妹よ、兄は力士になる
お兄ちゃんは三十歳を超えたところだ。私は高校一年生。年の離れた妹をお兄ちゃんは可愛がってくれるけれど、兄の権威というものをすごく気にする性質だ。例えばミッション系の英語教育に力を入れている女子校に小学校から通っている私は英語がかなり得意だ。一方、お兄ちゃんは語学が苦手なので、最近「語学が出来るのは頭の良い証拠ではない」と言い始めている。確かに語学には生活習慣という側面もあるし、私をけなすために言っているわけではない。でも私が小さい時、海外旅行に憧れている様子を見てお兄ちゃんはエスコートして連れて行ってくれるって言ったよね? でも別に私がエスコートしてもいいでしょ!
兄の権威と言えば、私が英語を筆記体でスラスラ書いているのを見て「今時、英語を母国語にしている国だって筆記体は使わないし、受験ではわかりやすいようにブロック体で書かなければダメなんだぞ」と言った。そんなことわかっているけど、せっかく一生懸命練習して書けるようになったんだから誉めてくれてもいいのにと思った。だけど、後でお兄ちゃんは英語を筆記体で書けないのを知って、それであんなことを言ったんだと思った。
そんなお兄ちゃんは税理士事務所に勤めている。しかし税理士というわけではない。税理士の試験は何度も何度も不合格だ。その割にはそれなりに税金のことに詳しくていろんな節税対策を知っていることが自慢らしくて「なかなか俺ほど詳しい人は世の中にいない」とか言っているけど、他の人は面倒くさいから専門家に聞けばいいと思うんだよ! あと、お兄ちゃんはお金を節約することに詳しいのも自慢で千円の商品券を金券屋さんで九百八十円で買って二十円ずつ小まめに節約していた。確かに普通は二十円だってまけてくれないもんね。でもみんなそんなことは面倒でやらないんだと思うよ。そんなお兄ちゃんのことを知って馬鹿にしていた生活保護を受けている老夫婦を見た時はそれはないんじゃないかと思ったけどね。真面目な人が姑息に頑張ると滑稽に見えるものなんだね。
お兄ちゃんは頑張っていろいろな知識を仕入れているから物知りだ。それで自分は頭が良いと思いたいらしい。でも可哀そうだけど、コツコツ努力を積み上げれば誰でもできるようになることであって、頭の良さとは違うと思う。だから正直な私は、お兄ちゃん頭いいとか才能あるとか言えないけど「お兄ちゃん頑張っているね!」とは言ってあげている。するとお兄ちゃんは「努力も才能のうちだ」とニッコリ笑う。
いろいろ問題有りのお兄ちゃんの最近一番の悩みは女性にモテないことだ。お金に細かくケチということもあるけれど、かなり太っているということが最大の原因みたいだ。おまけに胴長短足で腕だけが長い。顔立ち自体は整っているのだけどねぇ。しかし、ある日相撲関係の本を読んで自分の体形が相撲取りに向いていると知り、しかも力士は江戸時代からモテモテだったということがわかり、お兄ちゃんは私に言った。
「妹よ、兄は力士になる」
「えーーっ!!!」
そんな訳でお兄ちゃんは相撲取りを目指した。年齢的には相撲部屋に普通に入門するのは無理なので、アマチュア横綱になって相撲界に入ろうとした。毎朝早く起きてシコを踏みプロテインを飲んで、元アメフト選手で太っていたのに更に筋肉太りした。稽古は出身大学の相撲部にお願いして基本的なことから教えてもらったり、テレビの相撲中継を録画して何度も見て研究した。
胴長短足で重心が低く安定し、生まれつき向いていたのだろう。生来の素質と努力により大会に優勝してアマチュア横綱となり、相撲部屋に入門することができた。そうなると単なるデブだったお兄ちゃんも時の人となった。胴長短足でも力士としてならイケメンでファンにはたまらない。もてはやされて舞い上がっちゃったんだね。稽古より振る舞い酒を飲んで豪遊し、それを豪快で格好良いと勘違いしちゃったみたいだ。故障して稽古ができない時でも食べる量は減らない。そのうち内臓脂肪が増えて一旦、うんと太った後でみるみる痩せてきた。重い糖尿病になったのだ。
そうなると期待していた人達にもどんどん見放された。いたたまれなくなったお兄ちゃんは相撲を辞めることにした。幕内でもないのに異例の引退会見が開かれた。浴衣を着て見る影もなくやつれたお兄ちゃんは記者達に一礼すると、マイクを握って歌い出した。モテたくて太めの男性の花道の相撲を始めたけど、稽古もしないで食べる一方で糖尿病になってしまったという内容の歌を滑稽だけど哀愁を帯びた調子で「どすこい、どすこい」と掛け声を入れながら朗々と歌い上げた。お兄ちゃんは歌は得意なので聴衆は魅せられ、最後には会場は拍手であふれた。
以上が私のお兄ちゃんの滑稽だけど少し哀しい物語だ。
最後にその後お兄ちゃんは一皮むけて、努力以上の何かを身に着けた。そして税理士試験にも合格したことを報告したいと思う。