第2話「兄妹」
◆ユウゼイ◆
「兄さん。起きてください、兄さん」
耳に親しんだ囁きが、リニアの発するかすかな電磁モーターの駆動音に混ざる。
「ん、何時だ?」
電視野に時刻ツールを呼び出すのも億劫だった。
さしたる時間乗っていたわけでもないというのに、ずいぶんと深く寝入っていたらしい。
どんな状況にあっても即座に眠りにつくことができ、また同様に覚醒することのできるユウゼイにとって、それは滅多にあることではなかった。
望んで身につけた技能ではない。
できなければ、生き抜くこともままならぬ環境で育ったというだけのこと。
「九時四十七分ですね。あと四分程で八束に着きますよ」
どこか遠い声。ユウゼイは久方ぶりのまどろみを堪能していた。
自身が爆睡する条件を、ユウゼイは心得ている。危険の少ない状況下。それでいて、早苗があたりの監視警戒を密に施していてくれている。その安心感だけが、ユウゼイを深い眠りに誘うことができた。
まどろみに留まることは、早苗の気づかいへの、この上ない感謝のあらわれでもあるのだ。
倒した座席もそのまま、脇の卓上に手をすべらせ、指先だけで多目的眼鏡を探る。
ふわりと甘い香りが鼻先をかすめた。
手に触れた細い指先が、ユウゼイの掌に眼鏡を握らせる。
「横着していると、また落として壊しちゃいますよ?」
瞼を持ち上げれば、身を乗り出した早苗の責めるような眼差し。
両の肩口でくくった純白、髪の一房がはらりと肩からこぼれ、体側へと流れ落ちる。
三十メートルの高所から落とした一件とこれとを、同列に語るのはいかがなものか。
半年ほど前の話だ。
急な仕事で着の身着のまま駆けつけた現場。ユウゼイは生身のまま戦闘に突入した。
その戦闘のさなか、不用意にも外れてしまった眼鏡は、伸ばした手もむなしく遥か地上へと真っ逆さま。
仕方がなかった。仕方がなかったのだが――。
「あれは、悪かったよ」
ユウゼイは視線をそらし、眼鏡をかけながら謝る。
脳裏には、それを伝えた時に一瞬だけ見せた、早苗の悲しげな顔が浮かぶ。
実はこの眼鏡型外付け汎用機器、早苗が調整した一品物なのだ。
こと壊してしまった品というのが、二人が養父に引き取られ、義兄妹になった記念日を祝してのものとあっては。
「ふふ。冗談です。私は兄さんが無事に帰ってきてくれる、それだけで十分なんですから」
それはそれ、これはこれ、という言葉がある。もっとも“それ”だけが理由でない可能性が一番高いのだが。
ユウゼイはこの複雑な妹の胸中に、内心溜息をこぼしつつも。
「心配するな。俺が早苗を置いていなくなるわけがないだろ」
求められるまま手を伸ばし、その頭を撫でてやる。
「えへへー」
目元を綻ばせすり寄ってくる早苗。
垂れかかる絹糸を思わせる白髪が、頬をくすぐった。
養父を蝕災テロで失って以来というもの、庇護に過ぎたか、早苗の甘え癖は十五歳にもなるというのに抜けない。悪化してすら思える。
嫌、というわけではない。
だからこそ、ユウゼイを困らせるのではあるが。
リニアが減速を始め、四方を囲う灰色の防音壁が途切れた。
窓の外、開けた視界に八束吾破特別地区の威容が飛び込んでくる。
その高さゆうに五十メートルを超える断崖――代謝コンクリートの巨壁が内と外を隔絶し、それに勝る百メートル級のビルディングが上部を外界に晒している。
突き出た五百メートル級の尖塔は、それだけで完結した社会を形成する乙型アーコロジー構造体だ。
その大部分は国内に多大な影響力を有する超巨大企業体、稜江代府の所有物だった。
「大都市なんて何年ぶりでしょうか。データでは確認していましたが……同じ特区でも草野とはまったくの別物ですね」
窓の外へと向けられた早苗の横顔には、過去を懐かしむ色が見えた。
「草野は企業の支配を拒み続けてきたからな。全ては永山様々だ」
つられる様にして口にした自分の言葉に、苦味が残る。
「今は兄さんが、ですよね」
目元をゆるめ、笑みを形作る早苗。それはとても儚げだった。
瞳に宿るのは、ユウゼイの抱いたものと同種の感情。親しい者が欠けた痛みは、一年やそこらで消えてはくれない。永山の名を出せば、自ずと欠けたその少女にも記憶の手が伸びる。
「今までは、さ。横槍を跳ねのけられず、俺も理灯も島流しだ。あの女が手を打っていないとも思えないが、今後はどうなることか」
ちらつく影を吹き払うように、おどけた声を出す。
そして強引な話題の転換。
「そう言えば知ってるか?」
「何をですか?」
早苗は協力的だった。
先の話を続けたところで、返ってくるものはなにもない。互いにそのことをよく理解していた。
「草野だって文書ではまだ立派な都市構造体なんだぞ」
「上層建築は蝕災のときの爆撃で、いまだに瓦礫の山じゃないですか……」
口にして「ああ」と納得の頷き。
かつては草野も、都市構造体と呼ばれる国内有数の大都市であった。
それはさながら小国家。
都市が国におよぼす経済的な影響力は大きく、それゆえに、都市の有力者は国に対して強い発言力を持っていた。
実態をともなわない肩書きであっても、望む輩は存外多くいるのだ。
「お粗末な見栄ですね。やっぱり草野防疫局が、ですか?」
「その程度ですんでいればかわいいもの、だったんだけどな」
大仰に溜息をつく。
「あと。八束ではそれ、やるなよ」
触れた早苗の柔らかさから意識をそらし、つとめて強い調子で口にする。
入都の際の身分では、ユウゼイと早苗はまったくの他人ということになっているのだ。
「あ、その件ですけど。私こと片桐智子は、夏木明先輩とお付き合いしている、って設定にしようと思います。というか決めました」
「なんのための偽装だと思ってるんだ……」
ユウゼイの嘆きをかき消すように、到着のアナウンスが流れる。