流れる所作で瞳を和葉へと向けた。薄く細められた眼差しに、好意的な感情を探すのは難しい。

 例えるなら傷ついた獲物を嬲るような、そんな嗜虐的な思惑が透けて見える。


「良かったわね、和葉。辞世を詠むくらいの時間はありそうよ」


 それは時代錯誤もはなはだしい死の宣告。

 今しがた思い悩んだのは、そんな気の利かない皮肉を口にするためだったのだろう。


 ――思い残すことのないように。


 言葉に秘めたアザミなりの叱咤に、心臓も肺もなくなった機械仕掛けの胸さえも締めつけられる思いがして、和葉は泣きたくなった。それでも――。


「つまり、アザミが最期まで見届けてくれる、ってお話ですよね。嬉しいです」


 ともすれば叫び出しそうになる衝動を抑え込み、笑ってみせる。

 過ぎたる力を手にした者に、人並みの弱さや迷いは許されない。

 和葉の選択に際し、アザミはその覚悟を問うた。あのとき、朧げに感じたアザミの鬼気を今なら断言できる。


 人という生き物が持つ弱さへの、憎悪すら霞む拒絶。

 煮え滾る狂想がアザミのすべてだった。

 そう、すべてなのだ。自身の持つ弱さを、なにものにも先んじて喰らい尽くしてしまったアザミには。


 和葉がアザミを想って流す涙は、アザミのそんな在ろうとする姿と相容れることはない。

 避け得ぬ死を前に足掻き続けた和葉に、アザミは機会を与えてくれた。生きたその意味すら分からぬまま死んでいく、そんな恐怖に震える日々に終わりが見えたのだ。

 こんな自分でも、誰かに希望を遺すことができる。それがたとえ、屍の塚を築くだけの行為であろうと。


 カーラにしてみれば、自分なんて使い捨ての道具。それが現実だ。

 愚かと他人(ひと)は嗤うだろう。大勢の人間を自己満足に巻き込んだことを罵るだろう。不幸と哀れむ者も、あるいはいるのかもしれない。

 けれどなにを思い感じ考えようと、畢竟それは和葉以外の誰かだ。


 和葉は今の境遇を肯定的に受け止めていた。

 青臭い理想を夢見て命を投げ打つ。そんな頭の悪い最期を、合理と論理が絶対的なこの時代、どれだけの人が選べると言うのだろう。

 アザミも同じなのだと和葉は思う。


 出会った時からアザミは和葉の理解者だった。理解者でいてくれた。だからこそ、和葉もアザミの理解者でありたいと願う。

 必要とあらば、アザミの刃となりその悪意を体現することにさえ、ためらいはなかった。


「ふふふ、強がっちゃって。いざ本番という場面で幼子のように泣き喚いたりしなければいいのだけれど」

「大丈夫ですよ」


 機械化された声帯が、肉声と変わらぬ弾みを声に乗せる。


「ともあれ、これで駒は揃った」


 嗤いをかき消したアザミが伏目がちに呟く。

 そして再び持ち上げられた瞳に灯るのは、戦鬼としての峻烈な意思。


「上は明後日、〇二〇〇の作戦開始を求めているわ」


 どう思う? そんな疑問系でありながら失笑交じりのアザミの声に、和葉はそれが単なる確認でしかないことを悟る。

 となれば必然、気になるのは三日の猶予が断たれた理由。


「状況はそんなに悪いんですか?」

「想定の範囲内、良くも悪くもね。でもそれが司令(九重)には気に入らないのでしょう。幹部(ライバック)の眼もあるからこれでも自重した方よ。等級AAの前では塵に等しくとも、大多数を占める等級B・Cにとっては、個々の能力はどうあれ、装備の整った稜江は総体として十分に脅威足り得る。ふふふ、同胞(なかま)想いなのも考えものだとは思わない。テロリストが聞いて呆れてしまうわ」


 アザミの言葉で、いくつものことに納得がいった。

 嘲弄はなにも九重にのみ向けられたものではない。和葉を、ひいてはアザミ自身を揶揄している。


「でも結論を妨げる問題がなくなった今、損害を減らす術があるのであれば、あえてそれを拒む必要もありませんよね」


 だから和葉は軽い気持ちでそのことを口にすることができた。アザミはといえば文句をはさむでもなく、視線をシズロへ移すのみ。

 肩をすくめるだけのシズロ。アザミはそこに肯定を見たようだった。


「……残された時間でできるだけ身体に慣れておくことね」


 声に応えるように、身体の内の十五の変性部位(アートマ)が鳴く。

 いよいよ始まるのだ。

 脳と切り離されてなおそこに焼きついた意思が、和葉に昂ぶりを訴えてくる。


 もう少し、もう少しだから。


 アザミの記憶としてしか知らない罹患者(サフェル)たちに、親愛と崇敬を込めて和葉はささやく。


「我等シャマシャナ社員(アンガ)一同、カーラ・アザミ並びにカーラ・カズハ両名が大願を果たさんことを祈っているよ」


 シズロの白々しさが妙に心地よく聞こえた。



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