第27話「眼を背け続けていた真実」
◆ユウゼイ◆
「遅れてしまってごめんなさいっ」
予定時刻を十五分ほど過ぎて、宮子と和葉はやってきた。
空間図上に位置情報が記されているというのに、見慣れぬ私服姿ゆえか発見がわずかに遅れる。
宮子は以前サガラ社で見たモノトーンの衣装から一変して、クラシックアレンジの和式ワンピースにブーツという出で立ち。和葉の方はといえば適度に胸元を強調したタンクトップに、ストールを肩にかけ、両の腕は長手袋で覆っている。
私服でやってきているのは宮子たちだけではない。が、少し方向性が違っていた。
シャツにジャケット姿のユウゼイは、トレードマークとも言える眼鏡を今日はかけていない。早苗がブラウスとスカートの上に羽織るモッズコートも、カジュアルな仕立てながらどこか野暮ったい。
それもそのはず。ふたりは私服と言っても戦闘用の服装でこの場に臨んでいるのである。
「アザミの組んだ抜け道が、私にはちょっと、慣れないもので……」
よほど急いだのだろう、和葉の息はあがっていた。
「大丈夫ですっ。先輩以外の人との待ち合わせなんて久しぶりで、時間なんてあっという間でしたから!」
和葉の自然な立ち居姿に内心感心しかけたユウゼイは、直後猛烈な怒気をのせ宮子への呼び出しを送った。
あまりに健常体過ぎたのだ。
接続を確認したユウゼイは、しかし憤怒を吐息とともに追いやる。論理ですら敵わぬ相手をまえに一時の感情で動くなど、自ら首を捧げるに等しい愚行だった。
『おい宮子。おまえは取引を反故にするつもりか』
自身の惰弱さを心に留め宮子との距離を詰めると、冷然とした情報誤差で告げる。右の指先は袖内のナイフの柄にそえられ、いつでも抜き放つことのできる構え。
宮子はと言えば、ゆるく握った手を口もとに小さく首を傾げただけだった。
それも数秒。ユウゼイが言葉を接ぐより早く届く無声通信。
『そういうこと。あなた、わたしたちのことをまだ妹に打ち明けていないのね』
すでに告げているものと思っていた。そう宮子は言っているのだと気づく。
宮子の言葉はすなわち、その想定にすら満たぬユウゼイの現状をしめしていた。
『俺のことを過大評価してくれていたみたいだが、残念だったな』
隠し切れぬ自嘲が情報誤差としてレスに紛れた。
敵であるはずの宮子、その期待にそえなかったところで、なんの不都合があろうか。己の身を切るような事実であったとしても、あらゆる面で格上の宮子の予想を覆したのだ。このわずかな認識の違いを光明と見て、いかに利用し裏をかくか。それこそが今のユウゼイに求められるものであるに違いない。
だというのに。告げられた言葉は鈍い刃のように歪に心を抉っていた。
宮子になにかを期待していたとでも言うのだろうか。こんな人の心を嘲弄する化け物に。
湧きあがる思考に呑まれかけたユウゼイだったが、しかし今そんなゆらぎを宮子に悟られるわけにはいかなかった。思考を引きもどし文章を組み立てる。
『おまえに違える意思はなかったということか。……今のが演技でなければの話だが。とは言え反した行動をとったのは事実、そうだろう?』
立場上避け得ぬ即席の言葉は、どこまでも空しい。
道化の自分を虚勢で塗り潰すその行為は、できたばかりの傷口をただ醜く押し広げただけのように思えた。
『わたしね、あなたにどう接したらいいか分からないのよ』
内心とは裏腹に尊大な態度を固持するユウゼイに、宮子は唐突な、脈絡のないレスを返してきた。
嗤いを含まない穏やかな情報誤差に虚を突かれる。かすかに伏せられたまつ毛が、物憂げな陰影を幼さの残るおもてに刻んでいた。
『だってそうでしょう、口では妹が妹がって言っているのに、あなた自身が妹のことを都合のいいようにしか見ていないんですもの』
警戒心に先立つ刹那の困惑に、狙いすましたかのように挿し込まれるレス。
『……俺が、早苗を蔑ろにしているって?』
レスに嘲笑が混じる。
『随分と稚拙な冗談だ。勝手な妄想を、さも真実であるかのように語られても困る』
情報誤差も鋭く言い放つユウゼイに、宮子が小さくため息をひとつ。
「またそうやって気がついていないフリをして」
ずいと一歩、身を寄せてきた宮子のひそめられた声が耳を打つ。
ユウゼイは咄嗟の反論に詰まった。
『本当に薄情なお兄様。健気な妹ちゃんを想うとわたしの胸まで痛んでしまうわ』
覗き込む眼差しの下では、不信感を煽るように笑みが薄く引かれている。
『いちいち勿体ぶって、なにが言いたい』
そのレスにはユウゼイが自覚しないまま、多分に情報誤差が篭っていた。
『あの子、初めからわたしたちの正体を知っていたみたいよ』
宮子の告げた言葉の意味を、ユウゼイはすぐには飲み込むことができなかった。
視線が宮子から逸れ、その瞳に早苗を映す。
「むぅ。なんだか悔しいですがその服、和葉さんにとても似合っています」
そうと意識すれば聞きとれる、ふたりの秘めたささやき声。
「ありがとうございます、早苗ちゃん。折角の機会だからって、ちょっとだけずるした甲斐がありました」
折りしも、早苗が和葉の服装について言及している最中であった。
「選んだのって、もしかして宮子さんだったりします?」
「意外、とか思っていますね」
「似合わないです……。服が、って意味ではなくてですよ? むしろ捻くれ具合を上手く昇華させていて、その器用さが気に入らないですね!」
和葉の調律に踏み込む素振りはない。しかしその慣れた会話運びからは、二人の間で調律にまつわる会話が幾度か交わされてきたことをうかがわせる。
ユウゼイが今それを耳にしたのは、恐らく偶然ではない。宮子が見計らったというのもある。だが根底にあるのはもっと別のもの。
なぜこれまでそんなことにも気づいていなかったのか。ユウゼイの胸のうちに疑問符が並ぶ。そしてそれは次第に自身への不信へと変わっていく。
『そんなに自分が大切だったなんて、ね』
出口を失ったユウゼイに投げかけられるレス。光明と呼ぶにはあまりにも澱んだ皮肉。
俺は早苗のためを想って。
もとからそこに用意してあったかのように、反射的に構築される耳障りのよい理屈。
本当に? 本当にそうだったのか?
薄れかけていたかつての記憶が呼び起こされる。
あの時だって、弱く愚かな自分は早苗に縋ったのではなかったか?
いつからか意識の外に追いやり、贖罪という言葉に押し込めて満足していた。気がつけば、自分を騙し誤魔化すことばかり上手くなっていた。
あれ以来その話題を口にしたことがないのは、言うまでもないことだからなどではない。単に己の弱さに向き合う覚悟がなかっただけのことなのだ。
唾棄すべき宮子の言葉が、すとんとはまる。
『それが本当の自分ではないと思うから苦しいのよ。あなたはわたしと同類。そんなどうしようもない自分を受け入れてしまえば、それだけですべては上手くいくの。……妹に強がって見せるのは、気持ちがよかったでしょう?』
逃げるように視線を早苗から外す。ぶつかった宮子の眼差しは底知れぬ闇をたたえ、嬲るように細められていた。
『俺は、違う。おまえと……同じだなんて』
『自身すら信じていないものを、どうやってわたしが信じればいいの』
冷然と告げる宮子に、ユウゼイは返す言葉を失う。
「……それでも、俺は早苗を」
沈黙の後、口をついて出たのは執着にも似たつぶやき。
しかしその悪あがきすらも言いきることは叶わなかった。
「先輩、和葉さんも落ち着いたようですしそろそろーって、おいこらーっ! ちょっと眼を離した隙になに至近距離で見詰め合っちゃったりなんてしてるんですか!」
怒声と言うよりも悲鳴。戦闘訓練にも勝る俊敏さで距離を詰めた早苗が、ユウゼイと宮子との間に割って入る。
後ろ蹴りで飛び込んできた早苗と、避けるため一歩身を引いた宮子を、そう表現できるのならば、だが。
「宮子さん。何度も何度も言っていると思いますが、私の先輩に変なちょっかいかけないでもらえませんか?」
挑むように立ち塞がる早苗。
「あら。そんなに大切なものなら、人目のつかない所にでも隠しておかないと。見せびらかしているのを見ると、横からさらってしまいたくなるわ。他人の持ちものって、すごく魅力的に見えるものなのよ? 奪って、目の前で滅茶苦茶にしてしまいたいくらいに」
「宮子さんのそういう腐っていても自分を貫いているところ、嫌いじゃないですよ。あ、でもその糞尿ほども価値のない性根は見ていて不快極まりないので、早々にくたばっていただけるとありがたいです」
ユウゼイに関わることだから、と言うにはいささか感情が乗りすぎている。口調もすっかり昔に戻っていた。
どれだけ多くのことから眼を背けてきたのだろうか。
だが、確かなものもある。
「アザミ、折角のお出かけが台無しになってしまいそうですね」
和葉が宮子の機先を制するように言葉をはさむ。その視線がちらりとユウゼイに向いた。
「早苗も落ち着け。なにしに学院から出てきたと思ってるんだ。それに……俺はお前以外のものになるつもりもない」
小声でつけ加えた一言に、早苗が勢いよく振り返る。見上げる怪訝な瞳に遅れ、隠しきれぬ笑みがこぼれる。
それを見て救われているという実感。
「そうですね。折角和葉さんが一緒なんですから、こんなことで時間を使ってしまうのは勿体ないです」
そう言って和葉の手をとり、早苗は歩き始める。
ユウゼイの心中に渦巻く闇はいまだ晴れる気配すら見えない。しかし進むべき道は早苗とともにあるはずだ。
宮子の視線を振りきるように、ユウゼイは小さな背へと一歩を踏み出す。




