過去:藤ノ木剛実
ホノニギ研究所にて治療を受ける剛実。
苦しみの中、剛実は……過去を回想した。
久那、絢、武……
そして家族。
母親と、妹と……
『父親』……だったもの。
剛実が生まれたのは古山市にあるごく普通の一戸建て。
そこに初めは、母親と最初の父親、そして息子である剛実がいた。
しかし……剛実が赤ん坊のころ、最初の父親は出て行った。
最初の父親のことは、母親の伝聞からでしか知らない。どんな人だったのか、どうして別れたのか……詳しいことは訊いたことがなかった。前の苗字さえも知らない。
そしてそれから数年後、次の父親……義理の父親が現れた。
剛実が3歳のころの話だった。
剛実の姓が『藤ノ木』に代わった。
その父親は、茶髪の髪をした、母親より若い感じの男だった。仕事は会社勤務。学歴は高卒で、平社員だったが、温厚な性格で仕事の合間を縫って剛実を遊びに行かせたりしていた。
そしてその父親が来て一年後、妹が生まれた。
妹の名は藤ノ木千代子。母親と義理の父親との間に生まれた子供だ。
剛実と妹、母親と義理の父親と仲むつまじく暮らしていた。
父親の稼ぎは少なく、そして休みなく働いていたが、少ない休みを縫って父親は剛実たちと遊びに出かけたりしていた。
そんな朗らかで陽気で幸福に満ちあふれた日々は剛実が小学校に上がるまで続いた。
そして、転機が訪れた。
父親が会社をクビになった。
後から知った話では、父親は会社でひどい扱いを受けていたそうだ。
上司から、同僚からバカにされていたそうだ。
「これだから高卒は……」「高卒だからこんなこともできないのよ……」
高卒であることを、『バカ』であることを馬鹿にされた。
父親は落ち込み、ふさぎ込み、そして時間が過ぎて、そんな嫌な気持ちがいっぱいになり、
父親は暴力をふるった。
「みんな俺がバカだと思ってんだろ! そうだろ! 俺を笑って、コケにして、こき使って……ふざけやがって!」
最初に暴力を振るわれたのは母親だった。顔面に父親があざを残した。そのあざは今はもうなくなっているが。
次に暴力をふるおうとしたのは妹だったが、それは間一髪のところで剛実に防がれた。剛実にも顔にあざができた。それ以来、父親は子供たちには手を出さなくなったが、その代わりとして、父親は子供たちに暴言を吐くようになった。
汚い言葉、意地汚い言葉、雑言……。あの温厚だった父親からは想像できないような汚い言葉を放ってきた。
妹はその言葉におびえ、泣き、
兄はそれをかばい、なだめた。
父親が暴力を振るってからの日々はつらいものだった。
家にはいつも父親がいて、暴言を吐いていて……。
母は泣いていて……。
一度、剛実は母親に訊いたことがあった。
「どうしてあんな父親と結婚したのか」
と。
「あの人は……不器用なだけなのよ。剛実も知ってるでしょ、……あの人が、優しい人だってことを」
不器用だったら……何をしても許されるのかよ……。
父親が優しかったのは昔のことだ。
今は違う。
剛実は、父親を恨んだ。
……そんなある日のこと。
「くふ? 武くん、大きいにもつです。おもたくないですか?」
「ああ。おもいけどな。今から道場行くからよぉ」
「またおけいこですか」
「ああ」
武はそのころ剣道を習っていた。
剛実は剣道に関したこれまで興味を持たなかったが、その時、
「おれも剣道習おうかなぁ」
そう剛実はつぶやいた。
「おお! 剛実も剣道するのかよ!」武はそのつぶやきに反応した。
剣道を習えば自分が強くなるかもしれない。
自分が強くなって、自分が強くなって……そして、
あの父親を倒すことができるかもしれない。
剛実の心の中では、父親に対する恨みでいっぱいになっていた。
その恨みを抑えるには、まだ剛実は幼かった。
「ほら! こんな長い『しない』ってやつをふるんだぜ!」
剛実のそんな気持ちとは裏腹に、無邪気に接する武。剛実も平静を装ってそれに応えた。
武には家のことを話していなかった――というより話せなかった。
武たちとは普通にいたい。今まで通り、ずっと今まで通りでいようと剛実は思い、家出の惨状は誰にも話さなかった。
剣道をするのに一つ問題があった。
剣道を習うには金が必要だった。稽古に通うには費用が要り、防具や竹刀を買う必要もあった。
当然、剛実にそんな金もなく、そして父親の暴力におびえている母親に頼めるわけもなく……。
「なぁ、武」
「なんだ剛実?」
「おれ、武のかよってる道場にかよいたいんだけど……」
「ああ。そういえばこの前そんなこと言ってたなぁ」
「そのことなんだけど、じつはおれんところ金がなくて……」
「金? お前んところびんぼうなのかよ」
「ま、まーあなぁ」
剛実は武に自分が金がないことを説明した。
その後、剛実は武の通う道場へと連れてこられた。
剛実は道場の中に連れられ、中にいた師範と会った。
「おい師範!」武が叫んだ。
「何が『おい師範!』だ! クソ坊主! あれほど言葉を慎めと言ってるのに……」
「何だよ師範、そんな細かいことどうでもいいじゃねぇかよ。そんなこと言ってるからあたまハゲてんじゃねぇのかよ」
「誰がハゲだと!」
頭のはげた師範と武は言い合っていた。
「ん? 武、お前のとなりにいるのはお前のダチか?」
師範は剛実の方を見る。剛実はこんにちは、とあいさつをした。
「なぁ、師範。おれのダチの剛実がここの道場にかよいたいんだってさ」
「ほぉ。ここの道場にか。剣道を習いたいのか」
「でも師範、剛実の家貧乏でよぉ。稽古代とか払えないみたいなんだよ」
「ほほぉ。稽古代が払えないと。……それじゃあ稽古は付けられんな」
「何言うんだよ! ハゲ師範!」
「ハゲを付けるな!」師範が野太い声で叫んだ。
「金がはらえないならムリっていうのかよ! この悪徳師範!」
「何が悪徳師範だ……。あのなぁ武。私も道楽で剣道をやってるんじゃないんだ。お金がないと私は食っていけないんだよ……」
「くそぅ……なんで大人はこんなにきたないんだ……」
憤る武。そんな武を剛実は黙って見ていた。
「剛実くんと言ったかな」突然、師範が剛実に声をかけた。
「確かに稽古代を払ってくれないと稽古は付けられないけど……。まぁ、少し練習するぐらいなら構わないよ。体験レッスンみたいな感じでねぇ」
「は、はい……」
「師範! そこをなんとか!」
「だからそこを今何とかしてるんじゃないか……」
問答の末、剛実は二か月間だけ稽古を受けることになった。
剛実はこの二か月の間で……父親を倒せるぐらい強くなろうと、幼いながら考えていた。
稽古は毎週日曜日行われることとなった。
最初の二回はずっと礼儀作法や足運びなどを教えられた。竹刀に触れさせてももらえなかった。
三回目からようやく竹刀を持たせてもらえた。
四回目から素振りをするようになった。足運びがおぼつかなくてなかなかうまくいかない。
そして五回目六回目、そしてあっという間に最終日。
一応、最終日には一通りの素振りを何となくの形でできるようになったが、……これで本当に父親を倒せるのだろうか……と剛実は思った。こんな付け焼刃でどうにかなるのだろうかと。
最終日の日、師範は剛実に竹刀をプレゼントした。
肌色の竹とそれを包む白い皮。それは剣。剣を模したもの。
これで父親を……
「師範」
「ん? なんだ剛実」
「……どうやったら、人をたおせますか」
「人を倒すって……武に勝ちたいのか?」
「ええ。まぁ……」
「武となぁ。武はあれでいて案外素質はあるからなぁ。今の剛実じゃかなわんなぁ」
「そうですか……」
「でもなぁ、勝てそうでない相手と戦うとき、気持ちだけは負けたらいかんぞ」
「きもち……」
「強い気持ち、強い心、強い精神……人と人とが戦うんだから、気持ちが勝たないと人は倒せないだろう」
「…………」
剛実は師範に礼を言って、道場を後にした。
師範は「またこれたら来てくれ」と言ってくれた。
またここに来ることがあるのだろうかと剛実は思った。
家は悲惨だった。
泣く母親、泣く妹。
家にいた父親は母の造った食事に文句を言い、それをぶちまけ、
そして言うことを聞かない妹に汚い言葉を吐き、妹は泣き、泣き叫ぶ妹に叫び、そしてまた妹は泣き、父親は怒鳴り、妹は泣き……。
「うう……、おにいちゃん……」
「千代子……」
「また……千代子……どなられた……」
泣く妹を剛実はぎゅっと抱きしめた。妹は胸の中で涙をこぼしていた。
「千代子は何もわるくない」
――千代子は悪くない。母さんも悪くない。
――悪いのは……あの父親だ!
泣き続ける妹はしばらくした後、泣き疲れたのか眠ってしまっていた。
剛実は妹を寝室へと運ぶ。千代子を布団の上へと寝かせた。
「千代子、待ってろよ。……かならず兄ちゃんがあいつをたおすからな!」
アニメや漫画では最後に正義が勝ち、最後に悪が滅びる。
その摂理に従って、父親も最後に滅びるだろうと――剛実は思っていた。
夜中。
剛実は師範からもらった竹刀を手にする。
それで頭を叩いてみる。痛い。
これで思いっきり叩けば、これで何回も叩けば、父親は倒れるだろうか。
竹刀を構えてみる。構え方は習ったと思うが……まだうまく構えれない。緊張していて右手でぎゅっと竹刀を掴んでいた。
剛実は竹刀を携え、そして寝室へと向かった。
寝室には母親とその隣に……父親がいた。
剛実は二人に気づかれぬよう父親の正面へと来る。
そして、
竹刀を大きく振りかぶって……
テヤァアアアアアアアアアアアアアアアアー!
ドン――!
「うわぁああああー! イテェエエエエー!」
打突を受けた父親は布団から飛び上がったが、
「オリャァー!」
ドン、剛実の第二撃により布団へと叩き戻される。
そして剛実は……怒りに任せ、我を忘れ、父親を叩いた。
父親はその攻撃に苦しみながら、それを回避しようと寝返りを打って剛実の打撃から離れた。
そして、剛実を睨んだ。
「お前……そんなに俺をバカにするかぁー!」
鬼の形相で叫ぶ父親。
その顔を見て、一瞬剛実はひるんだが、
『でもなぁ、勝てそうでない相手と戦うとき、気持ちだけは負けたらいかんぞ』
師範の言葉を思い出した。
――そうだ、気持ちは負けちゃいけない。
――俺は妹を守るんだ! 母さんを守るんだ! お前を倒して……幸せになるんだ!
剛実は父親を睨み返した。
「なんだその顔はぁーッ!」
父親は叫び、そして剛実のもとへと寄ろうとするが、
「てやぁー!」
剛実は力任せに竹刀を薙いで父親にぶつけた。
父親はその場で倒れこみ、そして剛実はうずくまる父親を何度も何度も何度も何度も何度も……………………叩き続ける。
ドン、ドン、ドン、ドン…………。
そして……
「やめなさい、剛実」突然、後ろから声がした。
後ろには母親がいた。
「もう……これ以上はやめなさい……」
剛実は足元の父親を見た。暗くてよく見えなかったが、そこには痛々しいあざの跡があった。
「母さん……」
「剛実……どうしてこんなことしたの」
「だって……母さんと千代子を……守りたかったから……」
剛実は涙目で言った。
「そう……剛実は、私たちのために頑張ってくれたのね……。ごめんね剛実。私が無力なばっかりに……」
「母さん……」
母親は剛実をぎゅっと抱き留めた。母親の胸の中で、剛実は泣いていた。
それから数日後、父親はいなくなった。
母親は父親と離婚をしたようだった。
父親がいなくなってからしばらくの間は、家の中に冷たい雰囲気が漂っていたが、数日もすればそれはなくなっていた。母は仕事に出かけ、妹と剛実は学校に行き、元の朗らかな日々が戻った。
ああ、これで元に戻ったんだ。
そう思いながら、剛実はいつものように武の家へと向かった。
そして出会った武に殴られた。
「どうして……どうしておれにいわなかったんだよ!」
剛実に馬乗りになって叫びつづける武。
「おれたち……しんゆうじゃなかったのかよ!」
――ああ……そうだった。
――俺には、こんなに自分のことを思ってくれる人がいたんだ。自分だけで悩んでいた。自分だけで何とかしようと思っていた。武には迷惑かけないようにと、今まで通り接していこうと……。
――しかし、今武は泣きながら俺を殴っている。これで何も迷惑をかけていないと言えるのだろうか。
――俺は、未熟だったんだな。
剛実は武に連れられて道場へと向かった。
そこには、頭のはげた師範が仁王立ちしていた。
「師範! 剛実を連れて来たぜ!」
「おう、剛実……久しぶりだな」
剛実は顔を上げ、師範を見た。師範は険しい顔をしていた。
「剛実……話は聞いたぞ」
話……、あの時の話は近所では有名になってしまっていたので、その話が武に伝わり、そして師範にも伝わったのだろうか。
「辛かったんだな、剛実。お前は、苦しいもんを背負って……」師範は静かに言った。
「…………」剛実はうつむいたまま何も言わなかった。
「お前は……父親を倒すために剣道を習おうとしたのか」
その問いに、剛実はコクリとうなずいた。
「そうか……。確かに剣道のおおもとは真剣を使っての殺し合いだがな。しかしなぁ、人を殺す、人を倒すというのは大きなことなんだ。だってそうだろう。人一人の命をなくすんだ。人を倒すということはそういうことだ。だから……人を倒すのには『覚悟』が必要なんだ」
「かくご……」
「お前にはその覚悟があったか」
師範の問いかけに、剛実は――――黙ってコクリとうなずいた。
「そうか……お前にはそんな強靭な覚悟があったのか。その点に関してだけはお前はすごいと思うが……、しかし、お前は覚悟の方向を間違えたんだ。お前は過ちを犯したんだ」
「…………」
「お前は、自分のやったことが正しいことだったと思うか?」
「…………」
――俺は……あの時……。
――あのままで、父親を叩き続けていたら……父親はどうなっていたのだろう。
――母さんが止めてくれたからよかったけど……そのままだったら……父親は死んでしまったかもしれない。
――だって、殺す気でやったのだから。
――それに、人を傷つけるのは本来なら悪いことだ。確かに父親は悪い奴だけど……その悪い奴を倒すために自分が悪いことをするのは……いいことに……なるのか?
剛実は悩んでいた。自分はいいことをしたのだろうか、悪いことをしたのだろうかと。
「方向を間違えたらいかん。間違った方向に進んだらずっと間違った方向に行く。お前は、そんな間違った道を進みたいか?」
剛実はその問いかけに――――首を振った。
「お前は罰を受けろ」
「ばつ?」
「ばつって……師範! 剛実に何する気だよ! 剛実に手を出すならおれが相手になるぜ!」
「お前は罰としてこの道場に通うんだ」
「え……」
突然の提案に剛実は驚いた。
「師範! おれはあんたをほんのすこしだけ見直したぜ!」
「ほんのすこしだけかよ……」
剛実は落ち着かない顔をしていた。
「安心しろ。これは罰なんだから稽古代は払わんでいい。お前が間違った方向を治すまでここで修行しろ」
「修行……」
修行。剛実は自分の未熟さを知り、自分が間違っていたことを知り、そして――
「修行させてください! 師範!」
それを治すため修行をすることにした。
こうして、剛実の修行の日々が始まった。




