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なくなる

作者: 古川 欝

なくなる


1


梅子さんは元気いっぱいの女の子でしたが、このところ何をしても面白いと思うことが無くなってしまいました。

お友達とおしゃべりをしていても、学校の授業を受けていても、大好きな本を読んでいても、とにかく何をしていても、なんだか全てがぼんやりとした霧に覆われていて、物事がはっきりと見えないような、そんな気分なのでした。

お友達やお母さんに相談しようと思うこともありましたが、話す段になると、どうにもその気分を適切に表す言葉が見つからず、結局は何も言えないままでした。


そんな気分に梅子さんは耐えられなくなってきました。

梅子さんは次第に、自分自身も原子のレヴェルまで拡散し、自分を取り巻くこの霧と共に散り散りになって消えてしまえば良いのに、と思うようになっておりました。


今日もそんな気分のまま、一日が終わり、梅子さんは学校からトボトボと帰り道を歩いてきたというわけです。


そんな梅子さんの前を、一匹の小さな白い生き物が横切っていきました。


「あら、何かしら、あれは?ちょっとこっちへ来てごらんなさい。チッチッチ…」


猫を呼び寄せる要領で梅子さんが手を前に出したところ、その小さな白い生き物は、立ち止まり、梅子さんの前に歩み寄ってきました。


よく見るとそれはなんとも愛らしい顔をした生き物でした。梅子さんは知りませんでしたが、その生き物は「テン」というイタチの仲間で、滅多に人間に近寄ってくる事はないのです。


テンは可愛らしい顔でしばらく梅子さんの顔を覗き込んでいましたが、突然、人間の言葉で話し始めました。


「お初にお目にかかります、お嬢様。わたくしめはテンキチと申す、しがない生き物でございます。失礼ですが、あなたは梅子様ではございませんか?」


「あら、びっくりしちまったわ。あなた、人間の言葉でしゃべるのね。それも馬鹿ていねいだわ。先生でも、そんな丁寧にはしゃべらないことよ。ええ、私はたしかに梅子よ。あなた、どうして知っているの?」


「へえ、実はわたくしめは、まさにあなた様にお会いするために、滅多に近寄れないこの人里まで命懸けで降りてきたのです。どうぞ、わたくしめに、いや、私達に、あなた様のお力をお貸しくださいませ。」


人間の言葉で話すその不思議なテンは、そこまで言い終えると、その可愛らしい小さな頭をちょこんと下げました。


「私があなたに力を貸す?それはいったいぜんたい、どういうことなの?私には特別な力なんて、これっぽっちもないというのに。そうだわ、2組の西条さんなら、きっとあなたの力になれるわ。彼女、動物が大好きで、ものすごく詳しいんだもの。」


「いいえ、これは他の誰でもない、梅子様にしかできない事なのです。しかし、ここでは詳しいことは申し上げられません。どうぞ、私達の里までお越し下さい。」


そう言うとテンは草むらの方に走り寄り、付いて来てほしそうに梅子さんの方を振り向きました。


梅子さんはしばらくどうしようか迷っておりましたが、この不思議な生き物に付いて行けば、今までにない、はっきりとした面白い体験ができるのではないか、という好奇心に負け、テンの行き先に付いて行く事にしました。


2


テンの後について草むらを抜けると、驚くことにそこは見知った坂本さん家の裏庭ではなく、鬱蒼うっそうと茂る深い森の中でした。


木々は全て、梅子さんがそれまで見たこともない恐ろしい高さで、天まで届くかのようにそびえ立ち、その枝葉で空は覆い隠されていました。それにも関わらず、梅子さんが道を歩いて行けたのは、前を歩くテンの身体がぼんやりとした不思議な光を発しているからでした。


「ねえ、テンキチさん。そろそろ教えてくれても良くはない?いったい私に、何をしろというの?」


この世のものとは思えない光景に梅子さんは不安になり、前を行くテンに問いかけました。


「もうすぐ、その理由がわかります。しばらく、ご辛抱下さいませ。」


テンは足を止めず、振り返ることもなく、答えました。


しばらく行くと、どこからともなく、悲しいような、恨めしいような、何とも形容のし難いうめき声のような音が聞こえ始めました。しかも、今は夏だというのに、梅子さんの吐く息が白く見えるほど、寒くなってきました。


「ねえ、テンキチさん。なんだかいやに寒くない?それに、あの声は、いったい何なの?なんだかものすごくつらそうだけど。」


梅子さんは恐ろしくなって、前を行くテンに問いかけました。


「もうすぐ、その理由がわかります。今しばらく、ご辛抱くださいませ。」


テンは足を止めず、振り返ることもなく、答えました。


3


そうしてどのくらい歩いたか、梅子さんには何故か判然としませんでしたが、いつの間にか、少し開けた場所にたどり着いていました。


そこには小さな池があり、その中に先刻来の恐ろしいうめき声の主がいました。


それは軽く三尺は超えるかと思われるような大きな鯉で、その大きな口を池の水面から出して、まるで人間のようなうめき声をあげているのでした。


「おおい、おい、おい。これが悲しくなくって、何が悲しいと言うのか。おおい、おい、おい。」


始めはその大きな鯉を恐ろしく思った梅子さんでしたが、鯉が余りにも悲しそうなので、思わず問いかけました。


「何がそんなに悲しいの、大きな鯉さん?どこか、痛むの?」


「おおい、おい、おい。悲しいよう。おおい、おい、おい。」


しかし、何度梅子さんが問いかけても、鯉はただ泣き叫ぶだけで、まったく要領を得ませんでした。


「梅子様、こやつは何千年ものあいだ、この池に棲んでいる”痛みを知らぬ鯉”です。この池にも以前は何十もの鯉がいましたが、今はこやつただ一匹を残すのみとなりました。それというのも、この鯉が他の痛みを知らないため、他の鯉を傷つけ、ことごとく死なせてしまったからなのです。今はご覧の通り孤独に耐えかね、泣き叫んでいますが、それは自業自得というものです。」


テンは自分の身体から発せられる光で大きな鯉を照らしながら、説明しました。


「痛みを知らない?そんなことがあるものかしら。でも、可哀想だわ、この鯉。ずっと独りでこの小さな池に棲み続けるだなんて。」


「打ち遣っておきましょう。たとえ新たな鯉をこの池に放したとしても、こやつがいる限り、また同じ事が繰り返されるだけです。それより私達は先を急がねばなりませぬ。」


そう言ってテンは先へ進もうとしましたが、梅子さんは何故だかその鯉から目を離すことができませんでした。


「おおい、おい、おい。悲しいよう。おおい、おい、おい。」


「いけないわ。私、この鯉をこのまま放っておくだなんて、そんな事できないわ。ねえ、テンキチさん。どうにかできないものかしら。」


テンは梅子さんの方を振り返り、少し考えているようでしたが、やがて口を開きました。


「梅子様。ひとつだけ、この鯉を助ける方法が、あることはあります。あなた様の吐く息を、この鯉に吸わせるのです。そうすれば、この鯉は”痛み”を覚えます。”痛み”を覚えれば、こやつも他の鯉を傷つけることがなくなり、また仲間と一緒に暮らすことができるようになるでしょう。」


「息を吸わせる、ですって?それだけ?そんな簡単な事で、この鯉を助けられるのなら、そうするわ。」


早速やってみようと踏み出した梅子さんの前に、テンが慌てて立ちはだかりました。


「すわ、お待ち下され、梅子様。たしかに息を吸わせれば、この鯉は助かります。ただし、その代わり、梅子様はご自分のお持ちだった”痛み”を忘れてしまいます。あなた様は痛みを感じなくなるだけでなく、ぬくもりも、温かみも、冷たさも、硬さも、柔らかさも、何も感じなくなってしまうのです。」


梅子さんはしばらくテンの顔を見ていましたが、おもむろに鯉の前に進み出し、その顔に白い息を吹きかけました。


すると、どうでしょう。梅子さんの口から出た白い息はそのまま、それ自体がまるで意思を持っているかのように大きな鯉の口の中に吸い込まれていきました。


その後しばらくの間、鯉はその大きな身体をバシャバシャと水面に打ち付けながら悶え苦しんでいるようでしたが、ふいに水中に姿を消してしまいました。


耳障りなうめき声は、こうして収まり、周囲はまた木々のざわめく音しか聞こえなくなりました。


梅子さんはしばらくボーッとしておりましたが、ふと、自分が最前までの寒さを感じていないことに気づきました。それどころか、自分の手で自分の顔や身体を触っても、「触っている」という感覚さえ感じなくなっていたのです。


それは梅子さんが今まで体験したことのない、とても気持ちの悪い感覚でした。自分が突然宇宙空間に放り出されたような、なんの拠り所もなくなってしまったような、そんな気持ちでした。


ふと、梅子さんは、もう自分が可愛がっている猫のミーのふわふわの毛を触っても、お母さんの身体を触っても、何も感じないのだ、と思いました。梅子さんは涙が溢れてくるのを止めることが出来ませんでした。


「おや?梅子様、何をお嘆きになっておられるのです?

あなた様にはすでにこうなることをお伝えしておりましたのに。

さあ、ここでいつまでも道草を食っているわけには参りませぬ。

先を急ぎましょう。」


テンは嘆く梅子を慰めることもせず、先に歩いて行きました。


「待って…お願い、テンキチさん、待って頂戴!」


梅子さんはこんな状態のまま置いていかれるなんて、怖くて仕方がありませんでしたので、必死にテンの後を追いかけました。


梅子さんにはもはや、さっきの決断を後悔する余裕さえありませんでした。



4


深い森をしばらく歩くと、また少し開けた場所に出ました。


そこは一面砂で覆われ、一種の砂丘のようになっていました。

周囲はこんなにも植物が生い茂っているのにどうしてここだけが砂漠のようになっているのだろう、と梅子さんは思いました。


その小さな砂漠には数え切れない程の犬のような奇妙な生き物がひしめきあっていました。

その不思議な動物は、全体の形は犬のようですが、よく肥え、体には産毛のような毛が所々に生えているだけで、ほとんど地肌が露出しているのでした。何より際立っているのはその豚のような大きな鼻でした。それらはその大きな鼻を砂の中に入れ、一心に何かを貪り食っているようでした。


梅子さんは近くにいるその動物が顔を上げた時、その口に何かキノコのような物を咥えているのを見ました。その動物は砂の中にあるそのキノコを食べているのだ、と、梅子さんは気づきました。


梅子さんが横を通っても、その動物は全く気付かない様子で、食事に夢中になっていました。


砂漠のちょうど真ん中辺りに差し掛かった時、梅子さんは動物の一匹が倒れて動かなくなっているのを見ました。

それは他の個体に比べると遥かにやせ細り、あばら骨がはっきり浮き出ていました。腹はほとんど背骨と同じくらいの太さになっていました。

一見するとそれはもう死んで動かなくなっているようでありましたが、その痩せた腹の辺りが膨らんだりへこんだりを繰り返すのを見て、辛うじてそれはまだ生きているのだということが分かりました。


「あら、どうしたのかしら、これは?みんなキノコを食べて元気に太っているのに。キノコはまだまだたくさんあるでしょうに。なぜ、この子だけがこんなに飢えているようなのかしら。」


「梅子様、この犬豚らめは、その大きく発達した鼻を使って、他の生き物には決して見つける事のできない砂中の茸を匂いで見つけ、それを食べることが出来ます。その代わり、犬豚は砂中の茸以外のものは食べられないのです。こやつめは不幸にも鼻を壊してしまったのでしょう。いくら犬豚とあっても、鼻を壊してしまっては砂中の茸を見つけることはもう不可能です。こやつはこのまま飢え死ぬ事でしょう。」


「そうなの、可哀想なのね。目の前に食べ物がたくさんあるのに、食べられずに飢えで死んでしまうだなんて。どうにか助けてあげられないものかしら。」


梅子さんは飢えた犬豚の背をそっと撫でてやりました。犬豚はそれにも気づかないほどに衰弱しきり、ただ、腹の辺りをわずかに上下させているだけでした。


「梅子様、どうか打ち遣っておいて下さりませ。このような下賎なもの共にかかずらっていたのでは、きりがありませぬ。しかし、どうしても、とおっしゃるのなら、方法はあることにはあります。先ほどの鯉の時と同じように、その犬豚の口元にあなた様の息を吹きかけるのです。そうすれば、この犬豚も本来の嗅覚を取り戻し、また砂中の茸を貪り食うことができるようになるでしょう。ですが、そうすれば今度はあなた様が…」


「そうすれば、今度は私が嗅覚を失う、という事ね。でも、どのみち私にはもう触覚がないのですもの。鼻が効かなくなったところで、どうって事はないわ。」


そう言って、梅子さんは飢えた犬豚の口元に、息を吹きかけました。すると、梅子さんの息はまたそれ自体が意思を持つかのように犬豚の口に入り込んで行きました。


しばらく経つと、動かなかった犬豚は突然はたと起き上がり、砂中に鼻を沈め、元気にキノコを貪り食い始めました。


その時、その犬豚を助けてあげて良かったと思うよりも前に、梅子さんは自分がもう匂いを感じなくなっていることに気づいていました。この森に入った時からずっと嗅いでいた木々や草花の緑の匂いが全くしなくなっていたのです。


梅子さんは、今現在ここで嗅いでいる匂いだけでなく、今まで嗅いだことのある匂いの記憶も失っていくのを感じました。おばあちゃんの家にあがった時の線香の匂い。大好きな金木犀の匂い。お母さんの匂い。匂いというものが自分にとってどれだけ大切なものだったか、梅子さんは初めて気がつきました。梅子さんの目からは大粒の涙がこぼれました。


「梅子様、お嘆きになられるのは少し妙かと思われます。それらは全て、あなた様ご自身がお決めになった事。それでは、先に進みましょう。」



5


深い森をまたしばらく歩くと、また、少し開けた場所に出ました。

背の低い草むらの広場の真ん中に小さな木が生えていて、その枝の一本にとても美しい七色の鳥がとまっていました。


その美しい鳥は全く鳴かずに、ただじっと悲しげな表情で遠くを見つめていました。


「こやつはこの世で最も美しい声で歌う鳥。しかしこやつは耳が聞こえなくなってからというもの、全く歌わなくなり、ただ、ここでじっとしているだけになってしまったのです。それも致し方ない事、なにせ、歌っても、もう自分ではそれが美しいのかどうかもわからないのですから。」


梅子さんはその美しい鳥をじっと見つめていました。鳥はとても悲しそうに遠くを見ているだけでした。梅子さんは鳥に近づき、その口元に息を吹きかけました。息はまた、鳥の口の中に吸い込まれて行きました。


次の瞬間、鳥は嘴を開け、何かさえずり始めたように見えましたが、梅子さんには何も聞こえませんでした。その時にはもう梅子さんの耳は聞こえなくなっていたからです。梅子さんはこの世で最も美しい歌声を聴くことが出来なかっただけでなく、もう大好きなピアノの音も、友達が梅子さんにかける言葉も、お母さんの優しい声も、二度と聞くことが出来なくなってしまいました。梅子さんの両の目からは、また大きな涙がとめどなく流れました。


梅子さんが泣いていると、目の前にテンキチが来て、また付いて来てほしそうにこちらを振り返りました。梅子さんはテンキチの後について行くほかありませんでした。



6


深い森をしばらく歩くと、また少し開けた場所に出ました。そこは岩場でした。

その岩場の真ん中に一際大きな岩があり、その上に、大きな熊が寝そべっていました。


すると、梅子さんの心の中に、テンキチの言葉が響き渡りました。


「こやつは味覚を失った熊です。味覚を失う以前は何でもおいしく食べる陽気なやつでしたが、今はただこうして岩の上に寝そべり、たまにその味を感じぬ舌で岩に生えた苔を舐めているだけになってしまいました。」


梅子さんは熊の口元に息を吹きかけました。熊は途端に嬉しそうに森の中に走り去っていきました。


梅子さんはもう大好きなお母さんのカレーの味を思い出せなくなっていました。


梅子さんの顔からは、もう表情がなくなり始めていました。



7


深い森をしばらく歩くと、また少し開けた場所に出ました。


目の前には天まで届くような崖が立ちはだかり、その頂上から滝が流れ落ちていました。


この森に入り込む前の梅子さんでしたら、滝の流れ落ちる轟音を聞く事が出来たでしょう。

肌に降りかかる水滴の冷たさも感じられたでしょう。

澄んだその水を飲めば、そのおいしさに顔をほころばせたでしょう。


今の梅子さんにはその滝が見えるだけでした。

それだけでも、梅子さんは少しだけ感動していました。それくらい、荘厳な景色だったのです。


滝の前には水に浮かんだ小島があり、その小島にはやせ細った老人が座り込んでいました。

小島には細い橋が掛かっており、森から歩いて渡れるようになっていました。


近づいてみると、その老人の目があるべき所はただ窪んでいるだけで、一見して目が見えないことがわかりました。


梅子さんは老人の前で、じっと立ちすくみました。


テンキチが横で自分を見上げているのを感じます。


どのくらいの時間が経ったかわかりません。それが、いつだったのか、その時、自分がどんな気持ちだったのかも、わかりません。


梅子さんの目の前から、光が消えました。



8



それは永遠に続くかと思われました。


どこまでも深い闇。どこが上なのか、下なのかもわからない恐怖。

果てしない宇宙のど真ん中に投げ出されてしまったような気持ち。


助けを呼びたくても、自分の声が出ているのかどうかもわかりません。

ここから逃げ出したくても、自分が今、動いているのかどうかすらもわかりません。

そもそも、自分というものがあるのかどうかさえも、わからなくなっていました。


ただ、梅子さんには、まだ何か残っているような気がしていました。

それは不思議ですが、自分の中ではない、どこかに、かすかではあるが確実に、あるように感じられました。


梅子さんはその、なんだかわからないけど、とても大切に思われる何かを、全身全霊をかけて心に描こうとしました。


それはだんだん自分に近づいているようでした。


それは果てしなく大きいようで、また、小さいようで、包み込まれたくなるようで、また、抱きしめたくなるようで、儚く消え去ってしまうようで、また、永遠に失われないように感じられました。


次の瞬間、梅子さんは見えないはずの光と、感じないはずの温かさに包まれ、目を覚ましました。


9


「おかえり。梅子。」


そこは一面光輝くドーム状の場所で、その真ん中に梅子と、もうひとりの誰かがいました。


それは、目の前にはっきり見えているはずなのに、誰なのか判然としませんでした。それなのに、自分はこの人を知っているという確信だけがありました。


ある瞬間にはそれはお母さんのようで、ある瞬間にはそれはお父さんのようで、ある瞬間にはおばあちゃんのようで、ある瞬間には友達の花ちゃんのようで、ある瞬間には自分自身のようでもありました。ただ、それが、今まで自分を導いてきたテンキチと同じものだということが、不思議と梅子さんにはわかりました。


その人物は優しく微笑みながら囁きました。


「ありがとう、梅子。ここまで戻ってきてくれて。もう、あんな所に行ってはいけないよ。」


梅子さんには、わかるような、わからないような言葉でしたが、何故だか涙が止まりませんでした。


梅子さんはその人の温かい腕の中で、まるで小さな赤ん坊のように、いつまでも泣きじゃくりました。



10



頬を撫ぜる気持ちの良い風に、梅子さんはハッと目を覚ましました。


眼下には見慣れた校庭のグラウンドと、花壇があります。

梅子さんは学校の屋上の、柵の外側に、靴を脱いで立っている自分に気が付きました。

靴の上には封筒が乗っています。


梅子さんはしばらくボーッと突っ立っていました。

風は相変わらず心地良く頬を撫ぜ、かすかに金木犀の匂いがします。

夕闇の中に、街灯や、家々の灯りがポツポツと付き始めるのが見えます。

校庭には、もう誰もいません。


その時、花壇のところに、なにか小さな生き物がいて、こちらを見上げているのが見えました。


「テンキチ…さん?」


小さな生き物は草むらに走り去っていきましたが、その前に、ちょこんと頭を下げたようにも見えました。


梅子さんはお腹の底から、笑いがこみ上げてくるのを感じました。


そして、帰りに、お母さんになんか甘いものでも買っていこうと思いました。



おしまい




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