通学路での観察
小学生の時の通学路の出来事で二番目に印象に残っているのは、道に排泄されていた糞のことです。いや、はっきり言ってしまえば犬の糞とかじゃなくてあれは人間の排泄した大量のうんこだったと思います。晴れの日が続いていて、初めはしりたてのように生々しくつややかだったうんこも毎日の通学で観察すると一日ごとに乾燥していきます。誰も片付ける人がいなくてそのうちどうなるのだろう? と観察していたら乾燥しきったくらいのところで雨の日となり乾燥しきったうんこは粉末状になっていて水に流されて行きとうとうその場所からなくなりました。それは一つの発見でした。しかし、そのうんこの観察は五月の出来事ですが、その年の九月に通学路での一番印象に残っている事件が起きました。
夏休みが終わり、いつもの通学路を通って小学校へ向かう時、それを発見してしまいました。生垣に囲まれている家があったのですが、その生垣になっている木の枝に夏祭りに金魚すくいをして金魚をとると入れてくれる水の入った小さくて透明で巾着になった紐付きのビニール袋の紐がひっかけてあり、ビニール袋には金魚が二匹泳いでいました。誰かが邪魔になって置いて行ったのでしょうか? もしかしたら誰かに飼って欲しくてそこにぶら下げたのかもしれません。私はそのうち誰かが持って行くだろうと思っていました。しかし、二日経っても三日経っても、その生きた金魚入りのビニール袋はなくなりません。このまま放っておいたらどうなるか小学生の私でも想像がつきます。
だんだんと私は誰かに金魚を助けて欲しいと思う一方でもう一つの可能性について怖いもの見たさでドキドキしてきました。そして誰も金魚を助ける人は現れず、そのビニール袋は相変わらず放置されていたのでとうとう金魚は死んでしまいました。
そうなるとそのビニール袋の中で金魚がどうなっていくのか、毎日の通学で思わず見入り、ビニール袋の中の水が金魚色に赤黒く濁っていくのを確認しては、少しドキドキしました。次第に水の濁りは濃くなり、中に浮いている金魚の形もぼやけてしか見えなくなりました。しかし、ある日、金魚の死骸入りのビニール袋は片づけられていて少しホッとしたのも確かです。
そして物事は行きつくところへ行きつくんだな。と大きな流れのようなものを感じました。人の一生、どうせ行きつくところへ行きつくんだからくよくよしても仕方がない。そんな風に今でこそ理屈を付け足したい気はするけれど、小学生の時の私は、ただありのままに観察しているだけでした。今、思うのは私もビニール袋の水の中を濁らせながら溶けていった金魚のように生きているのかもしれないということです。