第1話 「それは始まり」
◆ユウゼイ◆
最古の記憶にはもう、真衣が傍らにあったようにユウゼイは思う。
幼い頃のことはよく覚えていない。
父親の顔も、母親の顔も。
ぼんやりとした面影すらも、ユウゼイの記憶には浮かばない。
なにもユウゼイが特別というわけではなかった。
子供の人工胎盤施設での生産が主流となった日本では、両親のいない子供なんて掃いて捨てるほどいた。
生活で必要とされる知識にも不足はなかった。
施設で生まれた子供はそういうものなのだと、刷り込まれた知識が教えてくれている。
だから、そのことをユウゼイは別段気にしたことはなかった。
今なお思い出せる記憶の始端には、なにがそう駆り立てるのかも分からない、ただ山中を必死になって走り続けている姿があった。
次に鮮明になるのは、どこにでもいるような親なしのユウゼイにぴったりの、これまたどこにでもありそうな剥げ落ちた塗装が目立つ、古びた養育施設。
当時ユウゼイはまだ十歳だった。正確には、十歳として扱われていた。
行き倒れていたユウゼイを、誰かがここへ運んだらしい。
地方でなければこうはならなかっただろう。
実に幸運なことだった。
今にして思えば、まっとうな施設ではなかったのだろうが。
ボロが出るのは早かった。
引き取られた晩、発作がユウゼイを襲った。当時のユウゼイはまだ、真衣を抑える術を知らなかったのだ。
与えられた寝具を抱え、割り当てられた部屋へと向かおうとしていた時だ。腕の中の寝具が肉と臓物を思わせる塊に変じ、足もとにまき散らされた。吾破病の発作――真衣の暴走だ。
幸いにして至近に人は居らず、連鎖発症という惨事は回避できた。
だが、見られた瞬間から施設にユウゼイの居場所はなくなった。
率先して動いたのは大人たちであった。
彼らはユウゼイを追い出そうとはしなかったが、執拗なまでに遠ざけようとした。
第二次サーフェナイリス・ハザード|《歌声事件》から三年。彼らは心を満たす発症者の恐怖と、罹患者という抗いきれぬ富への欲求との間で、ゆれ動いていたのである。
大人たちの不安、そして神経質な言動は、子供たちの攻撃衝動としてあらわれた。
ユウゼイへと近づくことを禁じられた子供たちの取った手段は――投石だった。
大人が子供たちになんと言い聞かせているのか。幼いユウゼイにも、彼らの罵声の端々からそれを読みとることはできた。
――ユウゼイに、その血に触れれば、自分たちもまたサーフェナイリスになってしまう。
とんだ言いがかりだ。
けれどサーフェナイリスの確認より今日まで、世間一般の吾破病への理解なんてそんなもの。真実なんて彼らにとって重要ではない。ただ、不安のはけ口を欲しているだけなのだ。
距離をとることで不安を紛らわせようとした大人たちと違い、子供たちは不安の元凶であるユウゼイを敵として排除しようとした。
向けられる敵意や悪意に、ユウゼイはもっと恐ろしいものを知っているとでも言うような、陰鬱な豪胆さで対した。それがさらなる反発を生むのだと、気づいてはいなかった。
◆◆◆
その二日後。
ユウゼイの姿はいまだ施設にあった。
大人たちも、罹患者の売買には不慣れだったのであろう。
あるいは症状に依拠する価格設定の交渉に、時間がかかっていたのかもしれない。
正午を少し過ぎた時分であった。
「病気持ちがそれ以上入ってくんなっ!」
裏口の前に仁王立ちになった、施設では年長組の少年が声を張りあげる。
そーだ、そーだと賛同する声が扉の中から、上の階の窓から立て続けに起こる。
ユウゼイと彼らとの間の剥き出しの地面には、土の抉れた細い線が引かれていた。
その果てはユウゼイのいる場所からでは見えない。施設の正面入り口まで続いているのだということは、容易に想像できたが。
「害獣には地べたがお似合いだ!」
発作の直後、ユウゼイは建物から追い出された。
本当は、ここで施設から追い出されないことに疑問を抱くべきだったのだろう。
けれど幼く、また飢えに飢えていたユウゼイにとって、食事が出てくるというたったそれだけのことが、この場所に十分な価値を与えていた。
「昼飯。おれの昼飯どうしてくれんだよ」
幽鬼のごとく佇むユウゼイの肌の、いたるところに痣や裂傷、擦過傷があった。
二日。たった二日で、ユウゼイは満身創痍のありさまだった。だが、全身に刻まれた傷の痛みすら、今のユウゼイには気にならない。
足もとに拡がる、泥に塗れもとの形がなくなるまで踏み潰された食料の残骸。やったのが誰かなんてことは、口に出して聞くまでもなかった。
年上の少年の言葉を無視してユウゼイは線を踏み越える。
「来るんじゃねえっ。ぶっ殺すぞ!」
「ぎゃーぎゃーウルサイんだよ。近づけば逃げる腰抜けのくせに」
刹那の静寂。そして倍化する罵り声。
怒りに打ち震える少年の手から、何かが投擲された。石だ、と思った。
次の瞬間、訪れた衝撃に二歩三歩とたたらを踏む。立ち続けることも叶わず、ユウゼイは膝をついた。
剥き出しの地面に散る鮮やかな赤。額にやった手を、ぬるりとした感触が濡らす。
揺れる視界。流れ出た血が右眼に入り、世界を赤に染めていた。
「へ、へへ。ざまあないな。先生が怪我させるなって言うから、こっちは手加減してやってたんだ」
「で、でも大丈夫なのかよ。いっぱい血が出てるぞ」
「オレ知らねーから!」
「おまえら、逃げてんじゃねえっ」
耳鳴りに混ざり、足音がばたばたと。そして声が建物の中に消え、遠ざかっていく。
この場にはユウゼイ一人が残された。
拭っても拭っても溢れ出す血。紅にぬれる両手を見下ろす。ようやく、ユウゼイもこの身の受ける不条理を悟り始めていた。
じゃり、と。砂を踏む音が近づいてくる。
大人のものではないな。それだけを意識の片隅に、ユウゼイは考えることを止める。
どうせロクなことではない。
「血、血がっ。なんで、こんな……ひどい」
聞こえたのは女の子の震える声。
その妙に切羽詰った様子が気になって、ユウゼイは声のした方向へと首をめぐらせる。
「あ、うごかないでください、いま」
小さな女の子だった。
ユウゼイより二つか三つ――外見年齢は、だが――年下のその女の子は、可愛らしい顔を歪め、眼には涙をたっぷりと溜めていた。
――なんでこの子は泣いているのだろう。
自分に向けられるのが害意だけなのだとそう思い始めていたユウゼイには、それが自身を思ってのものだとすぐには気づけなかった。
けれど、止めなくてはとユウゼイは思う。
予感だけがあった。
自分に関われば良くないことになる。この子を巻き込んではならないと。
「どっか行けよ!」
ユウゼイは強く言い放つ。
「行かない!」
しかし少女は激しく首を振る。
脱いだ上着は傷口を押さえるためのものだろう。
「いらない。余計なことするな」
「でも、すごく痛そうだよ」
「痛くない」
「うそだよ。こんなにいっぱい怪我してるもん」
身体に刻まれた無数の傷と、額の傷とは別物。そんな論理的な答えは、ふたりにとってなんの意味も持たなかっただろう。
少女の優しさをどう振り切ればいいのか、ユウゼイには分からなかった。
それでも、関わらせてはいけない。
焦燥感に身体が動いた。
「おれに触るな!」
のばされた少女の腕を、ユウゼイの右手が払う。
過ちに気づいたときにはすべてが手遅れだった。
少女の白い腕に引かれた真っ赤な帯。扉の奥の息を呑む気配は、ユウゼイが死んでいないか確かめに来た子供たちのもの。
それが、ユウゼイと少女――早苗の出会いだった。
◆◆◆
その日、施設に送られてきたばかりだった早苗は、ユウゼイが罹患者であることを知らなかったらしい。知らぬままに出会い、理不尽に胸を突かれ、手を差しのべた。
ユウゼイに触れたことで、早苗もまた弾かれる者となった。
半症真衣による接触感染は、吾破病感染経路として上位に位置するものだが、それはあくまでも真衣に由来するもの。
罹患者の血液が感染を引き起こすという先入観は、やはりサーフェナイリスそのものの持つ飛沫真衣感染のイメージゆえであろう。
だが、潜在的な恐怖に対する口実としては、そんな曖昧な理由で十分だった。
等しく弾かれる者となった早苗を、ユウゼイは養父に引き取られるまでの二日の間、庇い続けた。
たかが二日。
しかしユウゼイと早苗のふたりにとっては、先の見えぬ途方もなく長い二日であった。
ユウゼイは養父、石動譲二に買われた。
だが、それはユウゼイが罹患者であったからだ。早苗は違う。
ともに来ればこの境遇から解放してやれると説得する譲二を、ユウゼイは拒んだ。
すでに売買は成立していたのだ、もとよりユウゼイの意思など関係なかったであろう。それでもなお本人の納得を求めた理由は、ユウゼイには分からない。
今の境遇に甘んじてでも早苗のそばに居続けようとするユウゼイに、譲二はひとつの条件を持ちかける。
そしてユウゼイはこの条件を呑み、早苗はユウゼイの妹となることが決まった。
今から七年前の出来事。
ユウゼイにとっての、人としての記憶の始まり。
償いきれぬ罪と、終わりなき後悔の最初の一段。