杯
夜。
荒野に月が昇っている。
その荒野の真ん中を一人の男が歩いていた。
男は右手に酒瓶を、左手に二枚の杯を持って北東に向かって歩いていた。
「ここですか……」
久しぶりに来た石で組まれたピラミッドのような要塞をホノニギは眺めた。
ここがモサク一族の棲家。
高さは一階建ての建物ほど、しかし広さは甲子園球場並の広さである。
その要塞の入り口の前にホノニギが立っていると、入り口から一人の男が出てきた。
「お久しぶりです、レッカさん」
「…………ホノニギさん」
髪の毛とひげをぼうぼうとはやしたみすぼらしい姿の男、モサク一族の『父上』のイザナギが顔を上げてホノニギの顔を見た。
「さぁ、乾杯しましょうレッカさん」ホノニギが杯を掲げて言った。
イザナギは黙って自分の杯をホノニギの杯に当てた。
ホノニギは杯を口元に運び、酒を一気に飲んだ。
「ふぅ、やはりこの時代の風景というのはいいものですねぇ」
ホノニギは何もない荒野をぼんやりと眺めていた。
「……ホノニギさん、なんで……なんでここに……」イザナギがホノニギに言った。
「俺は人殺しなのに……二人も人を……家族を殺したのに……」
イザナギは項垂れていた。
「あなたはレッカさんです。何があろうと何が起ころうと。私の知っているレッカさんです」
「そんなことはない……。そんなことあるわけがない……。俺は修羅に堕ちたんだ。地獄に落ちるんだ。悪魔だ。狂人だ……」イザナギはうつむいた。
「駄目なんだ俺は……。御仕舞なんだ俺は……。今はこうして普通にいるが……いつお前を殺そうとするかわからない。俺の中には鬼がいるんだ。それが暴れまわっているんだ。いや……、すでに俺自身がもう鬼なのかもしれない。そうだよな……家族を二人殺しておいて……人間なわけないじゃないか……。人間なわけない。……まるで、俺たちが憎んだ地底の民みたいだ……。笑っちまうよな、俺自身が悪になって、そして悪の根源である奴の国のやつらに成敗されるなんて……」
「この世に……『悪』なんてものがあるんでしょうか」ホノニギが呟いた。
「僕は悪の根源のヒメノミコト様を『悪』だとは思いません。あの人は一度も、そしてこれからも悪いことはしない人です。そしてレッカさん、僕はあなたを悪だとは思いません。確かにあなたは人を殺した責任を背負わなければならない。でもあなたは根っからの悪ではなかった。あなたは……僕の知ってるあなたは真っ直ぐな人だった。正しい人だった。僕はそんなあなたを知っています。熟知しています。あなたは修羅に堕ちたかもしれない……。でも、あなたはまだやり直せる。元のあなたに戻れることができるんです」
「戻ったところで、俺が殺した二人は還らない。もはや何の意味もないんだよ。俺は罪人だ。罪人は罰を受けなければならない」
「罰って……」
「もし……、ヤマタ国を滅すことができたら、俺は死ぬ。本当はあいつが死んだとき俺も俺の中の鬼と共に死ぬべきだったんだ。それがこんなことになってしまった……。しかし俺は罪をまっとうしなければならない。もう終わらせることでしか終われない。そして罪をまっとうした後、俺は死ぬつもりだ」
「レッカさん……」
……どうしてこんな結末に。
いや、結末はまだだ……。まだ……。
「レッカさん、帰りましょう。元の時代へ。僕たちのいた時代へ」ホノニギが言った。
「元の時代だと……。そこへ帰って何になるという……。そこにはもう、未来がない。何もない」
イザナギはなおも俯いていた。
その顔にはは覇気がなく、瞳が冥くなっていた。
「僕たちが、未来を切り開けばいいんですよ。僕たちが進めば、僕たちが戦えばいいんです」
ホノニギの顔はイザナギとは対照的に勇ましい顔になっていた。
「ホノニギさん、どうしてあんたは……そんな顔ができるんだ」
「武くんたちを見ていたら、僕も頑張らないとって思ったんですよ。武くんたちも困難と闘っています。ですが決して逃げたりはしません。だから……、僕たちももう、逃げるのはなしにしましょう」
「駄目だ、ホノニギさん。確かにホノニギさんなら元の時代に帰れるかもしれない……。しかし俺は別だ。もう俺は戦えない。……俺はここでしか戦えない」
「ここで戦っても……意味がないです。ここで戦うことは……あの人を殺すことになるんですよ」
「あいつはもう死んでいる。土の中だ。だからあいつのことはもう考えることはない。俺は世界を救うことだけを考える。世界を。未来の、元の、俺たちのいた、俺たちが生きていた世界を……救うことを」
「だから……それでは意味がないんですよ!」ホノニギは叫んだ。
「やはり、ホノニギさんとはもう相容れないんだな」
「あなたがそう思っても、僕はそうは思いません。僕はあきらめません。あなたが、戻ることを」
「戻れないよ……。俺は……。もう何もかもがなくなったんだ」
イザナギは杯に映る月を見た。
「もう、世界を救うことでしか、自分を救えない」